『闇を見る眼』

segakiyui

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第1章

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「圭吾!」
 走りながら、上がりそうな息で必死に叫ぶ。周囲を見回して、胸の底でずっと忘れなかった後ろ姿を探す。
「圭吾!」
 美並の声が響くのに、会社のホールを通る人々が振り返る。
「どこ、圭吾!」
 受付でアナウンスを流してもらった方が手早い、そう思った瞬間に、柔らかな声が響いた。
『岩倉産業の大石圭吾さま、お忘れものがございます、申し訳ありませんが、至急流通管理課へお戻り下さいませ』
「…課長」
 そうそうに真崎が手を回してくれたんだ。美並は一瞬にじみかけた目を擦った。
 これで社内は押さえられた、後は玄関から外だけだ。
 ひたすら走っていく間にもがんがんと唸る頭の中で疑問符が飛び交っている。
 生きている?
 生きていた?
 圭吾が?
 なぜ?
 なぜ奈保子は死んだ、それも自殺した、と言った?
 あちこち振り向きながら走る。髪が乱れてうっとうしい。
 なぜ大石は連絡一つよこさなかった?
 胸が焼けつくのは呼吸のせいか。
 なぜ今になって現れた、それも美並ではなく真崎の前に?
「圭吾…っ」
 喉がいがらい。視界が歪む。
 なぜ。
 なぜ、こんなに探しているのに見つからない。
「は…っ…はっ……は…っ」
 ついに玄関門扉まで駆けてきてしまった。もうとっくに帰ってしまっているのだろうか。あんなところで真崎と妙な問答をしていなければ追いつけたのだろうか。苛立ちが募って立ちすくむ。
「伊吹さん…っ」
 ふいに後ろから声が聞こえた。けれどそれは大石のものではなく。
「…課長…」
 振り返った伊吹に、眼鏡に被さった前髪を掻き上げながら目を見開く。
「見つかり……ません」
「……」
 真崎はゆっくり眉を寄せて、苦しそうな顔になった。近付いてきながら、
「一斉放送を二度かけてもらったけれど、戻ってこなかった。さっき向こうの守衛に聞いたら、駐車場側を通って車で出て行ったらしい」
「車……」
 それなら美並の声は聞こえなかっただろう。
「……とりあえず、戻って……っ?」
 どん、と近付いてきた真崎にしがみついた。胸が苦しくて顔が熱くて頭が揺れていて、とにかくすがるものが欲しかった。驚いたように立ち止まった真崎が、やがてそろそろと手を回してくる。
「……課に戻れば、連絡先はわかる」
 静かな声がそっと宥めてくれる。
「今うちと取り引きし始めているし、担当が大石、さん、だったから、この先…」
 ことばが途切れた。不審に思って見上げると、見下ろしてきた真崎がふいににこりと笑った。
「この先、何度でも逢うチャンスはある」
「課長…」
「大丈夫だよ」
 揉め事をおさめる声音だった。
「誠実そうないい人だった。仕事内容もよかった」
「……」
 見上げる伊吹に真崎はとつとつと大石のことを語って聞かせてくれる。
「顔色もよかったし、どこも悪くなさそうだった」
「元気、でしたか」
「うん」
「胃とか庇ってませんでしたか」
「うん」
「笑ってましたか」
「……うん」
「なら…いいです」
「…………うん」
 俯いて、ぎゅ、と真崎を抱き締める。温かい感触が、確かに大石が居たということも現実だったのだと教えてくれるようでほっとしていると、抱えてくれている手がふいにふわりと浮いて離れて行きそうな気がして、慌てて見上げた。
「課長?」
「……伊吹さん、あの…」
 真崎は何か言いたげに唇を開いて、そのままぼんやり瞬きした。
「はい」
「僕は」
「はい?」
 真崎の目が微かに揺れる。やがて唐突にぎゅううっと抱き締められて驚く。
「かっ、課長っ」
「嬉しいなあ、こんな公衆の面前で甘えてくれるなんて」
「げっ」
 きゅうっと頭に頬を擦り寄せられて、急いで相手を突き放した。
「何するんですか!」
「えー、抱きついてくれたのは伊吹さんなのに」
 真崎は両手を開いたまま肩を竦めてみせる。
「勢いです」
「じゃあ、その勢いをもう一度」
「壊れてんのか、あんたはっ」
 よく考えたらここ、会社の正面玄関じゃないですか。
 我に返って喚くと、また突然にこ、と真崎が笑った。
「壊れてるよ」
「は?」
「知ってると、思ってたけど」
 両手を広げたまま、真崎は静かに繰り返した。
「壊れてるんだよ」
「課長…」
「だからさ」
 まるで舞台の上の役者のように、ゆっくり綺麗な動作で手を降ろし、そっと会釈した。
「僕は、退場するね」
「え?」
「真打ちが、でてきたら」
 ひょいとあげた顔に眼鏡が反射して瞳を隠す。唇は楽しそうに笑っている。
「代役は、要らない」
「っ……課、」
「先に戻って、大石さんの連絡先調べておくねー。あ、それとも伊吹さん、自分で調べた方がいいかなー?」
 くるっと背中を向けながら言い放つ声の明るさに、ようやく真崎が何を言おうとしているのか理解する。
「課長、私は」
「あ、そーだ!」
 背中を向けたまま、ぽん、と真崎は両手を打って、いきなり駆け出した。
「僕、仕事一つ忘れてきちゃったから。先に行くね」
「か……課長……」
 いや、あんたは一体幾つなんだ。
 取り残されて美並は思う。
 なんてベタな芝居、仮にも真崎京介ともあろうものが、幼稚園の発表会ほど陳腐な展開に気付かないなんて。
 それほど必死で、それほどこの場に居たくなくて、きっと必死に駆けているのだろう、一気に小さくなる後ろ姿が不安そうで悲しそうで。
「……まいった……なあ……」
 ひょっとしたら、本当に。
「……好き……かも」
 呟いて美並はこっちも大概ベタだよね、と一人で顔を熱くした。
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