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第1章
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「真崎君はいるかっ」
流通管理課のドアが大きな音をたてて開き、いらいらした顔で仁王立ちしている男が細いきつい顔で怒鳴った。
「はぁい」
いささか間抜けた声とともに、真崎が顔を上げる。
「あれ、細田課長、おはようございます」
「おはようじゃないっ、ちょっと来てくれっ、話があるっ」
「えーと、困ったな」
へらり、と真崎が曖昧に笑って、美並の机を指差す。
「僕、今伊吹さんにデータ入力頼んでて」
「そんなもの、後でいいっ」
いきなり押し掛けてきて、他課の仕事を後でいいってのはないだろう。
思わず目を剥いた美並にちらっと視線を落としてきた真崎が、
「や、牟田さんが辞めちゃったから、あんまり後回しにすると、そちらの仕事に差し障っちゃうんじゃないかなー」
「うちのデータなのか」
む、と相手が戸惑った顔になったのをすかさず、
「品質管理課のデータもいっぱいありますからねー」
嘘つき。
にっこり笑った真崎の顔を下から見上げて美並は呆れる。
確かに品質管理課のデータもある、あるがそれは昨日の話で、今やっているのは全く関係ない仕事だ。
ただ、真崎はことばの上からは『品質管理課のデータもある』と言っただけで、『品質管理課のデータを入れている』と言ったわけではないから、厳密に言えば嘘はついていない。
ただ、相手がそう取った、というだけで。
「課長」
この野郎、と胸の中で呟いて、美並は微笑みながら声をかけた。
「はい?」
「もう十分わかりましたから、後はやれると思います」
「え?」
「なら、手は空いたんだろうっ、こっちへ来てくれ!」
「伊吹、さぁん?」
「はい、何でしょう?」
如何にも人が良さそうな顔で眉を下げて声の調子を落とす真崎に、してやったりとにこにこすると、仕方ないですね、行きますよ、と真崎は体を起こした。
「第二で頼むっ」
「はぁい」
第二会議室。
十人以下の小さな会議室で、基本的には何かトラブルがあったときの内々の相談や交渉に使われる部屋だ。
真崎もそれを察したのだろう、やれやれ、もう、細田さんてば、こっちの都合お構いなしで困るよねえ、と呟きながら、身を翻して足音荒く出ていく相手の背中を見送っていたが、急に、
「伊吹さん?」
「あ、はい」
「さっきのここだけは」
もう自分には関係ない、とパソコン画面に必要なファイルを開きかけていた美並が顔を上げたとたん。
ちゅっ。
「っっっ!」
はっきりと音を響かせて、耳の外側を軽く唇で触れた真崎に凍りついた。
「あれ?」
きょとんとした顔を睨み付けても効果はないが、相手の口を見るとくすぐったい吐息の感触が耳に蘇って顔が熱くなる。
「どうかした?」
真崎が薄笑いして声を低めた。
「わからなかった? ……弱いの、こういうの」
なんてやつだ。
表向きはデータ入力の方法への問いかけだが、裏側の意図は明確だ。細めた目元が楽しそうに美並の耳を眺めているのが無性にむかつく。
「あのね、これはね」
「……っ、わかった!」
楽しそうにまた顔を寄せてくる相手に思わず仰け反った。
「十分わかりましたからっ!」
「そうかなー、まだわかってないんじゃないかな」
「……せくはらだって叫ぶぞ」
決め文句のはずだったが、真崎にダメージはゼロだった。
「毎日美並♪って呼び捨てて、社内報に婚約しましたっ♪って書いてもらうよ?」
「うっ」
このうえなく嬉しそうに笑った真崎に、本気でやりかねない、と怯んだ矢先、再びドアの向こうから、真崎くんっ、と神経質な叫びが響いた。
「はいはい、今行きますって。じゃあ、伊吹さん、後よろしく♪」
よろしく♪、じゃねえ、よろしく♪、じゃ。
やっぱり、この前のがまずかったかなあ……。
美並は思わず深く大きな溜め息をつきながら、先週の週末のことを思い出した。
流通管理課のドアが大きな音をたてて開き、いらいらした顔で仁王立ちしている男が細いきつい顔で怒鳴った。
「はぁい」
いささか間抜けた声とともに、真崎が顔を上げる。
「あれ、細田課長、おはようございます」
「おはようじゃないっ、ちょっと来てくれっ、話があるっ」
「えーと、困ったな」
へらり、と真崎が曖昧に笑って、美並の机を指差す。
「僕、今伊吹さんにデータ入力頼んでて」
「そんなもの、後でいいっ」
いきなり押し掛けてきて、他課の仕事を後でいいってのはないだろう。
思わず目を剥いた美並にちらっと視線を落としてきた真崎が、
「や、牟田さんが辞めちゃったから、あんまり後回しにすると、そちらの仕事に差し障っちゃうんじゃないかなー」
「うちのデータなのか」
む、と相手が戸惑った顔になったのをすかさず、
「品質管理課のデータもいっぱいありますからねー」
嘘つき。
にっこり笑った真崎の顔を下から見上げて美並は呆れる。
確かに品質管理課のデータもある、あるがそれは昨日の話で、今やっているのは全く関係ない仕事だ。
ただ、真崎はことばの上からは『品質管理課のデータもある』と言っただけで、『品質管理課のデータを入れている』と言ったわけではないから、厳密に言えば嘘はついていない。
ただ、相手がそう取った、というだけで。
「課長」
この野郎、と胸の中で呟いて、美並は微笑みながら声をかけた。
「はい?」
「もう十分わかりましたから、後はやれると思います」
「え?」
「なら、手は空いたんだろうっ、こっちへ来てくれ!」
「伊吹、さぁん?」
「はい、何でしょう?」
如何にも人が良さそうな顔で眉を下げて声の調子を落とす真崎に、してやったりとにこにこすると、仕方ないですね、行きますよ、と真崎は体を起こした。
「第二で頼むっ」
「はぁい」
第二会議室。
十人以下の小さな会議室で、基本的には何かトラブルがあったときの内々の相談や交渉に使われる部屋だ。
真崎もそれを察したのだろう、やれやれ、もう、細田さんてば、こっちの都合お構いなしで困るよねえ、と呟きながら、身を翻して足音荒く出ていく相手の背中を見送っていたが、急に、
「伊吹さん?」
「あ、はい」
「さっきのここだけは」
もう自分には関係ない、とパソコン画面に必要なファイルを開きかけていた美並が顔を上げたとたん。
ちゅっ。
「っっっ!」
はっきりと音を響かせて、耳の外側を軽く唇で触れた真崎に凍りついた。
「あれ?」
きょとんとした顔を睨み付けても効果はないが、相手の口を見るとくすぐったい吐息の感触が耳に蘇って顔が熱くなる。
「どうかした?」
真崎が薄笑いして声を低めた。
「わからなかった? ……弱いの、こういうの」
なんてやつだ。
表向きはデータ入力の方法への問いかけだが、裏側の意図は明確だ。細めた目元が楽しそうに美並の耳を眺めているのが無性にむかつく。
「あのね、これはね」
「……っ、わかった!」
楽しそうにまた顔を寄せてくる相手に思わず仰け反った。
「十分わかりましたからっ!」
「そうかなー、まだわかってないんじゃないかな」
「……せくはらだって叫ぶぞ」
決め文句のはずだったが、真崎にダメージはゼロだった。
「毎日美並♪って呼び捨てて、社内報に婚約しましたっ♪って書いてもらうよ?」
「うっ」
このうえなく嬉しそうに笑った真崎に、本気でやりかねない、と怯んだ矢先、再びドアの向こうから、真崎くんっ、と神経質な叫びが響いた。
「はいはい、今行きますって。じゃあ、伊吹さん、後よろしく♪」
よろしく♪、じゃねえ、よろしく♪、じゃ。
やっぱり、この前のがまずかったかなあ……。
美並は思わず深く大きな溜め息をつきながら、先週の週末のことを思い出した。
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