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第5章
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「間違いだ」
ためらいは瞬時、すぐに切り返してくる。
「難波孝さんは大輔さんの知り合いです。赤来課長は大輔さんと親しいのですか」
「君は何か勘違いをしている」
「緑川課長は孝さんを知っていた。赤来課長は緑川課長と孝さんのことを知っていたのですか」
「違う」
切り結ぶ。
至極真っ当な、『赤来』の嘘偽りのない顔で応じる相手に向かい、その顔を突き崩して奥にいる『羽鳥』へと進む道を探す。
「あのホテル前のコンビニに、あなたの姿が留められていた」
『羽鳥』が体を引く。
「あなたはなぜ孝さんが殺されたホテルに居たのですか」
『赤来』は『難波孝』を知らない。『孝』に繋がる『大輔』も『緑川』も知るはずがない。
知っているのは、『羽鳥』だ。
ボイスレコーダーには大輔なら気づかないと言う台詞が入っている。赤来が大輔との関係を認めたことばだ。けれどそれを持ち出せない限り証拠にならない。ことばは宙に溶け、そんなことを言っていないと言われれば話にもならない。
『羽鳥』は自分が安全なのを知っている。
「…君の言っていることは無茶苦茶だよ、伊吹さん」
『赤来』は再び何食わぬ顔でモブの一人として『羽鳥』を皮膚の下に押し込めようとする。
「何を言っているのかわかっているのかな、不安なことが続いて混乱しているんじゃない?」
訝しげな声を響かせる、心配そうに、善人の気配で。
「ねえ、伊吹さん、大丈夫? 僕の話していること、わかってる?」
どうしたの急に、心配になるよ、一体何の話をしているのかな。
美並を真っ向から否定し、あり得ないと嘲笑う。そんなあやふやな感覚で何ができると糾弾する。
「ああ、阿倍野さんかな、君に妙なことを吹き込んだのは。そう言えば彼女、体調を崩して休んだままだけど、こう言う時に困るよね、伊吹さんは何か知っているのかな」
知っていると意識すれば気が逸れる。知らないと考えれば、ごまかしていると負担になる。
さっきまであれほど美並を脅しつけていたのを忘れたように、話題をかえ、雰囲気を作り直す、その底にあるのは、どんな手を使ってでも優位に立とうとする意思だ。
飲み込まれそうになる、正しさと言う刃の前では無力なんだと。
本当は美並が間違っているのではないか。
今ここは、美並が考えているような殺人犯との対決の場ではなく、職員の不調を心配する上司との懇談の場でしかないのではないか。
そう考えたくなる。
…何を怖がっているの。
美並は自分に問いかける。
能力を過信して大石や奈保子を傷つけた。苦しい過去を知りもせずに京介を傷つけた。最後にと切なく望まれたのに応じられずに有沢を傷つけた。
美並はいつも足りない。
けれど怖がっているのは足りないことではない。能力を封じ、過去を聞き取り、応じられないのは謝罪して、それでも美並は怖がっている。
怖がっているのは足りないことではなく、足りないことで傷つけることだ。
けれどその感覚は、足りていれば傷つけていいのかと言う問いになる。
能力があり、過去を熟知し、望みに応じることができるなら、傷つけても構わないのか。
「伊吹さん? どうしたの?」
答えない美並に、『赤来』は案じる気配で覗き込む。
赤い靄に隠されているが、微笑みは勝利の確信だろう。
ああ、そうか。
美並はゆっくり瞬きする。
自分が間違っていると考えたくなるのは、自分が振り下ろす正義の刃に傷つく人を見たくないからだ。
正しさで裁かれてきたから、正しさで裁きたくない。
自分もまた、無傷で安全圏で居たいと願っている。
いや、たぶん、それもまた、違う。
美並は目を閉じた。
『赤来』でも『羽鳥』でもない、『美並』を覗き込む。
『美並』は知っている。
『見えた』ことで得てきた真実、それがどれほど揺るぎないものか、わかっている。
その『力』を理解している。
小学生の頃、いじめに怯まなかったのは、そんなもので現実が塗り替えられることはないと知っていたからだ。能力を封じても平気だったのは、見ようと見まいと現実は変わらないとわかっていたからだ。
世界はあくまで公平で、人の思いにかかわらず、全ての出来事は天秤の中で釣り合いが取られて収まって行く、その非情さを骨身に沁みていたからだ。
『美並』は知っていた、だから自分に言い聞かせた、美並は『足りない』のだから、その刃を振り下ろすことはできない。その刃を振り下ろしてはいけない。
人を傷つけてはならない。
でなければ、『美並』もまた、世界の理の中で刈り取られて行くだろう。
ひょっとすると、その手控え感が、周囲の攻撃を煽ったのかも知れないが。
けれど今。
『美並』は闇の中に座っていた。
足元も周囲もわからぬ暗がりの中、苦しそうでも不安そうでもなく、微笑みながら見上げてくる。
人の闇を見ていたのではない。
自分の中にある闇を人に写して眺めていた。
だから恐ろしくも辛くもなかった、そんなものは自分の中でとっくに十分味わっている。
誰かを傷つけても能力を溢れさせたい。欲望に翻弄されながら快楽に溺れたい。悲劇を餌に同情と共感を引き寄せたい。組織や社会を理由に傷つかずにいたい。叩き潰され全てを奪われたから仕方なかったと言い訳したい。
弱さも脆さも全ては自分の中にあったから、『美並』にはどんな攻撃も意味がなかった、聖人君子ではないと言う指摘さえも。
そんなことは、知っている。
闇の玉座に白いドレスを広げて座る『美並』は、微笑みながらとん、と軽く足を踏む。
一転、周囲は深紅となった。
少し桃色がかったような、鼓動を感じるような生温かくたゆたゆと揺れる海。
『赤来』の靄どころではない、厚みのある重みのある、手に触れて握れるほどの深い紅。
『美並』はずぶりと海に手を入れ、掬い上げて差し伸べる。
指先から肘にかけて伝う『赤』。
ためらいは瞬時、すぐに切り返してくる。
「難波孝さんは大輔さんの知り合いです。赤来課長は大輔さんと親しいのですか」
「君は何か勘違いをしている」
「緑川課長は孝さんを知っていた。赤来課長は緑川課長と孝さんのことを知っていたのですか」
「違う」
切り結ぶ。
至極真っ当な、『赤来』の嘘偽りのない顔で応じる相手に向かい、その顔を突き崩して奥にいる『羽鳥』へと進む道を探す。
「あのホテル前のコンビニに、あなたの姿が留められていた」
『羽鳥』が体を引く。
「あなたはなぜ孝さんが殺されたホテルに居たのですか」
『赤来』は『難波孝』を知らない。『孝』に繋がる『大輔』も『緑川』も知るはずがない。
知っているのは、『羽鳥』だ。
ボイスレコーダーには大輔なら気づかないと言う台詞が入っている。赤来が大輔との関係を認めたことばだ。けれどそれを持ち出せない限り証拠にならない。ことばは宙に溶け、そんなことを言っていないと言われれば話にもならない。
『羽鳥』は自分が安全なのを知っている。
「…君の言っていることは無茶苦茶だよ、伊吹さん」
『赤来』は再び何食わぬ顔でモブの一人として『羽鳥』を皮膚の下に押し込めようとする。
「何を言っているのかわかっているのかな、不安なことが続いて混乱しているんじゃない?」
訝しげな声を響かせる、心配そうに、善人の気配で。
「ねえ、伊吹さん、大丈夫? 僕の話していること、わかってる?」
どうしたの急に、心配になるよ、一体何の話をしているのかな。
美並を真っ向から否定し、あり得ないと嘲笑う。そんなあやふやな感覚で何ができると糾弾する。
「ああ、阿倍野さんかな、君に妙なことを吹き込んだのは。そう言えば彼女、体調を崩して休んだままだけど、こう言う時に困るよね、伊吹さんは何か知っているのかな」
知っていると意識すれば気が逸れる。知らないと考えれば、ごまかしていると負担になる。
さっきまであれほど美並を脅しつけていたのを忘れたように、話題をかえ、雰囲気を作り直す、その底にあるのは、どんな手を使ってでも優位に立とうとする意思だ。
飲み込まれそうになる、正しさと言う刃の前では無力なんだと。
本当は美並が間違っているのではないか。
今ここは、美並が考えているような殺人犯との対決の場ではなく、職員の不調を心配する上司との懇談の場でしかないのではないか。
そう考えたくなる。
…何を怖がっているの。
美並は自分に問いかける。
能力を過信して大石や奈保子を傷つけた。苦しい過去を知りもせずに京介を傷つけた。最後にと切なく望まれたのに応じられずに有沢を傷つけた。
美並はいつも足りない。
けれど怖がっているのは足りないことではない。能力を封じ、過去を聞き取り、応じられないのは謝罪して、それでも美並は怖がっている。
怖がっているのは足りないことではなく、足りないことで傷つけることだ。
けれどその感覚は、足りていれば傷つけていいのかと言う問いになる。
能力があり、過去を熟知し、望みに応じることができるなら、傷つけても構わないのか。
「伊吹さん? どうしたの?」
答えない美並に、『赤来』は案じる気配で覗き込む。
赤い靄に隠されているが、微笑みは勝利の確信だろう。
ああ、そうか。
美並はゆっくり瞬きする。
自分が間違っていると考えたくなるのは、自分が振り下ろす正義の刃に傷つく人を見たくないからだ。
正しさで裁かれてきたから、正しさで裁きたくない。
自分もまた、無傷で安全圏で居たいと願っている。
いや、たぶん、それもまた、違う。
美並は目を閉じた。
『赤来』でも『羽鳥』でもない、『美並』を覗き込む。
『美並』は知っている。
『見えた』ことで得てきた真実、それがどれほど揺るぎないものか、わかっている。
その『力』を理解している。
小学生の頃、いじめに怯まなかったのは、そんなもので現実が塗り替えられることはないと知っていたからだ。能力を封じても平気だったのは、見ようと見まいと現実は変わらないとわかっていたからだ。
世界はあくまで公平で、人の思いにかかわらず、全ての出来事は天秤の中で釣り合いが取られて収まって行く、その非情さを骨身に沁みていたからだ。
『美並』は知っていた、だから自分に言い聞かせた、美並は『足りない』のだから、その刃を振り下ろすことはできない。その刃を振り下ろしてはいけない。
人を傷つけてはならない。
でなければ、『美並』もまた、世界の理の中で刈り取られて行くだろう。
ひょっとすると、その手控え感が、周囲の攻撃を煽ったのかも知れないが。
けれど今。
『美並』は闇の中に座っていた。
足元も周囲もわからぬ暗がりの中、苦しそうでも不安そうでもなく、微笑みながら見上げてくる。
人の闇を見ていたのではない。
自分の中にある闇を人に写して眺めていた。
だから恐ろしくも辛くもなかった、そんなものは自分の中でとっくに十分味わっている。
誰かを傷つけても能力を溢れさせたい。欲望に翻弄されながら快楽に溺れたい。悲劇を餌に同情と共感を引き寄せたい。組織や社会を理由に傷つかずにいたい。叩き潰され全てを奪われたから仕方なかったと言い訳したい。
弱さも脆さも全ては自分の中にあったから、『美並』にはどんな攻撃も意味がなかった、聖人君子ではないと言う指摘さえも。
そんなことは、知っている。
闇の玉座に白いドレスを広げて座る『美並』は、微笑みながらとん、と軽く足を踏む。
一転、周囲は深紅となった。
少し桃色がかったような、鼓動を感じるような生温かくたゆたゆと揺れる海。
『赤来』の靄どころではない、厚みのある重みのある、手に触れて握れるほどの深い紅。
『美並』はずぶりと海に手を入れ、掬い上げて差し伸べる。
指先から肘にかけて伝う『赤』。
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