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第4章
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「早かったわね。しかも可愛いわ」
『村野』の奥まった席は予約したのだろう、元子は珍しく黒のパンツスーツ、指にいつものダイヤもない。それでも晴れ晴れとした笑顔はそのままに、美並を迎える。
「お昼まだでしょ、注文しておいたわ」
「ありがとうございます」
今日は感謝を伝えることが多い。
ふとそう思って微笑んで椅子に座ると、元子が少し瞬いた。
「何かあった?」
「え?」
「眩しいわね」
「そうですか?」
目を細められて美並は戸惑う。特別な髪型もしていないし、確かに新品ではあるけれど、特に珍しいデザインのワンピースでもない、アクセサリーも左指の婚約指輪だけだ。
置かれたカボチャのスープにランチコースを設定されたとわかった。十数分の話ではない、少なくとも小一時間はかけるつもりだ。
「メインは魚と鶏なの。どちらがいい?」
「…じゃあ鶏で」
「私は魚にしておくわ」
元子が頷くと背後の気配が動いて消えた。
ミニオードブルは野菜のゼリーにハムと他数種。食べながら元子はまだ喋らない。メインとパンが運ばれて、静かにナイフとフォークを動かし、ようやく元子は口を開いた。
「こう言う沈黙、苦手な人が多いわね」
「…」
「でも、私は好き。黙っていられないのは不安の証拠、碌な話もできないわ」
「…ええ」
ためらったが、しっかり受けた。
「この前の私付きの秘書の話ね。無しにして」
「…はい」
来たか。
「それから、今後色々な指示が出るけど、真崎君に従って」
「…はい…」
おや、これは風向きが違う。
訝った美並の声に気づいたのか、元子が目をあげた。
初めて見る、苦しげな目の色だった。苦笑いがこぼれる。
「これから警察に出向きます」
「……はい」
なるほど、それで黒のパンツスーツ。しかし、なぜ。
「たぶん、年度終了時に桜木通販の社長を辞める」
美並は手を止めた。
「引責辞任、ね」
「…引責」
「………5年前、桜木通販は社会批判を受けるような状況になった」
緑川という役員が組織的な売春に関わっていたから。
「…」
さらりと流されたことばの重みを美並は知っている。
「それから人事をやり直して、必死に会社を立て直して、人材にも十分に目を配って」
元子の声に初めて彼女が姿を偽ってでも自ら社内をうろうろしている理由がわかった気がした。
同じことは繰り返さない。少しの綻びも見逃さない。
そう考え続けていたからだろうけれど。
「噂を耳にしたかも知れないけれど、社会協議会の真崎大輔氏に司法が関わろうとしています」
元子はゆっくり食事を続けている。美並も再びナイフとフォークを取り上げる。
「数件の嫌疑がかかっているそうよ。それを受けて、『ニット・キャンパス』にも当局の調査が入ります」
そんなところまで話が動いているのか。
「では、課長は」
「……微妙な問題があるの」
元子は小さく息をついた。
「嫌疑の中には、親族への虐待が含まれているそうよ」
「っ」
今度は身体中の毛が逆立った。
真崎が話すはずがない。大輔が吹聴するはずもない。秘められた世界で、閉ざされた空間で行われた出来事、だからこそ、美並は『ハイウィンド・リール』で圧倒的優位に立てた。
「…どういう、こと、ですか」
声が掠れた。
「…いずれ分かることだけど、妻子へのDVが上がってる」
「……」
今度こそことばを失った。
恵子だ。
恵子が、状況不利と見て大輔を売ったのだ。自分達へのDVを理由に大輔を片付けようとしている。
雨に濡れてやって来た恵子、強引なまでの京介への接近にはそういう理由があったのか。
「…でも」
違和感に気づいた。今の話で行くと、真崎京介と『ニット・キャンパス』に当局の接近があるのは分かる。だが、桜木通販となると遠すぎないか。
「先ほど引責辞任とおっしゃいました」
「無能だったから」
元子はばっさりと切り捨てた。
「でも」
「……真崎大輔は、5年前の緑川の事件に関わっていたらしいのよ」
そうして、ね。
元子は食べ終えた皿を静かに脇に寄せた。じっと美並に目を据える。
「不愉快なことに、今もまだ、その事件の関係者が桜木通販に居るかも知れない、と」
「…そんなこと……誰が……」
「わからない。けれど警察は再調査するつもりらしいわ。あちらも子どもの遣いじゃないでしょうし、全く根拠のないことでもないんでしょう。何れにせよ、始末がつけられていなかったのは私の責任」
元子は指を振った。
「デザートはアイス? ケーキ?」
「でも、そんな」
「アイスにしちゃうわ、頭冷やしたいし。いいでしょ」
にっこり笑う。
「心配はしてないわ」
真崎君は有能だし、残りの人材も優秀だしね、『ニット・キャンパス』を成功させれば、それなりに生き残れるでしょうし。
「だからしっかり支えてあげてね。あ、だから、あなたは来年度から社長付き秘書ってことになる。忙しくなるわね。でも時々こうやって食事に誘うわ、いいでしょ」
「…へ?」
思わず妙な声が出た。アイスを掬おうとした指が固まる。
「あの、なんて」
「食事に誘うわ」
「いえ、その前」
「来年度から社長付きの秘書」
「でも、社長は辞任されるんですよね?」
「ええ、でも、次期社長は真崎京介よ。その方向で株主を抑えるから……って、言ってなかった?」
「……聞いてませんから……」
美並はぐるぐるしながら唸った。
『村野』の奥まった席は予約したのだろう、元子は珍しく黒のパンツスーツ、指にいつものダイヤもない。それでも晴れ晴れとした笑顔はそのままに、美並を迎える。
「お昼まだでしょ、注文しておいたわ」
「ありがとうございます」
今日は感謝を伝えることが多い。
ふとそう思って微笑んで椅子に座ると、元子が少し瞬いた。
「何かあった?」
「え?」
「眩しいわね」
「そうですか?」
目を細められて美並は戸惑う。特別な髪型もしていないし、確かに新品ではあるけれど、特に珍しいデザインのワンピースでもない、アクセサリーも左指の婚約指輪だけだ。
置かれたカボチャのスープにランチコースを設定されたとわかった。十数分の話ではない、少なくとも小一時間はかけるつもりだ。
「メインは魚と鶏なの。どちらがいい?」
「…じゃあ鶏で」
「私は魚にしておくわ」
元子が頷くと背後の気配が動いて消えた。
ミニオードブルは野菜のゼリーにハムと他数種。食べながら元子はまだ喋らない。メインとパンが運ばれて、静かにナイフとフォークを動かし、ようやく元子は口を開いた。
「こう言う沈黙、苦手な人が多いわね」
「…」
「でも、私は好き。黙っていられないのは不安の証拠、碌な話もできないわ」
「…ええ」
ためらったが、しっかり受けた。
「この前の私付きの秘書の話ね。無しにして」
「…はい」
来たか。
「それから、今後色々な指示が出るけど、真崎君に従って」
「…はい…」
おや、これは風向きが違う。
訝った美並の声に気づいたのか、元子が目をあげた。
初めて見る、苦しげな目の色だった。苦笑いがこぼれる。
「これから警察に出向きます」
「……はい」
なるほど、それで黒のパンツスーツ。しかし、なぜ。
「たぶん、年度終了時に桜木通販の社長を辞める」
美並は手を止めた。
「引責辞任、ね」
「…引責」
「………5年前、桜木通販は社会批判を受けるような状況になった」
緑川という役員が組織的な売春に関わっていたから。
「…」
さらりと流されたことばの重みを美並は知っている。
「それから人事をやり直して、必死に会社を立て直して、人材にも十分に目を配って」
元子の声に初めて彼女が姿を偽ってでも自ら社内をうろうろしている理由がわかった気がした。
同じことは繰り返さない。少しの綻びも見逃さない。
そう考え続けていたからだろうけれど。
「噂を耳にしたかも知れないけれど、社会協議会の真崎大輔氏に司法が関わろうとしています」
元子はゆっくり食事を続けている。美並も再びナイフとフォークを取り上げる。
「数件の嫌疑がかかっているそうよ。それを受けて、『ニット・キャンパス』にも当局の調査が入ります」
そんなところまで話が動いているのか。
「では、課長は」
「……微妙な問題があるの」
元子は小さく息をついた。
「嫌疑の中には、親族への虐待が含まれているそうよ」
「っ」
今度は身体中の毛が逆立った。
真崎が話すはずがない。大輔が吹聴するはずもない。秘められた世界で、閉ざされた空間で行われた出来事、だからこそ、美並は『ハイウィンド・リール』で圧倒的優位に立てた。
「…どういう、こと、ですか」
声が掠れた。
「…いずれ分かることだけど、妻子へのDVが上がってる」
「……」
今度こそことばを失った。
恵子だ。
恵子が、状況不利と見て大輔を売ったのだ。自分達へのDVを理由に大輔を片付けようとしている。
雨に濡れてやって来た恵子、強引なまでの京介への接近にはそういう理由があったのか。
「…でも」
違和感に気づいた。今の話で行くと、真崎京介と『ニット・キャンパス』に当局の接近があるのは分かる。だが、桜木通販となると遠すぎないか。
「先ほど引責辞任とおっしゃいました」
「無能だったから」
元子はばっさりと切り捨てた。
「でも」
「……真崎大輔は、5年前の緑川の事件に関わっていたらしいのよ」
そうして、ね。
元子は食べ終えた皿を静かに脇に寄せた。じっと美並に目を据える。
「不愉快なことに、今もまだ、その事件の関係者が桜木通販に居るかも知れない、と」
「…そんなこと……誰が……」
「わからない。けれど警察は再調査するつもりらしいわ。あちらも子どもの遣いじゃないでしょうし、全く根拠のないことでもないんでしょう。何れにせよ、始末がつけられていなかったのは私の責任」
元子は指を振った。
「デザートはアイス? ケーキ?」
「でも、そんな」
「アイスにしちゃうわ、頭冷やしたいし。いいでしょ」
にっこり笑う。
「心配はしてないわ」
真崎君は有能だし、残りの人材も優秀だしね、『ニット・キャンパス』を成功させれば、それなりに生き残れるでしょうし。
「だからしっかり支えてあげてね。あ、だから、あなたは来年度から社長付き秘書ってことになる。忙しくなるわね。でも時々こうやって食事に誘うわ、いいでしょ」
「…へ?」
思わず妙な声が出た。アイスを掬おうとした指が固まる。
「あの、なんて」
「食事に誘うわ」
「いえ、その前」
「来年度から社長付きの秘書」
「でも、社長は辞任されるんですよね?」
「ええ、でも、次期社長は真崎京介よ。その方向で株主を抑えるから……って、言ってなかった?」
「……聞いてませんから……」
美並はぐるぐるしながら唸った。
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