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第4章
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ばたばたっ、と現実ではない音をたてて、けれど見えない美並の心を裂いて、紅蓮の赤が散ったのが見える。
これが嫉妬の報い。これが支配の代償。
「どうして?」
もう尋ねなくてもよさそうなものなのに、どうして尋ねてしまうのだろう。そこにどんな理由があったら、納得できるのだろう。
「…………雨に、濡れた、からって」
今時、下手なマンガでもそんな理由などあり得ないだろう。
あれほど怯え、あれほど拒み、あれほど自分を犯した相手を、相手が雨に濡れていたから家に招き入れる? 可哀想だったから? 仕方なかったから? 人道的に? 男として? 正義として?
それでも傘はあっただろうに。
思いついて苦笑する。
傘どころか、双方立派な大人なのだ、家に入れることがどういう意味を持っているか、わからなかったというわけでもあるまい。
「そう。お邪魔でしたか?」
「ちがっ」
慌てて振り返った真崎の白い顔に微笑んだ。
違う、以外のどんな答えが返せるというのだ、この状況で、真実がどうあろうとも。ましてや真崎は人の心の動きには通じている。美並をごまかせるとは思っていないだろうが、それでも社会通念として、認めるわけにはいかないことぐらいはわかっているだろう。
もう、いい。
「キスしてもいい?」
うろたえる真崎が悲しかった。
ごまかされるしかない自分が辛かった。
真崎の顔を包み、ねだってみた。うんっ、と嬉しそうに頷いた真崎に、恵子で満足しきれなかった部分もあるってことか、とひねくれて思い、その自分にずたずたになった。
「み、なみ…っ」
「扉、閉めますね」
出来上がった構造だ。奥では別の女が居て、その同じ屋根の玄関で唇を重ねて抱き締め合っている。奥で恵子は聞いているだろう、美並と真崎のやりとりを。嫉妬を感じたりするのだろうか、それとも、虚しい抵抗を試みる美並を嘲笑っているのだろうか。
「は…っ」
真崎が口の先で喘いでぞくりとする。この男は、女二人に交互にねだられている自分に満足しているのかもしれない。背後にさっきまで求められていた女の視線を感じ、目の前の女に求められて乱れていく自分を感じ、そうしてぎりぎりの狭間で快感に狂う自分を楽しんでいるのかもしれない。
「今夜泊めてもらってもいい?」
残酷なことばが口を突く。
「…え」
真崎が薄目を開けて怯えた表情になるのに、昏い喜びを味わう。
「終電無くなったから、京介の所に泊まろうかなと思って来たんですが、携帯で連絡するべきでしたか?」
そんなことを楽しむならば、お望み通り修羅場に追い込んでやろう。
「美並、僕は」
ただし、それは女二人に同時に求められるなどという際どい場面じゃない。狡さと無責任さを抱えて、欲望のために被害者ぶって人を操ろうとするみっともなさを、じっくり自覚してもらおうということだ。
「どうして?」
とまどう真崎に静かに繰り返す。
「どうして恵子さんを家に入れたの?」
答えられるものなら答えてみるがいい、恵子が耳を澄ませて聞いているこの場所で、さっきの睦言は嘘だったと自分で証明してみるがいい。
「だって、びしょ濡れだったし、もし風邪でもひいたら」
「心配?」
そこまでして、正義の味方で居たいのか。
「うん、子供達がもっとかまってもらえなくなるし」
その子どもは恵子の子どもなのに、そこまで案じてやること自体、どれほど美並を傷つけているのか、きっと思いもしていない。
「……京介」
ばかばか、しい。
溜め息をついた。
何のことない、今このやりとりで傷ついているのは美並の方だ。
「優しいのと甘いのは違いますよ?」
真崎が繰り返し押し付けてきているのは、美並の存在よりも美並の気持ちよりも、恵子の状況と恵子の気持ちが大事だということでしかないのに。
「私は京介の婚約者ですよね?」
そんなことに何の意味もないけどな。
どす黒い怒りに唇を噛み締める。
「…うん」
うん、って言うな。
その同意の重ささえ理解していない男に、そのことばを発する権利なんかない。
「婚約者の家に夜中にブラジャー落とすような女性が居て、大人しく、そりゃいいことをしましたね、って笑えると思いますか?」
ぐ、と真崎が詰まって見る見る赤くなる。
「……ごめん、なさい」
何に対して謝ってんだか。
美並は吹き上がりそうになる怒りを堪える。
「しかも婚約者は半裸だし……かなり難しい状況でしょ?」
「う…うん」
うんって言うなって。
わかってないとわかる。美並の訴えている意味が、美並の感じている辛さが、ほんの欠片も伝わっていないと感じる。真崎から感じるのは戸惑いと混乱、不愉快と拒否。唇を噛み締めて俯く真崎の腕に、これ以上触れているのが苦しくて、美並は振りほどいて擦り抜ける。
「伊吹さん?」
まだ、伊吹、なのかよ。
殴りたくなる。
彼女は恵子さん、と呼んでいる。美並は、伊吹さん、としか呼んでない。
その熱の差に、扱いの歴然とした違いに気づきもしない真崎が、うっとうしくて腹立たしい。
「彼女は? バスルームですか」
「いや、あの」
まだ庇う気か。
「のようですね」
すたすたと奥へ入っていく。
シャワーの音が響いていたのが、唐突に止んだのを合図に一気に扉を開いた。
これが嫉妬の報い。これが支配の代償。
「どうして?」
もう尋ねなくてもよさそうなものなのに、どうして尋ねてしまうのだろう。そこにどんな理由があったら、納得できるのだろう。
「…………雨に、濡れた、からって」
今時、下手なマンガでもそんな理由などあり得ないだろう。
あれほど怯え、あれほど拒み、あれほど自分を犯した相手を、相手が雨に濡れていたから家に招き入れる? 可哀想だったから? 仕方なかったから? 人道的に? 男として? 正義として?
それでも傘はあっただろうに。
思いついて苦笑する。
傘どころか、双方立派な大人なのだ、家に入れることがどういう意味を持っているか、わからなかったというわけでもあるまい。
「そう。お邪魔でしたか?」
「ちがっ」
慌てて振り返った真崎の白い顔に微笑んだ。
違う、以外のどんな答えが返せるというのだ、この状況で、真実がどうあろうとも。ましてや真崎は人の心の動きには通じている。美並をごまかせるとは思っていないだろうが、それでも社会通念として、認めるわけにはいかないことぐらいはわかっているだろう。
もう、いい。
「キスしてもいい?」
うろたえる真崎が悲しかった。
ごまかされるしかない自分が辛かった。
真崎の顔を包み、ねだってみた。うんっ、と嬉しそうに頷いた真崎に、恵子で満足しきれなかった部分もあるってことか、とひねくれて思い、その自分にずたずたになった。
「み、なみ…っ」
「扉、閉めますね」
出来上がった構造だ。奥では別の女が居て、その同じ屋根の玄関で唇を重ねて抱き締め合っている。奥で恵子は聞いているだろう、美並と真崎のやりとりを。嫉妬を感じたりするのだろうか、それとも、虚しい抵抗を試みる美並を嘲笑っているのだろうか。
「は…っ」
真崎が口の先で喘いでぞくりとする。この男は、女二人に交互にねだられている自分に満足しているのかもしれない。背後にさっきまで求められていた女の視線を感じ、目の前の女に求められて乱れていく自分を感じ、そうしてぎりぎりの狭間で快感に狂う自分を楽しんでいるのかもしれない。
「今夜泊めてもらってもいい?」
残酷なことばが口を突く。
「…え」
真崎が薄目を開けて怯えた表情になるのに、昏い喜びを味わう。
「終電無くなったから、京介の所に泊まろうかなと思って来たんですが、携帯で連絡するべきでしたか?」
そんなことを楽しむならば、お望み通り修羅場に追い込んでやろう。
「美並、僕は」
ただし、それは女二人に同時に求められるなどという際どい場面じゃない。狡さと無責任さを抱えて、欲望のために被害者ぶって人を操ろうとするみっともなさを、じっくり自覚してもらおうということだ。
「どうして?」
とまどう真崎に静かに繰り返す。
「どうして恵子さんを家に入れたの?」
答えられるものなら答えてみるがいい、恵子が耳を澄ませて聞いているこの場所で、さっきの睦言は嘘だったと自分で証明してみるがいい。
「だって、びしょ濡れだったし、もし風邪でもひいたら」
「心配?」
そこまでして、正義の味方で居たいのか。
「うん、子供達がもっとかまってもらえなくなるし」
その子どもは恵子の子どもなのに、そこまで案じてやること自体、どれほど美並を傷つけているのか、きっと思いもしていない。
「……京介」
ばかばか、しい。
溜め息をついた。
何のことない、今このやりとりで傷ついているのは美並の方だ。
「優しいのと甘いのは違いますよ?」
真崎が繰り返し押し付けてきているのは、美並の存在よりも美並の気持ちよりも、恵子の状況と恵子の気持ちが大事だということでしかないのに。
「私は京介の婚約者ですよね?」
そんなことに何の意味もないけどな。
どす黒い怒りに唇を噛み締める。
「…うん」
うん、って言うな。
その同意の重ささえ理解していない男に、そのことばを発する権利なんかない。
「婚約者の家に夜中にブラジャー落とすような女性が居て、大人しく、そりゃいいことをしましたね、って笑えると思いますか?」
ぐ、と真崎が詰まって見る見る赤くなる。
「……ごめん、なさい」
何に対して謝ってんだか。
美並は吹き上がりそうになる怒りを堪える。
「しかも婚約者は半裸だし……かなり難しい状況でしょ?」
「う…うん」
うんって言うなって。
わかってないとわかる。美並の訴えている意味が、美並の感じている辛さが、ほんの欠片も伝わっていないと感じる。真崎から感じるのは戸惑いと混乱、不愉快と拒否。唇を噛み締めて俯く真崎の腕に、これ以上触れているのが苦しくて、美並は振りほどいて擦り抜ける。
「伊吹さん?」
まだ、伊吹、なのかよ。
殴りたくなる。
彼女は恵子さん、と呼んでいる。美並は、伊吹さん、としか呼んでない。
その熱の差に、扱いの歴然とした違いに気づきもしない真崎が、うっとうしくて腹立たしい。
「彼女は? バスルームですか」
「いや、あの」
まだ庇う気か。
「のようですね」
すたすたと奥へ入っていく。
シャワーの音が響いていたのが、唐突に止んだのを合図に一気に扉を開いた。
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