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12.召命(2)
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「里の栄えをお願い申す!」
太く厳しい男の声だ。ふいに我に返ったように、綾香が口を離して体を起こした。
「んっ…はっ……はあっ…」
「…『読み上げ』が始まったんやな」
荒い呼吸を繰り返す洋子をよそに、綾香が響く声を受け止めるように顔を上げてつぶやく。
唐突に解放されて、しばらくは呼吸をするのが手一杯だった。まだ掴まれている左肩が熱い。首に添えられている手からも力は消えていない。視界が揺らいで霞んでいる。
必死に呼吸を紡ぐ口から生々しい感触が消えない。悲しくはないのに、目許から涙が零れ落ちる。
「里から病が失せますように」
「よし、聞いた!」
違う声がすぐに応じた。
「里の実りが豊かでありますように」
「よし、聞いた!」
声が次々に応じていく。体に酸素が満たされてくるに従って、過熱しきってうなりをあげていた洋子の耳にも、次第に声が意味のあることばとして聞こえてくる。
「里に力がありますように」
「よし、聞いた!」
掛け合う声が延々と続いていく。
(『読み上げ』…)
では、今はもう二日目の祭に入っているのか。
茫然としたまま、そのやりとりを聞いていた洋子は、最後に響いた声の内容にはっとした。
「里が永遠にありますように!」
「里が永遠でありますように!」
多くの声が唱和する。
「里が永遠でありますように!」
「里のものが永遠に死なずにありますように!」
よし、聞いた、ということばは続かない。とすると、これが今年の『願い』ということになる。
(里の者が永遠に死なずにありますように……って…)
いくら神事とはいえ、それまで続いた曖昧で叶ったとも叶わぬとも言えぬ願いとは質が違う。なのに、それを誰一人訝ることなく繰り返し、熱を込めて唱和している。
まるで何かの裏付けがあることを確認しているような、その真剣さ。
ぞくりと身を竦めたのが、肩を掴んでのしかかったままの綾香にはすぐに伝わったらしい。
相手はふいと視線を落としてきた。
虚ろで底知れない茶色の虹彩が、ちらちらと楽しげな色に揺れる。
「聞いたやろ……? 皆待ってる……あんたのことを」
乾いて咳き込みそうになる喉に、洋子は唾を呑み込んだ。苦くてねっとりした血の混じったものが喉をずるずる滑り落ちていく。
「あんたの体……不死を与えてくれる……姫さんの体……そやけど」
目を細める顔は暗く激しい喜びに輝いている。
「あんたには…もう…花王紋はあらへん……あんたを食べても……不死にはならへん…あたしら皆、人の道を侵して……何にも手に入らへんのや……日高かて」
綾香はもっと目を細めた。
「日高もあんたを食べるんや…何にも知らんと食べるんや……畜生みたいに……食べるんや」
綾香は首から手を離して、その指先で洋子の唇を撫でた。もう一度口を塞がれるのかと思わず体を強ばらせた洋子をじっと見つめて、洋子が零した涙の筋を辿る。無意識に唇を噛み締めた洋子に、
「なあ……あたしにすがりぃな……」
惑っているような瞳で言った。
「…?」
意味がわからず瞬いた洋子の唇をまたそっと撫で摩る。その指先が血で朱に染まっている。
「あたしにお願いしてみ……花王紋はなかったって、日高に言うてください、て」
声が掠れて妖しく揺れた。
「あや…か…」
『姫さん』が食べられた、その衝撃に回復しかけた気持ちが一気にへたったのか、頭からも肩からもまた出血が始まったようだ。たらたらと温い液体が流れ落ちていく、その感覚にともすれば意識をもっていかれそうになるのを、必死に堪えて洋子は瞬きした。
「まだ……こわがらへんのやなあ……」
どこかとろけるような甘い響きで続けて、綾香は洋子の唇を撫でていた朱色の指をそっと自分の口に銜えた。ちろりと唇からはみでた桃色の舌が濡れ濡れと指の血を舐めとっていく。まるで特別に作られたスープの味見をしているような、そんな陶然とした表情で、指を離すともう一度洋子の顔に寄せてきた。
「こんなことされても……まだあんたの……目は生きてるんやなあ…」
指先で頬を撫で、目許を探ってくる。そのまま瞳に鋭い爪を突き込まれて眼をくり抜かれてしまいそうな緊迫感、それでも妙に危うげに揺れている綾香の目から視線を外せずに洋子はじっと相手を凝視した。
「これだけ血ぃ出てたら……はよせんと……死ぬで…?」
忙しい呼吸を続ける洋子を見つめる目はどこか煙って悩ましげだ。
「強い……強いなあ…ほんまにあんたは強い……」
ひっそりとした声で、
「日高が食らいたくなるのもわかるような気がするわ……何にも負けへん……何にもひかへん……極上の逸品……そやけど…その逸品を失うたら…」
冷ややかな笑みが浮かんだ。
「護王は泣くやろなあ……? あんたの血まみれの死体見たら…」
(護王、が)
洋子は揺らぎ落ちようとする意識をかろうじて引き戻した。
綾香が何を言いたいのかわからない。それが、自分が気を失いかけているせいなのか、綾香が何かの謎をかけているせいなのか、それさえもわからなくなってくる。
「花王紋がなかったら……日高かて食べるの、やめるかもしれへんで…? な、あ!」
「あっっ!!」
三度きつく傷を掴まれて、洋子は我に返った。跳ね上がった体が床に落ち、今少し意識を取り戻す。
「人の話、聞いてんの、腹立つなあ、あんた」
額から頬を過ぎて首へ伝い落ちたのは汗なのか血液なのか。血だとしても、それはどんどん粘度を減らし温度を失いつつある気がする。その流れを綾香が指で追い掛けながらより掠れた声でつぶやいた。
「あたしにすがって……泣きつきぃな……助けて下さい、て。そしたら…」
きゅうう、とまた唇が吊り上がった。
「助けてあげてもええ……そのかわり……約束するんや、護王には二度と近づかへん、『姫さん』の話もせえへんで、すぐに里から去んでしまう、て」
(それは……できない…)
洋子の視界に闇に翻る白い衣が蘇る。繰り返し洋子を探した黒い瞳が蘇る。
そこにいてくれ。
二度と俺を置き去りにしないでくれ。
誓ってくれ、ずっと側にいる、と。
切なく約束を迫る目。懇願に思いつめて流れた涙。
『姫さん』
吐息が甘く呼ぶ。
『姫さん』
思いつめた祈りを込めて。
ほんとうは違うのかもしれない。護王が心底求めているのは洋子ではないのかもしれない。
けれども、洋子はあのとき確かにその祈りを受けたのだから。
(裏切れない……裏切らない)
「…だ…」
喘ぎながら何とか息をことばにする。
「ん? なんて?」
洋子はかろうじて唇を笑ませた。覗き込む綾香を目を細めて見据え、声をしっかり息にのせる。
「いや…だ」
がきっ、と綾香の口で激しい音が響いた。
「!」
とっさに激痛を覚悟して身を固めて目を閉じたが、なおも激しく掴まれるかと思った肩に力は籠らなかった。沈黙に洋子が薄く目を開けると、綾香は平板な瞳で洋子を凝視していた。
「……桜の……姫か」
両手を離して体をゆっくり起こす。
「護王の主は譲らへん…てか…」
洋子の血でべたべたに汚れたワンピースに構ったふうもなく、綾香は身を屈めた。
放り出していたカッターナイフを取り上げる。ちき、ちき、ちき、ちき、と一こまずつ音をたてて、残った刃を全部押し出した。
「その偉そうな口がどこまで叩けるか……試してみよか」
凍った声で言い放った。
「耳とか指とか、カッターナイフでもそげるところはあるんやで?」
綾香の殺気にぞく、と無意識に竦んだ体に力を込め、洋子は息を吐いた。
(護王)
守り札のように胸の中で名前を呼ぶ。返らない答えに、遠い夜のどぶどろの川を思い出す。
(もう……会えないかも、しれないな)
そう思った瞬間に、静かな落ち着きが胸に広がった。
「忠誠を……」
「え?」
「…忠誠を……誓われたこと……ある…?」
自分で意図せずつぶやいて、綾香の顔に幻のように重なったもう一つの顔を見つけ、胸の底に納得が落ちる。
(ああ、そうか…)
揺らめく視界にあの暗い街で背後から尋ねられたときのことが蘇る。
(そうか…綾香……あのときにもいたんだ……)
あの喧噪に満ち、きな臭い時代を駆け抜けた人生で、洋子は綾香に会っている。あのときとそっくりな状況で、命と引き換えに信条を売り渡せと迫られながら。
「忠誠…を…」
綾香が動きを止めた。眉根を寄せ、顔をしかめて、何かを思い出そうとするかのように洋子のことばを繰り返す。
「忠誠を…誓う…?」
(何度問われても…同じことだ)
洋子の胸の底に温かな誇りが沸き上がった。
あの夜も、助からないとわかっていた。だが、あのときは転生を自分で感じて信じていた。だからこそ、死の間際でも再会を思って飛び込めた。
けれど今は違う。転生の記憶は夢とまごうほどにあやふやで、しかも洋子は『姫さん』ではないかもしれない。ここで終わってそれで全てが消えるのかもしれない。この冷たい岩屋の中でただの肉塊として切り刻まれて、誰も気づかず骨も朽ち果てるのかもしれない。
(それでも)
求められ、呼ばれた、『姫さん』として。
ここで『姫さん』ではないと誓い、綾香にすがりつき花王紋がないことを日高に訴えれば、ひょっとすれば命だけは助かるのかもしれない。
(それでも)
護王は信じている、すがっている、正気の絆をただ一点、『姫さん』の転生、その場所だけに繋いでいる。
もし万が一洋子がここで死んだとしても、護王は転生を信じることができる。あるいはと思いはすれ、でもひょっとしたら、と洋子が『姫さん』であることにかけてこの先何とか生きていけるかもしれない。
自分の状態はよくわかっている。もうそれほど長くはもたないはずだ。助からないなら、たまたま巡り会った洋子という女に惚れたというよりは、『姫さん』に惚れたのだと曲がりなりにも自分を納得させられれば、それで護王は壊れずにすむかもしれない。転生があると思ってしのげる、かもしれない。
「私は……それを……」
洋子は息を整えた。
階段の上から突き落とされたのにすがりついてきたあやこ。殺された瞬間に発表のことを気にしていてくれた綾子。洋子の未来を信じて手紙を残してくれた嵯峨。
繰り返された洋子への信頼。揺らぎたじろぎ怯むこの身に、掛けられた命の祈りと願い。
神でも天女でも『姫さん』でも、ましてや人の運命の傷を癒せる救世主だなどと思っていない。いや、救世主ではないことは百も承知、それでも。
「……裏切らない…」
ことば一つに気が遠くなる。ゆらめく意識を引き戻す。
(そうだ、決して、もう二度と)
息が苦しい。もう一言、それをことばにするのに何度も深呼吸をしなければ応えられない。
「…私…は」
洋子は目を閉じた。限界がそこまで来ている。意識の壁が崩れていく。
「……それを…」
声が遠い。体の感覚が鈍い。
「…受け取った……」
応えた瞬間の吐息を取り返すように、一際強く息を引いて洋子は呼吸を止めた。
(もう、いいでしょう)
あれは誰の声だろう。
(御苦労さまでした)
岩屋の床を遥かに突き抜け、洋子は闇に沈んでいった。
『読み上げ』が済んで、桜の前に設えられた舞台は、緋毛氈を敷き詰められて賑やかな宴の席になっていた。並べられた膳、それぞれに相好を崩し、胡座を組み、笑いながらお互いに酒を酌み交わす里人の中に、里長の大西康隆がいる。
「おい、あれはどうした!」
康隆が濁った声で叫ぶと、側にいた路子が呆れたように肩を竦めた。
「そんなに怒鳴らはらへんかっても……今焼いてるところですがな、何やら、少し癖があるそうですわ」
「そうか、まあ、あれの料理方法なんか、知らんわなあ」
「石田がやってましたけど……我慢でけへん言うて逃げましたし。日高さんがお手伝いしたはるそうです」
「医者だけにな」
くっくっく、と康隆が忍び笑いを返す。
「切り分けるのも慣れてたで。切ってしもたら、そうそうわからへんやろ思てたんやが……あかんのか」
「あたしかて……病気がなかったら、逃げてます」
路子は暗い声でつぶやいて、目を逸らせた。
路子が進行性のガンに侵されているとわかったのは半年ほど前だ。どんどん痩せ衰えてくる自分の姿に、始めは康隆の計画に頷かなかった彼女も同意した。それから事は早かった。
「かなり……血が流れてしもたそうや」
猪口の酒を舐めながら、康隆はぼそりとつぶやいた。
「あれほど出るとは思わなんだな」
「もう、ええやないですか」
怒った口調で路子が眉をひそめる。
「護王はどうした」
「……薬で眠らせました」
「ふうん……『姫さん』おらへんのには気づかへんかったんか」
「始めは探してたようですけど」
「ああ。わしんとこにも怒鳴りこんできよった。けど、まあ、他愛ないもんやで、日高のことをちらっと匂わせたら、血相変えて食らいついてきよったしな」
「疲れてるやろう、まあ、お茶でも、言うたらすぐに呑みましたわ」
路子は妖しい笑みを広げた。
「よう効きますなあ、あの日高さんとこの薬。里のものは意識が残るからあかんのやて言うたはったけど、確かにあれのほうがよかったかもしれまへん」
「今はどうしとんねん」
「部屋で寝てますけど……ああ、ほら、あの子が呼んできましたわ」
康隆は酔いの回った目を上げて、家の方を見遣った。そこからどこか危うげな足取りで近づいてくる黒づくめの男を、まだどこか少女っぽさの抜けない娘が支えて歩いてくる。
「あいつにも…食わせる気か」
ぽつんと問うと、路子は微かに笑った。
「この先も、『姫さん』探してもらわんと、あきまへんやろ?」
その淡々とした答えに、康隆は思わずぞっとして体を震わせた。立続けに酒を煽って、路子を振り向かないまま、もう一度声を張り上げる。
「おおい、ここやここや、護王! はよ、こい!」
「里長はん、無茶言わんといて」
娘が嬉しそうに護王に腕を絡ませながらひきずるように連れてくる。
「何か足下がふわふわすんのやて」
「どないしはったん?」
平然と問う路子に康隆はそっと首を竦める。本気かどうかは知らないが、路子も一時護王に魅かれていた気配もある。それを丁寧にはねつけられたとの笑えぬ噂もあって、今回のやり方の酷さはその意趣返しと取れぬこともない、そういう女の恐ろしさをしみじみと思った顔だ。
「なにか……頭が……」
護王はうっとうしそうな顔で額に当てた手をずらせて髪の毛をかきあげた。真っ黒な目がどこか茫洋と濡れていて、妖しいほどの色がある。まだ頼りなげにふらつかせている体も、その危うさを一層目立たせて、路子ならずとも手元において侍らせたい、そんな欲を煽ってくる。
「まあ、ええ、とりあえず、そこに座れ、もうすぐとっておきの品がくる」
「とっておきの品…?」
護王は訝しそうに腕を引かれるままに、少し離れた席に座った。
まるでそれを合図にしたかのように、康隆の家の離れの方から岡持を持った人間が小走りにやってくる。
「おお、きたか、きたか!」
康隆が喜色満面で立ち上がって、護王も釣られたように背後を振り返った。
「ここへ並べぇ、さあさ、みなさん!」
康隆が岡持の中身を取り出していく料理人を促しながら、声を張り上げ立ち上がった。
「今、私が頼んでいたもんが届きました、少しずつではありますが、まれな珍品どっさかい、不老長寿の薬やと思て、どうぞ味おうて下さい!」
◆「ほほう、それはそれは」
「これは何か、肉の佃煮みたいですな?」
「いや、旨そうにこってりと光ってますなあ」
膳に配られたのは小鉢に入って茶色に煮含められた突き出しのようなものだった。刻み生姜が添えられており、何かの照焼きのようにも見える。
それぞれに器を手に取る里人に康隆も箸をつけた。確かにつやつやと色もよく香りも特に問題がないように見えることを確認して、そっと口に運んでみる。
むちっとした触感だった。脂身は薄い。けれども肉そのものが十分な歯ごたえを返し、濃厚な味がある。
周囲を見回すとそれぞれに嬉しそうに小鉢の中身を平らげていて、いや、酒に合いますな、などと喜んでいるものもいる。路子は薄笑いを浮かべて口を動かしており、それにまたぞくりとして康隆は思わず目を逸らせ、護王を見た。
護王は促されて小鉢を手に取った。どこか何か気掛かりなことがあるのに、どうしてもそれがわからないという顔で、しばらく小鉢の中身を覗き込んでいる。
「やあ、おいしいえ、なあ、はよう、護王も食べよし」
なお促されて、護王は箸を手に取り中身の小片を摘まみ上げた。茶色にしまった小さな肉塊。それを薄い唇の間へゆっくりと押し入れる。路子が食い入るように見つめている。康隆も我知らず、箸を止めて見守った。
護王はそれを口に入れた瞬間、奇妙な顔をした。
何かとてもよく知っているものなのに思い出せない、そんな顔。どこか納得できないといった表情で、側の娘を見る。
だが、やがてやっぱりどうにも思い出せない、わからない、というふうに首を振った。諦めたように二度三度、もぐもぐ、と口を動かしたが、気になるのか、また口を止め、眉を寄せる。
「なんか…」
「え?」
「なんか……この感じ……俺……知ってるような…」
口が半分塞がった曖昧な声でつぶやき、また側の娘を見た。それと意識はしていないのだろう、相手の肉汁に濡れた唇が動く様子を不安そうに眺め、なおも口の中のものの感触を確かめる様子で考え込んだままゆっくりと咀嚼を続ける。やがて、ごくんと呑み込んだ、その瞬間。
顔が凍った。
虹彩と瞳孔の区別がつかない真っ黒な瞳がむき出しになるほど目が見開かれた。
「これ……」
「え?」
「この……にく……」
からん、と箸が落ちた。震えながら両手を口元に当てた護王が掠れた声でつぶやく。
「この……におい……『姫さん』……?」
かたかたと肩から始まった小さな震えが、何かを確信したように、がたがたがたっ、といきなり激しくなった。真っ青な顔が表情を失ったまま恐怖に凝っていく。
「う…うあっ……うあああああっ!!」
転がり落ちるように席から地面へ逃げすさると、そこで必死に吐き戻し始めた。
「護王?!」
「な…なんで…なんで…っ…なんで……っっ……」
吐きながら、それでもどうにも止められぬように、全身を大きく震わせ泣き叫び出した護王に里人が何ごとかと訝るように沈黙した。その空間を切り裂くように悲痛な護王の声が響き渡る。
「俺…っ……俺……ひ……姫っ……姫さんをっ……く……食っ…ひっ……わ……あああああああああああああっっっっ!!」
蹲って絶叫した護王、その体からふいにくたり、と力が抜けた。すがりつくように指を地面に突き立てたまま、ぴくりとも動かなくなる。
「護王?」
やがておそるおそるといった様子で、娘が声をかけた。
「ねえ……大丈夫……?」
護王は動かない。
「日高を連れてきましょうか」
場違いなほど冷静な声が響いて康隆は我に返った。路子が揺らぎもしない目で護王を見つめ、くるりと振り返る。
「さすがに…堪えたようですなあ?」
「……そうだな」
康隆は肩の力を抜いた。
まさかここで気づくとは思っていなかったし、これほどまで護王が取り乱すとも思っていなかった。いつも冷徹で傲岸な態度、何を言われても動じる気配もなかったこの年下の男が、気を失ってしまったように身動きできなくなったのを、さすがに少し哀れに感じた。
「日高を…」
路子に命じようとした矢先、
「ひ!」
いきなりかん高い声が漏れて、康隆は弾かれたように振り返った。
いつ起き上がったのだろう。
体を起こした護王が俯いたまま、手の甲で口元を擦っている。そのもう片方の手が側にいた娘の手首をしっかりと握っているのが目に入って、康隆はぎょっとした。
「護王…?」
「……そうか……あれは……『姫さん』と…ちごたんやな」
「何?」
干涸びた声が風の鳴る音に紛れて響いた。
周囲にいた里人は凍り付いたまま動くこともできずに、成りゆきを見守っている。
「あの夜……来たんは……茜やったんか……」
「何のことや」
康隆は本能的に震えだした体から精一杯声を絞り出した。
「俺が……わからへんかったんが……悪いんやな……そやから……こんなことになったんや…」
ふわ、と顔を上げた護王の目が、どう見ても人のものとは思えない、朱紅の二つの珠になって光っていた。端正な顔に微笑が広がる、けれども、その二つの目から滂沱と涙が溢れている。
「あ! ひ…ぎ!!」
ぐい、と引き寄せた娘の首を左手で掴んで体の前に抱え込み、護王は嫣然と笑った。ぼき、と何かの包みの中で固いものが折れるような音が響いて、娘が目を剥き、首を捻られて擦れ落ちる。
「『姫さん』のにおい……『姫さん』……食べて……わかるやなんて…なあ…」
娘の体を護王はうっとうしそうに放り捨てた。笑みだけはまるで至上の喜びに満ちているような晴れやかさ、けれどその頬をとめどなく涙で濡らしながら、護王がのそりと立ち上がる。
「口つけたときに…わかったはずや……あの夜の女と違うて……わかったはずや」
切なそうに眉をひそめてうっとりと護王は笑った。
「そら…綾……嫌がるわなあ……俺に抱かれるの……それでも…側におってくれたんや……居なくなるはず…ないやないか…」
ゆら、ゆら、と不安定に足を運びながら、護王は虚ろな声でしゃべり続けた。
「居なくなったんと……ちごた……こんなとこに……おった……こんな目に…あわされて……俺も……何にも気づかへんで…」
また吐き気が込み上げたのだろう、立ち止まり、苦しげに体を曲げて胃の中身を吐き捨てた。
「俺……あんたを…あんたを……は、はは」
乾いて冷ややかな笑い声を立てながら体を起こす。
「俺まであんたを……」
ぼろぼろっと紅の目が血の涙を吹きこぼれさせ、微笑んだ護王の唇を濡らした。
「食べたんやなあ……?…」
血まみれの腕で横殴りに口元の汚れと涙を拭い取る。まだらに朱に染まった顔に笑みだけが消えない。
「……こんなことに……なる前に……わかってたはずやねん……そや…もっとはように…」
笑みがなお広がった。今にも口を引き裂いて巨大な牙が覗きそうな殺気に満ちた笑み、凄まじいほど美しい、けれど、それは命が途絶える瞬間の陶酔感を引き起こすためであるような、破滅の笑み。
「お前らを生かしといたらあかんて……わかってた……はずや…」
「う、わああ……っぎゃ……あああ!」
ふ、と護王の姿が動いた。逃げ出しかけていた一人の男を追い掛け、まるで人形のように背後から頭を掴んで相手を引きずり倒す。その途中で男の首は逆に曲がり、悲鳴とともに口から鮮血を吐き出した。
「逃げなや……」
護王はうっとうしそうに宴の席に背中を向けたままつぶやいた。
恐怖に静まり返った野に滲んだ声が染み通る。
朧に霞んでいた月が、上空に風が動いて雲が晴れたのか、桜の枝の彼方から煌々とした光を投げてきた。
春の月にしては清冽な、きんきんと痛いほど鮮やかな月だった。
その月を何かを思い出すようにしばらく見上げていた護王が、朱に染まった体をふらりと振り向かせた。
乱れた髪にも頬にも血が飛び散っている。瞳が赤々と光を放っている。血の涙がまた一筋二筋頬に伝う。死体を引きずって一歩ずつ宴の席に戻ってくる姿は一匹の修羅、思い出したように風に吹き乱されて散る桜吹雪の中、鮮血に染まる舞台のために闇の花道を辿ってくる。
「逃げるぐらいやったら……殺してみぃ……それまで…」
くく、と漏れた笑い声は地の底を這うほど昏い。
「一人ずつ嬲り殺したる……」
振った手が男の首をもぎ取った。放り投げられた首が篝火に紅の虹を描き、それを合図に護王が走り出す。
血の祝宴が、始まった。
太く厳しい男の声だ。ふいに我に返ったように、綾香が口を離して体を起こした。
「んっ…はっ……はあっ…」
「…『読み上げ』が始まったんやな」
荒い呼吸を繰り返す洋子をよそに、綾香が響く声を受け止めるように顔を上げてつぶやく。
唐突に解放されて、しばらくは呼吸をするのが手一杯だった。まだ掴まれている左肩が熱い。首に添えられている手からも力は消えていない。視界が揺らいで霞んでいる。
必死に呼吸を紡ぐ口から生々しい感触が消えない。悲しくはないのに、目許から涙が零れ落ちる。
「里から病が失せますように」
「よし、聞いた!」
違う声がすぐに応じた。
「里の実りが豊かでありますように」
「よし、聞いた!」
声が次々に応じていく。体に酸素が満たされてくるに従って、過熱しきってうなりをあげていた洋子の耳にも、次第に声が意味のあることばとして聞こえてくる。
「里に力がありますように」
「よし、聞いた!」
掛け合う声が延々と続いていく。
(『読み上げ』…)
では、今はもう二日目の祭に入っているのか。
茫然としたまま、そのやりとりを聞いていた洋子は、最後に響いた声の内容にはっとした。
「里が永遠にありますように!」
「里が永遠でありますように!」
多くの声が唱和する。
「里が永遠でありますように!」
「里のものが永遠に死なずにありますように!」
よし、聞いた、ということばは続かない。とすると、これが今年の『願い』ということになる。
(里の者が永遠に死なずにありますように……って…)
いくら神事とはいえ、それまで続いた曖昧で叶ったとも叶わぬとも言えぬ願いとは質が違う。なのに、それを誰一人訝ることなく繰り返し、熱を込めて唱和している。
まるで何かの裏付けがあることを確認しているような、その真剣さ。
ぞくりと身を竦めたのが、肩を掴んでのしかかったままの綾香にはすぐに伝わったらしい。
相手はふいと視線を落としてきた。
虚ろで底知れない茶色の虹彩が、ちらちらと楽しげな色に揺れる。
「聞いたやろ……? 皆待ってる……あんたのことを」
乾いて咳き込みそうになる喉に、洋子は唾を呑み込んだ。苦くてねっとりした血の混じったものが喉をずるずる滑り落ちていく。
「あんたの体……不死を与えてくれる……姫さんの体……そやけど」
目を細める顔は暗く激しい喜びに輝いている。
「あんたには…もう…花王紋はあらへん……あんたを食べても……不死にはならへん…あたしら皆、人の道を侵して……何にも手に入らへんのや……日高かて」
綾香はもっと目を細めた。
「日高もあんたを食べるんや…何にも知らんと食べるんや……畜生みたいに……食べるんや」
綾香は首から手を離して、その指先で洋子の唇を撫でた。もう一度口を塞がれるのかと思わず体を強ばらせた洋子をじっと見つめて、洋子が零した涙の筋を辿る。無意識に唇を噛み締めた洋子に、
「なあ……あたしにすがりぃな……」
惑っているような瞳で言った。
「…?」
意味がわからず瞬いた洋子の唇をまたそっと撫で摩る。その指先が血で朱に染まっている。
「あたしにお願いしてみ……花王紋はなかったって、日高に言うてください、て」
声が掠れて妖しく揺れた。
「あや…か…」
『姫さん』が食べられた、その衝撃に回復しかけた気持ちが一気にへたったのか、頭からも肩からもまた出血が始まったようだ。たらたらと温い液体が流れ落ちていく、その感覚にともすれば意識をもっていかれそうになるのを、必死に堪えて洋子は瞬きした。
「まだ……こわがらへんのやなあ……」
どこかとろけるような甘い響きで続けて、綾香は洋子の唇を撫でていた朱色の指をそっと自分の口に銜えた。ちろりと唇からはみでた桃色の舌が濡れ濡れと指の血を舐めとっていく。まるで特別に作られたスープの味見をしているような、そんな陶然とした表情で、指を離すともう一度洋子の顔に寄せてきた。
「こんなことされても……まだあんたの……目は生きてるんやなあ…」
指先で頬を撫で、目許を探ってくる。そのまま瞳に鋭い爪を突き込まれて眼をくり抜かれてしまいそうな緊迫感、それでも妙に危うげに揺れている綾香の目から視線を外せずに洋子はじっと相手を凝視した。
「これだけ血ぃ出てたら……はよせんと……死ぬで…?」
忙しい呼吸を続ける洋子を見つめる目はどこか煙って悩ましげだ。
「強い……強いなあ…ほんまにあんたは強い……」
ひっそりとした声で、
「日高が食らいたくなるのもわかるような気がするわ……何にも負けへん……何にもひかへん……極上の逸品……そやけど…その逸品を失うたら…」
冷ややかな笑みが浮かんだ。
「護王は泣くやろなあ……? あんたの血まみれの死体見たら…」
(護王、が)
洋子は揺らぎ落ちようとする意識をかろうじて引き戻した。
綾香が何を言いたいのかわからない。それが、自分が気を失いかけているせいなのか、綾香が何かの謎をかけているせいなのか、それさえもわからなくなってくる。
「花王紋がなかったら……日高かて食べるの、やめるかもしれへんで…? な、あ!」
「あっっ!!」
三度きつく傷を掴まれて、洋子は我に返った。跳ね上がった体が床に落ち、今少し意識を取り戻す。
「人の話、聞いてんの、腹立つなあ、あんた」
額から頬を過ぎて首へ伝い落ちたのは汗なのか血液なのか。血だとしても、それはどんどん粘度を減らし温度を失いつつある気がする。その流れを綾香が指で追い掛けながらより掠れた声でつぶやいた。
「あたしにすがって……泣きつきぃな……助けて下さい、て。そしたら…」
きゅうう、とまた唇が吊り上がった。
「助けてあげてもええ……そのかわり……約束するんや、護王には二度と近づかへん、『姫さん』の話もせえへんで、すぐに里から去んでしまう、て」
(それは……できない…)
洋子の視界に闇に翻る白い衣が蘇る。繰り返し洋子を探した黒い瞳が蘇る。
そこにいてくれ。
二度と俺を置き去りにしないでくれ。
誓ってくれ、ずっと側にいる、と。
切なく約束を迫る目。懇願に思いつめて流れた涙。
『姫さん』
吐息が甘く呼ぶ。
『姫さん』
思いつめた祈りを込めて。
ほんとうは違うのかもしれない。護王が心底求めているのは洋子ではないのかもしれない。
けれども、洋子はあのとき確かにその祈りを受けたのだから。
(裏切れない……裏切らない)
「…だ…」
喘ぎながら何とか息をことばにする。
「ん? なんて?」
洋子はかろうじて唇を笑ませた。覗き込む綾香を目を細めて見据え、声をしっかり息にのせる。
「いや…だ」
がきっ、と綾香の口で激しい音が響いた。
「!」
とっさに激痛を覚悟して身を固めて目を閉じたが、なおも激しく掴まれるかと思った肩に力は籠らなかった。沈黙に洋子が薄く目を開けると、綾香は平板な瞳で洋子を凝視していた。
「……桜の……姫か」
両手を離して体をゆっくり起こす。
「護王の主は譲らへん…てか…」
洋子の血でべたべたに汚れたワンピースに構ったふうもなく、綾香は身を屈めた。
放り出していたカッターナイフを取り上げる。ちき、ちき、ちき、ちき、と一こまずつ音をたてて、残った刃を全部押し出した。
「その偉そうな口がどこまで叩けるか……試してみよか」
凍った声で言い放った。
「耳とか指とか、カッターナイフでもそげるところはあるんやで?」
綾香の殺気にぞく、と無意識に竦んだ体に力を込め、洋子は息を吐いた。
(護王)
守り札のように胸の中で名前を呼ぶ。返らない答えに、遠い夜のどぶどろの川を思い出す。
(もう……会えないかも、しれないな)
そう思った瞬間に、静かな落ち着きが胸に広がった。
「忠誠を……」
「え?」
「…忠誠を……誓われたこと……ある…?」
自分で意図せずつぶやいて、綾香の顔に幻のように重なったもう一つの顔を見つけ、胸の底に納得が落ちる。
(ああ、そうか…)
揺らめく視界にあの暗い街で背後から尋ねられたときのことが蘇る。
(そうか…綾香……あのときにもいたんだ……)
あの喧噪に満ち、きな臭い時代を駆け抜けた人生で、洋子は綾香に会っている。あのときとそっくりな状況で、命と引き換えに信条を売り渡せと迫られながら。
「忠誠…を…」
綾香が動きを止めた。眉根を寄せ、顔をしかめて、何かを思い出そうとするかのように洋子のことばを繰り返す。
「忠誠を…誓う…?」
(何度問われても…同じことだ)
洋子の胸の底に温かな誇りが沸き上がった。
あの夜も、助からないとわかっていた。だが、あのときは転生を自分で感じて信じていた。だからこそ、死の間際でも再会を思って飛び込めた。
けれど今は違う。転生の記憶は夢とまごうほどにあやふやで、しかも洋子は『姫さん』ではないかもしれない。ここで終わってそれで全てが消えるのかもしれない。この冷たい岩屋の中でただの肉塊として切り刻まれて、誰も気づかず骨も朽ち果てるのかもしれない。
(それでも)
求められ、呼ばれた、『姫さん』として。
ここで『姫さん』ではないと誓い、綾香にすがりつき花王紋がないことを日高に訴えれば、ひょっとすれば命だけは助かるのかもしれない。
(それでも)
護王は信じている、すがっている、正気の絆をただ一点、『姫さん』の転生、その場所だけに繋いでいる。
もし万が一洋子がここで死んだとしても、護王は転生を信じることができる。あるいはと思いはすれ、でもひょっとしたら、と洋子が『姫さん』であることにかけてこの先何とか生きていけるかもしれない。
自分の状態はよくわかっている。もうそれほど長くはもたないはずだ。助からないなら、たまたま巡り会った洋子という女に惚れたというよりは、『姫さん』に惚れたのだと曲がりなりにも自分を納得させられれば、それで護王は壊れずにすむかもしれない。転生があると思ってしのげる、かもしれない。
「私は……それを……」
洋子は息を整えた。
階段の上から突き落とされたのにすがりついてきたあやこ。殺された瞬間に発表のことを気にしていてくれた綾子。洋子の未来を信じて手紙を残してくれた嵯峨。
繰り返された洋子への信頼。揺らぎたじろぎ怯むこの身に、掛けられた命の祈りと願い。
神でも天女でも『姫さん』でも、ましてや人の運命の傷を癒せる救世主だなどと思っていない。いや、救世主ではないことは百も承知、それでも。
「……裏切らない…」
ことば一つに気が遠くなる。ゆらめく意識を引き戻す。
(そうだ、決して、もう二度と)
息が苦しい。もう一言、それをことばにするのに何度も深呼吸をしなければ応えられない。
「…私…は」
洋子は目を閉じた。限界がそこまで来ている。意識の壁が崩れていく。
「……それを…」
声が遠い。体の感覚が鈍い。
「…受け取った……」
応えた瞬間の吐息を取り返すように、一際強く息を引いて洋子は呼吸を止めた。
(もう、いいでしょう)
あれは誰の声だろう。
(御苦労さまでした)
岩屋の床を遥かに突き抜け、洋子は闇に沈んでいった。
『読み上げ』が済んで、桜の前に設えられた舞台は、緋毛氈を敷き詰められて賑やかな宴の席になっていた。並べられた膳、それぞれに相好を崩し、胡座を組み、笑いながらお互いに酒を酌み交わす里人の中に、里長の大西康隆がいる。
「おい、あれはどうした!」
康隆が濁った声で叫ぶと、側にいた路子が呆れたように肩を竦めた。
「そんなに怒鳴らはらへんかっても……今焼いてるところですがな、何やら、少し癖があるそうですわ」
「そうか、まあ、あれの料理方法なんか、知らんわなあ」
「石田がやってましたけど……我慢でけへん言うて逃げましたし。日高さんがお手伝いしたはるそうです」
「医者だけにな」
くっくっく、と康隆が忍び笑いを返す。
「切り分けるのも慣れてたで。切ってしもたら、そうそうわからへんやろ思てたんやが……あかんのか」
「あたしかて……病気がなかったら、逃げてます」
路子は暗い声でつぶやいて、目を逸らせた。
路子が進行性のガンに侵されているとわかったのは半年ほど前だ。どんどん痩せ衰えてくる自分の姿に、始めは康隆の計画に頷かなかった彼女も同意した。それから事は早かった。
「かなり……血が流れてしもたそうや」
猪口の酒を舐めながら、康隆はぼそりとつぶやいた。
「あれほど出るとは思わなんだな」
「もう、ええやないですか」
怒った口調で路子が眉をひそめる。
「護王はどうした」
「……薬で眠らせました」
「ふうん……『姫さん』おらへんのには気づかへんかったんか」
「始めは探してたようですけど」
「ああ。わしんとこにも怒鳴りこんできよった。けど、まあ、他愛ないもんやで、日高のことをちらっと匂わせたら、血相変えて食らいついてきよったしな」
「疲れてるやろう、まあ、お茶でも、言うたらすぐに呑みましたわ」
路子は妖しい笑みを広げた。
「よう効きますなあ、あの日高さんとこの薬。里のものは意識が残るからあかんのやて言うたはったけど、確かにあれのほうがよかったかもしれまへん」
「今はどうしとんねん」
「部屋で寝てますけど……ああ、ほら、あの子が呼んできましたわ」
康隆は酔いの回った目を上げて、家の方を見遣った。そこからどこか危うげな足取りで近づいてくる黒づくめの男を、まだどこか少女っぽさの抜けない娘が支えて歩いてくる。
「あいつにも…食わせる気か」
ぽつんと問うと、路子は微かに笑った。
「この先も、『姫さん』探してもらわんと、あきまへんやろ?」
その淡々とした答えに、康隆は思わずぞっとして体を震わせた。立続けに酒を煽って、路子を振り向かないまま、もう一度声を張り上げる。
「おおい、ここやここや、護王! はよ、こい!」
「里長はん、無茶言わんといて」
娘が嬉しそうに護王に腕を絡ませながらひきずるように連れてくる。
「何か足下がふわふわすんのやて」
「どないしはったん?」
平然と問う路子に康隆はそっと首を竦める。本気かどうかは知らないが、路子も一時護王に魅かれていた気配もある。それを丁寧にはねつけられたとの笑えぬ噂もあって、今回のやり方の酷さはその意趣返しと取れぬこともない、そういう女の恐ろしさをしみじみと思った顔だ。
「なにか……頭が……」
護王はうっとうしそうな顔で額に当てた手をずらせて髪の毛をかきあげた。真っ黒な目がどこか茫洋と濡れていて、妖しいほどの色がある。まだ頼りなげにふらつかせている体も、その危うさを一層目立たせて、路子ならずとも手元において侍らせたい、そんな欲を煽ってくる。
「まあ、ええ、とりあえず、そこに座れ、もうすぐとっておきの品がくる」
「とっておきの品…?」
護王は訝しそうに腕を引かれるままに、少し離れた席に座った。
まるでそれを合図にしたかのように、康隆の家の離れの方から岡持を持った人間が小走りにやってくる。
「おお、きたか、きたか!」
康隆が喜色満面で立ち上がって、護王も釣られたように背後を振り返った。
「ここへ並べぇ、さあさ、みなさん!」
康隆が岡持の中身を取り出していく料理人を促しながら、声を張り上げ立ち上がった。
「今、私が頼んでいたもんが届きました、少しずつではありますが、まれな珍品どっさかい、不老長寿の薬やと思て、どうぞ味おうて下さい!」
◆「ほほう、それはそれは」
「これは何か、肉の佃煮みたいですな?」
「いや、旨そうにこってりと光ってますなあ」
膳に配られたのは小鉢に入って茶色に煮含められた突き出しのようなものだった。刻み生姜が添えられており、何かの照焼きのようにも見える。
それぞれに器を手に取る里人に康隆も箸をつけた。確かにつやつやと色もよく香りも特に問題がないように見えることを確認して、そっと口に運んでみる。
むちっとした触感だった。脂身は薄い。けれども肉そのものが十分な歯ごたえを返し、濃厚な味がある。
周囲を見回すとそれぞれに嬉しそうに小鉢の中身を平らげていて、いや、酒に合いますな、などと喜んでいるものもいる。路子は薄笑いを浮かべて口を動かしており、それにまたぞくりとして康隆は思わず目を逸らせ、護王を見た。
護王は促されて小鉢を手に取った。どこか何か気掛かりなことがあるのに、どうしてもそれがわからないという顔で、しばらく小鉢の中身を覗き込んでいる。
「やあ、おいしいえ、なあ、はよう、護王も食べよし」
なお促されて、護王は箸を手に取り中身の小片を摘まみ上げた。茶色にしまった小さな肉塊。それを薄い唇の間へゆっくりと押し入れる。路子が食い入るように見つめている。康隆も我知らず、箸を止めて見守った。
護王はそれを口に入れた瞬間、奇妙な顔をした。
何かとてもよく知っているものなのに思い出せない、そんな顔。どこか納得できないといった表情で、側の娘を見る。
だが、やがてやっぱりどうにも思い出せない、わからない、というふうに首を振った。諦めたように二度三度、もぐもぐ、と口を動かしたが、気になるのか、また口を止め、眉を寄せる。
「なんか…」
「え?」
「なんか……この感じ……俺……知ってるような…」
口が半分塞がった曖昧な声でつぶやき、また側の娘を見た。それと意識はしていないのだろう、相手の肉汁に濡れた唇が動く様子を不安そうに眺め、なおも口の中のものの感触を確かめる様子で考え込んだままゆっくりと咀嚼を続ける。やがて、ごくんと呑み込んだ、その瞬間。
顔が凍った。
虹彩と瞳孔の区別がつかない真っ黒な瞳がむき出しになるほど目が見開かれた。
「これ……」
「え?」
「この……にく……」
からん、と箸が落ちた。震えながら両手を口元に当てた護王が掠れた声でつぶやく。
「この……におい……『姫さん』……?」
かたかたと肩から始まった小さな震えが、何かを確信したように、がたがたがたっ、といきなり激しくなった。真っ青な顔が表情を失ったまま恐怖に凝っていく。
「う…うあっ……うあああああっ!!」
転がり落ちるように席から地面へ逃げすさると、そこで必死に吐き戻し始めた。
「護王?!」
「な…なんで…なんで…っ…なんで……っっ……」
吐きながら、それでもどうにも止められぬように、全身を大きく震わせ泣き叫び出した護王に里人が何ごとかと訝るように沈黙した。その空間を切り裂くように悲痛な護王の声が響き渡る。
「俺…っ……俺……ひ……姫っ……姫さんをっ……く……食っ…ひっ……わ……あああああああああああああっっっっ!!」
蹲って絶叫した護王、その体からふいにくたり、と力が抜けた。すがりつくように指を地面に突き立てたまま、ぴくりとも動かなくなる。
「護王?」
やがておそるおそるといった様子で、娘が声をかけた。
「ねえ……大丈夫……?」
護王は動かない。
「日高を連れてきましょうか」
場違いなほど冷静な声が響いて康隆は我に返った。路子が揺らぎもしない目で護王を見つめ、くるりと振り返る。
「さすがに…堪えたようですなあ?」
「……そうだな」
康隆は肩の力を抜いた。
まさかここで気づくとは思っていなかったし、これほどまで護王が取り乱すとも思っていなかった。いつも冷徹で傲岸な態度、何を言われても動じる気配もなかったこの年下の男が、気を失ってしまったように身動きできなくなったのを、さすがに少し哀れに感じた。
「日高を…」
路子に命じようとした矢先、
「ひ!」
いきなりかん高い声が漏れて、康隆は弾かれたように振り返った。
いつ起き上がったのだろう。
体を起こした護王が俯いたまま、手の甲で口元を擦っている。そのもう片方の手が側にいた娘の手首をしっかりと握っているのが目に入って、康隆はぎょっとした。
「護王…?」
「……そうか……あれは……『姫さん』と…ちごたんやな」
「何?」
干涸びた声が風の鳴る音に紛れて響いた。
周囲にいた里人は凍り付いたまま動くこともできずに、成りゆきを見守っている。
「あの夜……来たんは……茜やったんか……」
「何のことや」
康隆は本能的に震えだした体から精一杯声を絞り出した。
「俺が……わからへんかったんが……悪いんやな……そやから……こんなことになったんや…」
ふわ、と顔を上げた護王の目が、どう見ても人のものとは思えない、朱紅の二つの珠になって光っていた。端正な顔に微笑が広がる、けれども、その二つの目から滂沱と涙が溢れている。
「あ! ひ…ぎ!!」
ぐい、と引き寄せた娘の首を左手で掴んで体の前に抱え込み、護王は嫣然と笑った。ぼき、と何かの包みの中で固いものが折れるような音が響いて、娘が目を剥き、首を捻られて擦れ落ちる。
「『姫さん』のにおい……『姫さん』……食べて……わかるやなんて…なあ…」
娘の体を護王はうっとうしそうに放り捨てた。笑みだけはまるで至上の喜びに満ちているような晴れやかさ、けれどその頬をとめどなく涙で濡らしながら、護王がのそりと立ち上がる。
「口つけたときに…わかったはずや……あの夜の女と違うて……わかったはずや」
切なそうに眉をひそめてうっとりと護王は笑った。
「そら…綾……嫌がるわなあ……俺に抱かれるの……それでも…側におってくれたんや……居なくなるはず…ないやないか…」
ゆら、ゆら、と不安定に足を運びながら、護王は虚ろな声でしゃべり続けた。
「居なくなったんと……ちごた……こんなとこに……おった……こんな目に…あわされて……俺も……何にも気づかへんで…」
また吐き気が込み上げたのだろう、立ち止まり、苦しげに体を曲げて胃の中身を吐き捨てた。
「俺……あんたを…あんたを……は、はは」
乾いて冷ややかな笑い声を立てながら体を起こす。
「俺まであんたを……」
ぼろぼろっと紅の目が血の涙を吹きこぼれさせ、微笑んだ護王の唇を濡らした。
「食べたんやなあ……?…」
血まみれの腕で横殴りに口元の汚れと涙を拭い取る。まだらに朱に染まった顔に笑みだけが消えない。
「……こんなことに……なる前に……わかってたはずやねん……そや…もっとはように…」
笑みがなお広がった。今にも口を引き裂いて巨大な牙が覗きそうな殺気に満ちた笑み、凄まじいほど美しい、けれど、それは命が途絶える瞬間の陶酔感を引き起こすためであるような、破滅の笑み。
「お前らを生かしといたらあかんて……わかってた……はずや…」
「う、わああ……っぎゃ……あああ!」
ふ、と護王の姿が動いた。逃げ出しかけていた一人の男を追い掛け、まるで人形のように背後から頭を掴んで相手を引きずり倒す。その途中で男の首は逆に曲がり、悲鳴とともに口から鮮血を吐き出した。
「逃げなや……」
護王はうっとうしそうに宴の席に背中を向けたままつぶやいた。
恐怖に静まり返った野に滲んだ声が染み通る。
朧に霞んでいた月が、上空に風が動いて雲が晴れたのか、桜の枝の彼方から煌々とした光を投げてきた。
春の月にしては清冽な、きんきんと痛いほど鮮やかな月だった。
その月を何かを思い出すようにしばらく見上げていた護王が、朱に染まった体をふらりと振り向かせた。
乱れた髪にも頬にも血が飛び散っている。瞳が赤々と光を放っている。血の涙がまた一筋二筋頬に伝う。死体を引きずって一歩ずつ宴の席に戻ってくる姿は一匹の修羅、思い出したように風に吹き乱されて散る桜吹雪の中、鮮血に染まる舞台のために闇の花道を辿ってくる。
「逃げるぐらいやったら……殺してみぃ……それまで…」
くく、と漏れた笑い声は地の底を這うほど昏い。
「一人ずつ嬲り殺したる……」
振った手が男の首をもぎ取った。放り投げられた首が篝火に紅の虹を描き、それを合図に護王が走り出す。
血の祝宴が、始まった。
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