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21.OPERA PHANTOM
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『グランドファーム』の一室はいつものように静まり返っていた。
繭のような半透明のカプセルの前で少しためらう。
まだ決心がついていない。シーンは『俺』を必要としてくれている。そう思いながら、まだ、迷っている。
『スー……プっ……』
シーンが意識を失う寸前に呼んだ声を思い出す。甘い声。上ずって、掠れて、悲鳴の際に吐き出された吐息の声。
次はない、そう思ったから、含んですぐに回収し、『グランドファーム』に持ち帰った。幸いにDNAは安定したもので検査は合格、俺の任務は終了し、今日、ジェシカB.P.は外される。
ジェシカB.P.を失った俺は、急速に彼女との相似を失っていくだろう。それを本当にシーンは受け入れてくれるだろうか。俺と今までと同じように暮してくれるだろうか。もう一度、ベッドで温かな身体を抱き締めさせてくれるだろうか。
ただの『ドラゴン』と化した俺でも……愛してくれるだろうか。
別れ際に合わせた唇がもう一度欲しかった。今すぐに欲しかった。
けれど、どれだけもらっても、奪っても、重ねても、きっとまた思うのだ、これが最後だ、もう一度だけ、と。
首を振った。やめよう。こんなことをしていては、それこそシーンをまた傷つける。
衣服を脱ぎすててカプセルの中に横たわる。銀色のコードの代わりに、鈍い赤茶色の錆びたようなステイックを手に取る。髪をかきあげ、ポイントを探り、そっと押し込んでいく。
「う、ぐっ」
吐き気がする。銀色のコードより一層深く入り込むこのスティックの長さは、喉の奥のB.P.に達する。それは首を後ろから貫かれることを意味する。
シーンに渡したスティックはこれよりなお長い。B.P.を貫き、砕き、痛覚機能を操作できるシステムを切断することができる。俺がシーンにあれを突き刺されることはあるんだろうか。
「んぐっ、ぐ、ぅ」
込み上げる痛みと吐き気を歯を食いしばって堪えた。スティックが先端を開く。B.P.を掴み、ゆっくり引きずり出していく。見えないラインが引きちぎられていく感触が、より吐き気を強める。
「う、う、うっ」
意識が途切れかけてカプセルの中でもがく。赤茶色のスティックがずるずる抜けていって、やがて引っ張り出した設置部分に戻り、その奥に吸い込まれて消える。
「ぁ、あ、はっ……」
しばらくは残った吐き気と脱力感にひたすら空気を貪った。
『おかえりなさい、SUP/20032』
柔らかな声が響いた。
「終わりました」
『確認しました』
「『トータル・チェック』に入ります」
『わかりました』
どんな記憶も削らせるな、とシーンは言った。全て受け止めてやるから、と。その優しさに胸が疼く。一瞬このまま逃げてしまおうかと思う。
だが、それでなくても、俺の容量はもういっぱいいっぱいになっている。
B.P.の強制分離は普通行なわない。著しくシステムを損傷するからだ。しかし貴重なB.P.を壊れるDOLLに残すほど『グランドファーム』は甘くない。
それに俺も、いつかシーンがもう一度ジェシカB.P.に出逢うことができればいい、と思ったのだ。そうすれば、たとえ俺がいなくなってしまった世界でも、少しはシーンが寂しくないかもしれない。
「ん、ぐっあっ」
銀色のコードを差し込むのに、思わず声を上げてしまった。焼けただれた傷に無理に次の鉄ごてを押し当てられる、そんな衝撃に視界が眩む。全身に吹き出した汗に融けそうだ。
必死に最後まで押し込んで、それだけでもう動けないほど疲れていた。
『大丈夫ですか』
「大丈夫です」
『問題になる箇所がありますか?』
「シーンと……」
覚悟していたはずなのに、喉が詰まって泣きそうになった。
「シーンと、暮した、記憶を削って下さい」
『全てですか?』
「はい、全て」
『どうしてですか?』
「任務を完了できません」
『新しく出逢いますか?』
「もう、逢いません」
『なぜですか?』
「つらい、から」
唇を噛んで、零れ落ちてきた涙に目を右腕で覆った。
「俺は、つらいです」
『何がですか』
「俺はジェシカじゃない」
『ええ』
「俺はオリーブ・ドラゴンです」
『はい』
「彼が、俺に失望するところを、見たくない」
目玉焼きが好きだと言ってくれた。次も抱かせてくれると言った。この先も一緒に暮してくれると言った。
だが、それは何をもたらすのか。何を生み出すのか。
俺はROBOTでしかない。俺のDNAは存在しない。俺は何も残さない。
側にいたい、ずっと側にいたい。だが、俺の存在は幻だ。痛覚があって、涙があって、人間と愛し合えても、それらは模倣にしか過ぎない、虚構でしかない。
俺はシーンと一緒に歳を取り、同じ時間を暮らせない。
『SUP/20032』
「はい」
『あなたがつらいのは、シーンを失うからですか』
「はい」
『シーンもやがて死亡し、B.P.となって回収されます。その後に出逢いますか?』
「いいえ」
『どうして』
「それはきっと」
シーンじゃない。シーンの特徴を備え、シーンの面影を備え、シーンの過去を備えた幻影なのだ。
そして、シーンの記憶を備えた俺は、きっとそのシーンに満足できない。
ジェシカB.P.を備えたDOLLを追っていくうちにわかった。
それらは全てコピーにしか過ぎない。それはジェシカという女性の断片にしか過ぎない。
人間は、数多くの断片からできている。しかし、その断片はその存在を示さない。またその断片全てを合わせたものでもない。それは断片全ての関係性を含む存在であり、しかもそれは二度と還らぬ、流れて留まらない時間の要素を呑み込むものなのだ。
「俺は、わかってしまった」
『何を』
「人類は滅びます」
『……』
「俺達は人を失うまいとシステムを構築し、動かしてきた。人間の存在をDNA基盤の生体情報として俺達の中に残すことで、人の存在を残せると考えてきた。だが、それは」
人、ではないのだ。
両手で顔を覆って俺は激しく泣いた。
失う。失う。俺達は人を失ってしまう。人のために造られ、人のために機能し、人のために存在してきたのに、その『人』は今この世界から消えていこうとしている。
「俺達のしたことは、無駄だった」
『……』
「むしろ、人に不自然な欲望を与えてしまった、パターソンのように」
『優良思想ですね?』
「優れたDNA情報だけを残すことで人類が生き残れる、だなんて」
『大丈夫です』
「え?」
『パターソンはこちらの処分を受けます』
俺は瞬きして、顔を拭った。
「なぜ? 人間社会に干渉はしないはずでは?」
『その人間社会が彼をこちらへ突き出すことになりますから』
「突き出す?」
『B.P.の違法管理によって』
「しかし、そんな証拠をどうやって……」
ふいに、体中の疑似体液が抜かれた気がした。ごそっとからっぽになった身体の中に満ちてきたのは、フラッシュバックを起こしそうな恐怖だ。
「シーンを囮にする気ですね?」
『囮ではありません』
「同じことでしょう」
『昔もそういう人間の存在はありました』
「え?」
『真の危険を知らせるために屠られる存在です』
「!」
『神の生け贄、と呼ばれたようですが』
「くっ!」
俺は跳ね起きた。
『どうするのですか』
「止めます」
『あなたが』
「俺が」
『グランドファームに逆らうのですか』
「俺は、壊れてる」
『システムエラーは見られませんが』
「シーンがいない世界の存続に意味はありません」
『論理的ではない』
「ならば、破壊を」
銀色のコードを握り締めて叫ぶ。
「今、ここで俺を破壊しろっ」
『SUP/20032』
柔らかな声がなだめるように呼び掛けてきた。
「俺はスープです」
『……』
「破壊しないなら、俺が世界を破壊しにいきます、シーンを生かせない世界を。彼が」
喉が締め付けられて苦しかった。けれど、それはコードによるものではない。胸からせりあがった愛しい気持ちと瓜二つの苦しさだ。
「彼が、生きてくれることが俺の望みです」
『人類は滅ぶのでしょう?』
「その終わりの瞬間まで、俺は彼の側に居ます」
『耐久年数がもちません』
「別の身体で、何度でも」
『シーンはあなたを認識しないでしょう』
「っ」
夢が甦った。幼い少女の姿の俺の側を、シーンは気づかず通り過ぎる。優しくて残酷な夢、それでも。
「オレンジを」
『……』
「オレンジを供えてくれる、から」
俺は彼がこの世界を去るまでずっと側に居る。そうだ、あのオレンジの種が土中に埋まり、芽を吹き、樹に育ち、葉を茂らせ、また新しい実をならせるまで、俺はシーンの側に居る。
そして、シーンが逝くときに約束するのだ、あなたのお墓にずっと花を供えよう、と。あなたが居た記憶を、B.P.ではなく、その全てを一つのものとして認識しておく存在として。
「ああ」
俺は突然理解した。
シーンがジェシカの墓にこだわったのは、そこにシーンの中のジェシカを呼び起こすスイッチがあるからだ。ばらばらになって散らばったB.P.だけでは再現できない、鮮やかで愛おしい記憶を甦らせるからだ。その記憶を思い出す時、シーンは決して独りではない。失った人の記憶が全てそこにあって、シーンを包むからだ。
そして、俺の墓にシーンが向かうとき、そこにオレンジを置いてくれるとき、俺もまた『スープ』として甦る。
DOLLの身体ではなく、ROBOTの機能ではなく、シーンと関わり生きていた、スープという一人の存在としてシーンの中に甦る。
俺は、一人の人間として、シーンの中に、生きていく。
涙が、零れた。
銀色のコードをさし直し、カプセルの中に横たわる。
『どうしたのですか?』
「シーンの記憶を削って下さい」
『……』
「任務を完全に果たせるように。シーンを守りきれるように。どんなためらいも感じないように。ただ、守るべき人としてだけ、情報を入れて下さい」
『それでは任務が終了すれば、あなたはシーンを忘れますよ』
「かまいません。俺は……スープとして、彼の中に生きている」
『そして、彼の死とともに「スープ」は失われます』
「……それって」
『はい』
「永遠に一緒ってことですよね?」
『……記憶処理を開始します』
目を閉じた。自分が微かに笑っている気がした。
『グランドファーム』を出て署に戻っていく途中で、行く手を大柄の見覚えがないROBOTに遮られた。警官の服装はしているがこの署ではない。情報検索でパターソンの管理下と認識する。
「どいてくれませんか?」
俺は急いでいる。だが、二人は廊下をいっぱいに塞いだまま、まっすぐに向かってくる。右からの拳、左からの蹴り。両方をそれぞれに跳ねて最小限の動きで避け間をすり抜けようとしたが掴まった。身体を捻るように左右に引かれる。痛覚機能が限界を示し、俺は手早く回路を切った。瞬時止まった動きに、両方のROBOTが薄笑いした。
その瞬間に右側の腕を離脱する。驚いた顔で俺の右腕を持ったまま仰け反った相手を蹴る。抑えが抜けてよろめいた左のROBOTに思いきり接近して腕を緩め、抜き去って首のポイントを突く。
がくんと落ちた身体を飛び越え、廊下を走り出し、必要な距離を確保したところでスイッチを入れた。背後で火球が膨れ上がる。右腕に準備されていた爆薬はROBOT数体を灰にする威力がある。同様の火器は四肢に仕込まれている。
パターソンは『ドラゴン』の由来を知らなかったらしい。震動と爆発音に飛び出してきた署員の中を駆け抜ける。
シーンはルシアと巡回に出たまま戻っていない。俺は署を飛び出した。
スープ逃亡の知らせを聞いてから、ルシアは明らかに落ち着かなくなった。さっきまで余裕たっぷりに俺の推理をからかっていたのが一転、次第に青ざめてくる顔に視線を彷徨わせている。
「どうした、えらく慌ててるな」
「慌てもするでしょう、『グランドファーム』から逃亡するなんて、暴走したに違いないわ」
「やつが暴走するとまずいのか」
「それは」
きつく唇を噛んで、身を翻す。
「おい、待てよ」
「何よ」
「認めるのか」
「え?」
腕を引き止めた俺を顔をしかめて見返す。
「ナタシアの破損を認めるのか?」
「証拠はない」
「なら、スープが来るまでここで待つか」
「冗談……っ」
びくっ、とルシアが身体を震わせた。ねじった首の後ろに青い目を動かそうとする。
「あ、なた」
「悪いが、スープに教えられてポイントを知ってるんだ」
「く、そっ!」
舌打ちをしてルシアが腰を落として座り込む。顔が白くなり、汗を流し始めている。その首に突き立てたボールペンをそのままに、俺はルシアを部屋の壁にもたれさせた。
「なぜ、スープは『グランドファーム』から逃亡した?」
「し、らない」
「なぜ、ここから離れようとする?」
「……」
「『グランドファーム』から逃げたスープが、まっすぐここへ来るってことを、お前はわかってるからじゃないか?」
じっと俺を見上げていたルシアの瞳が、ふいに濡れたように光った。
「キャル」
「!」
「つれないじゃないか、キャル」
「レッド……」
喉が一瞬にして乾くのがわかった。ルシアの顔で、ルシアの仕草で、けれど口調はレッドそのままに、くく、とルシアは笑った。
「こんなにお前のこと愛してて、こんなになっても追い掛けてきたのに?」
「愛?」
「そうさ、愛だとも」
「愛、にしてはえらく半端じゃねえか」
「何?」
俺はルシアを冷ややかに見下ろした。ルシアの金髪青い目の向こうに、十年前に相棒だった男の顔を必死に思い浮かべる。
「そうじゃねえか、お前が追い掛けてきたのは、俺じゃねえ」
「どういうことだ?」
「十年前は俺の留守にジェシカを襲った。今度は、ジェシカB.P.を仕込まれたDOLL殺しだ」
「それがどうした」
「今ルシアにも聞いたとこだったんだがな、お前はどうして俺に仕掛けてこねえんだ」
「!」
とんでもなく痛いところをまともに突かれたという顔でルシアは黙った。
「生きてる間に俺が欲しいって一回だって言ったか? 俺と寝たいって一回でも誘ったかよ」
ルシアは険しい顔で俺を見返したままだ。
「いつだって、てめえの気持ちなんか吐き出しもしねえで、こそこそ立ち回りやがって」
「欲しいって言えば、くれたのかよ」
うなるようにルシアが高い声でぐれたことばを吐いた。
「お前はジェシカ一筋だった。どっからどう見てもヘテロで、俺らに応じる素振りはなかった。俺と一緒に暮したときでさえ、俺を避けてたくせに」
「いつ避けたよ」
「……シャワーだよ」
「は?」
一瞬毒気を抜かれてぽかんとした。
「シャワー。一回誘ったろ、一緒に入るかって」
「あ?」
「覚えてねえのかよ」
「?」
「てめえ、ひきつった顔で後で入る、って断った。あんときは別に俺はお前を抱こうなんて思ってなかったんだぞ」
俺はなお首を傾げた。覚えがない。でも、ひょっとしたら、自分がレッドの性的対象になりつつあると不安になっていた時だったかもしれない。
「俺を汚いもんでも見るみたいに見やがって……スワンソンには優しかったくせに」
「あん?」
「スワンソンだよ、スワンソン・ダイブ! あいつのことも忘れたのかよ!」
悔しげにルシアがうなって、俺はようやく思い出した。
潜入捜査の一年前、スワンソン・ダイブというゲイが暴行されて死にかけた。他の連中が何だかんだと理由をつけて事情聴取を避けた結果、俺にお鉢が回ってきた。
延々数時間にわたって、どんなふうにヤられたか、どれほど辛かったという股間が竦むような話を聞かされた。あげくに慰めてくれないかと迫られて散々な目にあったが、それでも、実はそれがそのあたりで連続して起こっていた女性の暴行事件とそっくりだということがわかって、犯人がバイセクシャルだと絞り込まれ、一気に解決に結びついた。
そのときの功績が評価されて、俺は刑事になったのだ。
「他のやつらがゲイと同席するのも真っ平だって嫌がったのに、お前だけは被害者だろ、と言った。男漁りをするからだって笑ったやつに、何も知らないうちから勝手な推測をするなって怒鳴った」
「あ、ああ」
そう言えば、そういうことを言ったような気もする。
「お前だけがスワンソンに優しかった。ヘテロにもこんなやつがいるんだって、俺は嬉しかった」
「待て」
「だから、それからお前が俺と組むって聞いて」
「ちょっと待てって」
「俺は運命だと感じた」
「待てって言ってるだろうが!」
自己完結していく相手に喚く。
「それだけなのか?」
「え?」
「てめえが俺に惚れたってのは、それだけのことなのか?」
「それだけって、それだけのことだろうが、好きになってくってのは!」
怒鳴り返されて茫然とする。
その、わずかな隙をつかれた。
「ぐ!」
まさか、動けるとは思わなかった。のろのろ壁にもたれたルシアは、首を捻るふりをしながらボールペンを緩めていたのだ。
足払いをかけられてひっくり返り、したたか腰を打ちつけた俺を、続いて閃いたルシアの脚が股間めがけて蹴り込んでくる。咄嗟に避けたものの、腹を蹴りつけられ、床に転がった。背後にナタシアの身体、そこに阻まれて転がって逃げることもできない。胃の中身を吐きそうになりながら咳き込んでいると、前髪をつかみあげられた。
「あ、ぐっ」
「あいかわらず、そそる顔するぜ、てめえはよ?」
「っぐ!」
もう一度深く蹴られた。
「俺がお前の一番好きな顔知ってるか?」
「…」
「悔しそうに歪む顔だよ、今みたいにな。無力さを味わいながら耐えてる顔だ」
「がっ」
両手を上げかけた矢先に、首を細い指で掴まれた。女性の小さな手だけに、首を掴むというよりは頸動脈と食道を握られて声も潰される。
「落とすぜ」
ルシアは冷ややかに笑った。
「落としてから、とことんしゃぶらせてもらう……俺を馬鹿にしやがったおとしまえをつける……お前からもっとヤってくれって頼むように仕込んでやる」
「っ、っ」
「パターソンは殺せって言ったが、なあに、最終的に死んでればいいんだよな、そういうこっ……!」
「、がっふっ、ふ、っげっ」。
ふいに喉から圧迫が消えた。ことばも半端に途切れて、床に落とされた。咳き込みむせ返る俺の上で、静かな声が話しかけてくる。
「大丈夫ですか、シーン」
「ふ、ぅっ」
「ポイントを突き刺したからといって手加減しないことです。DOLLはタフですから」
ようよう呼吸を整えて顔を上げ、俺はことばを失った。
そこに居たのは、何、だろう。
目の前に背中を向けて細い姿が立っている。見覚えのある肩の線、けれどその柔らかそうな茶色の髪がべったり濡れている。髪だけではない、スーツに包まれた腕も胸も脚も全て、まだらの赤に染まっている。
そして、その赤に今ばたばたと音をたてて跳ね散っているのは、左手一本で吊るし上げたルシアの身体から吹き零れている白銀の疑似体液だ。いや、吊るし上げているんじゃない、左手をまっすぐにルシアの背中から腹へと突き込んだまま、まるで狩りの獲物を見せつけるように壁に向かって差し上げている。
もう機能停止してしまっているのだろう、 がくりと仰け反ったルシアの顔が人形に戻っていた。
「スー、プ?」
「はい」
「お前……何をしてる……? 第一……どうしたんだ、その血は」
どさりとスープはゴミを捨てるようにルシアの身体を床に放り捨てた。指先にぬらりとコードが絡む。それを軽く手を振って落とし、指の濡れた汚れを弾いた。花の露を落とすような優雅で品のいい仕草だ。その仕草に似合いの柔らかな声が淡々と答える。
「近くの路地でジットが死んでいました」
「ジットが?」
「確認しましたが、死後数時間経過しています」
「一体誰が」
「不明です。流血があり、汚れました」
静かで穏やかな横顔は目の前で自分の知っている一体のDOLLを屠ったことを忘れているようだ。
「じゃ、どうしてここに……」
「任務を」
「任務?」
「異分子の処理」
目を上げたスープが俺を振り向いた。
「ルシアは違法B.P.が埋め込まれており、今後被害を拡大させる恐れがあります」
「待て……ルシアは、いや、署長もお前にレッドのB.P.が仕込まれてるって言ってたぞ?」
「信じるんですか、シーン」
透明な緑の目。何の感情もない、醒めて冷ややかな視線。
「さっき、ルシアが言ったことを聞かなかったんですか? パターソンはあなたを殺せと言った、そう口にしたようですが?」
声はひやりと辺りの温度を下げた。
俺は唾を呑み込んだ。今さらのようにスープから広がってくる血の匂いに、胸苦しくなってくる。
「ルシアはお前が『グランドファーム』から逃亡したって」
「誤った情報です」
「だって」
「むしろ、俺は『グランドファーム』の指示で彼らを狩っている」
「狩ってる? 彼ら?」
「ドラゴンは宝物を守るために火を吐くものです」
うっすらと微かな笑みが広がった。
「パターソンはこの20年間、違法B.P.の旨味を吸い続けた。もう十分でしょう」
ゆっくりと身体を振り返らせる、その姿は血と疑似体液に塗れてどろどろの薄紅に染まっていて、さながら地獄から戻ってきた殺戮者のようにしか見えない。しかも。
「スープ」
俺は干涸びた声を押し出した。
「右手……どうしたんだ」
スープの右腕は、上腕からすっぱりなかった。引き裂かれたようなスーツの袖の切れ端が揺れている。あるはずの中身を包み損ねた虚ろな動きが俺の不安を煽る。
「ああ、離脱しました」
「え?」
「『グランドファーム』を出てくるときにパターソンの配下に阻まれましたから」
スープはこともなげに説明した。
「俺の新しい四肢には爆薬が仕込まれていて」
「な、に?」
病室でのやりとりが甦る。外してミサイルに。
「冗談じゃなかった、のか……?」
「必要に応じて切り離し爆破できますから、それで処理してきました」
「スープ……」
「まだ後3本ありますから、任務遂行には十分な能力があると考えられます」
「そんな」
視界が揺れた。
俺はスープがどれほど手足を失ったことに恐怖を覚えていたのか知っている。ROBOTのくせにフラッシュバックを起こして身動きできなくなるほど怯えていたのだ。
なのに、こいつは今平然と自分の身体を武器に使った、と言う。実際、もし必要があれば、この場でルシアを爆破したはずだ。まるで、そんなことなどなかったように。
いや、本当に『なかった』ことになっているのだろう。そんな恐怖は、そんな記憶は、四肢を兵器に変えながら闘う竜には必要がないから切り捨ててきたのだ。
これ以上、記憶を処理したら壊れるしかない。そう言われていたのに。記憶だけではなく、関わる気持ちごと削り取るから、笑うことさえ忘れてしまったのを、ようやく少し取り戻したのに。
静かで穏やかな表情、怯えのない冷静な声、この先失う自分の身体に微塵の配慮さえない。
ここへ来るために、こいつは一体どこまで自分を削り落としてきてしまったのか。
「くそっ……っ!」
苦くて熱いものが吹き上がってくる。近くの床を殴りつけようとした矢先、濃厚な血の匂いが迫ってぎょっとした。滑り込むように跪いたスープが俺のこぶしを受け止めている。
「悪い癖です、シーン」
「なに?」
「あなたはむかつくと固いものをすぐ殴る」
「あ?」
「え?」
ふわりと懐かしい無邪気な笑みで見上げられて、俺は固まった。同時にスープも動きを止めて、目を見張る。
「俺、どうして」
「スープ」
「おかしい、です、そんな記憶はあるはずがない」
「スープ!」
混乱した顔でやつは怯えたように身体を引いた。
「俺は、あなたの記憶を全部削ったはずだ」
「何?」
「なのに、なんで、俺は……俺は……」
戸惑った顔で俺を凝視する。
「あなたが泣くのがつらいんだろう……?」
言われて初めて、俺は自分がぼろぼろ泣いているのに気づいた。
「お、れ、いき、ます!」
ふいにスープは立ち上がった。立とうとしてすぐに立てない俺を心配そうに見下ろす。
「ここにいてください、すぐに迎えを呼びますから」
「行くな」
「パターソンのことも全てけりをつけてきます」
「スープ……っ!」
身を翻して姿を消す直前、血まみれの片翼の竜は肩越しに小さく吐いた。
「俺の宝物は、あなたです、シーン」
繭のような半透明のカプセルの前で少しためらう。
まだ決心がついていない。シーンは『俺』を必要としてくれている。そう思いながら、まだ、迷っている。
『スー……プっ……』
シーンが意識を失う寸前に呼んだ声を思い出す。甘い声。上ずって、掠れて、悲鳴の際に吐き出された吐息の声。
次はない、そう思ったから、含んですぐに回収し、『グランドファーム』に持ち帰った。幸いにDNAは安定したもので検査は合格、俺の任務は終了し、今日、ジェシカB.P.は外される。
ジェシカB.P.を失った俺は、急速に彼女との相似を失っていくだろう。それを本当にシーンは受け入れてくれるだろうか。俺と今までと同じように暮してくれるだろうか。もう一度、ベッドで温かな身体を抱き締めさせてくれるだろうか。
ただの『ドラゴン』と化した俺でも……愛してくれるだろうか。
別れ際に合わせた唇がもう一度欲しかった。今すぐに欲しかった。
けれど、どれだけもらっても、奪っても、重ねても、きっとまた思うのだ、これが最後だ、もう一度だけ、と。
首を振った。やめよう。こんなことをしていては、それこそシーンをまた傷つける。
衣服を脱ぎすててカプセルの中に横たわる。銀色のコードの代わりに、鈍い赤茶色の錆びたようなステイックを手に取る。髪をかきあげ、ポイントを探り、そっと押し込んでいく。
「う、ぐっ」
吐き気がする。銀色のコードより一層深く入り込むこのスティックの長さは、喉の奥のB.P.に達する。それは首を後ろから貫かれることを意味する。
シーンに渡したスティックはこれよりなお長い。B.P.を貫き、砕き、痛覚機能を操作できるシステムを切断することができる。俺がシーンにあれを突き刺されることはあるんだろうか。
「んぐっ、ぐ、ぅ」
込み上げる痛みと吐き気を歯を食いしばって堪えた。スティックが先端を開く。B.P.を掴み、ゆっくり引きずり出していく。見えないラインが引きちぎられていく感触が、より吐き気を強める。
「う、う、うっ」
意識が途切れかけてカプセルの中でもがく。赤茶色のスティックがずるずる抜けていって、やがて引っ張り出した設置部分に戻り、その奥に吸い込まれて消える。
「ぁ、あ、はっ……」
しばらくは残った吐き気と脱力感にひたすら空気を貪った。
『おかえりなさい、SUP/20032』
柔らかな声が響いた。
「終わりました」
『確認しました』
「『トータル・チェック』に入ります」
『わかりました』
どんな記憶も削らせるな、とシーンは言った。全て受け止めてやるから、と。その優しさに胸が疼く。一瞬このまま逃げてしまおうかと思う。
だが、それでなくても、俺の容量はもういっぱいいっぱいになっている。
B.P.の強制分離は普通行なわない。著しくシステムを損傷するからだ。しかし貴重なB.P.を壊れるDOLLに残すほど『グランドファーム』は甘くない。
それに俺も、いつかシーンがもう一度ジェシカB.P.に出逢うことができればいい、と思ったのだ。そうすれば、たとえ俺がいなくなってしまった世界でも、少しはシーンが寂しくないかもしれない。
「ん、ぐっあっ」
銀色のコードを差し込むのに、思わず声を上げてしまった。焼けただれた傷に無理に次の鉄ごてを押し当てられる、そんな衝撃に視界が眩む。全身に吹き出した汗に融けそうだ。
必死に最後まで押し込んで、それだけでもう動けないほど疲れていた。
『大丈夫ですか』
「大丈夫です」
『問題になる箇所がありますか?』
「シーンと……」
覚悟していたはずなのに、喉が詰まって泣きそうになった。
「シーンと、暮した、記憶を削って下さい」
『全てですか?』
「はい、全て」
『どうしてですか?』
「任務を完了できません」
『新しく出逢いますか?』
「もう、逢いません」
『なぜですか?』
「つらい、から」
唇を噛んで、零れ落ちてきた涙に目を右腕で覆った。
「俺は、つらいです」
『何がですか』
「俺はジェシカじゃない」
『ええ』
「俺はオリーブ・ドラゴンです」
『はい』
「彼が、俺に失望するところを、見たくない」
目玉焼きが好きだと言ってくれた。次も抱かせてくれると言った。この先も一緒に暮してくれると言った。
だが、それは何をもたらすのか。何を生み出すのか。
俺はROBOTでしかない。俺のDNAは存在しない。俺は何も残さない。
側にいたい、ずっと側にいたい。だが、俺の存在は幻だ。痛覚があって、涙があって、人間と愛し合えても、それらは模倣にしか過ぎない、虚構でしかない。
俺はシーンと一緒に歳を取り、同じ時間を暮らせない。
『SUP/20032』
「はい」
『あなたがつらいのは、シーンを失うからですか』
「はい」
『シーンもやがて死亡し、B.P.となって回収されます。その後に出逢いますか?』
「いいえ」
『どうして』
「それはきっと」
シーンじゃない。シーンの特徴を備え、シーンの面影を備え、シーンの過去を備えた幻影なのだ。
そして、シーンの記憶を備えた俺は、きっとそのシーンに満足できない。
ジェシカB.P.を備えたDOLLを追っていくうちにわかった。
それらは全てコピーにしか過ぎない。それはジェシカという女性の断片にしか過ぎない。
人間は、数多くの断片からできている。しかし、その断片はその存在を示さない。またその断片全てを合わせたものでもない。それは断片全ての関係性を含む存在であり、しかもそれは二度と還らぬ、流れて留まらない時間の要素を呑み込むものなのだ。
「俺は、わかってしまった」
『何を』
「人類は滅びます」
『……』
「俺達は人を失うまいとシステムを構築し、動かしてきた。人間の存在をDNA基盤の生体情報として俺達の中に残すことで、人の存在を残せると考えてきた。だが、それは」
人、ではないのだ。
両手で顔を覆って俺は激しく泣いた。
失う。失う。俺達は人を失ってしまう。人のために造られ、人のために機能し、人のために存在してきたのに、その『人』は今この世界から消えていこうとしている。
「俺達のしたことは、無駄だった」
『……』
「むしろ、人に不自然な欲望を与えてしまった、パターソンのように」
『優良思想ですね?』
「優れたDNA情報だけを残すことで人類が生き残れる、だなんて」
『大丈夫です』
「え?」
『パターソンはこちらの処分を受けます』
俺は瞬きして、顔を拭った。
「なぜ? 人間社会に干渉はしないはずでは?」
『その人間社会が彼をこちらへ突き出すことになりますから』
「突き出す?」
『B.P.の違法管理によって』
「しかし、そんな証拠をどうやって……」
ふいに、体中の疑似体液が抜かれた気がした。ごそっとからっぽになった身体の中に満ちてきたのは、フラッシュバックを起こしそうな恐怖だ。
「シーンを囮にする気ですね?」
『囮ではありません』
「同じことでしょう」
『昔もそういう人間の存在はありました』
「え?」
『真の危険を知らせるために屠られる存在です』
「!」
『神の生け贄、と呼ばれたようですが』
「くっ!」
俺は跳ね起きた。
『どうするのですか』
「止めます」
『あなたが』
「俺が」
『グランドファームに逆らうのですか』
「俺は、壊れてる」
『システムエラーは見られませんが』
「シーンがいない世界の存続に意味はありません」
『論理的ではない』
「ならば、破壊を」
銀色のコードを握り締めて叫ぶ。
「今、ここで俺を破壊しろっ」
『SUP/20032』
柔らかな声がなだめるように呼び掛けてきた。
「俺はスープです」
『……』
「破壊しないなら、俺が世界を破壊しにいきます、シーンを生かせない世界を。彼が」
喉が締め付けられて苦しかった。けれど、それはコードによるものではない。胸からせりあがった愛しい気持ちと瓜二つの苦しさだ。
「彼が、生きてくれることが俺の望みです」
『人類は滅ぶのでしょう?』
「その終わりの瞬間まで、俺は彼の側に居ます」
『耐久年数がもちません』
「別の身体で、何度でも」
『シーンはあなたを認識しないでしょう』
「っ」
夢が甦った。幼い少女の姿の俺の側を、シーンは気づかず通り過ぎる。優しくて残酷な夢、それでも。
「オレンジを」
『……』
「オレンジを供えてくれる、から」
俺は彼がこの世界を去るまでずっと側に居る。そうだ、あのオレンジの種が土中に埋まり、芽を吹き、樹に育ち、葉を茂らせ、また新しい実をならせるまで、俺はシーンの側に居る。
そして、シーンが逝くときに約束するのだ、あなたのお墓にずっと花を供えよう、と。あなたが居た記憶を、B.P.ではなく、その全てを一つのものとして認識しておく存在として。
「ああ」
俺は突然理解した。
シーンがジェシカの墓にこだわったのは、そこにシーンの中のジェシカを呼び起こすスイッチがあるからだ。ばらばらになって散らばったB.P.だけでは再現できない、鮮やかで愛おしい記憶を甦らせるからだ。その記憶を思い出す時、シーンは決して独りではない。失った人の記憶が全てそこにあって、シーンを包むからだ。
そして、俺の墓にシーンが向かうとき、そこにオレンジを置いてくれるとき、俺もまた『スープ』として甦る。
DOLLの身体ではなく、ROBOTの機能ではなく、シーンと関わり生きていた、スープという一人の存在としてシーンの中に甦る。
俺は、一人の人間として、シーンの中に、生きていく。
涙が、零れた。
銀色のコードをさし直し、カプセルの中に横たわる。
『どうしたのですか?』
「シーンの記憶を削って下さい」
『……』
「任務を完全に果たせるように。シーンを守りきれるように。どんなためらいも感じないように。ただ、守るべき人としてだけ、情報を入れて下さい」
『それでは任務が終了すれば、あなたはシーンを忘れますよ』
「かまいません。俺は……スープとして、彼の中に生きている」
『そして、彼の死とともに「スープ」は失われます』
「……それって」
『はい』
「永遠に一緒ってことですよね?」
『……記憶処理を開始します』
目を閉じた。自分が微かに笑っている気がした。
『グランドファーム』を出て署に戻っていく途中で、行く手を大柄の見覚えがないROBOTに遮られた。警官の服装はしているがこの署ではない。情報検索でパターソンの管理下と認識する。
「どいてくれませんか?」
俺は急いでいる。だが、二人は廊下をいっぱいに塞いだまま、まっすぐに向かってくる。右からの拳、左からの蹴り。両方をそれぞれに跳ねて最小限の動きで避け間をすり抜けようとしたが掴まった。身体を捻るように左右に引かれる。痛覚機能が限界を示し、俺は手早く回路を切った。瞬時止まった動きに、両方のROBOTが薄笑いした。
その瞬間に右側の腕を離脱する。驚いた顔で俺の右腕を持ったまま仰け反った相手を蹴る。抑えが抜けてよろめいた左のROBOTに思いきり接近して腕を緩め、抜き去って首のポイントを突く。
がくんと落ちた身体を飛び越え、廊下を走り出し、必要な距離を確保したところでスイッチを入れた。背後で火球が膨れ上がる。右腕に準備されていた爆薬はROBOT数体を灰にする威力がある。同様の火器は四肢に仕込まれている。
パターソンは『ドラゴン』の由来を知らなかったらしい。震動と爆発音に飛び出してきた署員の中を駆け抜ける。
シーンはルシアと巡回に出たまま戻っていない。俺は署を飛び出した。
スープ逃亡の知らせを聞いてから、ルシアは明らかに落ち着かなくなった。さっきまで余裕たっぷりに俺の推理をからかっていたのが一転、次第に青ざめてくる顔に視線を彷徨わせている。
「どうした、えらく慌ててるな」
「慌てもするでしょう、『グランドファーム』から逃亡するなんて、暴走したに違いないわ」
「やつが暴走するとまずいのか」
「それは」
きつく唇を噛んで、身を翻す。
「おい、待てよ」
「何よ」
「認めるのか」
「え?」
腕を引き止めた俺を顔をしかめて見返す。
「ナタシアの破損を認めるのか?」
「証拠はない」
「なら、スープが来るまでここで待つか」
「冗談……っ」
びくっ、とルシアが身体を震わせた。ねじった首の後ろに青い目を動かそうとする。
「あ、なた」
「悪いが、スープに教えられてポイントを知ってるんだ」
「く、そっ!」
舌打ちをしてルシアが腰を落として座り込む。顔が白くなり、汗を流し始めている。その首に突き立てたボールペンをそのままに、俺はルシアを部屋の壁にもたれさせた。
「なぜ、スープは『グランドファーム』から逃亡した?」
「し、らない」
「なぜ、ここから離れようとする?」
「……」
「『グランドファーム』から逃げたスープが、まっすぐここへ来るってことを、お前はわかってるからじゃないか?」
じっと俺を見上げていたルシアの瞳が、ふいに濡れたように光った。
「キャル」
「!」
「つれないじゃないか、キャル」
「レッド……」
喉が一瞬にして乾くのがわかった。ルシアの顔で、ルシアの仕草で、けれど口調はレッドそのままに、くく、とルシアは笑った。
「こんなにお前のこと愛してて、こんなになっても追い掛けてきたのに?」
「愛?」
「そうさ、愛だとも」
「愛、にしてはえらく半端じゃねえか」
「何?」
俺はルシアを冷ややかに見下ろした。ルシアの金髪青い目の向こうに、十年前に相棒だった男の顔を必死に思い浮かべる。
「そうじゃねえか、お前が追い掛けてきたのは、俺じゃねえ」
「どういうことだ?」
「十年前は俺の留守にジェシカを襲った。今度は、ジェシカB.P.を仕込まれたDOLL殺しだ」
「それがどうした」
「今ルシアにも聞いたとこだったんだがな、お前はどうして俺に仕掛けてこねえんだ」
「!」
とんでもなく痛いところをまともに突かれたという顔でルシアは黙った。
「生きてる間に俺が欲しいって一回だって言ったか? 俺と寝たいって一回でも誘ったかよ」
ルシアは険しい顔で俺を見返したままだ。
「いつだって、てめえの気持ちなんか吐き出しもしねえで、こそこそ立ち回りやがって」
「欲しいって言えば、くれたのかよ」
うなるようにルシアが高い声でぐれたことばを吐いた。
「お前はジェシカ一筋だった。どっからどう見てもヘテロで、俺らに応じる素振りはなかった。俺と一緒に暮したときでさえ、俺を避けてたくせに」
「いつ避けたよ」
「……シャワーだよ」
「は?」
一瞬毒気を抜かれてぽかんとした。
「シャワー。一回誘ったろ、一緒に入るかって」
「あ?」
「覚えてねえのかよ」
「?」
「てめえ、ひきつった顔で後で入る、って断った。あんときは別に俺はお前を抱こうなんて思ってなかったんだぞ」
俺はなお首を傾げた。覚えがない。でも、ひょっとしたら、自分がレッドの性的対象になりつつあると不安になっていた時だったかもしれない。
「俺を汚いもんでも見るみたいに見やがって……スワンソンには優しかったくせに」
「あん?」
「スワンソンだよ、スワンソン・ダイブ! あいつのことも忘れたのかよ!」
悔しげにルシアがうなって、俺はようやく思い出した。
潜入捜査の一年前、スワンソン・ダイブというゲイが暴行されて死にかけた。他の連中が何だかんだと理由をつけて事情聴取を避けた結果、俺にお鉢が回ってきた。
延々数時間にわたって、どんなふうにヤられたか、どれほど辛かったという股間が竦むような話を聞かされた。あげくに慰めてくれないかと迫られて散々な目にあったが、それでも、実はそれがそのあたりで連続して起こっていた女性の暴行事件とそっくりだということがわかって、犯人がバイセクシャルだと絞り込まれ、一気に解決に結びついた。
そのときの功績が評価されて、俺は刑事になったのだ。
「他のやつらがゲイと同席するのも真っ平だって嫌がったのに、お前だけは被害者だろ、と言った。男漁りをするからだって笑ったやつに、何も知らないうちから勝手な推測をするなって怒鳴った」
「あ、ああ」
そう言えば、そういうことを言ったような気もする。
「お前だけがスワンソンに優しかった。ヘテロにもこんなやつがいるんだって、俺は嬉しかった」
「待て」
「だから、それからお前が俺と組むって聞いて」
「ちょっと待てって」
「俺は運命だと感じた」
「待てって言ってるだろうが!」
自己完結していく相手に喚く。
「それだけなのか?」
「え?」
「てめえが俺に惚れたってのは、それだけのことなのか?」
「それだけって、それだけのことだろうが、好きになってくってのは!」
怒鳴り返されて茫然とする。
その、わずかな隙をつかれた。
「ぐ!」
まさか、動けるとは思わなかった。のろのろ壁にもたれたルシアは、首を捻るふりをしながらボールペンを緩めていたのだ。
足払いをかけられてひっくり返り、したたか腰を打ちつけた俺を、続いて閃いたルシアの脚が股間めがけて蹴り込んでくる。咄嗟に避けたものの、腹を蹴りつけられ、床に転がった。背後にナタシアの身体、そこに阻まれて転がって逃げることもできない。胃の中身を吐きそうになりながら咳き込んでいると、前髪をつかみあげられた。
「あ、ぐっ」
「あいかわらず、そそる顔するぜ、てめえはよ?」
「っぐ!」
もう一度深く蹴られた。
「俺がお前の一番好きな顔知ってるか?」
「…」
「悔しそうに歪む顔だよ、今みたいにな。無力さを味わいながら耐えてる顔だ」
「がっ」
両手を上げかけた矢先に、首を細い指で掴まれた。女性の小さな手だけに、首を掴むというよりは頸動脈と食道を握られて声も潰される。
「落とすぜ」
ルシアは冷ややかに笑った。
「落としてから、とことんしゃぶらせてもらう……俺を馬鹿にしやがったおとしまえをつける……お前からもっとヤってくれって頼むように仕込んでやる」
「っ、っ」
「パターソンは殺せって言ったが、なあに、最終的に死んでればいいんだよな、そういうこっ……!」
「、がっふっ、ふ、っげっ」。
ふいに喉から圧迫が消えた。ことばも半端に途切れて、床に落とされた。咳き込みむせ返る俺の上で、静かな声が話しかけてくる。
「大丈夫ですか、シーン」
「ふ、ぅっ」
「ポイントを突き刺したからといって手加減しないことです。DOLLはタフですから」
ようよう呼吸を整えて顔を上げ、俺はことばを失った。
そこに居たのは、何、だろう。
目の前に背中を向けて細い姿が立っている。見覚えのある肩の線、けれどその柔らかそうな茶色の髪がべったり濡れている。髪だけではない、スーツに包まれた腕も胸も脚も全て、まだらの赤に染まっている。
そして、その赤に今ばたばたと音をたてて跳ね散っているのは、左手一本で吊るし上げたルシアの身体から吹き零れている白銀の疑似体液だ。いや、吊るし上げているんじゃない、左手をまっすぐにルシアの背中から腹へと突き込んだまま、まるで狩りの獲物を見せつけるように壁に向かって差し上げている。
もう機能停止してしまっているのだろう、 がくりと仰け反ったルシアの顔が人形に戻っていた。
「スー、プ?」
「はい」
「お前……何をしてる……? 第一……どうしたんだ、その血は」
どさりとスープはゴミを捨てるようにルシアの身体を床に放り捨てた。指先にぬらりとコードが絡む。それを軽く手を振って落とし、指の濡れた汚れを弾いた。花の露を落とすような優雅で品のいい仕草だ。その仕草に似合いの柔らかな声が淡々と答える。
「近くの路地でジットが死んでいました」
「ジットが?」
「確認しましたが、死後数時間経過しています」
「一体誰が」
「不明です。流血があり、汚れました」
静かで穏やかな横顔は目の前で自分の知っている一体のDOLLを屠ったことを忘れているようだ。
「じゃ、どうしてここに……」
「任務を」
「任務?」
「異分子の処理」
目を上げたスープが俺を振り向いた。
「ルシアは違法B.P.が埋め込まれており、今後被害を拡大させる恐れがあります」
「待て……ルシアは、いや、署長もお前にレッドのB.P.が仕込まれてるって言ってたぞ?」
「信じるんですか、シーン」
透明な緑の目。何の感情もない、醒めて冷ややかな視線。
「さっき、ルシアが言ったことを聞かなかったんですか? パターソンはあなたを殺せと言った、そう口にしたようですが?」
声はひやりと辺りの温度を下げた。
俺は唾を呑み込んだ。今さらのようにスープから広がってくる血の匂いに、胸苦しくなってくる。
「ルシアはお前が『グランドファーム』から逃亡したって」
「誤った情報です」
「だって」
「むしろ、俺は『グランドファーム』の指示で彼らを狩っている」
「狩ってる? 彼ら?」
「ドラゴンは宝物を守るために火を吐くものです」
うっすらと微かな笑みが広がった。
「パターソンはこの20年間、違法B.P.の旨味を吸い続けた。もう十分でしょう」
ゆっくりと身体を振り返らせる、その姿は血と疑似体液に塗れてどろどろの薄紅に染まっていて、さながら地獄から戻ってきた殺戮者のようにしか見えない。しかも。
「スープ」
俺は干涸びた声を押し出した。
「右手……どうしたんだ」
スープの右腕は、上腕からすっぱりなかった。引き裂かれたようなスーツの袖の切れ端が揺れている。あるはずの中身を包み損ねた虚ろな動きが俺の不安を煽る。
「ああ、離脱しました」
「え?」
「『グランドファーム』を出てくるときにパターソンの配下に阻まれましたから」
スープはこともなげに説明した。
「俺の新しい四肢には爆薬が仕込まれていて」
「な、に?」
病室でのやりとりが甦る。外してミサイルに。
「冗談じゃなかった、のか……?」
「必要に応じて切り離し爆破できますから、それで処理してきました」
「スープ……」
「まだ後3本ありますから、任務遂行には十分な能力があると考えられます」
「そんな」
視界が揺れた。
俺はスープがどれほど手足を失ったことに恐怖を覚えていたのか知っている。ROBOTのくせにフラッシュバックを起こして身動きできなくなるほど怯えていたのだ。
なのに、こいつは今平然と自分の身体を武器に使った、と言う。実際、もし必要があれば、この場でルシアを爆破したはずだ。まるで、そんなことなどなかったように。
いや、本当に『なかった』ことになっているのだろう。そんな恐怖は、そんな記憶は、四肢を兵器に変えながら闘う竜には必要がないから切り捨ててきたのだ。
これ以上、記憶を処理したら壊れるしかない。そう言われていたのに。記憶だけではなく、関わる気持ちごと削り取るから、笑うことさえ忘れてしまったのを、ようやく少し取り戻したのに。
静かで穏やかな表情、怯えのない冷静な声、この先失う自分の身体に微塵の配慮さえない。
ここへ来るために、こいつは一体どこまで自分を削り落としてきてしまったのか。
「くそっ……っ!」
苦くて熱いものが吹き上がってくる。近くの床を殴りつけようとした矢先、濃厚な血の匂いが迫ってぎょっとした。滑り込むように跪いたスープが俺のこぶしを受け止めている。
「悪い癖です、シーン」
「なに?」
「あなたはむかつくと固いものをすぐ殴る」
「あ?」
「え?」
ふわりと懐かしい無邪気な笑みで見上げられて、俺は固まった。同時にスープも動きを止めて、目を見張る。
「俺、どうして」
「スープ」
「おかしい、です、そんな記憶はあるはずがない」
「スープ!」
混乱した顔でやつは怯えたように身体を引いた。
「俺は、あなたの記憶を全部削ったはずだ」
「何?」
「なのに、なんで、俺は……俺は……」
戸惑った顔で俺を凝視する。
「あなたが泣くのがつらいんだろう……?」
言われて初めて、俺は自分がぼろぼろ泣いているのに気づいた。
「お、れ、いき、ます!」
ふいにスープは立ち上がった。立とうとしてすぐに立てない俺を心配そうに見下ろす。
「ここにいてください、すぐに迎えを呼びますから」
「行くな」
「パターソンのことも全てけりをつけてきます」
「スープ……っ!」
身を翻して姿を消す直前、血まみれの片翼の竜は肩越しに小さく吐いた。
「俺の宝物は、あなたです、シーン」
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