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18.WHITE DISTANCE
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夢を見ていた。
墓が並んでいる一画にオレンジの樹があった。
鮮やかな実が光っている。うっすらと降っていた雨が止んで、その樹の下で一人の老人が手を伸ばす。きれいな実を一つもいで、足元の墓に供えてくれる。
それは俺の墓だ。
老人は静かに微笑んで、俺の気配に振り返る。
皺のよった顔。白い髪とわずかに灰色がかってはいるけれど、それでも深い黒の瞳。
俺は胸が詰まる。シーン。今年も俺の墓にオレンジを置いてくれたんだ。
シーンは微笑み、近づく俺にそっと頭を下げる。
「あなたもどなたかの?」
「はい」
「去年もお会いしましたね」
「そうですね」
「大事な人ですか?」
「ええとても」
俺はあなたに会いに来ている。誰よりも大切なあなたに。
「それでは」
「はい」
シーンはゆっくりと俺の横を通り過ぎる。俺の姿には気づかない。俺の中身には気づかない。
俺がSUP/20032、スープであったのは遠い昔。それでも。それでも、俺は毎年ここに来る。奇跡を望んで。立ち去っていくシーンが、はっと気づいて俺の名前を呼んでくれる。たったそれだけのことを願って。それが絶対起こるはずのないことだと知りながら。
なぜなら、俺の姿は10歳にもならない少女だから。
「んっ」
目を開くと視界をにじませた涙が零れ落ちた。恋しくて切ない。夢の自分に気持ちをのっとられたまま、隣で響く寝息を伺う。よかった。起きていない。ほっとして、乱れた髪を俺の肩に乗せるようにしてくうくう気持ちよさそうに眠っているシーンの頭に唇を寄せる。
引っ越した夜にシーンと寝てから、俺とシーンの間には何もない。仕事に行って、戻ってきて。夜は二人でベッドに入る。
俺はもっとシーンが欲しかったけれど、あの翌朝シーンはひどくうろたえていて、あげくに一日口をきいてくれなかった。
嫌だったのか、不愉快だったのかと重ねてきいた。だが、無言で首を振るだけで気まずそうに顔を背ける。そんな相手は初めてだった。どうすればいいのかわからない。
ただ、側に居ることや、一緒にベッドに入ることは許してくれる。拒まれさえしなければ、俺は夜シャワーを浴びたシーンの温かな身体を抱いてベッドに入る。警戒はされていない。すぐにシーンは眠りに落ちる。けれど、これ以上進めて拒まれたらと思うと、もう手が出せない。
朝は俺の方が早い。だから、こうやって隣に眠るシーンをこころゆくまで見ることができる。無防備な顔にキスして、時には唇の中も探って。それでも起きないときには寝返りのたびに触れてくるものにもさわる。
ふと悩む。このまま回収してしまうか? 微かに呼吸を乱しているような夢うつつの今なら、シーンだって抵抗がないだろう。けれど。
沸き上がるのは昏くて熱い塊だ。
どうせ最初で最後なら、俺だってシーンの全てが欲しい。強ばる身体も上げる悲鳴も震えながらからみついてくる内側も、全部。
あの夜のシーンがまだ始まりにしか過ぎないことを俺は知っている。もっと先に進んだときに、シーンの身体を染める色を見てみたい。漏らす声の一番高い部分を記憶したい。
シーンを、泣かせて、みたい。
首を振って、そっとベッドから抜け出した。未練たらしく探っていた手を引き上げる。
起きないシーンが恨めしい。起きてないはずがないだろうけど。反応して微かに揺らめく腰とか、熱くなって湿ってくる身体とか、軽く詰まりながら漏らされる息とか。
それでもシーンは起きない。そして、それがその先を待っている、とは思えない。むしろ、俺が諦めてベッドを出ていくのを待っている、というように思える。
溜息をつきながら着替えて一階に降りた。自分でも驚くほど竦んでる。嫌われたくない。失いたくない。せっかくここまで近付けた関係をゼロに戻したくない。シーンに関しては、たった一つの間違いも犯したくない。
なのに、経験もデータも何の役にも立たない。今まで誰もシーンのようには振舞わなかった。シーンのように、これほど俺と近づいてから止まってしまった関係などない。
ダイニングで湯を沸かし、コーヒーを淹れていると背後に足音がした。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
「もう食べますか?」
「ああ、うん」
テーブルに並べたスクランブルエッグとベーコン、ミニトマトつきサラダにシーンはいつも奇妙な顔をする。朝食を食べない主義なのかと聞いたが、複雑な顔で「大丈夫だ」と妙な答えをされてからは、あえて可否を聞いていない。
ただ、シーンの戸惑いの予想はつく。この朝食メニューはジェシカの作っていたものだ。スクランブルエッグに味付けしないのも、必ずミニトマトを添えるのも。
たぶん、それがシーンを困惑させている、いつかのキスと同じように。
けれど、俺はシーンに嫌われたくないから。嫌われたくないために使える、一番確実なデータはジェシカB.P.のものしかないから。俺はジェシカB.P.にアクセスして情報を取り入れる。
「ああ、あのな」
「はい?」
「今日は先に行ってくれ」
「なぜです?」
「えーっと、その」
シーンは困ったように無精髭を擦った。
「ちょっと寄るところがあって」
「俺はあなたの護衛です」
「うん」
「あなたを一人にできません」
「ああ、わかってる」
「一緒に行きます」
「でも、その」
「なんですか?」
「相手が、嫌がってるんだ」
「は?」
「その、他の警官は同席してほしくないんだと」
シーンは俺の凝視からゆっくり目を逸らせた。所在なくスクランブルエッグをフォークでつつく。それが言い辛いことを口にする癖らしいとは最近わかった。
「相手?」
「ああ、つまり、その」
「ナタシア・ブランカですか?」
「!」
弾かれたようにシーンが顔を上げ、やがて苦笑した。
「カマをかけたな?」
「すみません」
「でも当たってる」
「何の用です?」
「DOLL殺人のことだ」
「情報なら俺がいても」
「他の警官がいるところでは話せないと言ってる」
繰り返すシーンに理解する。
「警察内部に問題が?」
「たぶん」
「それはB.P.に関することですか?」
「わからん。だが」
シーンが視線を逸らせた。
「彼女は怯えてる」
俺だって、怯えてる。
一瞬、そう反論しかけて、慌ててコーヒーのカップで口を塞いだ。出なかったことばが胸の中で渦巻いている。
そうだ、俺だって怯えてる。シーンを失うことを。シーンに嫌われることを。シーンに必要とされないことを。シーンに……お前など不要だと言われる瞬間を。
「わかりました。先に署に向かいます」
「署長には」
「風邪だと?」
「そうだな、ゲリでトイレにこもってるとでも」
「シーン」
「すまん、飯中か」
苦笑してスクランブルエッグを放置し、シーンは立ち上がった。
「じゃあ、後から出るから」
「はい」
「一時間内に連絡を入れる」
「わかりました」
うなずくと安心したようにシーンは笑い返し、部屋を出て行く。やがて鼻歌まじりのシャワーを浴びる音が響いた。
俺は残されたスクランブルエッグにフォークを刺した。掻き集めて、口に運ぶ。俺に栄養は必要じゃない。目の前に人間はいない。だから、これを食べる必要はない。
けれど、皿の上でつつき回されて放置されたそれは、とても自分に似てて。
放っておけなかった。
まずいまずいまずい。
とんでもなくまずい。
今朝は本当にまずかった。もう少しで流されるところだった。
気がついたのは柔らかな息が髪にかかってからだ。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなり、どこで女を拾ったっけと考え、それからようやく俺を抱きかかえてる滑らかな腕に気づいた。
腕のカーブが示す優しさにぼんやりしていると、唇を覆われ、舌がそっと入ってくる。拒むどころか、急いで開いてしまおうとするのを必死に押さえる。蠢く舌は簡単に俺の気持ちを煽る。引っ越しの夜に俺の口を犯した指を思い出させる動きで、的確に、確実に、俺の弱い部分を探り当ててくる。呼吸があがるころには下半身にも手が伸ばされていて、刺激にそのまま崩れ落ちたくなる。
封じられた声を好き勝手にあげて乱れてしまえば、たぶんもう制御は効かない。
あの夜。
伊達や酔狂じゃない、DOLLの機能の凄さを思い知らされて、俺は正直怯えまくっていた。次々開かれていく感覚は回路を新たに繋ぎ直されるようだった。その回路を全開にさせてくれないじれったささえ計算づくだと気づいた。なのに、それとわかっても逃れられずに絡め取られて、このまま最後までヤられるのかと思った。
おまけにそれが嫌じゃなかった、あたりが怖い。
意識を必死に保ったのは、任務が済めばスープが『グランドファーム』に回収されてしまうという、ただそれだけだ。イったら終わりだ、絶対イっちゃいけない。呪文のように唱えてたはずなのに、あっさり防御も砕かれた。逆にそれが自分を追い詰めてしまった感じさえある。
ぼんやり目覚めた朝は感覚が余計に早くセットされてしまうみたいだ。息を逃がしながらさり気なく身をよじったつもりで、その実、受け取る快感に流されたくてたまらなくなるのも実感で。
それが、困る。
「っく……ふぅ」
シャワーに打たれて息を詰め、上がりかけた声を鼻歌でごまかして自己対処する。毎朝、俺はいったい何をやってるんだか。恋人と同居してるのに、結局右手にお世話になるのか?
「わかってやってんのかなあ」
思わず溜息が出る。やつはそういう機能なんだし、それはそれ、これはこれで分けられるのかもしれない。だが、正直なところ、毎日あったかく抱き締められて眠るのも、俺としてはぼちぼち限界だ。
そうしたところに、ナタシアの相談は願ったり叶ったりだった。
警察に電話がかかったのは一昨日で、俺の名前を指定した。
『シーン・キャラハンさん?』
「はい、どんな御用でしょうか」
『わたし、ナタシア・ブランカです』
「!」
『気になることがあって』
「何?」
『お話聞いて頂けますか?』
柔らかで甘いアルトの声は緊張しっぱなしの耳に快く響いた。
「わかりました、伺いましょうか?」
『ぜひ』
「いつ?」
『明日か明後日でも。できれば』
「はい?」
『他の警察の方は』
「他の警察のもの?」
『特にROBOTや DOLLは同席させないでほしいんです』
「……でも、あなたも」
『ええ、だからこそ』
「?」
『B.P.のことですから』
「わかりました」
B.P.がらみでナタシアは何か情報を掴んでいるらしい。
そう言えば、最近28区でジットがうろうろしてるとファレルが言っていた。ルシアは何も知らないと言うし、どうも気になる。ラルゴを殺ったのはおそらく内部のものだろうと思うが、それが追及されないあたりがいやらしい。裏切り者はかなりの上部官僚ということだ。
それはナタシアがROBOTとDOLLの排除を申し出たこととも一致する。機械は官僚に繋がってる。
ふいと掠めたのは、始めのサイコ野郎がROBOTだと教えなかったスープのことだった。
他にも情報を隠してるだろうか? それこそ、オリーブ・ドラゴンとしては、もっとやばい情報を?
いずれにせよ、スープは『グランドファーム』に縛られている。へたをすれば、そこを欺くような状況になる。やつを巻き込むわけにはいかなかった。
今度また、記憶処理でもされたら、せっかく少し笑うようになったのが、また削られちまうかもしれない。今だって、笑顔はいつも不安そうだ。
シャワーから出ると、スープはもう出かけていた。俺が残したスクランブルエッグは片付けたのか、流しに皿が置かれている。
「目玉焼きでいいのに」
ぼやく。
一番最初の日に作ってくれたのが、お日様みたいな目玉焼きで、俺は凄く気に入った。うまいと言ったのが聞こえなかったのか? 二日目から急にスクランブルエッグになって、正直困ってる。ジェシカは好きだったが、俺はあれが苦手だった。目玉焼きにしてくれと言っていいものか悩んでいたが、まあ今度の休みには一度頼んでみよう。
家を出て鍵をかける。28区までは徒歩で数分、すぐにナタシアのアパートに着いた。
玄関でやはり掃除をしていたナタシアが、俺を見つけてにっこり笑う。白いワンピースがいささか季節に寒々しいが、笑顔は温かだった。
「ありがとう、すぐ来て下さったんですね?」
「大事な話のようでしたから」
「どうぞ」
招き入れられたのは、玄関脇のこじんまりとしたキッチンだった。
テーブルを挟んで向かい合うと、奇妙な感覚が襲った。まるで、十年前に引き戻されたような。
ナタシアの外見はジェシカに全然似てないが、話し出すときに小首を傾げてこちらを見る視線はそっくりだ。
「キャラハンさん」
「どうぞ、シーン、と」
「では、シーン」
名前を呼ばれると軽いめまいのような感覚はより強烈になった。
「迷ったんですが、お話ししておかなくてはと」
「何ですか?」
「実は」
ピーッとケトルが鳴って、ナタシアが立ち上がる。ごめんなさいと謝って、香り高いコーヒーをいれ、俺の前に押しやった。頼んでないのに、ミルクがたっぷりいれられていて、少し硬直する。
確かに朝はカフェオレで飲むときが多かった。これは偶然なんだろうか、それともジェシカB.P.のせいなんだろうか。
「シーン」
「あ、はい」
呼び掛けられて我に返る。
「実は、このアパートの203号室に定期的に出入りしている人がいます」
「ふむ」
「いつも濃いスーツにサングラスをかけていますが、一度廊下ですれ違ったときに顔を見ました」
「知ってる顔でしたか?」
「いえ、そのときは。でも」
ナタシアは顔を曇らせた。
「先日、ジットさんとおっしゃる方が来られて」
「ジットが?」
「警察の用だからと。拒めばDOLLとしての申請を取り消すことになると」
ジットが詐称? 俺の訝しい表情にナタシアは不安になったようだ。
「嘘じゃありません」
「用件は何でした?」
「203号室に出入りしている人間を教えてほしいと」
「けれど、あなたは顔を知らないんでしょう?」
「何枚か写真を見せられました、この中にいるか、と」
「それで?」
「いました。だから、そのまま答えたら、真っ青になって、畜生、って」
「……」
「そのまま飛び出していかれたんです」
「どんな人間だったか覚えていますか?」
「ホログラフがあれば3次元で起こせますけど」
「ああ」
そうだ、この人はDOLLだったのだ、と改めて思い出す。
「ならば署に来てもらった方が」
「でも」
「何ですか?」
「飛び出すときに、ジットさん、俺も殺されるって。そいつは警官だって」
「警官」
「それも、自分を黙って消せるぐらいの警官だって」
「うーむ」
「わたし、混乱してきて」
「ああ、なるほど」
ジットは警察を名乗っていた。それがいきなり警官に殺されると飛び出してしまったのだ。
「ジットは警官じゃない」
「ああ、やはり」
「やはり?」
「警官の動き方ではなかったので」
「なるほど」
「でも、ならどうして」
「うーむ」
俺はうなって時間稼ぎにカフェオレを口にした。
ここの203号室に出入りしていた人間をジットはずっと狙ってた。一度警察に掴まって、ルシアという警官の恋人を持った男にしてはおかしな行動だ。昔の仲間とつなぎを取りたかったわけじゃないだろう。
考えられるのは、B.P.の取り引きに突っ込んでこいと指示したラルゴもまた誰かの指示で動いていた、それにジットが気づいたのではないか、ということだ。ルシアと付き合いだして、まっとうな生き方をしようとし始めたジットが、あえて誰かを付け回したのは、それが警察内部の人間で、自分を始末しかねないと気づいたからではないか。
「あなたはまだその人間を覚えていますか?」
「はい、もちろん」
「男? 女?」
「男性です」
「それから男は来ましたか?」
「いいえ、来ていません」
「私がもう一度写真を見せたら、相手を確認できますか?」
「当然です」
「わかりました」
俺は立ち上がった。
「今度は私が写真を持ってきます。203号室に誰か出入りするようならば、その顔も覚えておいてもらえますか?」
「ええ、はい、でも」
「うん?」
「シーン」
淡い緑の目がうっすらと潤みを帯びて俺を見上げた。席を立ち、テーブルを回ってきて、俺の正面に立つと、身体を微かに震わせているのがわかる。
「お願い」
「え?」
「もう少しだけ、ここにいて」
「ナタシア……」
そのままふわりと投げかけてきた身体を抱き止める。屈み込んだ俺にナタシが甘い声で囁きながら唇を寄せてくる。
「シーン」
「あ」
「わたしを一人にしないで?」
「ナタシア」
「わたし、あなたしか、信じられる人がいない」
「!」
そのことばを誰が忘れるだろう。
俺がジェシカにプロポーズしたとき、彼女は警察官は嫌だと言った。危険と隣り合わせで生きている、そんな男を愛せない、と。俺が項垂れると、その俺にそっと唇を寄せながら、彼女はこうつぶやいたのだ。「それでも、シーン、私が信じられるのはあなただけなの、ひどいわね?」。
記憶の中のジェシカの唇が、ナタシアの淡いピンクの唇と重なる。その二重に揺らめく唇が、俺の口に吸いついてくる。少し舌を出して俺の唇を舐める、その瞬間、俺は我を失った。
「ジェ、シカ!」
呻きながら引き寄せた身体が俺の腕の中で柔らかくしなった。
「スープ!」
「はい」
「シーン、来ねえぞ?」
「来ませんね」
「来ませんね、じゃねえだろうが」
ファレルが眉をしかめて俺にぼやいた。
「そんな酷いゲリなのか?」
「あ、えーと」
「朝からヤったのか?」
「いえ」
「じゃあ何でゲリなんだよ?」
「たぶん風邪だと」
「風邪引かせるようなことしてたのか?」
「いえ、ですから」
これはたぶん絡まれてるのだろう。俺は部屋の隅からコーヒーを2つ持ってきた。
「どうぞ」
「うん」
「シーンに連絡取りましょうか?」
「便所じゃ出れねーだろ」
「そうですね」
「長いクソだな」
「はは」
ぎりぎりのジョークに笑ってみせる。
俺も気になっている。時計は昼を回っている。幸いに事件通報は入っていない。だが、いつまでも所在不明では通らない。
まさかとは思うが、何かあったのだろうか。ナタシアのところへ行ったまま、事件に巻き込まれたのだろうか。この前みたいに、連絡したくてもできない状況に置かれているのだろうか。
募る不安に時計を見上げていると、ファレルが大袈裟に溜息をついた。
「どうすんだ? この書類の山は?」
「俺がやりますよ」
「んじゃあ、こっちもやってくれ」
「はい」
「これもできるか?」
「ええ」
「ついでにこれも」
「わかりました」
積み上げられた書類を片付けていると、ファレルが俺を見つめている。
「何ですか?」
「なあ」
「はい」
「シーンのこと」
「はい」
「好きか?」
まっすぐに尋ねられて咄嗟に答えられなかった。
「なあ?」
「急ですね」
「好きか?」
「好きですよ」
「その」
「はい?」
「恋人とか、そういう意味で?」
「はい」
「お前はROBOTだからわかんねえだろうが」
「……」
「あいつは酷い目に合ってる」
ファレルは短くなった煙草を押しつぶした。
「うんと、酷い目に。大事な相手を、仲間にやられてる」
「はい」
「だけど、へたっちゃいねえ」
「そう、ですね」
「たいしたやつだろ?」
「はい」
「けどさ、それでも必死に這い上がったんだ」
俺は書類から目を上げた。俺にまだまっすぐに目を据えたまま、ファレルが続ける。
「こいつはこの先、誰も好きにならねえって思ってた」
「……はい」
「優しいからさ、女は誤解するんだ」
「はい」
「けど、あいつが女に優しいのはジェシカに優しいってことだから、そのうち相手も気づくんだ」
「……」
「シーンが惚れてるのはジェシカだけだって」
「そう、でしょうね」
「俺は男同士ってのはよくわからねえが」
「……」
「ついでにROBOTの気持ちもわからねえが」
「はい」
「お前はそれでもいいのか?」
「え?」
「シーンはお前には惚れねえよ?」
俺はファレルを見返した。片目を損傷してから遮られている右目の視界がふいに眩んだ気がした。
「シーンが惚れるのは、ジェシカだけだ」
「……」
「それでも、お前は大丈夫なのか?」
ファレルの目には心配そうな光がある。俺が溜息をつくと、眉をしかめてファレルはうなった。
「いや、だからさ、俺にはわからねえけど」
「……ファレル」
「今まで続いた女はいねえんだよ」
「あの」
「なんかそのうちだめになる」
「ファレル」
「うん?」
「俺は」
言いかけて喉が詰まった。
シーンが俺には惚れない? そんなことはわかっている。シーンが魅かれているのは、俺の中にあるジェシカB.P.ゆえだ。
「俺は、わかってますから」
「そうか?」
「気長にやりますよ」
「そっか」
ファレルがほっとした顔で笑った。笑い返して書類に戻る。
シーンは俺には惚れない。シーンが惚れるのはジェシカだけだ。
「そんなことわかってるさ」
DOLLは幻だ。どれほど相手を陥落させても、快楽は一瞬、永久に相手の心をつなぎ止める道具にはならない。
ごく、と唾を呑んだ。ずっと動かしていなかったシンパシーシステムを作動させる。シーンの安否を確認するためだ。それだけだ。書類をめくりながら、開かれた感覚に意識を集中した。
「!」
「どうした?」
「いえ……書類を落としました」
俺はしゃがみ込んで、床に散った書類を拾う。机の下に手を伸ばしかけて、身体を走った甘い感覚に唇を噛む。吐息の気配。とろける舌の感覚。優しく包まれ撫で摩られる掌の動きを、ナタシアが感じてるそれを、はっきりと感じ取って下腹部が熱くなる。
「すみません」
「ん?」
「俺も腹具合が」
「へ?」
きょとんとするファレルにトイレへ向かう。
「ROBOTもゲリすんのかあ?」
背後の声にたじろぐまでもなく、個室に飛び込み、座り込んだ。
「ああ……」
両腕で身体をしっかり抱いてないと、身をよじって崩れそうだ。シンパシーシステムが切れない。暴走し始めた感覚がナタシアの身体に広がった波を一つ残らず読み取ってしまう。
「……んっ……っく……」
漏れた声に唇を噛んだ。
「……シーンっ……」
それはナタシアが放った声だったのか、それとも俺が呻いた声だったのか。
弾け飛ぶような感覚に呼吸を乱して崩れる。一瞬向こうが意識を飛ばしたのか、僅かな隙ができて、俺はようようシンパシーシステムを切った。
静まり返った個室は冷えきっている。俺はのろのろと立ち上がった。全身が細かく震えて思うように動かない。
部屋に戻るとファレルが驚いた顔になった。
「おい、真っ青だぞ?」
「すみ、ません、一度、戻っていい、ですか?」
「あ、ああ」
「書類、置いておいて、下さい、明日にでも、やります」
「わかった、気をつけろ、な?」
「はい」
何とか車を運転して家に戻る。鍵もなかなか開けられなくて、脂汗を流しながらようやく中に転がり込む。
すぐに座り込んでしまいそうな身体を引きずるように階段を上がった。ベッドは朝シーンが起きたままで乱れている。上着を脱ぐのが精一杯で、そのまま倒れるようにベッドに寝そべった。
「はっはっ」
息苦しい。胸が痛い。身体中が痛い。
どうしたのだろう。シンパシーシステムは切った。別にナタシアに死の危険が迫ったわけではない。今はシーンが側にいて、彼女は安全に守られているはずだ。きっと、たぶん、シーンの腕の中で。あの温かな身体の側で。安らぎを分け与えられて。
「ふっ」
ふいに襲ってきた寒さに身体が震えを増した。システムエラーか? 荒い呼吸を何とか整えようとしながら、目を開くと、窓の外に雪が舞っているのが見えた。
「ひぅ」
微かな呻きを漏らしてしまい、思わず手足を引き寄せ縮め、目を閉じてベッドに蹲る。
痛い。痛い。痛い。痛い。
まるで、あの夜みたいだ。動けなくて、四肢を次々撃ち飛ばされて。
痛覚機能が切れなかった。衝撃が強過ぎて、一ケ所切る間に何ケ所も撃たれた。
けれど、あのときはシーンが居た。俺をコートで包んでくれて、雪から、白くなるほどの痛みから守ってくれた。
だが、今ここにシーンはいない。たぶん、これから先も、俺の側に、シーンは、いない。
「あ、ぅっ」
身体が震える。涙が零れる。ベッドに蹲っているはずなのに、改めて手足を切り刻まれていくようだ。痛覚機能が切れない。ずきずきして晒された感覚が端から切り飛ばされて失われていく。次はどこだ? どこをやられる? どこを消される? 俺の存在はどんどん欠けていく。
消したはずの記憶が戻って、抱えてたはずの記憶が指の間から抜け落ちていく。消された俺に代わっていくのは、B.P.だ。仕込まれたB.P.が俺を侵し、呑み込み、すりつぶしていく。俺がなくなる。かけらになって砕かれて。スープ、は消える。残るのは、何だ?
「はっ……はっ……はっ」
身悶える。意識が細切れになっていくのに、気を失えない。
「シーンっ」
戻ってきて。俺のポイントを貫いて。俺の機能を止めて。記憶が暴走して、身動きできない。ROBOTなのに。DOLLなのに。最強のオリーブ・ドラゴンなのに。傷つくことなんてあるはずがないのに。
「く……ぅっ」
身体をきつく抱きながら、俺は終わらぬ痛みに一人、もがき続けた。
墓が並んでいる一画にオレンジの樹があった。
鮮やかな実が光っている。うっすらと降っていた雨が止んで、その樹の下で一人の老人が手を伸ばす。きれいな実を一つもいで、足元の墓に供えてくれる。
それは俺の墓だ。
老人は静かに微笑んで、俺の気配に振り返る。
皺のよった顔。白い髪とわずかに灰色がかってはいるけれど、それでも深い黒の瞳。
俺は胸が詰まる。シーン。今年も俺の墓にオレンジを置いてくれたんだ。
シーンは微笑み、近づく俺にそっと頭を下げる。
「あなたもどなたかの?」
「はい」
「去年もお会いしましたね」
「そうですね」
「大事な人ですか?」
「ええとても」
俺はあなたに会いに来ている。誰よりも大切なあなたに。
「それでは」
「はい」
シーンはゆっくりと俺の横を通り過ぎる。俺の姿には気づかない。俺の中身には気づかない。
俺がSUP/20032、スープであったのは遠い昔。それでも。それでも、俺は毎年ここに来る。奇跡を望んで。立ち去っていくシーンが、はっと気づいて俺の名前を呼んでくれる。たったそれだけのことを願って。それが絶対起こるはずのないことだと知りながら。
なぜなら、俺の姿は10歳にもならない少女だから。
「んっ」
目を開くと視界をにじませた涙が零れ落ちた。恋しくて切ない。夢の自分に気持ちをのっとられたまま、隣で響く寝息を伺う。よかった。起きていない。ほっとして、乱れた髪を俺の肩に乗せるようにしてくうくう気持ちよさそうに眠っているシーンの頭に唇を寄せる。
引っ越した夜にシーンと寝てから、俺とシーンの間には何もない。仕事に行って、戻ってきて。夜は二人でベッドに入る。
俺はもっとシーンが欲しかったけれど、あの翌朝シーンはひどくうろたえていて、あげくに一日口をきいてくれなかった。
嫌だったのか、不愉快だったのかと重ねてきいた。だが、無言で首を振るだけで気まずそうに顔を背ける。そんな相手は初めてだった。どうすればいいのかわからない。
ただ、側に居ることや、一緒にベッドに入ることは許してくれる。拒まれさえしなければ、俺は夜シャワーを浴びたシーンの温かな身体を抱いてベッドに入る。警戒はされていない。すぐにシーンは眠りに落ちる。けれど、これ以上進めて拒まれたらと思うと、もう手が出せない。
朝は俺の方が早い。だから、こうやって隣に眠るシーンをこころゆくまで見ることができる。無防備な顔にキスして、時には唇の中も探って。それでも起きないときには寝返りのたびに触れてくるものにもさわる。
ふと悩む。このまま回収してしまうか? 微かに呼吸を乱しているような夢うつつの今なら、シーンだって抵抗がないだろう。けれど。
沸き上がるのは昏くて熱い塊だ。
どうせ最初で最後なら、俺だってシーンの全てが欲しい。強ばる身体も上げる悲鳴も震えながらからみついてくる内側も、全部。
あの夜のシーンがまだ始まりにしか過ぎないことを俺は知っている。もっと先に進んだときに、シーンの身体を染める色を見てみたい。漏らす声の一番高い部分を記憶したい。
シーンを、泣かせて、みたい。
首を振って、そっとベッドから抜け出した。未練たらしく探っていた手を引き上げる。
起きないシーンが恨めしい。起きてないはずがないだろうけど。反応して微かに揺らめく腰とか、熱くなって湿ってくる身体とか、軽く詰まりながら漏らされる息とか。
それでもシーンは起きない。そして、それがその先を待っている、とは思えない。むしろ、俺が諦めてベッドを出ていくのを待っている、というように思える。
溜息をつきながら着替えて一階に降りた。自分でも驚くほど竦んでる。嫌われたくない。失いたくない。せっかくここまで近付けた関係をゼロに戻したくない。シーンに関しては、たった一つの間違いも犯したくない。
なのに、経験もデータも何の役にも立たない。今まで誰もシーンのようには振舞わなかった。シーンのように、これほど俺と近づいてから止まってしまった関係などない。
ダイニングで湯を沸かし、コーヒーを淹れていると背後に足音がした。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
「もう食べますか?」
「ああ、うん」
テーブルに並べたスクランブルエッグとベーコン、ミニトマトつきサラダにシーンはいつも奇妙な顔をする。朝食を食べない主義なのかと聞いたが、複雑な顔で「大丈夫だ」と妙な答えをされてからは、あえて可否を聞いていない。
ただ、シーンの戸惑いの予想はつく。この朝食メニューはジェシカの作っていたものだ。スクランブルエッグに味付けしないのも、必ずミニトマトを添えるのも。
たぶん、それがシーンを困惑させている、いつかのキスと同じように。
けれど、俺はシーンに嫌われたくないから。嫌われたくないために使える、一番確実なデータはジェシカB.P.のものしかないから。俺はジェシカB.P.にアクセスして情報を取り入れる。
「ああ、あのな」
「はい?」
「今日は先に行ってくれ」
「なぜです?」
「えーっと、その」
シーンは困ったように無精髭を擦った。
「ちょっと寄るところがあって」
「俺はあなたの護衛です」
「うん」
「あなたを一人にできません」
「ああ、わかってる」
「一緒に行きます」
「でも、その」
「なんですか?」
「相手が、嫌がってるんだ」
「は?」
「その、他の警官は同席してほしくないんだと」
シーンは俺の凝視からゆっくり目を逸らせた。所在なくスクランブルエッグをフォークでつつく。それが言い辛いことを口にする癖らしいとは最近わかった。
「相手?」
「ああ、つまり、その」
「ナタシア・ブランカですか?」
「!」
弾かれたようにシーンが顔を上げ、やがて苦笑した。
「カマをかけたな?」
「すみません」
「でも当たってる」
「何の用です?」
「DOLL殺人のことだ」
「情報なら俺がいても」
「他の警官がいるところでは話せないと言ってる」
繰り返すシーンに理解する。
「警察内部に問題が?」
「たぶん」
「それはB.P.に関することですか?」
「わからん。だが」
シーンが視線を逸らせた。
「彼女は怯えてる」
俺だって、怯えてる。
一瞬、そう反論しかけて、慌ててコーヒーのカップで口を塞いだ。出なかったことばが胸の中で渦巻いている。
そうだ、俺だって怯えてる。シーンを失うことを。シーンに嫌われることを。シーンに必要とされないことを。シーンに……お前など不要だと言われる瞬間を。
「わかりました。先に署に向かいます」
「署長には」
「風邪だと?」
「そうだな、ゲリでトイレにこもってるとでも」
「シーン」
「すまん、飯中か」
苦笑してスクランブルエッグを放置し、シーンは立ち上がった。
「じゃあ、後から出るから」
「はい」
「一時間内に連絡を入れる」
「わかりました」
うなずくと安心したようにシーンは笑い返し、部屋を出て行く。やがて鼻歌まじりのシャワーを浴びる音が響いた。
俺は残されたスクランブルエッグにフォークを刺した。掻き集めて、口に運ぶ。俺に栄養は必要じゃない。目の前に人間はいない。だから、これを食べる必要はない。
けれど、皿の上でつつき回されて放置されたそれは、とても自分に似てて。
放っておけなかった。
まずいまずいまずい。
とんでもなくまずい。
今朝は本当にまずかった。もう少しで流されるところだった。
気がついたのは柔らかな息が髪にかかってからだ。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなり、どこで女を拾ったっけと考え、それからようやく俺を抱きかかえてる滑らかな腕に気づいた。
腕のカーブが示す優しさにぼんやりしていると、唇を覆われ、舌がそっと入ってくる。拒むどころか、急いで開いてしまおうとするのを必死に押さえる。蠢く舌は簡単に俺の気持ちを煽る。引っ越しの夜に俺の口を犯した指を思い出させる動きで、的確に、確実に、俺の弱い部分を探り当ててくる。呼吸があがるころには下半身にも手が伸ばされていて、刺激にそのまま崩れ落ちたくなる。
封じられた声を好き勝手にあげて乱れてしまえば、たぶんもう制御は効かない。
あの夜。
伊達や酔狂じゃない、DOLLの機能の凄さを思い知らされて、俺は正直怯えまくっていた。次々開かれていく感覚は回路を新たに繋ぎ直されるようだった。その回路を全開にさせてくれないじれったささえ計算づくだと気づいた。なのに、それとわかっても逃れられずに絡め取られて、このまま最後までヤられるのかと思った。
おまけにそれが嫌じゃなかった、あたりが怖い。
意識を必死に保ったのは、任務が済めばスープが『グランドファーム』に回収されてしまうという、ただそれだけだ。イったら終わりだ、絶対イっちゃいけない。呪文のように唱えてたはずなのに、あっさり防御も砕かれた。逆にそれが自分を追い詰めてしまった感じさえある。
ぼんやり目覚めた朝は感覚が余計に早くセットされてしまうみたいだ。息を逃がしながらさり気なく身をよじったつもりで、その実、受け取る快感に流されたくてたまらなくなるのも実感で。
それが、困る。
「っく……ふぅ」
シャワーに打たれて息を詰め、上がりかけた声を鼻歌でごまかして自己対処する。毎朝、俺はいったい何をやってるんだか。恋人と同居してるのに、結局右手にお世話になるのか?
「わかってやってんのかなあ」
思わず溜息が出る。やつはそういう機能なんだし、それはそれ、これはこれで分けられるのかもしれない。だが、正直なところ、毎日あったかく抱き締められて眠るのも、俺としてはぼちぼち限界だ。
そうしたところに、ナタシアの相談は願ったり叶ったりだった。
警察に電話がかかったのは一昨日で、俺の名前を指定した。
『シーン・キャラハンさん?』
「はい、どんな御用でしょうか」
『わたし、ナタシア・ブランカです』
「!」
『気になることがあって』
「何?」
『お話聞いて頂けますか?』
柔らかで甘いアルトの声は緊張しっぱなしの耳に快く響いた。
「わかりました、伺いましょうか?」
『ぜひ』
「いつ?」
『明日か明後日でも。できれば』
「はい?」
『他の警察の方は』
「他の警察のもの?」
『特にROBOTや DOLLは同席させないでほしいんです』
「……でも、あなたも」
『ええ、だからこそ』
「?」
『B.P.のことですから』
「わかりました」
B.P.がらみでナタシアは何か情報を掴んでいるらしい。
そう言えば、最近28区でジットがうろうろしてるとファレルが言っていた。ルシアは何も知らないと言うし、どうも気になる。ラルゴを殺ったのはおそらく内部のものだろうと思うが、それが追及されないあたりがいやらしい。裏切り者はかなりの上部官僚ということだ。
それはナタシアがROBOTとDOLLの排除を申し出たこととも一致する。機械は官僚に繋がってる。
ふいと掠めたのは、始めのサイコ野郎がROBOTだと教えなかったスープのことだった。
他にも情報を隠してるだろうか? それこそ、オリーブ・ドラゴンとしては、もっとやばい情報を?
いずれにせよ、スープは『グランドファーム』に縛られている。へたをすれば、そこを欺くような状況になる。やつを巻き込むわけにはいかなかった。
今度また、記憶処理でもされたら、せっかく少し笑うようになったのが、また削られちまうかもしれない。今だって、笑顔はいつも不安そうだ。
シャワーから出ると、スープはもう出かけていた。俺が残したスクランブルエッグは片付けたのか、流しに皿が置かれている。
「目玉焼きでいいのに」
ぼやく。
一番最初の日に作ってくれたのが、お日様みたいな目玉焼きで、俺は凄く気に入った。うまいと言ったのが聞こえなかったのか? 二日目から急にスクランブルエッグになって、正直困ってる。ジェシカは好きだったが、俺はあれが苦手だった。目玉焼きにしてくれと言っていいものか悩んでいたが、まあ今度の休みには一度頼んでみよう。
家を出て鍵をかける。28区までは徒歩で数分、すぐにナタシアのアパートに着いた。
玄関でやはり掃除をしていたナタシアが、俺を見つけてにっこり笑う。白いワンピースがいささか季節に寒々しいが、笑顔は温かだった。
「ありがとう、すぐ来て下さったんですね?」
「大事な話のようでしたから」
「どうぞ」
招き入れられたのは、玄関脇のこじんまりとしたキッチンだった。
テーブルを挟んで向かい合うと、奇妙な感覚が襲った。まるで、十年前に引き戻されたような。
ナタシアの外見はジェシカに全然似てないが、話し出すときに小首を傾げてこちらを見る視線はそっくりだ。
「キャラハンさん」
「どうぞ、シーン、と」
「では、シーン」
名前を呼ばれると軽いめまいのような感覚はより強烈になった。
「迷ったんですが、お話ししておかなくてはと」
「何ですか?」
「実は」
ピーッとケトルが鳴って、ナタシアが立ち上がる。ごめんなさいと謝って、香り高いコーヒーをいれ、俺の前に押しやった。頼んでないのに、ミルクがたっぷりいれられていて、少し硬直する。
確かに朝はカフェオレで飲むときが多かった。これは偶然なんだろうか、それともジェシカB.P.のせいなんだろうか。
「シーン」
「あ、はい」
呼び掛けられて我に返る。
「実は、このアパートの203号室に定期的に出入りしている人がいます」
「ふむ」
「いつも濃いスーツにサングラスをかけていますが、一度廊下ですれ違ったときに顔を見ました」
「知ってる顔でしたか?」
「いえ、そのときは。でも」
ナタシアは顔を曇らせた。
「先日、ジットさんとおっしゃる方が来られて」
「ジットが?」
「警察の用だからと。拒めばDOLLとしての申請を取り消すことになると」
ジットが詐称? 俺の訝しい表情にナタシアは不安になったようだ。
「嘘じゃありません」
「用件は何でした?」
「203号室に出入りしている人間を教えてほしいと」
「けれど、あなたは顔を知らないんでしょう?」
「何枚か写真を見せられました、この中にいるか、と」
「それで?」
「いました。だから、そのまま答えたら、真っ青になって、畜生、って」
「……」
「そのまま飛び出していかれたんです」
「どんな人間だったか覚えていますか?」
「ホログラフがあれば3次元で起こせますけど」
「ああ」
そうだ、この人はDOLLだったのだ、と改めて思い出す。
「ならば署に来てもらった方が」
「でも」
「何ですか?」
「飛び出すときに、ジットさん、俺も殺されるって。そいつは警官だって」
「警官」
「それも、自分を黙って消せるぐらいの警官だって」
「うーむ」
「わたし、混乱してきて」
「ああ、なるほど」
ジットは警察を名乗っていた。それがいきなり警官に殺されると飛び出してしまったのだ。
「ジットは警官じゃない」
「ああ、やはり」
「やはり?」
「警官の動き方ではなかったので」
「なるほど」
「でも、ならどうして」
「うーむ」
俺はうなって時間稼ぎにカフェオレを口にした。
ここの203号室に出入りしていた人間をジットはずっと狙ってた。一度警察に掴まって、ルシアという警官の恋人を持った男にしてはおかしな行動だ。昔の仲間とつなぎを取りたかったわけじゃないだろう。
考えられるのは、B.P.の取り引きに突っ込んでこいと指示したラルゴもまた誰かの指示で動いていた、それにジットが気づいたのではないか、ということだ。ルシアと付き合いだして、まっとうな生き方をしようとし始めたジットが、あえて誰かを付け回したのは、それが警察内部の人間で、自分を始末しかねないと気づいたからではないか。
「あなたはまだその人間を覚えていますか?」
「はい、もちろん」
「男? 女?」
「男性です」
「それから男は来ましたか?」
「いいえ、来ていません」
「私がもう一度写真を見せたら、相手を確認できますか?」
「当然です」
「わかりました」
俺は立ち上がった。
「今度は私が写真を持ってきます。203号室に誰か出入りするようならば、その顔も覚えておいてもらえますか?」
「ええ、はい、でも」
「うん?」
「シーン」
淡い緑の目がうっすらと潤みを帯びて俺を見上げた。席を立ち、テーブルを回ってきて、俺の正面に立つと、身体を微かに震わせているのがわかる。
「お願い」
「え?」
「もう少しだけ、ここにいて」
「ナタシア……」
そのままふわりと投げかけてきた身体を抱き止める。屈み込んだ俺にナタシが甘い声で囁きながら唇を寄せてくる。
「シーン」
「あ」
「わたしを一人にしないで?」
「ナタシア」
「わたし、あなたしか、信じられる人がいない」
「!」
そのことばを誰が忘れるだろう。
俺がジェシカにプロポーズしたとき、彼女は警察官は嫌だと言った。危険と隣り合わせで生きている、そんな男を愛せない、と。俺が項垂れると、その俺にそっと唇を寄せながら、彼女はこうつぶやいたのだ。「それでも、シーン、私が信じられるのはあなただけなの、ひどいわね?」。
記憶の中のジェシカの唇が、ナタシアの淡いピンクの唇と重なる。その二重に揺らめく唇が、俺の口に吸いついてくる。少し舌を出して俺の唇を舐める、その瞬間、俺は我を失った。
「ジェ、シカ!」
呻きながら引き寄せた身体が俺の腕の中で柔らかくしなった。
「スープ!」
「はい」
「シーン、来ねえぞ?」
「来ませんね」
「来ませんね、じゃねえだろうが」
ファレルが眉をしかめて俺にぼやいた。
「そんな酷いゲリなのか?」
「あ、えーと」
「朝からヤったのか?」
「いえ」
「じゃあ何でゲリなんだよ?」
「たぶん風邪だと」
「風邪引かせるようなことしてたのか?」
「いえ、ですから」
これはたぶん絡まれてるのだろう。俺は部屋の隅からコーヒーを2つ持ってきた。
「どうぞ」
「うん」
「シーンに連絡取りましょうか?」
「便所じゃ出れねーだろ」
「そうですね」
「長いクソだな」
「はは」
ぎりぎりのジョークに笑ってみせる。
俺も気になっている。時計は昼を回っている。幸いに事件通報は入っていない。だが、いつまでも所在不明では通らない。
まさかとは思うが、何かあったのだろうか。ナタシアのところへ行ったまま、事件に巻き込まれたのだろうか。この前みたいに、連絡したくてもできない状況に置かれているのだろうか。
募る不安に時計を見上げていると、ファレルが大袈裟に溜息をついた。
「どうすんだ? この書類の山は?」
「俺がやりますよ」
「んじゃあ、こっちもやってくれ」
「はい」
「これもできるか?」
「ええ」
「ついでにこれも」
「わかりました」
積み上げられた書類を片付けていると、ファレルが俺を見つめている。
「何ですか?」
「なあ」
「はい」
「シーンのこと」
「はい」
「好きか?」
まっすぐに尋ねられて咄嗟に答えられなかった。
「なあ?」
「急ですね」
「好きか?」
「好きですよ」
「その」
「はい?」
「恋人とか、そういう意味で?」
「はい」
「お前はROBOTだからわかんねえだろうが」
「……」
「あいつは酷い目に合ってる」
ファレルは短くなった煙草を押しつぶした。
「うんと、酷い目に。大事な相手を、仲間にやられてる」
「はい」
「だけど、へたっちゃいねえ」
「そう、ですね」
「たいしたやつだろ?」
「はい」
「けどさ、それでも必死に這い上がったんだ」
俺は書類から目を上げた。俺にまだまっすぐに目を据えたまま、ファレルが続ける。
「こいつはこの先、誰も好きにならねえって思ってた」
「……はい」
「優しいからさ、女は誤解するんだ」
「はい」
「けど、あいつが女に優しいのはジェシカに優しいってことだから、そのうち相手も気づくんだ」
「……」
「シーンが惚れてるのはジェシカだけだって」
「そう、でしょうね」
「俺は男同士ってのはよくわからねえが」
「……」
「ついでにROBOTの気持ちもわからねえが」
「はい」
「お前はそれでもいいのか?」
「え?」
「シーンはお前には惚れねえよ?」
俺はファレルを見返した。片目を損傷してから遮られている右目の視界がふいに眩んだ気がした。
「シーンが惚れるのは、ジェシカだけだ」
「……」
「それでも、お前は大丈夫なのか?」
ファレルの目には心配そうな光がある。俺が溜息をつくと、眉をしかめてファレルはうなった。
「いや、だからさ、俺にはわからねえけど」
「……ファレル」
「今まで続いた女はいねえんだよ」
「あの」
「なんかそのうちだめになる」
「ファレル」
「うん?」
「俺は」
言いかけて喉が詰まった。
シーンが俺には惚れない? そんなことはわかっている。シーンが魅かれているのは、俺の中にあるジェシカB.P.ゆえだ。
「俺は、わかってますから」
「そうか?」
「気長にやりますよ」
「そっか」
ファレルがほっとした顔で笑った。笑い返して書類に戻る。
シーンは俺には惚れない。シーンが惚れるのはジェシカだけだ。
「そんなことわかってるさ」
DOLLは幻だ。どれほど相手を陥落させても、快楽は一瞬、永久に相手の心をつなぎ止める道具にはならない。
ごく、と唾を呑んだ。ずっと動かしていなかったシンパシーシステムを作動させる。シーンの安否を確認するためだ。それだけだ。書類をめくりながら、開かれた感覚に意識を集中した。
「!」
「どうした?」
「いえ……書類を落としました」
俺はしゃがみ込んで、床に散った書類を拾う。机の下に手を伸ばしかけて、身体を走った甘い感覚に唇を噛む。吐息の気配。とろける舌の感覚。優しく包まれ撫で摩られる掌の動きを、ナタシアが感じてるそれを、はっきりと感じ取って下腹部が熱くなる。
「すみません」
「ん?」
「俺も腹具合が」
「へ?」
きょとんとするファレルにトイレへ向かう。
「ROBOTもゲリすんのかあ?」
背後の声にたじろぐまでもなく、個室に飛び込み、座り込んだ。
「ああ……」
両腕で身体をしっかり抱いてないと、身をよじって崩れそうだ。シンパシーシステムが切れない。暴走し始めた感覚がナタシアの身体に広がった波を一つ残らず読み取ってしまう。
「……んっ……っく……」
漏れた声に唇を噛んだ。
「……シーンっ……」
それはナタシアが放った声だったのか、それとも俺が呻いた声だったのか。
弾け飛ぶような感覚に呼吸を乱して崩れる。一瞬向こうが意識を飛ばしたのか、僅かな隙ができて、俺はようようシンパシーシステムを切った。
静まり返った個室は冷えきっている。俺はのろのろと立ち上がった。全身が細かく震えて思うように動かない。
部屋に戻るとファレルが驚いた顔になった。
「おい、真っ青だぞ?」
「すみ、ません、一度、戻っていい、ですか?」
「あ、ああ」
「書類、置いておいて、下さい、明日にでも、やります」
「わかった、気をつけろ、な?」
「はい」
何とか車を運転して家に戻る。鍵もなかなか開けられなくて、脂汗を流しながらようやく中に転がり込む。
すぐに座り込んでしまいそうな身体を引きずるように階段を上がった。ベッドは朝シーンが起きたままで乱れている。上着を脱ぐのが精一杯で、そのまま倒れるようにベッドに寝そべった。
「はっはっ」
息苦しい。胸が痛い。身体中が痛い。
どうしたのだろう。シンパシーシステムは切った。別にナタシアに死の危険が迫ったわけではない。今はシーンが側にいて、彼女は安全に守られているはずだ。きっと、たぶん、シーンの腕の中で。あの温かな身体の側で。安らぎを分け与えられて。
「ふっ」
ふいに襲ってきた寒さに身体が震えを増した。システムエラーか? 荒い呼吸を何とか整えようとしながら、目を開くと、窓の外に雪が舞っているのが見えた。
「ひぅ」
微かな呻きを漏らしてしまい、思わず手足を引き寄せ縮め、目を閉じてベッドに蹲る。
痛い。痛い。痛い。痛い。
まるで、あの夜みたいだ。動けなくて、四肢を次々撃ち飛ばされて。
痛覚機能が切れなかった。衝撃が強過ぎて、一ケ所切る間に何ケ所も撃たれた。
けれど、あのときはシーンが居た。俺をコートで包んでくれて、雪から、白くなるほどの痛みから守ってくれた。
だが、今ここにシーンはいない。たぶん、これから先も、俺の側に、シーンは、いない。
「あ、ぅっ」
身体が震える。涙が零れる。ベッドに蹲っているはずなのに、改めて手足を切り刻まれていくようだ。痛覚機能が切れない。ずきずきして晒された感覚が端から切り飛ばされて失われていく。次はどこだ? どこをやられる? どこを消される? 俺の存在はどんどん欠けていく。
消したはずの記憶が戻って、抱えてたはずの記憶が指の間から抜け落ちていく。消された俺に代わっていくのは、B.P.だ。仕込まれたB.P.が俺を侵し、呑み込み、すりつぶしていく。俺がなくなる。かけらになって砕かれて。スープ、は消える。残るのは、何だ?
「はっ……はっ……はっ」
身悶える。意識が細切れになっていくのに、気を失えない。
「シーンっ」
戻ってきて。俺のポイントを貫いて。俺の機能を止めて。記憶が暴走して、身動きできない。ROBOTなのに。DOLLなのに。最強のオリーブ・ドラゴンなのに。傷つくことなんてあるはずがないのに。
「く……ぅっ」
身体をきつく抱きながら、俺は終わらぬ痛みに一人、もがき続けた。
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