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6.BLACK BOX
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「やめたんじゃなかったのか」
「あん?」
煙草をくわえたとたんにファレルが声をかけてきた。
「やめたよ、きれいさっぱり」
「やめてないじゃないか」
「吸いたくなったんだよ」
「やめたって言うのか」
「10年と5日間はやめた」
「とめてたの間違いだろ」
「なぁ、ファレル」
俺は煙草に火をつけないまま上下させた。
「もし、誰かに『あなたが欲しい』って言われたら、どういう意味だ?」
ひゅう、とファレルはへたな口笛を吹いてみせる。
「そりゃ、告白だろう」
「ああ」
「好きだってことじゃないのか」
「やっぱりな」
「はっきり言えば寝ようってことだ」
「だよなー」
ぐったりしながら火をつけた。吸い込むと一瞬目がちかちかして、頭の中がからっぽになる感覚が戻ってくる。
ただ、今回は全くからっぽになってくれなかったが。
「ジェシカ亡き後10年か、長い禁欲生活ともおさらばだな」
「そう単純じゃねえんだよ」
「サイコ野郎も始末した、始末書も書き上げた。今日は珍しく事件も起こってない。楽しんできてもいいぞ」
「はぁ」
のろのろ立ち上がる。
「とりあえず、確かめてくっか」
やつは最終ステップのチェックとやらで医療セクションで横になっていた。首筋から細い銀のコードが伸びている。
なるほど、あれが命のコードな、と納得した。
「シーン」
「よ」
「暇なんですか?」
「ああ、そっちは」
「大丈夫です、新しい腕は高機能ですよ」
やつはにこにこ笑って片腕を剥き出してみせた。
医療セクションの緑衣の下にはほどよく肉のついた滑らかな腕が伸びている。その肩口少し下から、それと気にしなければわからないほどの色調が変わっている。
「外してマシンガンになったりして」
「なるのか?」
「なりません」
「あのな」
「実は脚の方が外してミサイルに」
「ならねえな?」
「なりません」
くすくす、と楽しそうに笑った。
「明日から勤務に戻ります」
「気持ちの方は」
「シーン、俺はROBOTですよ?」
やつは静かな顔で俺を見返した。
「記憶は処理出来ます」
「じゃあ」
「すぐに忘れる」
「あれも?」
「あれ?」
「あれだよ」
「あれって」
「最後のやつ」
「ああ」
にやりと人の悪い笑みを広げる。
「あなたが、欲しい」
ああ、そっか、あれは冗談だったのか。その笑みをみたとたんに思った。
「なんだ」
「何が」
「俺はつい」
「つい、なんです?」
「まじにとった」
「何を」
「俺が欲しいって」
「ああ」
「状況が状況だったし」
「すみません」
「お前が冗談を言えるとは」「あんなときに頼むなんて」
声が交錯してお互いに沈黙する。
「は?」
「はい?」
「何だって?」
「え、だから」
「あれは冗談だよな?」「いえ本気ですが」
再び沈黙。無意識に煙草を探してしまった。
「本気っていうと」
「ええ、つまり」
「俺と寝たいって」「あなたのDNAが欲しいと」
「はぁ?」「え?」
三度、部屋を沈黙が支配する。
「ちょっと待て」
「はい」
「何が欲しいって?」
「あなたのDNAが」
「なんで」
「俺がDOLLだってことは」
「聞いた」
「DOLLは目的をもって作られる」
「それも知ってる」
「俺の目的は重要なDNAの回収です」
まっすぐな目が俺を見た。わかる。ごまかされてはいない。理解はできていなかったが。
「何でだ?」
「はい?」
「何で俺の」
「あなたのDNAには貴重な情報がある」
「は?」
「ある特殊な感染症に対する抗体の情報が先天的に備わっているんです」
「初耳だ」
「そうでしょうね」
「じゃあ」
俺は眉をしかめた。
「別に俺の髪の毛でも皮膚でも」
「検体は別なものがいいと判断されました」
「いや、それなら」
「はい」
「抜くとか何とか」
「それが」
スープは微妙な顔になった。
「人間というのはおかしなものですね」
「は?」
「行為の結果のものが一番状態がいいそうです」
「……」
「ということで」
「待て」
「俺が選ばれました」「いや、待てって!」
思わず喚く。何か根本的に間違ってる。そんな気がする。
「どうして女じゃないんだ?」
初めてやつは気まずそうな顔になった。
「あなたはジェシカさんのことを忘れていないと」
「……ああ」
「この10年間、交渉が続いた女性はいない」
「……」
「多少の情報もあります」
「…けっ」
「いつもとても紳士だったと」
「…………」
大きく溜息をついた。誰だ、好き勝手なことをしゃべりやがったのは。
確かに女を抱こうとすると、決まってジェシカの顔がフラッシュバックする。口を開けられたりするとかなりまずい。真っ赤な唇も舌もお断りだ。
「だからって」
「え?」
「男は無理だ」
「……」
「ジェシカを殺ったやつはゲイだぞ?」
「……」
「しかも俺の同僚だ」
そう言えば、あのサイコ野郎は、どうしてあいつ特有の呼び方を知っていたのだろう。まるで、俺を知っているようにふるまっていた。
「お前も同僚だ」
「ええ」
「しかも、男だ」
「はい」
「ついでにROBOTだ」
「そうですね」
「設定自体がまずいだろ?」
また沈黙。
「第一、どうする気なんだよ?」
「はい?」
「だから」
「どうするって?」
「どっちをする気なんだ?」
「は?」
「どっちでもいいのか?」
「あの」
「俺はゲイじゃねえ」
「はい」
「やり方も知らねえ」
「はい」
「お前がどういう状態、なのかも知らねえ」
「あの?」
「一緒に風呂に入ったこともねえしな」
ちょっと笑えたが、すぐに疲れた。
「感覚ってのはあるのか?」
「は?」
「快感とか感じたり」
「知覚機能はありますが」
「いや、そうじゃなくて」
「はい?」
「……何か、根本的なとこが間違ってるぞ」
目を上げると、やつが妙に嬉しそうに笑っているのに気づいた。
「なんで笑ってる?」
「え?」
「嬉しそうだな」
「笑ってますか?」
「ああ、凄く……嬉しそうだ」
「そうですか?」
スープは顔を触った。
「おかしいな」
「おかしいのか?」
「嬉しいとは思ってないんですが」
「じゃあ、どう思ってるんだ?」
「問題山積だと」
くそ真面目な顔で頷かれて、俺はさらに疲れた。
「わかった、今日は休め」
「はい」
「俺も休む」
「わかりました」
「この問題は」
「はい?」
立ち上がった俺を無邪気に見上げたやつに大きく溜息をつく。
「しばらく触れるな」
「わかりました」
やつが復帰したのは翌日だった。戻ったとたんに呼び出しがかかる。
「シーン、ひったくりだ」
「おう」
「刃物を持ってる」
「わかった、いくぞ、スープ」
「はいっ」
「今度は人間だ、殺んなよ」
ファレルの声を背中に署を飛び出して、夕闇に沈む街へ車を走らせた。
スープに関しては、サイコがDOLLだったことをどうして知らせなかったのか、どこから指示されての配属なのか、いろいろ問題はある。
だが、犯罪は待ってくれないし、署は慢性的に人出不足だ。つまりはそういうことだ。
通報があったのは32区、数分内で入り組んだ路地の端っこに辿りつく。
「今どこにいるんですか?」
「こっちへ向かって走ってるそうだ」
インカムから流れてくる情報を聴き取る。
「清掃局は呼ぶなよ」
「はい」
スープが薄く笑う。穏やかで落ち着いた目。一昨日の夜が嘘みたいだ。
路地の向こうに足音と人影が入り乱れ、そこで小さな悲鳴があがった。
「ちっ」
「新しい被害者ですか」
「誰だ、向こうで野放しにした奴は」
32区は街の境に隣接している。路地一つで別の管轄になってしまうからやっかいだ。
路地に走り込みながら、こちらへ向かって駈けてくる奴を迎えうつ。
右手に派手に血に染まったナイフをかざして、まっすぐ突っ込んでくるわりには足元が確かだ。まだ若い。二十歳も越えてない。
「どけえっ」
「ふ」
「さっさとどけええ」
「どけと言われて」
体を躱しながら、流れたナイフの右手首を掴む。
「どく刑事はいねえよ」
「うああっ」
「相手を選べ」
「ぐひゃっ」
男の体がくるりと右手首を支点に舞って、背後へ落ちる。呻いて動かなくなった、と思いきや、一瞬の隙をついて飛び起きた。そのまま前へ走り出す。舌打ちして後を追う。手加減し過ぎたか。
「スープ!」
まだ路地の入り口にいたやつを呼ぶ。
「確保しろ!」
だが、スープは動かなかった。真っ白な顔に大きく目を見開いて、凍りついたように立っている。そればかりか、突っ込んできた男に突き飛ばされて、よろめいて壁に叩きつけられた。
「スープ?!」
「邪魔すんなっ」
男は突っ込んだ自分を棚に上げて、壁に背中をつけたスープの胸を掴んだ。
「なんだっ、こいつっ」
「やめろっ」
「重い? ROBOTか、くそっ」
駆け寄る俺に苛立ったようにスープを突き飛ばす。それにまたよろよろとスープがよろめいて座り込み、俺は目を疑った。
「でくのぼうか」
「おいっ」
「あばよ」
男が自棄になったのか、スープの顔めがけてナイフを突き出す。細く高い悲鳴があがって、俺は必死に走り込んだ。間一髪、男の足元にタックルをかませて引き倒す。ナイフを放り出して吹っ飛んで、何が起こったかわからぬらしい相手をひっくり返し、弛んだシャツの襟で絞める。
数分かからずに落ちた男をうつぶせて手錠をかけ、さすがに喘いで顔を上げると、壁際に座り込んだスープが真っ青になって口を押さえていた。
「スープ?」
「っ」
「大丈夫か?」
「……」
「落ち着け、深呼吸しろ」
「……」
涙ぐみながら頷く相手にそっと近寄る。
「お前」
「……」
潤んだ目が俺を見上げた。
「記憶処理、してないのか」
フラッシュバック。人間ならばそう言われるものだろう。
似たような路地、雪が積もったような埃のたまった道、冷えた夜気。置き去られて四肢を拳銃で撃ち飛ばされた。身動きできずに無抵抗なまま屠られた。その記憶がそっくりな状況に恐怖を再現する。
「うぉ…」
「っ!」
「大丈夫だ」
「シ……ン……」
背後で男が呻いただけで、スープは竦んだ。声をかけた俺にすがるように手を伸ばしてくるのを、そっと抱え込んでやる。がたがた全身で震えているのに、静かに声をかける。
「大丈夫だ」「大丈夫だ」「もう傷つかない」「終わってる」「終わったことだ」
両手足を縮めて震えていたやつが、ぎゅっと体を掴んできた。小さい男の子のようにしがみついて俯き呻く。
「シーン」
昔。
ジェシカの一件で、俺も何度もフラッシュバックを経験した。今でもときどき起こすことがある。
けれど、今の俺はそれが幻だとわかっている。もう制御できるし、記憶にいいように嬲られたりはしない。
だが、10年前の俺はそうじゃなかった。目の前でジェシカが殺されるような恐怖、それが時には自分が殺しているような恐怖にさえ擦り変わる。
その苦痛をわかるのは、残念ながら経験者であることが多い。俺を助けてくれたのも、被害者になったことがある精神科の医師だった。
「す、すみません」
なおもかたかたと歯を鳴らしながら、スープはつぶやいた。
「忘れたく、なくて」
「え?」
「忘れたくなくて、処理、しませんでした」
「何を」
「……」
苦しそうに眉をしかめて目を閉じる。初めての経験なのだろう、汗を流しながら必死に堪え、やがて虚ろな目を上げた。
「戻ったら」
「ん?」
「戻ったら、処理、します」
「ああ」
「護衛が果たせません」
「そうだな」
「すみません」
「謝るな」
「でも」
「謝らなくていい」
「しかし」
「人間ならもっと酷いことになってる」
やつは瞬きした。よし、少し瞳に光が戻ってきた。
「ROBOTで良かったな」
笑いかけてやった。
人間ならばとうに死んでいたし、生き残って二日後に同じ状況になることなんてありえない。ROBOTだからあり得る状況、ROBOTだから繰り返し味わう恐怖。
だから、ほんとのところは良かったのかどうか怪しいもんだが、この際良いことにしよう。
「すぐに処理しろ」
「はい」
「苦しむ記憶なんて持ってなくていい」
「わかりました、でも」
「でも?」
スープは瞳を揺らせた。
「難しいものですね」
「え?」
「失いたくない記憶も混じってるのに」
「何が」
殺されかけた記憶のどこが失いたくない記憶なのかと顔をしかめた俺に、ようやく顔色がましになってきたやつがあやふやな声で吐く。
「俺は」
「うん」
「嬉しかった」
「はぁ?」
お前、マゾ? ROBOTなのに、ゲイでマゾ?
ぶつぶつ呟く俺に苦笑し、体を押しのける。
「もう、大丈夫です」
「ああ」
何とか立ち上がったスープに腕を貸し、インカムで確保を知らせた。
「人間は」
「あん?」
「大変ですね」
「何が」
「いつでもこんな気持ちになるんですか?」
「ああ……だが、いつでも誰でもってことはない」
「でも」
「うん」
「刑事でいるなら、こんなことはよくあること、ですよね」
「そうだな」
「どうやって乗り越えるんです?」
不安そうな顔で振り返るのに、肩を竦めてみせる。
「忘れるのさ」
「記憶処理ですか?」
「まあな」
「どうやって」
「箱ん中へ閉じ込める」
「箱?」
「めったに開けない心の底の箱にな」
「そう、ですか」
スープは何ごとか考えてる。やがて
「ジェシカさんのことも?」
「ジェシカのことは」
溜息が出た。
「まだ箱に入ってねえ」
「そう、ですか」
スープは掴んでいた俺の腕を離した。
「忘れます」
「うん?」
「記憶処理して、忘れることにします」
「そうしろ」
「はい」
ふいと、スープは唐突に空を見上げた。
「雪が降ればいいのに」
どこか頼りない声でぽつりとつぶやいた。
「あん?」
煙草をくわえたとたんにファレルが声をかけてきた。
「やめたよ、きれいさっぱり」
「やめてないじゃないか」
「吸いたくなったんだよ」
「やめたって言うのか」
「10年と5日間はやめた」
「とめてたの間違いだろ」
「なぁ、ファレル」
俺は煙草に火をつけないまま上下させた。
「もし、誰かに『あなたが欲しい』って言われたら、どういう意味だ?」
ひゅう、とファレルはへたな口笛を吹いてみせる。
「そりゃ、告白だろう」
「ああ」
「好きだってことじゃないのか」
「やっぱりな」
「はっきり言えば寝ようってことだ」
「だよなー」
ぐったりしながら火をつけた。吸い込むと一瞬目がちかちかして、頭の中がからっぽになる感覚が戻ってくる。
ただ、今回は全くからっぽになってくれなかったが。
「ジェシカ亡き後10年か、長い禁欲生活ともおさらばだな」
「そう単純じゃねえんだよ」
「サイコ野郎も始末した、始末書も書き上げた。今日は珍しく事件も起こってない。楽しんできてもいいぞ」
「はぁ」
のろのろ立ち上がる。
「とりあえず、確かめてくっか」
やつは最終ステップのチェックとやらで医療セクションで横になっていた。首筋から細い銀のコードが伸びている。
なるほど、あれが命のコードな、と納得した。
「シーン」
「よ」
「暇なんですか?」
「ああ、そっちは」
「大丈夫です、新しい腕は高機能ですよ」
やつはにこにこ笑って片腕を剥き出してみせた。
医療セクションの緑衣の下にはほどよく肉のついた滑らかな腕が伸びている。その肩口少し下から、それと気にしなければわからないほどの色調が変わっている。
「外してマシンガンになったりして」
「なるのか?」
「なりません」
「あのな」
「実は脚の方が外してミサイルに」
「ならねえな?」
「なりません」
くすくす、と楽しそうに笑った。
「明日から勤務に戻ります」
「気持ちの方は」
「シーン、俺はROBOTですよ?」
やつは静かな顔で俺を見返した。
「記憶は処理出来ます」
「じゃあ」
「すぐに忘れる」
「あれも?」
「あれ?」
「あれだよ」
「あれって」
「最後のやつ」
「ああ」
にやりと人の悪い笑みを広げる。
「あなたが、欲しい」
ああ、そっか、あれは冗談だったのか。その笑みをみたとたんに思った。
「なんだ」
「何が」
「俺はつい」
「つい、なんです?」
「まじにとった」
「何を」
「俺が欲しいって」
「ああ」
「状況が状況だったし」
「すみません」
「お前が冗談を言えるとは」「あんなときに頼むなんて」
声が交錯してお互いに沈黙する。
「は?」
「はい?」
「何だって?」
「え、だから」
「あれは冗談だよな?」「いえ本気ですが」
再び沈黙。無意識に煙草を探してしまった。
「本気っていうと」
「ええ、つまり」
「俺と寝たいって」「あなたのDNAが欲しいと」
「はぁ?」「え?」
三度、部屋を沈黙が支配する。
「ちょっと待て」
「はい」
「何が欲しいって?」
「あなたのDNAが」
「なんで」
「俺がDOLLだってことは」
「聞いた」
「DOLLは目的をもって作られる」
「それも知ってる」
「俺の目的は重要なDNAの回収です」
まっすぐな目が俺を見た。わかる。ごまかされてはいない。理解はできていなかったが。
「何でだ?」
「はい?」
「何で俺の」
「あなたのDNAには貴重な情報がある」
「は?」
「ある特殊な感染症に対する抗体の情報が先天的に備わっているんです」
「初耳だ」
「そうでしょうね」
「じゃあ」
俺は眉をしかめた。
「別に俺の髪の毛でも皮膚でも」
「検体は別なものがいいと判断されました」
「いや、それなら」
「はい」
「抜くとか何とか」
「それが」
スープは微妙な顔になった。
「人間というのはおかしなものですね」
「は?」
「行為の結果のものが一番状態がいいそうです」
「……」
「ということで」
「待て」
「俺が選ばれました」「いや、待てって!」
思わず喚く。何か根本的に間違ってる。そんな気がする。
「どうして女じゃないんだ?」
初めてやつは気まずそうな顔になった。
「あなたはジェシカさんのことを忘れていないと」
「……ああ」
「この10年間、交渉が続いた女性はいない」
「……」
「多少の情報もあります」
「…けっ」
「いつもとても紳士だったと」
「…………」
大きく溜息をついた。誰だ、好き勝手なことをしゃべりやがったのは。
確かに女を抱こうとすると、決まってジェシカの顔がフラッシュバックする。口を開けられたりするとかなりまずい。真っ赤な唇も舌もお断りだ。
「だからって」
「え?」
「男は無理だ」
「……」
「ジェシカを殺ったやつはゲイだぞ?」
「……」
「しかも俺の同僚だ」
そう言えば、あのサイコ野郎は、どうしてあいつ特有の呼び方を知っていたのだろう。まるで、俺を知っているようにふるまっていた。
「お前も同僚だ」
「ええ」
「しかも、男だ」
「はい」
「ついでにROBOTだ」
「そうですね」
「設定自体がまずいだろ?」
また沈黙。
「第一、どうする気なんだよ?」
「はい?」
「だから」
「どうするって?」
「どっちをする気なんだ?」
「は?」
「どっちでもいいのか?」
「あの」
「俺はゲイじゃねえ」
「はい」
「やり方も知らねえ」
「はい」
「お前がどういう状態、なのかも知らねえ」
「あの?」
「一緒に風呂に入ったこともねえしな」
ちょっと笑えたが、すぐに疲れた。
「感覚ってのはあるのか?」
「は?」
「快感とか感じたり」
「知覚機能はありますが」
「いや、そうじゃなくて」
「はい?」
「……何か、根本的なとこが間違ってるぞ」
目を上げると、やつが妙に嬉しそうに笑っているのに気づいた。
「なんで笑ってる?」
「え?」
「嬉しそうだな」
「笑ってますか?」
「ああ、凄く……嬉しそうだ」
「そうですか?」
スープは顔を触った。
「おかしいな」
「おかしいのか?」
「嬉しいとは思ってないんですが」
「じゃあ、どう思ってるんだ?」
「問題山積だと」
くそ真面目な顔で頷かれて、俺はさらに疲れた。
「わかった、今日は休め」
「はい」
「俺も休む」
「わかりました」
「この問題は」
「はい?」
立ち上がった俺を無邪気に見上げたやつに大きく溜息をつく。
「しばらく触れるな」
「わかりました」
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「シーン、ひったくりだ」
「おう」
「刃物を持ってる」
「わかった、いくぞ、スープ」
「はいっ」
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ファレルの声を背中に署を飛び出して、夕闇に沈む街へ車を走らせた。
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「こっちへ向かって走ってるそうだ」
インカムから流れてくる情報を聴き取る。
「清掃局は呼ぶなよ」
「はい」
スープが薄く笑う。穏やかで落ち着いた目。一昨日の夜が嘘みたいだ。
路地の向こうに足音と人影が入り乱れ、そこで小さな悲鳴があがった。
「ちっ」
「新しい被害者ですか」
「誰だ、向こうで野放しにした奴は」
32区は街の境に隣接している。路地一つで別の管轄になってしまうからやっかいだ。
路地に走り込みながら、こちらへ向かって駈けてくる奴を迎えうつ。
右手に派手に血に染まったナイフをかざして、まっすぐ突っ込んでくるわりには足元が確かだ。まだ若い。二十歳も越えてない。
「どけえっ」
「ふ」
「さっさとどけええ」
「どけと言われて」
体を躱しながら、流れたナイフの右手首を掴む。
「どく刑事はいねえよ」
「うああっ」
「相手を選べ」
「ぐひゃっ」
男の体がくるりと右手首を支点に舞って、背後へ落ちる。呻いて動かなくなった、と思いきや、一瞬の隙をついて飛び起きた。そのまま前へ走り出す。舌打ちして後を追う。手加減し過ぎたか。
「スープ!」
まだ路地の入り口にいたやつを呼ぶ。
「確保しろ!」
だが、スープは動かなかった。真っ白な顔に大きく目を見開いて、凍りついたように立っている。そればかりか、突っ込んできた男に突き飛ばされて、よろめいて壁に叩きつけられた。
「スープ?!」
「邪魔すんなっ」
男は突っ込んだ自分を棚に上げて、壁に背中をつけたスープの胸を掴んだ。
「なんだっ、こいつっ」
「やめろっ」
「重い? ROBOTか、くそっ」
駆け寄る俺に苛立ったようにスープを突き飛ばす。それにまたよろよろとスープがよろめいて座り込み、俺は目を疑った。
「でくのぼうか」
「おいっ」
「あばよ」
男が自棄になったのか、スープの顔めがけてナイフを突き出す。細く高い悲鳴があがって、俺は必死に走り込んだ。間一髪、男の足元にタックルをかませて引き倒す。ナイフを放り出して吹っ飛んで、何が起こったかわからぬらしい相手をひっくり返し、弛んだシャツの襟で絞める。
数分かからずに落ちた男をうつぶせて手錠をかけ、さすがに喘いで顔を上げると、壁際に座り込んだスープが真っ青になって口を押さえていた。
「スープ?」
「っ」
「大丈夫か?」
「……」
「落ち着け、深呼吸しろ」
「……」
涙ぐみながら頷く相手にそっと近寄る。
「お前」
「……」
潤んだ目が俺を見上げた。
「記憶処理、してないのか」
フラッシュバック。人間ならばそう言われるものだろう。
似たような路地、雪が積もったような埃のたまった道、冷えた夜気。置き去られて四肢を拳銃で撃ち飛ばされた。身動きできずに無抵抗なまま屠られた。その記憶がそっくりな状況に恐怖を再現する。
「うぉ…」
「っ!」
「大丈夫だ」
「シ……ン……」
背後で男が呻いただけで、スープは竦んだ。声をかけた俺にすがるように手を伸ばしてくるのを、そっと抱え込んでやる。がたがた全身で震えているのに、静かに声をかける。
「大丈夫だ」「大丈夫だ」「もう傷つかない」「終わってる」「終わったことだ」
両手足を縮めて震えていたやつが、ぎゅっと体を掴んできた。小さい男の子のようにしがみついて俯き呻く。
「シーン」
昔。
ジェシカの一件で、俺も何度もフラッシュバックを経験した。今でもときどき起こすことがある。
けれど、今の俺はそれが幻だとわかっている。もう制御できるし、記憶にいいように嬲られたりはしない。
だが、10年前の俺はそうじゃなかった。目の前でジェシカが殺されるような恐怖、それが時には自分が殺しているような恐怖にさえ擦り変わる。
その苦痛をわかるのは、残念ながら経験者であることが多い。俺を助けてくれたのも、被害者になったことがある精神科の医師だった。
「す、すみません」
なおもかたかたと歯を鳴らしながら、スープはつぶやいた。
「忘れたく、なくて」
「え?」
「忘れたくなくて、処理、しませんでした」
「何を」
「……」
苦しそうに眉をしかめて目を閉じる。初めての経験なのだろう、汗を流しながら必死に堪え、やがて虚ろな目を上げた。
「戻ったら」
「ん?」
「戻ったら、処理、します」
「ああ」
「護衛が果たせません」
「そうだな」
「すみません」
「謝るな」
「でも」
「謝らなくていい」
「しかし」
「人間ならもっと酷いことになってる」
やつは瞬きした。よし、少し瞳に光が戻ってきた。
「ROBOTで良かったな」
笑いかけてやった。
人間ならばとうに死んでいたし、生き残って二日後に同じ状況になることなんてありえない。ROBOTだからあり得る状況、ROBOTだから繰り返し味わう恐怖。
だから、ほんとのところは良かったのかどうか怪しいもんだが、この際良いことにしよう。
「すぐに処理しろ」
「はい」
「苦しむ記憶なんて持ってなくていい」
「わかりました、でも」
「でも?」
スープは瞳を揺らせた。
「難しいものですね」
「え?」
「失いたくない記憶も混じってるのに」
「何が」
殺されかけた記憶のどこが失いたくない記憶なのかと顔をしかめた俺に、ようやく顔色がましになってきたやつがあやふやな声で吐く。
「俺は」
「うん」
「嬉しかった」
「はぁ?」
お前、マゾ? ROBOTなのに、ゲイでマゾ?
ぶつぶつ呟く俺に苦笑し、体を押しのける。
「もう、大丈夫です」
「ああ」
何とか立ち上がったスープに腕を貸し、インカムで確保を知らせた。
「人間は」
「あん?」
「大変ですね」
「何が」
「いつでもこんな気持ちになるんですか?」
「ああ……だが、いつでも誰でもってことはない」
「でも」
「うん」
「刑事でいるなら、こんなことはよくあること、ですよね」
「そうだな」
「どうやって乗り越えるんです?」
不安そうな顔で振り返るのに、肩を竦めてみせる。
「忘れるのさ」
「記憶処理ですか?」
「まあな」
「どうやって」
「箱ん中へ閉じ込める」
「箱?」
「めったに開けない心の底の箱にな」
「そう、ですか」
スープは何ごとか考えてる。やがて
「ジェシカさんのことも?」
「ジェシカのことは」
溜息が出た。
「まだ箱に入ってねえ」
「そう、ですか」
スープは掴んでいた俺の腕を離した。
「忘れます」
「うん?」
「記憶処理して、忘れることにします」
「そうしろ」
「はい」
ふいと、スープは唐突に空を見上げた。
「雪が降ればいいのに」
どこか頼りない声でぽつりとつぶやいた。
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