『未来を負うもの』

segakiyui

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2.邪神『夏越』

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 暗闇の中に淡く輝く水槽がある。
 大人が両手を広げたぐらいの大きさ、中にはねっとりと真珠色に光る液体がたたえられていて、たぷ、たぷ、と重苦しく揺れている。
 水槽のほぼ中央に、人間の胎児のような生き物が浮かんでいた。白い体、大きなつるりとした頭。
 細い手足が動いている。頭の真中あたりにある赤い目が二つ、その瞳は人間全てを憎んででもいるような傲慢さで光っている。
  ー真竹カ。
 人の胸に直接響いて来るような奇妙な『声』がつぶやいた。
 水槽以外は深い闇に沈んでいる。暗がりの中から、水槽からの光を浴びて、1人の男が突然現れた。
 男はうやうやしく水槽の中の胎児に向かって頭を下げた。
「浅葱豊が家に戻ります」
  ー息子トハ接触シタノカ。
「いえ、まだです。……しかし、本当に浅葱仁も超能力者でしょうか。これまでには、そういう徴候は見られなかったようですが。大人しい平凡な学生です。豊は確かに、DNAを操る念動力を持っておりましたが、超能力の遺伝は確認されていないのでは」
 口調は丁寧だが、どこかよそよそしい。
  ーダガ、DNAヲ変化サセルコトデ、超能力ガ発現スルノハ、私デ証明サレタ。豊ハ、コノ姿ガ気ニ入ラナカッタヨウダガナ。
 胎児はゆるやかに水槽の中で手を動かした。『声』はやはり胎児から響いているようだ。
  ー豊ガ使イモノニナラナイ以上、息子ニ期待スルシカナイダロウ。我々ノ数ハ、アマリニモ少ナスギル。自然進化デ、数ガ増エルノヲ待ツホド、気長ニハナレヌシナ。
 真竹はうなずいた。
「能力者を集めさせてはおりますが……。ああ、先日の内田正宗という少年にマイヤを接触させることにいたしました。彼女は内田に奇妙な波動を感じるが、能力者と言いきれないかもしれない、と申しております」
  ー可能性ガアルナラアタラセヨ。我々ニ従エバヨシ、背クナラ殺セ。仲間ハ必要ダガ、同ジ考エヲモタヌナラ敵ニナル。豊カモ、アルイハ。
 胎児は何ごとか考えるように動きを止めた。が、すぐにやがて、まるで微笑むかのように、真っ白な皮膚に切れ目が入ったような唇の端を吊り上げた。
  ー能力ノ発現ニハ『衝撃』ガイルナ。ソウダ。仁ノ前デ豊ヲ殺セ。不要ナ者デ、新シイ能力者を手ニ入れられれば、一石二鳥、無駄ナ命デハナクナルシナ。
 真竹の顔にそそけだったような寒々しい色が過ったが、反論することもなく、
「わかりました。では、内田の方は万が一に備えてさとるを同行させましょう。豊は秀人にやらせます。その方が」
 一瞬ためらったものの、おもねるように笑みを含ませた声で続けた。
「『衝撃的』でしょうから。もし、仁が発現した場合には如何致しましょうか」
  ー私ガ出ヨウ。
 息子の前で父親を殺すという計画にさえ動じなかった真竹が初めて怯えた顔になった。
 それに気づいた胎児が密やかにささやく。
  ー私ハ、従ウ者ニハ親切ダヨ、真竹。
「感謝しております、『夏越』様。……では」
 びくりと体を強ばらせた真竹は、それ以上そこにいるのが耐えられなかったように、そそくさと姿を消した。気配が部屋から消えると、『夏越』と呼ばれた胎児は、液体の中でゆっくりと指を組み合わせた。

 『夏越』は人類進化の次のステージが超能力を持つことにあると仮定して『つくられた』。
 当初、最新の遺伝子操作技術を駆使して、超能力と思われる力を発現する人間の遺伝子の中で、力を左右すると思われる遺伝子が探し求められたが、見つからなかった。
 最後の発案として、超能力者自身に、自分の力の源となる遺伝子を自ら検索確認させたが、その過程では多くの者が精神的身体的にダメージを受け、見つけたと伝えたものも確かにいるにはいたのだが、それが何なのかを報告するには至らなかった。
 だが、浅葱豊は極めてタフで柔軟な精神と身体を備えていた。彼は自らの内側の分析という困難な課題をクリアしたばかりか、それを心理的な事象としてばかりではなく、具体的な物体として認識することに成功した。
 簡単に言えば、超能力発現遺伝子を確定したのだ。
 だが、その発現には、他の物理的化学的な力ではなく、超能力のみが影響を与えられることも同時にわかった。
 人類をもっと早く『進化』させるために、密かに超能力による遺伝子操作が繰り返された。
 『夏越』はその果てに産み出された生命体だ。
 豊がいなければ、『夏越』はこの世に生を受けていない。

 『夏越』は今、自分を生み出した人間、豊のことを考えている。豊は『夏越』にとって一体何なのだろうか、と。
 そしてまた『夏越』は仁のことも考えた。自分が受け継いでいるであろう力のことも気づかずに、日々を身を竦めてほそぼそと生きている少年のことを。
 豊がいたから生まれたもの、豊がいなければ生まれなかったものとして、仁と『夏越』は同じ存在と言えるのだろうか。
 静まり返った部屋の中で真珠色に妖しく光る液体がゆっくりと揺れる。
 やがて、どこか淡い苦笑するような囁きが闇に響いた。
  ーオ前ガ自然ノ進化トシテ超能力ヲ得タトシタナラ、神ノ計画トハ皮肉ナモノダナ、仁。

「ったく、どうしてあそこまで『良い子』でいようとするんだか」
 内田はぼやきながら歩いている。
「開き直れば覇気のある奴なんだが」
 そうつぶやく彼の脳裏には、小学校の頃の仁が蘇っている。
 確か花壇の係だった。
 仁は毎日丁寧に水をやり、さぼりがちな内田にときどき文句を言った。
「花だって生きてるんだし、こっちの都合でこんなところに閉じ込めてるんだからね、ちゃんと水、やらなきゃ」「へえへえ」。
 植木鉢を大事そうに並べる仁の、おざなりに答えた内田に苦笑していた穏やかな顔。
 けれど、その顔が一度だけ、真っ赤になって破裂しそうな気を吐いた。学校出入りの業者が車のタイヤで花壇を壊し、挙げ句の果てにすぐ側にいた子ども達に謝りもしないで立ち去ろうとしたときだ。
 「待てよ!」
 車の前に両手を上げて立ちふさがったのは仁だった。
「謝れ、花に。謝れよ、ぼくたちに!」
 そう仁が叫んで一番驚いてたのは内田だったかもしれない。馬鹿な大人はどこにでもいる、そう冷ややかに見ていた自分を真正面から詰られた気がした。
 「どきなさい」「いやだ!」「急いでるんだ」「関係ない!」「たかが花ぐらい・・」
 ぎら、と仁の目が異様な光り方をした。男の背中まで正面から貫くような目、ふだんの仁とはまったく違う厳しい声で叫んだ。
「そう言って、あんたはたかが犬ぐらいって言うんだろう! たかが年取って身動き鈍い年寄りだって言うんだ!」
 その一瞬、真っ青になった業者の顔を内田は忘れない。びく、と身を引いた顔に視線が不安定に彷徨って仁を見た。「なんで…そんなこと……」そうつぶやいた弱々しい声。
 結局駆けつけた教師が間に入ってうやむやになったものの、その業者は学校に来なくなった。何でも、実は人を轢き逃げしていたのがわかったとか、そういう噂をちらりと聞いた。
 内田は興奮してそれを仁に伝えたが、「ふうん」と言った仁は、「ずいぶん枯れちゃったよ」としおれた花達に目をやって、ただただ悲しそうだった。
 あの時の別人のような仁、その仁に見愡れた自分を内田は覚えている。
 なんだ、こいつ。一体なにものなんだ。
 こいつの中に、何かわけのわからぬ荒々しいものが息をひそめている。それは、何だか普通じゃないものだ。あの業者を怯えさせたもの。内田の白けた態度を詰ったもの。
 そうだ、とてつもなく強くて激しい力、圧倒的な強さみたいなものがこいつの中にある、そう思った。
 それからいろいろなことがあって、特に父親がいなくなってからの仁は消え入りそうなほど控えめに暮している。あの時の気迫、あの時の煌めきを幻だと嗤うように片鱗も見せず。
 けれどきっと、何かのきっかけさえあれば、もう一度あの仁が見られるんじゃないか。いや、見せてほしい。あの何ものも侵せない強さでもう一度、竜巻きのような気持ちに巻き込んで欲しい。
 そう期待している自分が、そして、それに応える気配さえない仁が、内田には腹立たしい。
「ちはーす」
 『準備中』の札を無視して、内田は『ケーニッヒ』に入った。
 昼過ぎから開く喫茶兼会員制ミニサロン風の店、時代には渋すぎる正面のカウンターの奥でグラスを丁寧に磨いていたマスターが顔をあげる。五十代後半、もう少し年上かもしれない。物静かで親しみやすそうな気配は天性のものなのだろう。
 斜め後ろの棚に『ケーニッヒティーゲル』ーーキングタイガー戦車の精巧なプラモデルが埃もかぶらずにきちんと飾ってある。
 店の名前の由来だ。
「バイク、もらってくぜ」
「カバーかけといたよ。zII750は傷みやすいんだ」
「さすが元の持ち主、心遣いが濃やかで」
 内田がからかうと、マスターは露骨に溜息をついて見せた。
「濃やかにもなるさ、お前の乗り方をみてりゃ。いつおしゃかになるかと心配で心配で」
「俺が?」
「バイクが」
「へへっ」
 内田は笑った。ふてぶてしい笑みに目を上げた相手が、
「ところで、この間の女、また来たぞ。どこで泣かしてきたんだ」
「青少年に向かって、泣かしてきた、はないだろう」
 相変わらずふざけた内田をマスターが軽くにらむ。肩をすくめて内田は軽く首を振った。
「マイヤ何とかって、プラチナブロンドのきれーなおねーさんか? さあてな、不細工な野郎の知り合いなら幾らでも思いつくんだが」
 内田は眉をしかめた。
「内田はいつ来るんだって、何度も聞かれたよ。バイクがあるからいつかは必ず来る、って言っておいたが…家の方には来なかったのか?」
「来てねえな、たぶん。あの家にはほとんど誰もいないからな」
「親父さんもおふくろさんも帰らず、か」
「ああ、いろいろよろしくやってる」
 内田はメフィストフェレスのような笑みを返して首を振った。
「どっちも『立派』な大人でありがたいよ、ほんと」
 マスターは苦いものを含んだ顔になって吐息をついた。
「今日は園田街道で取り締まりがあるそうだ」
「わかった」
 内田はキーを受け取り、片手を振ってみせてから店を出た。
 店の横手にはマスターの私宅に通じる小道がある。入り込んで裏手に回ると、そこは小さな庭になっている。手入れもしていない、空き地のような空間だ。雑草がうっとうしく伸びている中、わずかに刈り込んで茶色の地面が出たところに、内田のバイクが止まっている。
 銀色のしんなりしたカバーを外そうと手を掛け、ふと内田は振り返った。
 背後で何かが動いたのだ。
「こんにちは」
 薄闇の中、白く輝く女が立っていた。
 年の頃は20歳前後、淡く光るプラチナブロンドのショートカットに縁取られた顔は透き通るような白さ、かなり端麗な目鼻が配置されている。グレイの瞳で微笑みかけて、白いワンピースを翻らせる、何
もかも白々として妙に現実感のない女。
「内田、正宗、さん」
「誰だ?」
 内田は相手のまばゆさに圧倒されながらも、ざわざわと体中の毛が立ち上がってくるような感覚を覚えた。
 この小道は狭い。バイクを押して通るのが精一杯だ。
 内田はそこを1人で入って来た。もし後ろから誰かがついて来ていたのなら、気配でそれとわかったはずだ。バイクがあったのは小さな庭、見渡しても2秒かからない。そこに確かに人はいなかった。
 なのに、女は今、内田の背後にいる。
 ふい、と小学校の頃の仁があの学校出入りの業者に叫んだ時のような、奇妙な感覚が蘇った。
(いったい、何が起こった? 何か、妙なふうに『つながって』ないか?)
「ご存知でしょう?」
 相手はにっこりと、きれいだけども感情のこもらぬ笑みを返して来た。
「マイヤ・プロセツカヤといいます」
「バレリーナには見えねえけどな」
「彼女のように、なれればよかったけど。才能を生かして生きられれば」
 マイヤはひんやりとした声で応じた。
「お話があるのです」
「よしておこう」
 内田は首を振った。
「親から、知らない人とは口をきくな、と言われてるんだ」
「若い『つばめ』と遊び歩いている母親が、ですか?」
 マイヤの指摘に内田は体を強ばらせた。
「それとも、家庭より愛人の方を大事にしている父親からの言いつけかしら」
「そっちこそ、よおくご存知じゃねえか」
 内田の声も冷えた。
「じゃあ、話は終わりだ」
 言い捨てて、相手がことばを継ぐ間も与えずに背中を向ける。そのそっけなさにたじろいだふうもなく、マイヤは尋ねた。
「憎いと思いませんか、大人達が。あなたを踏みにじっていくだけの大人達が作る社会が。あなたを認めない…人間達が」
 誘うような柔らかな口調だった。
「何が言いたい」
 内田は振り返った。マイヤが微笑する。逢魔が時にふさわしい、凄みのある艶やかな笑みだ。
「あなたにはあなたの知らない力がある。私達ならそれを十分生かせる。私達と来ない?」
「新手の宗教活動だな。あんたは自分の才能を生かしきれてないと言ってなかったか?」
 内田の冷淡な口調にマイヤが頬を染めた。
「まあ、いいや。悪いが、俺は俺以外の人間に従う気はなくってな。もっと他の、救いを心底求めてるやつ相手に働いてくれ」
 そうだ、たとえば、仁のような。
 そのことばは胸の奥にしまい込んで、内田はバイクのカバーを外し始めた。
「残念だわ」
 数秒の沈黙の後、ぽつりとマイヤの声が響いた。それと同時に、何か鋭いものが、内田の頬を掠めてカバーに刺さった。ナイフか剃刀か、どちらにしてもいきなり派手なことをしてくれる、と薄笑いしかけた内田はぎょっとした。
 銀のカバーにまるでカッターの刃のように刺さっていたのは、どう見ても、そこらに生えている雑草の『葉』だったのだ。
 何か理解しがたいことが起こっている。その直感がぞおっとした寒気となって、内田の背筋を走り上がった。
「て、めえ!」
「あなたは………危険な人だから」
 強ばる体を必死に動かして振り返った内田に、マイヤはささやくように続けた。彼女を囲むように周囲の草が空中に浮き上がっている。その足下で、見えない指先がなおも草を引きちぎり、細かな断片にして次々と空中へ巻き上げていく。
 ぬるりと内田の頬の傷から生暖かいものが流れた。ひりひりした痛みが周囲の葉を巻き上げる風にさらされ、危険を知らせる警告音のように身体の内側に響く。
 マイヤが微笑を深めた。
「『夏越』様には不要ね………さとる!」
「おっけー」
(来る!)
 とっさに両腕をあげて顔を庇った内田の耳に幼い子どもの声が響いた。同時に空に浮いていた葉が折り取ったカッターの無数の刃となって内田を襲った。

「あつっ・・」
「どうしたの? まだどこか痛むの?」
 ベッドから起き上がりかけた仁は、眉をしかめて頭を押さえた。
 教室で倒れたらしいことは覚えているが、内田に連れ帰ってもらったのも、家の近くでここでいいと断ったような気がするのも、母親に気分が悪いと言ったのも、どうにもふわふわとした朧な記憶になっている。
 心配そうに見た母親が、仁が答えないのに露骨にうろたえた顔で覗き込むのに、何とか平気なふうを装って笑って見せる。
「大丈夫だよ……ただちょっと頭が変で」
「頭が……変?」
 母親が今度は凍りつくのに、仁は慌てて手を振った。
「あ、違う、違うよ、何だかぼうっとしてるってこと。大丈夫、母さんのこともわかるし、自分がどこにいるかもわかってる」
「そう……」
 ほっとした顔になった母親に、仁はおそるおそる尋ねた。
「父さん……いないの?」
「とりあえずは帰ってきたんだけど、何も話そうとしないの。お医者様は、疲れているようだから、しばらくゆっくりさせてあげなさいっておっしゃるけど。いろんな話ももう少し後でって。でも」
 母親は眉をしかめた。
「あなたまで倒れるなんてどうしたの?」
 母親は父の失踪も病気のせいだったのだと言いたげな口調で尋ねた。
「うん……ちょっと」
 おかしなことが起こったんだ、と言いかけて、仁は口をつぐんだ。
 同じ花瓶が2度同じように割れるのを見た、などと誰が信じてくれるだろう。それはお前の妄想だ、頭の中の記憶のずれだと言われれば終わり、一緒にいた内田さえ、どこまで仁のことばを信じてくれただろう。
(内田)
「つっ」
 内田のことを考えた瞬間だった。再び、脳みそに針を突き立てられたような痛みを感じて、仁はうめいた。学校で倒れる寸前に、巨大な穴が開いたと感じた頭の中の同じ場所、同じような深くて暗い穴がふいにざっくりと口を開き、それがどんどん広がっていく。
「いたっ…」
「仁? 仁!」
 母親の声がうねりながら遠くなる。今度はさっきのような高い金属音は聞こえなかったが、目の前に見えていた光景が薄暗くなり、ぼんやりとした背景になり、そこに新たな画像が結んでいくのが見えた。
 銀色の塊。いや、銀色のカバーをかけたバイクだ。そこに、両手を顔の前で交差して何かを防いでいるような様子の内田がもたれている。そう、何か、に襲われている。とても危険な何かが内田に降り注いでいる。
 キン、と高く鋭い金属音が響いて、画像が変わった。
 内田が倒れている。場所は同じだ。ただ、側に白い女と子どもが一人立っている。内田を見下ろしているが助けようとする気配がない。内田は目を閉じて身動きしない。
(内田、死んでる?) 
 いや、違う。
 仁の胸の奥で何かがつぶやいた。
 まだそれは起こっていない。だがいずれは起こることなのだ。
 花瓶が割れた幻は、寸分違わず花瓶が割れた現実に繋がっていた。どれほど辻褄のあわないことだろうとも、それが起こったことの全てだった。
 ならば、内田が死ぬ光景は、内田が死ぬことに繋がっている、ことにならないか?
「くそ、っ」
「仁?」
 突然跳ね起きた仁に母親は身を引いた。部屋を飛び出して行く背中から悲鳴じみた声で呼び掛ける。
「仁、どうしたの、何があったの! 仁!」
 声を背中に、仁はずきずき痛む頭を押さえながら走った。痛みは容赦なく広がり、仁の意識を侵していく。
 痛みの元には『穴』があった。仁の意識をじわじわと吸い込み、飲み込み砕いていく『穴』。その『穴』に吸い込まれれば、仁は意識を失って倒れてしまうだろう、夕焼けの教室のように。
 その前に、何とかして、内田がいる場所にたどりつかなくてはならない。
(内田……どこにいる?)
 胸の中でつぶやいた問いに応えるように、青と黒に染まる街に重なって、幾つかの光景が視界を掠めた。同時に、その光景に伴う状況がまるで立体模型を上から見るように、全ての構成が塊として仁の意識の中に飛び込んで来る。
 『ケーニッヒ』。喫茶店。内田がよくいく/(ここでずっと)。横の小道。マスターの私宅。突き当たりの庭/(バイクがあるんだ)。夕暮れの光の中で微笑する白い女。光をはねる銀色の髪。空に舞い散る草の葉/(なぜ?)。小学生の男の子。ポケットに手。おっけー/(それはまずい)。内田が倒れる(ああ)。
 内田が倒れる。
 腕を細かな傷だらけにして。
 悲鳴が上がる。
 土の上に転がる。
 間に合わない。
 間に、合わない。
「だめだ…っ!」
 視界に重なったもう一つの視界、そのイメージに気を取られて焦った仁の足がもつれた。横断歩道の真中、信号を無視して突っ込んで来た車が、たたらを踏んで転がった仁に向かって走り込んで来る。ようやく運転手が気づいたのだろう、切り裂くようなブレーキ音が辺りの空気を圧するが止まらない。
(轢かれる!)
 瞬間、目を閉じた仁は、激しいめまいに我を失った。
(内田!)
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