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第3話 花咲姫と奔流王

4.祈りの館(6)

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 シャルンの困惑は長くは続かなかった。
 もう一度、窓を振り返り、ゆっくりと歩み寄って行く。
「…美しいわ」
 庭園の緑と鮮やかな色の花々を眺め、開いた窓から吹き込む風に髪を嬲らせながら、目を遠くに上げる。
 かつてダスカス王国で軟禁状態に置かれ、来る日も来る日も外を眺めるしかできなかった日々が思い起こされても、胸は不安に轟かなかった。
 何を心配することがある。
 あの時と違い、ここにはレダン王が居てくれる。今は昼過ぎで、もし万が一司祭との話し合いが熱を帯びて夕方まで続いたとしても、王はきっと夕餉の席に姿を見せないシャルンを訝しく思ってくれる。ここにはガストもルッカも居る。どのような理由で引き離されようとも、シャルンが1人で動くことがないのを知っている2人は、レダン王と連携を取り、きっとシャルンを救い出そうとしてくれる。
 いつ果てるともわからない時間を、どのように扱われるのかわからない身の上で過ごさなくてはならなかった時に比べれば、なんと恵まれ安心な状況だろう。
 しかも。
「…ふ」
 時ならぬ笑みが唇から零れたのは、ダスカス王マムールのことばを思い出したからだ。シャルンの話を、『砂糖菓子のような頭をした女』の戯言だと思っていたのに、国が行き詰まった時には、その女の戯言を拠り所に起死回生の道を見つけた、と。
『あなたが俺に見えないものを見ていてくれたからこそ、ダスカスは生き延びることができた』
 この部屋は、この館の女性しか入れぬ場所だ。そして恐らくは侍女や修行者なども入れない場所だろう。部屋の造りがそう教える。
 つまり、レダン王もガストも、ルッカでさえ入ることのできない部屋。そして、この部屋の窓から見る光景は、ごく限られたものしか見ることのできない光景であるはずだ。シャルンと……そして、ひょっとするとリュハヤしか。
 ダスカスでシャルンは美しい遺跡とそこに溢れる豊かな泉を見つけだした。
 同じように注意深く、シャルンはここで見えるものを全て丁寧に見つめることにしよう。
 それこそがきっと、レダン王を助け、支え、守ることになるはずだ。
 シャルンが閉じ込められた部屋は、外周の建物を隔てて、エイリカ湖に面していた。
 窓は、湖の眺望を楽しむためでもあるのだろう、体を乗り出せそうなほど広く開け放てる。外周の建物は湖に向かって緩やかに高さを減らし、視界に光り輝く水面を満たしている。
「…これがエイリカ湖なのね」
 馬車で周囲を巡るように走っていても、この高さから見下ろせなければ、エイリカ湖の透明度はわからなかっただろう。周囲の岩場が少しずつ深みへ向かって抉れているのが見える。青く透明な水が豊かに波打ち、岸辺に打ち寄せている。龍神の住まいと呼ばれるだけあって、漁をする小舟一艘見当たらない。
 館から湖に沿って細い道が繋がっており、少し奥まったところに小さくて粗末な建物が幾つか並んでいた。これもまた、表から見た限りでは館の外周の建物に隠され、見つけにくいものだろう。その小道を数人の女性が歩いている。灰色や茶色の服を着た、やや年配の女性達だ。
「…龍神教の信徒かしら」
 この館を保つための様々な仕事は、館の中だけでは賄いきれないかも知れない。外の者に頼む部分も多いのかも知れない。それにしては、あまりにも侘しい気配の住まいだし、疲れたような足取りだ。
 女性の1人が視線を感じたように顔を上げそうに見えたので、シャルンは再び湖を見つめた。
 この距離では見えないもかも知れないが、魚がいるところならどこにもいそうな水鳥の類がいなかった。魚が跳ねる水の波紋も見えない。
 水はあくまでも青く透き通り、見事にきららかだが、静まり返っていて生き物の気配がない。
「……あれは…」
 ふと、シャルンは水面奥深くに何かが揺れたような気がして、目を凝らした。
「…何…?」
 日差しに煌めく水が、ゆったりと揺れ出したように見える。一艘の舟もないのだから、波が急に高さを増すこともないだろうに、岸辺に打ち付ける水音が少し大きく強くなったようだ。
 ざあああ。
 風が吹き渡る。水面に細かな縮れを残して駆け抜けて行く息吹に、一瞬凪いだ水が撓み、水面より深く口を開く。
「…っ」
 瞬間、湖の底に巨大な岩があるのが見えた。
 平らで広々として滑らかな表面に、見えない水流が落ちるようにもっと青黒い深みへ走るのがわかる。水草はない。魚の姿はない。それは当然の理、なぜならその岩の奥には揺らめく炎が閉じ込められているからだ。近づくものに吠え立て呼びかけ命じるもの、我をここより解き放てと猛るもの。
 その名は。
「……シ……っ!」
「姫様っっ!」
 いきなり背後から激しく飛びつかれてぎょっとした。
 視界に広がっていた青い光が、あっという間に窓の外、湖の奥へと飛び去って行く。
「よくぞご無事で!」
「…ルッカ?」
 しがみついているルッカは、険しい顔でのろのろとシャルンを見上げる。
「今のはなんでございますか」
「え?」
「今、窓の外に、何やら巨大な揺らめく光が広がっておりました」
 よほど尋常ではないものだったのだろう、アルシア国でその人ありと知られたはずの元剣士は、唇の色を失くしている。
「私としたことが……いくら馬車の方で叫びが上がったからと言って、姫様から目を離すなんて」
「馬車? 何かあったの?」
「……それが」
 ルッカがなおも顔をしかめて言い淀む。
「積んでいたお荷物が燃えたそうです」
「荷物が?」
「前庭に止めてありましたので、誰でも近づけるとは思いますが、不意に中から煙が上がったと、慌てて水をかけたそうです。とにかく見に来て欲しいと頼まれました。お部屋が決まり次第、お荷物を片付けることになっておりましたので、その」
「…ドレスが駄目になったのね?」
「…申し訳ありません」
「陛下ががっかりされそうね」
 その顔を見るシャルンも悲しい思いをしそうだ。
「でもまあ、今着ているものは無事だったわけだわ」
 シャルンは微笑んだ。
「下着姿よりましよ、ルッカ」
「え?」
「何なら下女の格好でも平気だわ。何事も経験でしょう?」
「…ああ」
 カースウェルに入った時のことを思い出したのだろう、ルッカがようやく笑みを浮かべてくれた。
「確かに、あの時よりもうんとお綺麗でございますね」
「それより、陛下のお持ち物は無事だったの? 書類や何かは」
「そちらはガストが持ち出しておりました。ただ」
 ルッカの目が底光りする。
「馬車そのものが傷んでしまいました。代わりのものをご用意するのに時間がかかると、司祭は申しておりました」
「そう…」
 シャルンは三度、窓の外へ目を向けた。
「見るべきものを見る時間が、一杯あるということね」
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