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第2話 砂糖菓子姫とケダモノ王
27.潜入(3)
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「どう言う、ことですか」
門から入ってバーン伯、トライステ伯あたりが治めている領地内、カースウェルとは違い荒地が目立つ土地だったが、整備された道なりに進んで初めての市でシャルンは凍りついた。
「なぜ、こんなにも…」
レダンのマントの裾を掴んだ指が白くなっている。続けようとした声は途切れたまま、見下ろすと目を見張って市場の光景を眺めている。
「…」
ちらりと目を上げ、レダンはガストに頷いた。頷き返したガストが少し腰を落としてシャルンに屈み込む。
「これから私はちょっと別の方へ出かけます。迷子にならないようにラグンに従って下さいね」
ことばは丁寧だったが、シャルンの衝撃を考えて、一人で先走るなと伝えている。
「…え? あ、あの」
一瞬戸惑ったシャルンは瞬きしてガストを見上げ、
「どちらに」
「夜には合流します。この先の宿に泊まりますからね」
にこりと笑ったガストは、それ以上問いかける暇を与えず、慣れた様子で人混みの中に紛れて行く。
「この先の、宿」
シャルンは噛み締めるように繰り返し、レダンを見上げた。
「宿があるのですね」
「ああ」
主従の枠を外さないようレダンはいささか横柄に応じる。
「誰もが泊まれる宿がある」
「…たくさん?」
「安いものから高いものまで」
聞いたシャルンの顔色がなお悪くなる。
「城下では」
やがて消え入りそうな声が響いた。
「…これほどの市を満たす食べ物も衣服も宝飾品も、ありませんでした…」
そろそろと目をやったシャルンの視界に映った光景を、レダンは微かな胸の痛みとともに想像する。
彼女が知っているのは冷え切って手入れの行き届かないみすぼらしい城と汚れた街に蹲る孤児や無宿者、傾いた建物や破れた布を何度も繕った衣服だっただろう。
けれど今、城下から離れ、国境近くに開かれた市場には、何十人もの人々が歩き回り、屋台のようなものから立派な門構えのものまで色とりどりの店が立ち並び、どの店も軒先に溢れるほどの商品を並べ、声高に客を呼んでいる。美しく着飾り化粧を施した女が高価な飾り物を選び、側に立つ見事な仕立ての衣装を身につけた男がためらうことなく幾つも買い揃えてやっている。
食べ物の店からは温かな湯気が立ち上り、往来に広げられたテーブルや椅子で、旅人が幾皿も料理を並べ、時に食べ残して立ち上がっていく。残された食べ物が惜しげもなく屑箱に捨てられるのを目にして、シャルンは小さく震えだした。
「…これが…ハイオルト、だと言うのですか…」
「サール…」
伝えたくないことを伝えなくてはならなかった。
レダンは低い声で囁きかける。
「お前が考えていた通りの貧しい国であったら、王女への求婚もあり得ないんだよ」
「っ」
びくっと震えた彼女が振り向くのに頷く。
「負担になるばかりの国を背負うものはいない、一国の王ならばなおのこと。たとえミディルン鉱石が無尽蔵だと噂があっても」
「…そう……です…わね…」
シャルンは見開いた目のまま繰り返した。
「王…ならば…」
「そうだ、王だからこそ、婚姻は政治と無関係には進まない」
「…この……豊かさを…見ている…からこそ…」
ハイオルトは諸国を欺けた、まだミディルン鉱石は尽きていないのだと。
「そう…なのですね…」
ゆっくりと視線を再び市場に振り向ける。
「そう…だったの…ですね…」
掠れた声が響いて、唐突にシャルンは微笑んだ。
「私は……何も……見えていませんでした…」
見せられるまま、知らされるままを、ただ信じて。
「ハイオルトは飢えて今にも滅びそうなのだと…信じて…」
レダンはシャルンを抱き寄せる。
拠り所としていたものが全て崩れ落ちていくような衝撃だろう、それでも気丈に足を踏ん張り、目を背けず、現実を見つめる薄水色の瞳が見る見る潤むのが、切なくて苦しかった。
「ラグン様」
優しく儚げな声。
「…私は今………泣いていいのか……笑っていいのか……わかりません…」
「?」
ここは泣くべきだろう、裏切られたことや騙されていたことや、それらの嘘に踊らされて侘しく辛い努力を重ねていたことに。
「なぜ笑う?」
レダンの問いにシャルンは振り向く。
きらきらと光を放って零れ落ちる涙が、醜く作り上げた傷を伝い、汚れた顔を洗っていく。
「ハイオルトは……飢えていなかったのですね…?」
どすんと胸を殴られた気がして、レダンは息がつけなかった。
「国中全てが飢えているわけではなかった……見て下さい…ほら……あんなに楽しそうに……人々が笑っています…」
小さく細い指が指す彼方に、はしゃいで肉を差し上げる子どもと、その子どもを喜ばしげに見つめる夫婦が居る。
「…全土が助かったわけではないのはわかっています…けれど………ただ…嬉しくて…」
「っっ」
ああ、どうしたらいいのか。
本当に本当にどうすればいいのか。
レダンは泣きそうになる。
今すぐ跪き、このきららかな妃を戴き、国の母たるその威厳の下、永久に下僕となることを誓いたい。
なぜこんな姫が存在したのだろう。
なぜこんな裏切りと嘘と策略に満ちた国に。
「シャルン」
呟いて物陰に引っ張り込む。
「れ、ラグン様…っ」
慌てたように返答するシャルンを強く深く抱き締める。
「あなたをハイオルトなぞに渡さない」
門から入ってバーン伯、トライステ伯あたりが治めている領地内、カースウェルとは違い荒地が目立つ土地だったが、整備された道なりに進んで初めての市でシャルンは凍りついた。
「なぜ、こんなにも…」
レダンのマントの裾を掴んだ指が白くなっている。続けようとした声は途切れたまま、見下ろすと目を見張って市場の光景を眺めている。
「…」
ちらりと目を上げ、レダンはガストに頷いた。頷き返したガストが少し腰を落としてシャルンに屈み込む。
「これから私はちょっと別の方へ出かけます。迷子にならないようにラグンに従って下さいね」
ことばは丁寧だったが、シャルンの衝撃を考えて、一人で先走るなと伝えている。
「…え? あ、あの」
一瞬戸惑ったシャルンは瞬きしてガストを見上げ、
「どちらに」
「夜には合流します。この先の宿に泊まりますからね」
にこりと笑ったガストは、それ以上問いかける暇を与えず、慣れた様子で人混みの中に紛れて行く。
「この先の、宿」
シャルンは噛み締めるように繰り返し、レダンを見上げた。
「宿があるのですね」
「ああ」
主従の枠を外さないようレダンはいささか横柄に応じる。
「誰もが泊まれる宿がある」
「…たくさん?」
「安いものから高いものまで」
聞いたシャルンの顔色がなお悪くなる。
「城下では」
やがて消え入りそうな声が響いた。
「…これほどの市を満たす食べ物も衣服も宝飾品も、ありませんでした…」
そろそろと目をやったシャルンの視界に映った光景を、レダンは微かな胸の痛みとともに想像する。
彼女が知っているのは冷え切って手入れの行き届かないみすぼらしい城と汚れた街に蹲る孤児や無宿者、傾いた建物や破れた布を何度も繕った衣服だっただろう。
けれど今、城下から離れ、国境近くに開かれた市場には、何十人もの人々が歩き回り、屋台のようなものから立派な門構えのものまで色とりどりの店が立ち並び、どの店も軒先に溢れるほどの商品を並べ、声高に客を呼んでいる。美しく着飾り化粧を施した女が高価な飾り物を選び、側に立つ見事な仕立ての衣装を身につけた男がためらうことなく幾つも買い揃えてやっている。
食べ物の店からは温かな湯気が立ち上り、往来に広げられたテーブルや椅子で、旅人が幾皿も料理を並べ、時に食べ残して立ち上がっていく。残された食べ物が惜しげもなく屑箱に捨てられるのを目にして、シャルンは小さく震えだした。
「…これが…ハイオルト、だと言うのですか…」
「サール…」
伝えたくないことを伝えなくてはならなかった。
レダンは低い声で囁きかける。
「お前が考えていた通りの貧しい国であったら、王女への求婚もあり得ないんだよ」
「っ」
びくっと震えた彼女が振り向くのに頷く。
「負担になるばかりの国を背負うものはいない、一国の王ならばなおのこと。たとえミディルン鉱石が無尽蔵だと噂があっても」
「…そう……です…わね…」
シャルンは見開いた目のまま繰り返した。
「王…ならば…」
「そうだ、王だからこそ、婚姻は政治と無関係には進まない」
「…この……豊かさを…見ている…からこそ…」
ハイオルトは諸国を欺けた、まだミディルン鉱石は尽きていないのだと。
「そう…なのですね…」
ゆっくりと視線を再び市場に振り向ける。
「そう…だったの…ですね…」
掠れた声が響いて、唐突にシャルンは微笑んだ。
「私は……何も……見えていませんでした…」
見せられるまま、知らされるままを、ただ信じて。
「ハイオルトは飢えて今にも滅びそうなのだと…信じて…」
レダンはシャルンを抱き寄せる。
拠り所としていたものが全て崩れ落ちていくような衝撃だろう、それでも気丈に足を踏ん張り、目を背けず、現実を見つめる薄水色の瞳が見る見る潤むのが、切なくて苦しかった。
「ラグン様」
優しく儚げな声。
「…私は今………泣いていいのか……笑っていいのか……わかりません…」
「?」
ここは泣くべきだろう、裏切られたことや騙されていたことや、それらの嘘に踊らされて侘しく辛い努力を重ねていたことに。
「なぜ笑う?」
レダンの問いにシャルンは振り向く。
きらきらと光を放って零れ落ちる涙が、醜く作り上げた傷を伝い、汚れた顔を洗っていく。
「ハイオルトは……飢えていなかったのですね…?」
どすんと胸を殴られた気がして、レダンは息がつけなかった。
「国中全てが飢えているわけではなかった……見て下さい…ほら……あんなに楽しそうに……人々が笑っています…」
小さく細い指が指す彼方に、はしゃいで肉を差し上げる子どもと、その子どもを喜ばしげに見つめる夫婦が居る。
「…全土が助かったわけではないのはわかっています…けれど………ただ…嬉しくて…」
「っっ」
ああ、どうしたらいいのか。
本当に本当にどうすればいいのか。
レダンは泣きそうになる。
今すぐ跪き、このきららかな妃を戴き、国の母たるその威厳の下、永久に下僕となることを誓いたい。
なぜこんな姫が存在したのだろう。
なぜこんな裏切りと嘘と策略に満ちた国に。
「シャルン」
呟いて物陰に引っ張り込む。
「れ、ラグン様…っ」
慌てたように返答するシャルンを強く深く抱き締める。
「あなたをハイオルトなぞに渡さない」
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