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第1話 出戻り姫と腹黒王
6.谷の香り(1)
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レダンの突然の訪問にも外出の誘いにもシャルンは驚いた様子を見せなかった。ただ笑顔でにっこりと、嬉しゅうございます、と応じられて、彼女がどれほど傷ついているのかわかった。
屠殺場に引き出された獣のような瞳。
次第に切り取られていく命の時間を感じているような、どこか遠くて静かな眼。
谷に向かって馬を走らせながら、すがりついてもこない小さな体が大切で愛おしくてならなかった。
どれほど怖いだろうに、今から切り捨てられると知っているのは。
どれほどすがりつきたいだろうに、ここで許して、帰してくれと訴えるために。
けれどシャルンはただじっと、レダンの胸に収まっている。
きっと同じことがあったのだ、何度も。
何度も、何度も。
この荒馬のような運命に嬲られることを受け入れて、夜の闇に座っていたことがあるのだ。
『理由がわかりませんよ』
ガストは報告と同時に不愉快そうに唸った。
『国民を救うための時間を何と引き換えにしろと言うのか、ザーシャル国王は』
ガストにしては珍しい、とシャルンが来てから幾度思ったことだろう。無表情で沈着冷静で、暴走しかけるレダンを引き止める役割の男は、いつ何時でも敵を無闇に作らないし、感情を元に話すことはないはずだった。
なのに今、ガストはザーシャルでのシャルンの扱いに明らかに苛立ち憤っていた。
それだけシャルンが気になり始めている、つまりは気に入り始めているのだろう。
ザーシャルのサグワット・ザーシャル・アルドランドは昔から神経質で不安定なお子様だ。齢30を越えようと、気質は変わらない。
シャルンが輿入れしようとした時、ハイオルトの国境付近で未曾有の大雨があったと言う。小さな村で十分な対応もできないまま、村人もろとも荒れた川に飲み込まれかけていた。シャルンは付き従っていた配下を全て避難の手助けに回し、村人全員が退避し終えるまでその場を動かなかった。
『それだけで十分じゃありませんか、何も持たない姫なんだから』
ガストのぼやきはレダンの心中と同じだ。
どれほど怖かっただろう、茶色く濁り家々を飲み込む激流を目の前に、婚儀のための衣装を濡れそぼらせて見守っているのは。彼女の采配一つに人の生死が定まり村の存続がかかるのだ。
どれほど辛かっただろう、その衣装を辛うじて乾かしただけで輿入れ先に向かったのは。事情を説明しても、ザグワットは聞く耳を持たなかったと言う。王族の義務やら人としての信義やら愚にもつかない正論を並べ立ててシャルンを罵り、挙げ句の果てに数ヶ月、婚儀を正式に行うつもりもないまま自国に留め置いた。
『…シャルンは…抱かれたのかな』
『……存じません』
口さがない者は、慰みものにされたのではないかと噂していたようですが。
『ザグワットは潔癖症だったよな』
『毎夜寝る直前にベッドを新しいシーツで整えるような』
『そう言う奴が、出戻りを繰り返す姫を望むか?』
『いいえ』
あからさまですね。
『あからさまだな』
シャルンではなくミディルン鉱石を望んでいると。なのに、輿入れしたシャルンを自国に留め置き、噂が立つまで放置した意図は露骨だ。
『非礼をネタにハイオルトを揺さぶっていたか、それともシャルンを貶めたかったか』
『両方でしょう』
ちっ、とガストが舌打ちして、失礼いたしました、とすぐに謝罪した。
『あの赤髪を掴んでひきむしってやるか』
『すでにカツラだそうです』
ちっ。
「っ」
思い出しての舌打ちに、シャルンが体を震わせた。空を見上げていた瞳はそろそろとこちらへ向けられる。
薄闇に輝く淡い瞳。
今夜伝えてしまおうか、あなたが欲しいと。
今夜奪ってしまおうか、不安そうな小さな唇を。
泊まるはずのささやかな建物にレダンは胸の中で首を振った。
だめだだめだ、こんなところで。
もっとちゃんと十分な設備が整い、心から寛げる場所でゆっくりと、身も心も解れて乱れて欲しい。
それでも堪えきれない熱に呟く。
「明日の朝まで二人きりです」
馬から下ろしたシャルンはこくりと唾を飲み、またにっこりと微笑んだ。
「……では、お聞きしたいことがあります」
静かな声音で、けれども一歩も引かない力強さで続ける。
「離宮に住まわれていた方のことです」
今ここで、それを聞くのか。
レダンは胸が絞られるほど辛くなった。
自分が煌びやかな男ではないのは知っている。甘い囁きも不得手だし、乙女の心を奪うほどの詩も歌えない。
けれど嫁いできた相手とただ二人、人のいない初めての穏やかな夜に肌を寄せ合いながら、昔の女性のことを持ち出されて不愉快にならない男がいるだろうか。
それをシャルンはわかっている。
傷ついただろうガストとの面談を、またもやこんなことに使おうとしてくる。
そこまでして、レダンに好まれるまいと努力する。
「…あなたは…」
「はい」
確信犯的な微笑みに、思わず目を外らせた。
「そうですね、お話ししましょう、お互いのために」
「はい、是非、『陛下』」
「…」
呼ばれて一層苦しくなる。こんなところで克己心を試されるとは。
剥ぎ取りたい、シャルンから全てを。
悲しみも苦しみも、強がりも作り物めいた笑顔も。
そうして柔らかなその内側に、喜びと快さだけを、安らぎと寛ぎだけを満たしてやりたい。
陛下、ではなくレダン、と蕩け崩れる感覚の中で呟かせてやりたい。
そうしてこれまでの傷が全て癒えるまで、眠らせてやりたい、腕の中で深く静かに。
「では、こちらへ」
「……」
導くレダンの指にシャルンはこっくりと頷いて手を預けてきた。
屠殺場に引き出された獣のような瞳。
次第に切り取られていく命の時間を感じているような、どこか遠くて静かな眼。
谷に向かって馬を走らせながら、すがりついてもこない小さな体が大切で愛おしくてならなかった。
どれほど怖いだろうに、今から切り捨てられると知っているのは。
どれほどすがりつきたいだろうに、ここで許して、帰してくれと訴えるために。
けれどシャルンはただじっと、レダンの胸に収まっている。
きっと同じことがあったのだ、何度も。
何度も、何度も。
この荒馬のような運命に嬲られることを受け入れて、夜の闇に座っていたことがあるのだ。
『理由がわかりませんよ』
ガストは報告と同時に不愉快そうに唸った。
『国民を救うための時間を何と引き換えにしろと言うのか、ザーシャル国王は』
ガストにしては珍しい、とシャルンが来てから幾度思ったことだろう。無表情で沈着冷静で、暴走しかけるレダンを引き止める役割の男は、いつ何時でも敵を無闇に作らないし、感情を元に話すことはないはずだった。
なのに今、ガストはザーシャルでのシャルンの扱いに明らかに苛立ち憤っていた。
それだけシャルンが気になり始めている、つまりは気に入り始めているのだろう。
ザーシャルのサグワット・ザーシャル・アルドランドは昔から神経質で不安定なお子様だ。齢30を越えようと、気質は変わらない。
シャルンが輿入れしようとした時、ハイオルトの国境付近で未曾有の大雨があったと言う。小さな村で十分な対応もできないまま、村人もろとも荒れた川に飲み込まれかけていた。シャルンは付き従っていた配下を全て避難の手助けに回し、村人全員が退避し終えるまでその場を動かなかった。
『それだけで十分じゃありませんか、何も持たない姫なんだから』
ガストのぼやきはレダンの心中と同じだ。
どれほど怖かっただろう、茶色く濁り家々を飲み込む激流を目の前に、婚儀のための衣装を濡れそぼらせて見守っているのは。彼女の采配一つに人の生死が定まり村の存続がかかるのだ。
どれほど辛かっただろう、その衣装を辛うじて乾かしただけで輿入れ先に向かったのは。事情を説明しても、ザグワットは聞く耳を持たなかったと言う。王族の義務やら人としての信義やら愚にもつかない正論を並べ立ててシャルンを罵り、挙げ句の果てに数ヶ月、婚儀を正式に行うつもりもないまま自国に留め置いた。
『…シャルンは…抱かれたのかな』
『……存じません』
口さがない者は、慰みものにされたのではないかと噂していたようですが。
『ザグワットは潔癖症だったよな』
『毎夜寝る直前にベッドを新しいシーツで整えるような』
『そう言う奴が、出戻りを繰り返す姫を望むか?』
『いいえ』
あからさまですね。
『あからさまだな』
シャルンではなくミディルン鉱石を望んでいると。なのに、輿入れしたシャルンを自国に留め置き、噂が立つまで放置した意図は露骨だ。
『非礼をネタにハイオルトを揺さぶっていたか、それともシャルンを貶めたかったか』
『両方でしょう』
ちっ、とガストが舌打ちして、失礼いたしました、とすぐに謝罪した。
『あの赤髪を掴んでひきむしってやるか』
『すでにカツラだそうです』
ちっ。
「っ」
思い出しての舌打ちに、シャルンが体を震わせた。空を見上げていた瞳はそろそろとこちらへ向けられる。
薄闇に輝く淡い瞳。
今夜伝えてしまおうか、あなたが欲しいと。
今夜奪ってしまおうか、不安そうな小さな唇を。
泊まるはずのささやかな建物にレダンは胸の中で首を振った。
だめだだめだ、こんなところで。
もっとちゃんと十分な設備が整い、心から寛げる場所でゆっくりと、身も心も解れて乱れて欲しい。
それでも堪えきれない熱に呟く。
「明日の朝まで二人きりです」
馬から下ろしたシャルンはこくりと唾を飲み、またにっこりと微笑んだ。
「……では、お聞きしたいことがあります」
静かな声音で、けれども一歩も引かない力強さで続ける。
「離宮に住まわれていた方のことです」
今ここで、それを聞くのか。
レダンは胸が絞られるほど辛くなった。
自分が煌びやかな男ではないのは知っている。甘い囁きも不得手だし、乙女の心を奪うほどの詩も歌えない。
けれど嫁いできた相手とただ二人、人のいない初めての穏やかな夜に肌を寄せ合いながら、昔の女性のことを持ち出されて不愉快にならない男がいるだろうか。
それをシャルンはわかっている。
傷ついただろうガストとの面談を、またもやこんなことに使おうとしてくる。
そこまでして、レダンに好まれるまいと努力する。
「…あなたは…」
「はい」
確信犯的な微笑みに、思わず目を外らせた。
「そうですね、お話ししましょう、お互いのために」
「はい、是非、『陛下』」
「…」
呼ばれて一層苦しくなる。こんなところで克己心を試されるとは。
剥ぎ取りたい、シャルンから全てを。
悲しみも苦しみも、強がりも作り物めいた笑顔も。
そうして柔らかなその内側に、喜びと快さだけを、安らぎと寛ぎだけを満たしてやりたい。
陛下、ではなくレダン、と蕩け崩れる感覚の中で呟かせてやりたい。
そうしてこれまでの傷が全て癒えるまで、眠らせてやりたい、腕の中で深く静かに。
「では、こちらへ」
「……」
導くレダンの指にシャルンはこっくりと頷いて手を預けてきた。
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