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第1話 出戻り姫と腹黒王
5.離宮の住人(3)
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「寒くないですか?」
「はっ、いえっ、あのっ」
「頷くだけでいい、舌を噛みますよ」
「っ…」
寒くないも何も、シャルンはすっぽりレダンのマントに包まれて速度をあげる馬の背で抱きかかえられている。轟く胸だけで十分に熱い。
出かけましょう、とレダンが誘って来たのが、もうすぐ日暮れという時刻、ましてや馬で国境近くまで出かけると聞いてなお驚いた。馬に乗れません、と訴えれば承知しています、と明るく笑い飛ばされ、あれよあれよと言う間に比較的軽装のドレスに着替えさせられて、案じるルッカを離宮に残し、どれほど道を進んだのか。
すでに日は落ちつつあって、さっきまで赤く染まっていた空は、少しずつ青く深く澄み渡り始めている。だが風は爽やかで、ハイオルトのように体温を奪う冷たさを宿さない。
「あ…」
「何?」
「星が…」
「目が良いんですね」
微笑んで覗き込まれると、温かな香りに包まれる。目的地が近いのか、さっきよりは速度が落ちて来たようだ。小さく吐息をつくと、宥めるように強く抱きしめられた。
「もう少しですよ」
「はい」
「……残念だけど」
「っ」
囁かれて髪にキスが落とされ、驚いて縮こまる。レダンは気づいていないのだろう、シャルンに対して初めてそう言うことをしていると。きっとわかっていないのだろう、今まで一度も愛されたことがない娘が、その扱いにどれほど怖がり不安になるかなど。
『この離宮には、一人の女性がおられたのです』
ガストのことばが蘇る。
『名前はアグレンシア・カースウェル・パラスニア様』
『……』
どうして考えなかったのだろう、シャルンでさえ5回目の婚儀、レダンが初婚だとは限らなかったのに。
『お綺麗な方でしたか』
思わず尋ねてしまっていた。一瞬驚いたように目を見開いたガストが、苦笑いしながら、
『気品溢れる方でした』
当然だろうとのことばの響きにすとんと何かが身内をすり抜けた。
レダンが求めるのは気品なのだ。ならば、それが伴っていなければ、この結婚はすぐに破綻する。
『そう、ですか』
思ったよりも簡単なことだった。考えていたよりもずっと容易く達成できる。
シャルンには元々気品など、ほんの僅かもありはしなかったのだから。
『その方は、今』
『既にこの世を去っておられます』
なおさら容易い、と頭の中に広がった冷えた霧が教えてくれた。
いなくなってしまった至上の恋人に、現世の何者が打ち勝つことができよう。
『…それではお寂しいでしょうね』
にっこりと笑って見せた。
『私がお慰めできればいいのですけど』
ガストは忠臣だ。レダンのことも、国のことも、本当に大事に考えている。考えているならばこそのこの面談は、おそらくレダンは知らぬことだろう。
かけがえなく愛した妃を失い、心痛の、けれども有能で魅力的な王が、国のため国民のため、ドレスや飾り物を野放図に買い求め、身につけるものを選ぶのに日々を過ごすような愚かな女を妻にしようとしている。食い止めねばと思ったのだろう、我が身を断じられるとしても。
ならばその忠誠を、愚かな姫は色恋のぬるま湯で弄ばなくてはならない。真摯な国への想いを本能の迷いで曇らせねばならない。
レダンがシャルンを手放さないなら、ガストから働きかけてもらえばいい。
『「陛下」はどのようなお楽しみがお好きなのでしょう』
ガストの顔色があからさまに変わった。吐き捨てるような冷ややかな声が応じる。
『あなたにはとてもお分かりになりますまい』
『それは残念です。では、直接「陛下」にお尋ねしましょう』
舌打ちをかろうじて堪えてガストは部屋を去った。
「もう直ぐですよ」
囁かれて我に返る。
蹄の音が静まり返った世界に響く。見上げる星空が徐々に狭くなる。
小さな谷に入ってきているのだと気がついた。
カースウェルの国境近く、小さくて狭い谷は豊かな地下水脈で溢れていると聞いたことがある。それにしては空気は湿っていないし、走る大地が沈む音を立てることもない。
速度が急速に落ち、やがて馬はゆっくりと止まった。
「着きましたよ、シャルン姫」
声をかけられ、鞍に掴まっているようにと指示され、レダンが先に降りてから、そっと柔らかく抱き下ろされる。さらさらと衣擦れが優しくて響く。とても静かだ。
「今夜はここで泊まります」
示されたのは谷の片隅に作られた小さな四阿のような建物だった。侍女もおらず側仕え一人見当たらない。
「明日の朝まで二人きりですよ」
シャルンの視線の意味を察したのだろう、笑みを含んでレダンが教えた。
「……では、お聞きしたいことがあります」
微笑みながらレダンを見上げる。
もしここがルシュカと呼ばれる谷ならば、レダンがシャルンに何をさせようとしたか想像はつく。ザーシャル王国での経緯を、あの有能なる執務官が伝えずにいるはずがない。
レダンの信頼を、自分に向けられた思いやり深い理解を感じる。
ならばこそ、シャルンはこれをここで聞かなくてはならない。
「離宮に住まわれていた方のことです」
「…」
レダンの顔が少し、歪んだ。
「はっ、いえっ、あのっ」
「頷くだけでいい、舌を噛みますよ」
「っ…」
寒くないも何も、シャルンはすっぽりレダンのマントに包まれて速度をあげる馬の背で抱きかかえられている。轟く胸だけで十分に熱い。
出かけましょう、とレダンが誘って来たのが、もうすぐ日暮れという時刻、ましてや馬で国境近くまで出かけると聞いてなお驚いた。馬に乗れません、と訴えれば承知しています、と明るく笑い飛ばされ、あれよあれよと言う間に比較的軽装のドレスに着替えさせられて、案じるルッカを離宮に残し、どれほど道を進んだのか。
すでに日は落ちつつあって、さっきまで赤く染まっていた空は、少しずつ青く深く澄み渡り始めている。だが風は爽やかで、ハイオルトのように体温を奪う冷たさを宿さない。
「あ…」
「何?」
「星が…」
「目が良いんですね」
微笑んで覗き込まれると、温かな香りに包まれる。目的地が近いのか、さっきよりは速度が落ちて来たようだ。小さく吐息をつくと、宥めるように強く抱きしめられた。
「もう少しですよ」
「はい」
「……残念だけど」
「っ」
囁かれて髪にキスが落とされ、驚いて縮こまる。レダンは気づいていないのだろう、シャルンに対して初めてそう言うことをしていると。きっとわかっていないのだろう、今まで一度も愛されたことがない娘が、その扱いにどれほど怖がり不安になるかなど。
『この離宮には、一人の女性がおられたのです』
ガストのことばが蘇る。
『名前はアグレンシア・カースウェル・パラスニア様』
『……』
どうして考えなかったのだろう、シャルンでさえ5回目の婚儀、レダンが初婚だとは限らなかったのに。
『お綺麗な方でしたか』
思わず尋ねてしまっていた。一瞬驚いたように目を見開いたガストが、苦笑いしながら、
『気品溢れる方でした』
当然だろうとのことばの響きにすとんと何かが身内をすり抜けた。
レダンが求めるのは気品なのだ。ならば、それが伴っていなければ、この結婚はすぐに破綻する。
『そう、ですか』
思ったよりも簡単なことだった。考えていたよりもずっと容易く達成できる。
シャルンには元々気品など、ほんの僅かもありはしなかったのだから。
『その方は、今』
『既にこの世を去っておられます』
なおさら容易い、と頭の中に広がった冷えた霧が教えてくれた。
いなくなってしまった至上の恋人に、現世の何者が打ち勝つことができよう。
『…それではお寂しいでしょうね』
にっこりと笑って見せた。
『私がお慰めできればいいのですけど』
ガストは忠臣だ。レダンのことも、国のことも、本当に大事に考えている。考えているならばこそのこの面談は、おそらくレダンは知らぬことだろう。
かけがえなく愛した妃を失い、心痛の、けれども有能で魅力的な王が、国のため国民のため、ドレスや飾り物を野放図に買い求め、身につけるものを選ぶのに日々を過ごすような愚かな女を妻にしようとしている。食い止めねばと思ったのだろう、我が身を断じられるとしても。
ならばその忠誠を、愚かな姫は色恋のぬるま湯で弄ばなくてはならない。真摯な国への想いを本能の迷いで曇らせねばならない。
レダンがシャルンを手放さないなら、ガストから働きかけてもらえばいい。
『「陛下」はどのようなお楽しみがお好きなのでしょう』
ガストの顔色があからさまに変わった。吐き捨てるような冷ややかな声が応じる。
『あなたにはとてもお分かりになりますまい』
『それは残念です。では、直接「陛下」にお尋ねしましょう』
舌打ちをかろうじて堪えてガストは部屋を去った。
「もう直ぐですよ」
囁かれて我に返る。
蹄の音が静まり返った世界に響く。見上げる星空が徐々に狭くなる。
小さな谷に入ってきているのだと気がついた。
カースウェルの国境近く、小さくて狭い谷は豊かな地下水脈で溢れていると聞いたことがある。それにしては空気は湿っていないし、走る大地が沈む音を立てることもない。
速度が急速に落ち、やがて馬はゆっくりと止まった。
「着きましたよ、シャルン姫」
声をかけられ、鞍に掴まっているようにと指示され、レダンが先に降りてから、そっと柔らかく抱き下ろされる。さらさらと衣擦れが優しくて響く。とても静かだ。
「今夜はここで泊まります」
示されたのは谷の片隅に作られた小さな四阿のような建物だった。侍女もおらず側仕え一人見当たらない。
「明日の朝まで二人きりですよ」
シャルンの視線の意味を察したのだろう、笑みを含んでレダンが教えた。
「……では、お聞きしたいことがあります」
微笑みながらレダンを見上げる。
もしここがルシュカと呼ばれる谷ならば、レダンがシャルンに何をさせようとしたか想像はつく。ザーシャル王国での経緯を、あの有能なる執務官が伝えずにいるはずがない。
レダンの信頼を、自分に向けられた思いやり深い理解を感じる。
ならばこそ、シャルンはこれをここで聞かなくてはならない。
「離宮に住まわれていた方のことです」
「…」
レダンの顔が少し、歪んだ。
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