35 / 46
10.二つの塔(2)
しおりを挟む
「つうっ!」
「痛いのは当たり前だ」
アシャは眉を寄せてユーノを睨みつけた。
ベッドに横になったユーノの腰に、包帯を巻きつけながらことばを継ぐ。
「人が心配して薬をやれば、とたんに剣を振り回しやがって」
ことばもついつい荒くなる。
月獣(ハーン)の傷は深くなかったはずだ。ただ、湿地帯に潜む数々の細菌を警戒して厚めに手当しており、旅の無理はあったが回復は悪くなかったはずだった。
なのに、今改めて傷を確認してみれば、熱を持ち、塞がっているはずの傷がまだ治り切っていない。きっともっと早くに悪化の兆候があったはずなのに、ユーノが我慢していたのだろうと察しはつく。
挙げ句に痛み止めを飲ませてやれば、それをいいことにまた、突っ込まなくていい戦闘に飛び込む神経がわからない。
「だって」
詰られたユーノはむっとした顔で唇を尖らせる。
「ほっとけないだろ、ああいう場合!」
「追われていれば助けてやる、そんなことをしてては先へ進めないぞ」
「でも、一人だったんだぞ」
一瞬詰まった顔になったユーノが黒い瞳に怒りを浮かべる。
「あのままじゃ、一人で屠られていたかもしれないんだぞ」
その表情に、たった一人で闘い続けてきた自分が重なっていたとは想像出来る、出来るが納得するというのは別物だ。
「なら、俺を呼ぶとか、イルファを起こすとか、方法があるだろう!」
今回はすぐ側にアシャが居た。なぜ一言、彼を助けてやってくれ、と命じなかったのか。アシャはユーノの付き人で、しかも主は怪我をしている、命令でなくとも主の望みを果たすのは当然、瞬時に叩き伏せてやったものを。
怒りがおさまらなくて怒鳴りつけ、相手の目が自分を正面から見据えているのに口をつぐむ。
「…じゃ」
厳しい顔で唇を結んだユーノが、何かを堪えるように顔を背けた。手当されるままにベッドに身を投げ出していたのを、
「今度からイルファを呼ぶよ」
ぽつりと言い捨てて体を起こし、止める間もなくベッドから離れた。
「…おい」
側を擦り抜けたのに慌てて振り向いたが、もう扉の向こうに姿は消えている。
「イルファ?」
(俺じゃなく?)
「…なぜだ」
不安と困惑が募って、アシャは顔を凍らせたまま、のろのろと髪をかきあげた。
(ひょっとして)
「俺は…嫌われてるのか…?」
(なぜ?)
唇を噛む。
結局、アシャ達はユーノの傷が完全に治るまで、飛び込んで来た男、テオ・マキフ・リャスト二世の城に滞在することになっていた。
テオ二世はキャサランの辺境区の王の息子で、その居を、ここ『白の塔』に構えている。
『白の塔』はその名の通り、白い石を上へ上へと積み上げた装飾的な塔で、壁面には辺境区の紋章であるイワイヅタが一面に浮き彫りにされていた。塔の天辺は物見台で数門の砲が備え付けられ、その下が武器庫、その下が作戦会議室と、外見の華やかさに反して戦闘のために作られた要塞だ。
作戦会議室の下には王の執務室と私室数部屋、寝室があって、テオ二世が今そこを使っている。
高さから言えば、基底部からほぼ半分にあたり、アシャ達が客室として与えられたのもこの階、病人として扱われているユーノは、医術師のアシャが付き添うのが妥当だろうと夫婦用の部屋を与えられ、イルファとレスはこれまた二人で一つの部屋を与えられている。
「ふ、ぅ」
しばらく俯いていたアシャは小さく溜め息をついて、強張った体をようよう動かし、ゆっくり天蓋付きのベッドを回って窓辺に寄った。
日差しは既に落ちつつあり、赤い光を塔の壁に跳ねさせている。
窓から見下ろすと、斜め左下に階下の客人用の部屋のバルコニーが、塔から一カ所突き出ていた。なおも下へ視線を降ろしていくと、滑らかに競り上がる基底部に寄り集まるように作られた幾つかの建物が見える。集会場、演劇場、諸大臣の屋敷。もっとも、今は誰も住んでいないんです、とテオ二世は寂しそうに話した。
下のバルコニーには、今、二つの人影があった。テオ二世とユーノの姿だ。
テオが塔の周囲に広がる景色のあちこちを指差して話しかけるのを、ユーノは頷いて聞いている。中でも一つ、示された正面の塔に強く興味を魅かれたようだ。
アシャも、そのまままっすぐ見渡せる平原に目をやった。
ほぼ正面に『白の塔』とほとんど同じ造りと見られる塔と建物の一群がある。
『白の塔』と並び称される『紅(あか)の塔』、別名『死の塔』だ。赤っぽい石を積み上げ、『白の塔』が生者の街とするなら、対して『紅(あか)の塔』は死者の魂の街として造られている。
言わば巨大な墓なのだが、今、『紅(赤)の塔』は異様な活気と賑わいを見せていた。
その上空に白い鳥が舞っている。
「クゥ-ッ!」
高く響く声が呼びかけてきて、アシャは革篭手を引き下ろした左腕を突き出した。
突撃してくるように飛んで来た鳥が寸前身を翻し、思いもかけない柔らかな動きでアシャの腕に降りる。
「ようし、ごくろうだったな、サマル」
「クゥア」
サマルカンドは安らぐように甘えて鳴いた。
昨日夜半、アシャはラズーンからの通達を受け取っていた。キャサランの『運命(リマイン)』侵攻は確実、キャサランを通る限り『運命(リマイン)』との正面衝突は避けられない。加えて、『運命(リマイン)』はキャサラン辺境区をその支配下(ロダ)に置き、『紅(あか)の塔』に潜伏しているとの知らせだった。
半ば強引にテオ二世の招待に応じたのは、ユーノの怪我ももちろんだが、この状況をうまく切り抜け、キャサランを通過するためには、まず『紅(あか)の塔』の情報や辺境区の動向を把握する必要があったせいだ。
(ひょっとして)
その冷徹なアシャの計算がどこかでユーノに伝わったのだろうか。
俯瞰すればユーノの安全のためだが、それでもどこかで視察官(オペ)としての感覚や、時々否応なしにユーノに思い知らされる正当後継者としての立場が、知らず知らずににじみ出て、ユーノに距離を置かせてしまっているのだろうか。
月獣(ハーン)で素裸に近いユーノを抱き上げていた、体に揺れた荒い衝動を勘づかせるまいと意識を閉じた、それに呼応するようにアシャ・ラズーンと呼びかけられた、あの時のように。
(鋭いユーノ)
アシャの中に動いている『力』を確実に読み取るくせに。
(鈍いユーノ)
跪いてまで求めた愛情を欠片も与えてくれない。
「クェッ?」
「ん…」
問いかけるように自分を覗き込んできたサマルカンドに、アシャは情けなく笑って、窓に身をもたせかけた。
「サマルカンド」
「クゥ?」
「初めての恋を……覚えているか?」
この想いはいつ始まったのだろう。
目を魅きつけられたのは、もっと前だ。愛しいと思ったのも、守ってやりたいと思ったのも、もっともっと前だった。ユーノが殺される、そう考えるだけで冷たく荒い怒りを感じるようになったのさえ、この想いよりもまだ前だった。
(きっと、あの時から)
月獣(ハーン)の攻撃を耐え抜いて、なお、己の心の弱さにもユーノが打ち勝ったあの一瞬。
打ちのめされ、叩きのめされた、光の中で。
全てを投げ出してもいい。その目に見つめられていたい。その口で求められたい。側に居よと命じられ、我が意を満たせと訴えられ、他の誰でもない、アシャただ一人が差し伸べる手を受け止める唯一無二の男でありたい。
「ユーノが手を差し伸べる相手って……どんな奴だろうな、サマル」
あの強い娘が、自分の全てを委ねる相手。
(俺ではなくて……イルファを呼ぶと言い切った)
勘違いだったのか、ほんの一瞬、彼女の目がアシャを追ったように感じたのは。アシャに心の内を見せたと思ったのは。
多くの女達に追われていた男の傲慢だったのか。
「クェアアッ!」
沈んでしまったアシャを気遣うように、サマルカンドが鳴いた。
「ふ」
皮肉な笑みを浮かべて、アシャは再び窓の外へ腕を突き出した。
「そんなことを言ってたら、恋などできん、か。……ユーノを頼むぞ、サマル!」
「クェッ!」
翼を広げてクフィラは悠々とバルコニーへ舞い降りて行く。見ようによっては、アシャが、ユーノとテオ二世の歓談を妨げるために放ったと見えないこともない。
(我ながら幼いことをしてるよな)
クフィラを見送りながら、アシャは溜め息をついて窓辺を離れた。
「わっ!」
ふいに現れたサマルカンドにテオ二世は大げさに驚いた。
「何です?」
「クフィラだけど」
「クフィラ? あの伝説の!」
「クェッ!」
そうだとも、と言いたげにサマルカンドが応じ、ユーノの腕から肩へとすり寄った。
「あなたのものなんですか?」
「ええ、まあ。本当はアシャのなんだけど」
答えながら、ユーノはサマルカンドの降りて来た上空を見上げた。視線を感じたのだが、アシャの姿はないようだ。
「アシャって、あのきれいな人ですね」
「ええ」
ユーノはくすりと笑った。普段の姿で『きれい』だと評されるのなら、改まった装い、ましてや女装などを目にしたら、テオはどういう表現をするのだろう。声も出ないかも知れない。
「でも、あなたもアシャも凄腕ですね。ミルバの部下を軽々と…っ」
笑いながら話しかけたテオ二世は、途中でいきなりはっとしたように口をつぐんだ。
「ミルバ?」
「……『紅(あか)の塔』の主人です。いつからか『紅(あか)の塔』に住みついて、父さまや母さまを騙して連れ去って………」
テオ二世は唇を噛んだ。
「けれど……ぼくの婚約者、『イ・ク・ラトール』、でした」
キャサラン辺境の方言らしいことばを柔らかく発して、テオ二世は『紅(あか)の塔』を遠いグレイの目で見つめた。
「『運命(リマイン)』が?」
アシャの唇から紡がれたことばに、ユーノもイルファもぎょっとして、腕を組んだまま壁にもたれているアシャを見つめた。レスファートもわけがわからないままに、ユーノとイルファの厳しい表情に不安を浮かべる。
静まり返った夜の世界、ユーノの部屋に集まった四人、明かりに照らされたアシャはにこりとも笑わなかった。
「『紅(あか)の塔』が『運命(リマイン)』の拠点になってるって?」
「あそこにあいつらがうじゃうじゃいるのか。ぞっとするな」
ユーノの確認に、『運命(リマイン)』と闘った手応えを思い出したのか、珍しくイルファが真面目な顔になる。
「それどころか、キャサランで安全なのはここだけと言ってもいい」
アシャは憂いを漂わせた。
「正面から進んでたら、とっくに餌食になっている」
「と同時に、ラズーンへ行くなら、何が何でもここを突破しなくちゃならねえってわけか」
イルファが凄んだ声を出す。
「でも、アシャ」
ユーノはベッドに座ったまま言った。
「ここにいるのはテオと他数人、それにボク達だろ。どうやって『紅(あか)の塔』を陥す?」
「計略を使うしかないな。『運命(リマイン)』だって全員に目が届いているわけじゃない。下っ端の方は小悪党を使ってるだろうから、そのあたりから食い込んでいけば何とかなるかも知れない」
「おとり?」
レスファートが無邪気に尋ねる。
「おお。よく知ってたな、レス」
イルファがからかった。
「ぼくだって、それぐらい知ってるよ。ぼくがやってもいいよ」
「ぶ」
「なに、イルファ」
「いーえ、勇ましいこって」
「冗談はさておいて、とにかく誰かを送り込まなくてはならない」
アシャはむっつりした様子で言った。
「『白の塔』の人間はだめだ。『紅(あか)の塔』の人間はもともと仲間だからな」
「じゃあ、ボク達の中から、か」
ユーノは一渡り見回し、アシャに視線を戻した。
「ボクが行くよ」
「だめだ」
にべもなくアシャが拒み、むっとする。
「どうして止める?」
「俺はお前の付き人だ。それに怪我人に任せられる仕事じゃない」
突き放すような冷ややかさに苛立つ。
「怪我ったって、こんなかすり傷」
「ふーん」
アシャは壁から身を起こして近寄ってくると、すっと手を伸ばした。本能的にユーノが身体を引く前に、ひらりと手を閃かせる。
パン!
「つうっ!」
「アシャ!」
容赦なく打たれた右脇腹を押さえて崩れるユーノに、レスファートが甲高い声を上げた。
「なにするんだよ!」
「自分の状態を知っておくのも剣士の務めだ」
「でも、ユーノ、けがしてるのに、ひどいよっ」
レスファートが噛みつく。
「この…」
恨めしく、何とか片目を開けてアシャを見上げ、ユーノは呻いた。
「よくもやってくれる…っ」
「怪我人は大人しくしてろ」
言い捨てて、アシャがくるりと背中を向ける。
「ということで、イルファ、俺とお前で計画を練る。お前の部屋へ行くぞ」
「あ、ああ、そりゃまあ、俺はお前と一緒なら嬉しいけどな」
イルファがアシャについていそいそと部屋を出て行く。
「ち…っ」
ユーノは舌打ちした後、小さく溜め息をつき、腹を押さえたまま寝転んだ。レスファートが急いでベッドに這い上がり、おろおろした様子でユーノを覗き込む。
「ユーノ…だいじょうぶ?」
「…何とかね」
「アシャ、ひどいよね」
「仕方ないさ……怪我が治りきっていないのは本当なんだから」
もちろん、アシャが正しいのはわかっている。ユーノの提案が無茶なことも。
だが、他にどんな方法がある?
(それに、どうしてアシャは機嫌が悪いんだ?)
じんじん痛む右脇腹を押さえながら考える。
いつもなら、ユーノの無謀さを諌めはしても、こういう手荒い教え方をしなかったのに。
(やっぱり……私が無茶しすぎるから、かな…)
きっとそれで迷惑をかけているんだ、とユーノは切なく眉を寄せた。
(好かれなくてもいいけど…嫌われたく、ない)
「痛いのは当たり前だ」
アシャは眉を寄せてユーノを睨みつけた。
ベッドに横になったユーノの腰に、包帯を巻きつけながらことばを継ぐ。
「人が心配して薬をやれば、とたんに剣を振り回しやがって」
ことばもついつい荒くなる。
月獣(ハーン)の傷は深くなかったはずだ。ただ、湿地帯に潜む数々の細菌を警戒して厚めに手当しており、旅の無理はあったが回復は悪くなかったはずだった。
なのに、今改めて傷を確認してみれば、熱を持ち、塞がっているはずの傷がまだ治り切っていない。きっともっと早くに悪化の兆候があったはずなのに、ユーノが我慢していたのだろうと察しはつく。
挙げ句に痛み止めを飲ませてやれば、それをいいことにまた、突っ込まなくていい戦闘に飛び込む神経がわからない。
「だって」
詰られたユーノはむっとした顔で唇を尖らせる。
「ほっとけないだろ、ああいう場合!」
「追われていれば助けてやる、そんなことをしてては先へ進めないぞ」
「でも、一人だったんだぞ」
一瞬詰まった顔になったユーノが黒い瞳に怒りを浮かべる。
「あのままじゃ、一人で屠られていたかもしれないんだぞ」
その表情に、たった一人で闘い続けてきた自分が重なっていたとは想像出来る、出来るが納得するというのは別物だ。
「なら、俺を呼ぶとか、イルファを起こすとか、方法があるだろう!」
今回はすぐ側にアシャが居た。なぜ一言、彼を助けてやってくれ、と命じなかったのか。アシャはユーノの付き人で、しかも主は怪我をしている、命令でなくとも主の望みを果たすのは当然、瞬時に叩き伏せてやったものを。
怒りがおさまらなくて怒鳴りつけ、相手の目が自分を正面から見据えているのに口をつぐむ。
「…じゃ」
厳しい顔で唇を結んだユーノが、何かを堪えるように顔を背けた。手当されるままにベッドに身を投げ出していたのを、
「今度からイルファを呼ぶよ」
ぽつりと言い捨てて体を起こし、止める間もなくベッドから離れた。
「…おい」
側を擦り抜けたのに慌てて振り向いたが、もう扉の向こうに姿は消えている。
「イルファ?」
(俺じゃなく?)
「…なぜだ」
不安と困惑が募って、アシャは顔を凍らせたまま、のろのろと髪をかきあげた。
(ひょっとして)
「俺は…嫌われてるのか…?」
(なぜ?)
唇を噛む。
結局、アシャ達はユーノの傷が完全に治るまで、飛び込んで来た男、テオ・マキフ・リャスト二世の城に滞在することになっていた。
テオ二世はキャサランの辺境区の王の息子で、その居を、ここ『白の塔』に構えている。
『白の塔』はその名の通り、白い石を上へ上へと積み上げた装飾的な塔で、壁面には辺境区の紋章であるイワイヅタが一面に浮き彫りにされていた。塔の天辺は物見台で数門の砲が備え付けられ、その下が武器庫、その下が作戦会議室と、外見の華やかさに反して戦闘のために作られた要塞だ。
作戦会議室の下には王の執務室と私室数部屋、寝室があって、テオ二世が今そこを使っている。
高さから言えば、基底部からほぼ半分にあたり、アシャ達が客室として与えられたのもこの階、病人として扱われているユーノは、医術師のアシャが付き添うのが妥当だろうと夫婦用の部屋を与えられ、イルファとレスはこれまた二人で一つの部屋を与えられている。
「ふ、ぅ」
しばらく俯いていたアシャは小さく溜め息をついて、強張った体をようよう動かし、ゆっくり天蓋付きのベッドを回って窓辺に寄った。
日差しは既に落ちつつあり、赤い光を塔の壁に跳ねさせている。
窓から見下ろすと、斜め左下に階下の客人用の部屋のバルコニーが、塔から一カ所突き出ていた。なおも下へ視線を降ろしていくと、滑らかに競り上がる基底部に寄り集まるように作られた幾つかの建物が見える。集会場、演劇場、諸大臣の屋敷。もっとも、今は誰も住んでいないんです、とテオ二世は寂しそうに話した。
下のバルコニーには、今、二つの人影があった。テオ二世とユーノの姿だ。
テオが塔の周囲に広がる景色のあちこちを指差して話しかけるのを、ユーノは頷いて聞いている。中でも一つ、示された正面の塔に強く興味を魅かれたようだ。
アシャも、そのまままっすぐ見渡せる平原に目をやった。
ほぼ正面に『白の塔』とほとんど同じ造りと見られる塔と建物の一群がある。
『白の塔』と並び称される『紅(あか)の塔』、別名『死の塔』だ。赤っぽい石を積み上げ、『白の塔』が生者の街とするなら、対して『紅(あか)の塔』は死者の魂の街として造られている。
言わば巨大な墓なのだが、今、『紅(赤)の塔』は異様な活気と賑わいを見せていた。
その上空に白い鳥が舞っている。
「クゥ-ッ!」
高く響く声が呼びかけてきて、アシャは革篭手を引き下ろした左腕を突き出した。
突撃してくるように飛んで来た鳥が寸前身を翻し、思いもかけない柔らかな動きでアシャの腕に降りる。
「ようし、ごくろうだったな、サマル」
「クゥア」
サマルカンドは安らぐように甘えて鳴いた。
昨日夜半、アシャはラズーンからの通達を受け取っていた。キャサランの『運命(リマイン)』侵攻は確実、キャサランを通る限り『運命(リマイン)』との正面衝突は避けられない。加えて、『運命(リマイン)』はキャサラン辺境区をその支配下(ロダ)に置き、『紅(あか)の塔』に潜伏しているとの知らせだった。
半ば強引にテオ二世の招待に応じたのは、ユーノの怪我ももちろんだが、この状況をうまく切り抜け、キャサランを通過するためには、まず『紅(あか)の塔』の情報や辺境区の動向を把握する必要があったせいだ。
(ひょっとして)
その冷徹なアシャの計算がどこかでユーノに伝わったのだろうか。
俯瞰すればユーノの安全のためだが、それでもどこかで視察官(オペ)としての感覚や、時々否応なしにユーノに思い知らされる正当後継者としての立場が、知らず知らずににじみ出て、ユーノに距離を置かせてしまっているのだろうか。
月獣(ハーン)で素裸に近いユーノを抱き上げていた、体に揺れた荒い衝動を勘づかせるまいと意識を閉じた、それに呼応するようにアシャ・ラズーンと呼びかけられた、あの時のように。
(鋭いユーノ)
アシャの中に動いている『力』を確実に読み取るくせに。
(鈍いユーノ)
跪いてまで求めた愛情を欠片も与えてくれない。
「クェッ?」
「ん…」
問いかけるように自分を覗き込んできたサマルカンドに、アシャは情けなく笑って、窓に身をもたせかけた。
「サマルカンド」
「クゥ?」
「初めての恋を……覚えているか?」
この想いはいつ始まったのだろう。
目を魅きつけられたのは、もっと前だ。愛しいと思ったのも、守ってやりたいと思ったのも、もっともっと前だった。ユーノが殺される、そう考えるだけで冷たく荒い怒りを感じるようになったのさえ、この想いよりもまだ前だった。
(きっと、あの時から)
月獣(ハーン)の攻撃を耐え抜いて、なお、己の心の弱さにもユーノが打ち勝ったあの一瞬。
打ちのめされ、叩きのめされた、光の中で。
全てを投げ出してもいい。その目に見つめられていたい。その口で求められたい。側に居よと命じられ、我が意を満たせと訴えられ、他の誰でもない、アシャただ一人が差し伸べる手を受け止める唯一無二の男でありたい。
「ユーノが手を差し伸べる相手って……どんな奴だろうな、サマル」
あの強い娘が、自分の全てを委ねる相手。
(俺ではなくて……イルファを呼ぶと言い切った)
勘違いだったのか、ほんの一瞬、彼女の目がアシャを追ったように感じたのは。アシャに心の内を見せたと思ったのは。
多くの女達に追われていた男の傲慢だったのか。
「クェアアッ!」
沈んでしまったアシャを気遣うように、サマルカンドが鳴いた。
「ふ」
皮肉な笑みを浮かべて、アシャは再び窓の外へ腕を突き出した。
「そんなことを言ってたら、恋などできん、か。……ユーノを頼むぞ、サマル!」
「クェッ!」
翼を広げてクフィラは悠々とバルコニーへ舞い降りて行く。見ようによっては、アシャが、ユーノとテオ二世の歓談を妨げるために放ったと見えないこともない。
(我ながら幼いことをしてるよな)
クフィラを見送りながら、アシャは溜め息をついて窓辺を離れた。
「わっ!」
ふいに現れたサマルカンドにテオ二世は大げさに驚いた。
「何です?」
「クフィラだけど」
「クフィラ? あの伝説の!」
「クェッ!」
そうだとも、と言いたげにサマルカンドが応じ、ユーノの腕から肩へとすり寄った。
「あなたのものなんですか?」
「ええ、まあ。本当はアシャのなんだけど」
答えながら、ユーノはサマルカンドの降りて来た上空を見上げた。視線を感じたのだが、アシャの姿はないようだ。
「アシャって、あのきれいな人ですね」
「ええ」
ユーノはくすりと笑った。普段の姿で『きれい』だと評されるのなら、改まった装い、ましてや女装などを目にしたら、テオはどういう表現をするのだろう。声も出ないかも知れない。
「でも、あなたもアシャも凄腕ですね。ミルバの部下を軽々と…っ」
笑いながら話しかけたテオ二世は、途中でいきなりはっとしたように口をつぐんだ。
「ミルバ?」
「……『紅(あか)の塔』の主人です。いつからか『紅(あか)の塔』に住みついて、父さまや母さまを騙して連れ去って………」
テオ二世は唇を噛んだ。
「けれど……ぼくの婚約者、『イ・ク・ラトール』、でした」
キャサラン辺境の方言らしいことばを柔らかく発して、テオ二世は『紅(あか)の塔』を遠いグレイの目で見つめた。
「『運命(リマイン)』が?」
アシャの唇から紡がれたことばに、ユーノもイルファもぎょっとして、腕を組んだまま壁にもたれているアシャを見つめた。レスファートもわけがわからないままに、ユーノとイルファの厳しい表情に不安を浮かべる。
静まり返った夜の世界、ユーノの部屋に集まった四人、明かりに照らされたアシャはにこりとも笑わなかった。
「『紅(あか)の塔』が『運命(リマイン)』の拠点になってるって?」
「あそこにあいつらがうじゃうじゃいるのか。ぞっとするな」
ユーノの確認に、『運命(リマイン)』と闘った手応えを思い出したのか、珍しくイルファが真面目な顔になる。
「それどころか、キャサランで安全なのはここだけと言ってもいい」
アシャは憂いを漂わせた。
「正面から進んでたら、とっくに餌食になっている」
「と同時に、ラズーンへ行くなら、何が何でもここを突破しなくちゃならねえってわけか」
イルファが凄んだ声を出す。
「でも、アシャ」
ユーノはベッドに座ったまま言った。
「ここにいるのはテオと他数人、それにボク達だろ。どうやって『紅(あか)の塔』を陥す?」
「計略を使うしかないな。『運命(リマイン)』だって全員に目が届いているわけじゃない。下っ端の方は小悪党を使ってるだろうから、そのあたりから食い込んでいけば何とかなるかも知れない」
「おとり?」
レスファートが無邪気に尋ねる。
「おお。よく知ってたな、レス」
イルファがからかった。
「ぼくだって、それぐらい知ってるよ。ぼくがやってもいいよ」
「ぶ」
「なに、イルファ」
「いーえ、勇ましいこって」
「冗談はさておいて、とにかく誰かを送り込まなくてはならない」
アシャはむっつりした様子で言った。
「『白の塔』の人間はだめだ。『紅(あか)の塔』の人間はもともと仲間だからな」
「じゃあ、ボク達の中から、か」
ユーノは一渡り見回し、アシャに視線を戻した。
「ボクが行くよ」
「だめだ」
にべもなくアシャが拒み、むっとする。
「どうして止める?」
「俺はお前の付き人だ。それに怪我人に任せられる仕事じゃない」
突き放すような冷ややかさに苛立つ。
「怪我ったって、こんなかすり傷」
「ふーん」
アシャは壁から身を起こして近寄ってくると、すっと手を伸ばした。本能的にユーノが身体を引く前に、ひらりと手を閃かせる。
パン!
「つうっ!」
「アシャ!」
容赦なく打たれた右脇腹を押さえて崩れるユーノに、レスファートが甲高い声を上げた。
「なにするんだよ!」
「自分の状態を知っておくのも剣士の務めだ」
「でも、ユーノ、けがしてるのに、ひどいよっ」
レスファートが噛みつく。
「この…」
恨めしく、何とか片目を開けてアシャを見上げ、ユーノは呻いた。
「よくもやってくれる…っ」
「怪我人は大人しくしてろ」
言い捨てて、アシャがくるりと背中を向ける。
「ということで、イルファ、俺とお前で計画を練る。お前の部屋へ行くぞ」
「あ、ああ、そりゃまあ、俺はお前と一緒なら嬉しいけどな」
イルファがアシャについていそいそと部屋を出て行く。
「ち…っ」
ユーノは舌打ちした後、小さく溜め息をつき、腹を押さえたまま寝転んだ。レスファートが急いでベッドに這い上がり、おろおろした様子でユーノを覗き込む。
「ユーノ…だいじょうぶ?」
「…何とかね」
「アシャ、ひどいよね」
「仕方ないさ……怪我が治りきっていないのは本当なんだから」
もちろん、アシャが正しいのはわかっている。ユーノの提案が無茶なことも。
だが、他にどんな方法がある?
(それに、どうしてアシャは機嫌が悪いんだ?)
じんじん痛む右脇腹を押さえながら考える。
いつもなら、ユーノの無謀さを諌めはしても、こういう手荒い教え方をしなかったのに。
(やっぱり……私が無茶しすぎるから、かな…)
きっとそれで迷惑をかけているんだ、とユーノは切なく眉を寄せた。
(好かれなくてもいいけど…嫌われたく、ない)
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
(完結)お姉様を選んだことを今更後悔しても遅いです!
青空一夏
恋愛
私はブロッサム・ビアス。ビアス候爵家の次女で、私の婚約者はフロイド・ターナー伯爵令息だった。結婚式を一ヶ月後に控え、私は仕上がってきたドレスをお父様達に見せていた。
すると、お母様達は思いがけない言葉を口にする。
「まぁ、素敵! そのドレスはお腹周りをカバーできて良いわね。コーデリアにぴったりよ」
「まだ、コーデリアのお腹は目立たないが、それなら大丈夫だろう」
なぜ、お姉様の名前がでてくるの?
なんと、お姉様は私の婚約者の子供を妊娠していると言い出して、フロイドは私に婚約破棄をつきつけたのだった。
※タグの追加や変更あるかもしれません。
※因果応報的ざまぁのはず。
※作者独自の世界のゆるふわ設定。
※過去作のリメイク版です。過去作品は非公開にしました。
※表紙は作者作成AIイラスト。ブロッサムのイメージイラストです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
竜の国の侍従長
風結
ファンタジー
「竜の国の魔法使い」の次の物語です。
世界を滅ぼすことも救うことも出来るコウと、同等の魔力量を具えた存在が東域ーーエタルキアで生まれ、リシェ達はその対処に向かいます。
部下や悪友、ストーフグレフに英雄王と、リシェの交流の輪も広がっていきます。
風竜ラカールラカや地竜ユミファナトラを始め、多くの竜と出会います。ですが、出会えなかった竜(水竜ストリチナ、雷竜リグレッテシェルナ)もちらりほらり。
氷竜の「いいところ」を擦るところから始まる物語は、この度もリシェの心胆に負担を掛けつつ、多くの喜びを齎す、かもしれません。自身の正体、竜との関係、古竜のこと。世界の秘密に近付くことで、自らの願いと望みに心付くことになります。
「千竜王」との関係によって、魂を揺さぶられることになる少年と竜の、成長の物語です。
今夜、元婚約者の結婚式をぶち壊しに行きます
結城芙由奈
恋愛
【今夜は元婚約者と友人のめでたい結婚式なので、盛大に祝ってあげましょう】
交際期間5年を経て、半年後にゴールインするはずだった私と彼。それなのに遠距離恋愛になった途端彼は私の友人と浮気をし、友人は妊娠。結果捨てられた私の元へ、図々しくも結婚式の招待状が届けられた。面白い…そんなに私に祝ってもらいたいのなら、盛大に祝ってやろうじゃないの。そして私は結婚式場へと向かった。
※他サイトでも投稿中
※苦手な短編ですがお読みいただけると幸いです
かつて私のお母様に婚約破棄を突き付けた国王陛下が倅と婚約して後ろ盾になれと脅してきました
お好み焼き
恋愛
私のお母様は学生時代に婚約破棄されました。当時王太子だった現国王陛下にです。その国王陛下が「リザベリーナ嬢。余の倅と婚約して後ろ盾になれ。これは王命である」と私に圧をかけてきました。
婚約者の浮気を目撃した後、私は死にました。けれど戻ってこれたので、人生やり直します
Kouei
恋愛
夜の寝所で裸で抱き合う男女。
女性は従姉、男性は私の婚約者だった。
私は泣きながらその場を走り去った。
涙で歪んだ視界は、足元の階段に気づけなかった。
階段から転がり落ち、頭を強打した私は死んだ……はずだった。
けれど目が覚めた私は、過去に戻っていた!
※この作品は、他サイトにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる