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僕と彼女と1輪の菊
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5月19日、金曜日。
今日、僕の通う私立彩浪高校の、僕の所属する2年3組内で、とある騒ぎが起きた。
加害者は不明。被害者は、僕こと及川尚である。
「まあまあ、先輩。このくらい別に放っておけばよくないですか? こんなの、ただの虐めですよ。青春時代のありきたりな風物詩です」
グラウンドからの掛け声と、音楽室からの楽器の音。それだけが聴こえる放課後の教室で、女子生徒と2人きり。自分の席に座って頬杖をつく僕の視界の隅で、1年の麻間雅は、心底面倒臭そうにため息を吐いた。
個人の机の上に、可憐な花の活けられた花瓶がひとつ。
彼女の言う通り、嫌がらせの常套手段としては至ってベタな組み合わせではあるけれど、それはフィクションに限った話であって、リアル・ワールドにおいてはまた別だ。現実の虐めっ子ってのは無駄に頭の切れる奴ばかりだから、もっと陰湿で、誰にも悟られないような手段を取る。……というイメージもまた、偏見を素にしたフィクションなのだけど。
しかし逆に言えば、日陰で行われているからこそ、その他大勢が他人でいることを許されていたとも捉えられる……だからその分、今回はインパクトもあったのだろう。
暗闇から唐突に日向へ飛び出した時のように、より強い衝撃が襲ったのだ。
証拠に、今日は丸1日、2年3組に留まらず、学年中がその話題で持ちきりだった。僕の方は、良い意味でも悪い意味でも、いつも通りだってのに。当の被害者を差し置いて、勝手に盛り上がらないでいただきたい。
1日を通して浴び続けた同情の視線を思い返して、僕も薄く息を吐き出す。
「いや、そうはいかないよ。変に同情され続ける学校生活なんてごめんだ」
僕がそう返すと、麻間は不思議そうに首を傾げた。
「先輩らしくないですね。もっと肝が据わってる人だと思ってました」
「僕はいつでも僕だよ。僕はいつだって、僕らしい僕でいられるよう意識してる。だからこそ、この手の問題を放っておくことはできない。僕の流儀に反するから」
「流儀、ですか」
「まあ、そんな大した流儀でもないけどね。いくら小さな事象だろうと、無視してはならない……それが、これまでの人生で得た教訓だ。石橋も鉄橋も、等しく100回は叩いてから渡るべきだと、僕はそう考えてる」
「……図太いのか、はたまた繊細なのか、よく分かんないです」
「大丈夫、僕もよく分かんないから」
僕が答えると、教室内をうろうろと行ったり来たりしていた麻間は、僕の横で足を止め、そのまま隣の席の机に腰を下ろした。2人きりだからとは言え、仮にも上級生の教室なのに、その一連の動きには一切の配慮や躊躇は見受けられない。
「でも、こんなのよくあることじゃないですか。青春自体の風物詩、ってのは言い過ぎかもしれないですけど、いつの時代だって、虐めは水面下で行われてるものですよ。人間ってのは、他人を貶めたくなる生き物なんです。だから、気にしないのが一番」
「ふうん、知ったような口を利くじゃん」
「だって私、中学の時に虐められてましたもん。転校もそれが原因ですよ」
「……へえ」
なんの前触れもなく吐き出された聞き捨てならないセリフに、呼吸が一瞬だけ止まる。
まるで、誤って飲み込んだ林檎の欠片が、喉の奥に引っかかった時のように。
「私の通ってたのは女子校だったんで、当然先生以外の男の人の目に触れることってなかったんですよ。だからその分、ヒエラルキー的なのがけっこうきつかったんです。先輩が失禁しちゃうと困るんで、具体的な虐めの内容は言わないですけど」
そう言って、麻間は笑う。……こんな時、どんな言葉をかけるべきなのだろうか。
いくら向こうから始めた話で、いくら相手が麻間だからって、ここでかける言葉を選ばないわけにはいかない。それはたぶん、先輩として、そして男として、当然のことなのだろうけれど……僕には、それができそうもない。
「……大変だったんだな」
僕はなんとか、それだけを捻り出す。慰めでも鼓舞でもない、自分でも驚くような不器用なセリフに、麻間もまた、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。
「ふふっ、なんすかそれ」
そしてまた、いつものように笑った。人を小馬鹿にしたような、心底楽しそうな笑顔に、僕は思わず視線を逸らし、右手で髪をかき上げる。拍子に、柑橘系の甘酸っぱい香りが、ほのかに鼻先をくすぐった。
「で、本題なんですけど」
ひとしきり笑い終えた麻間は、こちらを見据えて切り出す。
「私たちは今、何をしてるんですか?」
「……今更な質問だな」
「まあ、大して興味はないですし。私はただ、先輩との時間が好きだからこうしているだけなので……って、勘違いしないでくださいね。先輩といるのが好きってだけで、別に先輩が好きってわけじゃないですから」
「……勘違いっていうか、それほぼ同義だろ」
「まあまあ、それは一旦置いておいて。そんなことより先に、さっさと目的を吐いてくださいよ。そうすれば、命だけは助けてあげます」
「え、僕って今、お前に拷問されてる最中だっけ?」
「気にしないでください、渾身のボケに見せかけた照れ隠しです」
「さいですか……」
僕は諦めたように呟くと、机の脇のリュックサックからペットボトルを取り出して中のお茶を煽り、それから口を開いた。
「僕は今、とある人が戻って来るのを待っているんだ」
「とある人って、もしかして加害者のことですか? 犯人は現場に戻って来るって、よく言いますし」
「いや、違うよ。決して加害者なんかじゃない……むしろ真逆だよ」
「真逆?」
僕は「うん」と頷いて、視線を手元のペットボトルへと落とした。
聞かれなかったから言わなかったけれど、言わない理由も特にない。理由を言わない理由もないし、麻間の勘違いを正さない理由もない。……むしろ、正す理由がある。
僕にしてみれば、これはとっくに終わった事件。
言わばこれは、単なるエピローグだ。
「まず前提として、この件に悪意は絡んでいない」
「え? どういうことですか?」
「だから、この事件は虐めなんかによるものじゃないんだ。だから被害者なんていないし、それゆえに加害者も存在しない……そもそも本来、机に花瓶を置くのは、なんらかの理由で亡くなったクラスメイトを追悼する意味の行為なんだ。それがどこかのタイミングで曲解され、遠回しに悪意を伝える行動へと成り下がった」
それは、5年前のこの時期に起こった出来事なのだそうだ。
5年前のこの時期、当時の2年3組に在籍していた生徒が、虐めを原因に自殺した。
当たり前みたいに上履きは消え、教科書のページは破られ、弁当は捨てられた。
加害者の生徒たちは、邪魔になるような友人を持たない被害者を、教師に感知されない方法を用いて執拗に攻撃し続けたのだ。
この攻撃は、1年の頃から続いていたらしい。
弱音も吐かず、誰かに頼ることなく、ただひたすらに3月まで耐え抜くも、運悪く再び加害者と同じクラスになったことをきっかけに、ついに我慢の限界が訪れた。
死因は、他者に迷惑をかけないよう計画された、首吊り自殺だった。
「……ですよね、先生」
言うのと一緒に、僕は目線を右後ろの扉へと送る。するとその扉を潜り、グレーのスーツを着た細身の男性、このクラスの副担任である笹川先生が姿を見せた。
「……いやあ、そこまで知られてたとは。あまり人に話したことはなかったんだけどな」
「安心してください、先生。このことを知ってる生徒は、僕と、今知ったばかりのこいつだけなので。もちろん、これからも他言するつもりはありません」
「……そうか、ならよかった」
笹川先生は力なく笑って、教卓の向こうまで歩いて行った。『ところで、そのお前はどこでその話を聞いたんだ』、とでも訊かれるかと思ったから、何も言わないのは意外だった。僕にしてみれば、保健室の皆見先生を売らずに済むからありがたいけれど。
ちらりと隣を見ると、麻間が眉間にしわを寄せ、腕を組んで首を傾げている。相変わらず察しの悪い奴だ、と、僕は思わず音のない笑いを吐き出した。
「当時の担任だったんだよ、先生は。そして現状、校長以外で、当時を知っている唯一の教員なんだ。だから毎年、命日になると一人で、机に花瓶をお供えしてる」
「そ、そうだったんですか……⁉」
麻間は声を上げ、視線を教卓の方へと向ける。すると先生は、少し居心地が悪そうにはにかんで、自身の白髪が混ざった短髪に触れた。
「……うん。本当なら、教室の鍵をかけるときに置いて、次の日の朝に回収するつもりだったんだけど、なぜかアラームが鳴らなくって……気づいたときには騒ぎになってたから、言い出しにくくって」
ふと、先生の口元から笑みが消え、表情が硬くなる。
そして、教卓に一滴、雫が落ちた。
「来年には異動だから、これが最後だったのに……自分が情けないよ。5年前だって、俺がもっと早くに気づいてあげていれば、あんなことにはならなかったのに……あいつ、天国で恨んでるんだろうな。俺みたいな無能教師を引かされちゃって」
そんなこと——、
「……そんなことは、ないと思います」
と、先に声にしたのは、僕ではなく麻間の方だった。
麻間は、その場にゆっくりと立ち上がると、瞳を正面へ据える。
「亡くなった方の気持ちなんて、誰にも……少なくとも私には分かりません。でも、もしも私がその方で、もしも天国からこの教室を覗いているのなら、感謝こそすれ、恨むことなんてないと思います」
それは、麻間らしくない、芯のある声——意思のこめられたその声と横顔に、僕は視線を引きつけられる。
「気づいて欲しかったんだと思います。助けて欲しかったんだと思います。だけど、人は案外鈍感なんです。言わなくても分かってくれるような、そんな正義の味方みたいな存在なんて、現実にはいないんです。幻想なんです。願うだけ、無駄なんです」
だから——と、麻間は一瞬、僕の方へ視線を移して柔らかく微笑んだ。
「だから、仮に手遅れだったとしても……気づいてくれて、悲しんでくれて、こうして涙を流してくれた先生に、感謝していると思います」
麻間が言い終わるのとほとんど同時に、ふわりとカーテンが揺れた。
少し先に控えた夏の暖かさをほのかに感じさせる風が、優しく頬を撫でる。……それはまるで、空が僕らに何かを伝えようとしているみたいだった。
「帰りましょうか、先輩」
風が止むのを待ってから、麻間は自身のリュックを手に取った。
「ああ、そうだな。では先生、また来週」
「……うん、さようなら」
僕は席を立ち、麻間と同じようにリュックを背負う。そして、教室の後ろにあるロッカーの上へ置かれた花瓶と、そこに挿された1輪の白い菊を一瞥してから、麻間の後を追って扉へと向かった。
廊下に出る直前、微かな嗚咽が聞こえた気がしたけれど、僕はそれに気づかない振りをして、後ろ手に扉を閉めた。
今日、僕の通う私立彩浪高校の、僕の所属する2年3組内で、とある騒ぎが起きた。
加害者は不明。被害者は、僕こと及川尚である。
「まあまあ、先輩。このくらい別に放っておけばよくないですか? こんなの、ただの虐めですよ。青春時代のありきたりな風物詩です」
グラウンドからの掛け声と、音楽室からの楽器の音。それだけが聴こえる放課後の教室で、女子生徒と2人きり。自分の席に座って頬杖をつく僕の視界の隅で、1年の麻間雅は、心底面倒臭そうにため息を吐いた。
個人の机の上に、可憐な花の活けられた花瓶がひとつ。
彼女の言う通り、嫌がらせの常套手段としては至ってベタな組み合わせではあるけれど、それはフィクションに限った話であって、リアル・ワールドにおいてはまた別だ。現実の虐めっ子ってのは無駄に頭の切れる奴ばかりだから、もっと陰湿で、誰にも悟られないような手段を取る。……というイメージもまた、偏見を素にしたフィクションなのだけど。
しかし逆に言えば、日陰で行われているからこそ、その他大勢が他人でいることを許されていたとも捉えられる……だからその分、今回はインパクトもあったのだろう。
暗闇から唐突に日向へ飛び出した時のように、より強い衝撃が襲ったのだ。
証拠に、今日は丸1日、2年3組に留まらず、学年中がその話題で持ちきりだった。僕の方は、良い意味でも悪い意味でも、いつも通りだってのに。当の被害者を差し置いて、勝手に盛り上がらないでいただきたい。
1日を通して浴び続けた同情の視線を思い返して、僕も薄く息を吐き出す。
「いや、そうはいかないよ。変に同情され続ける学校生活なんてごめんだ」
僕がそう返すと、麻間は不思議そうに首を傾げた。
「先輩らしくないですね。もっと肝が据わってる人だと思ってました」
「僕はいつでも僕だよ。僕はいつだって、僕らしい僕でいられるよう意識してる。だからこそ、この手の問題を放っておくことはできない。僕の流儀に反するから」
「流儀、ですか」
「まあ、そんな大した流儀でもないけどね。いくら小さな事象だろうと、無視してはならない……それが、これまでの人生で得た教訓だ。石橋も鉄橋も、等しく100回は叩いてから渡るべきだと、僕はそう考えてる」
「……図太いのか、はたまた繊細なのか、よく分かんないです」
「大丈夫、僕もよく分かんないから」
僕が答えると、教室内をうろうろと行ったり来たりしていた麻間は、僕の横で足を止め、そのまま隣の席の机に腰を下ろした。2人きりだからとは言え、仮にも上級生の教室なのに、その一連の動きには一切の配慮や躊躇は見受けられない。
「でも、こんなのよくあることじゃないですか。青春自体の風物詩、ってのは言い過ぎかもしれないですけど、いつの時代だって、虐めは水面下で行われてるものですよ。人間ってのは、他人を貶めたくなる生き物なんです。だから、気にしないのが一番」
「ふうん、知ったような口を利くじゃん」
「だって私、中学の時に虐められてましたもん。転校もそれが原因ですよ」
「……へえ」
なんの前触れもなく吐き出された聞き捨てならないセリフに、呼吸が一瞬だけ止まる。
まるで、誤って飲み込んだ林檎の欠片が、喉の奥に引っかかった時のように。
「私の通ってたのは女子校だったんで、当然先生以外の男の人の目に触れることってなかったんですよ。だからその分、ヒエラルキー的なのがけっこうきつかったんです。先輩が失禁しちゃうと困るんで、具体的な虐めの内容は言わないですけど」
そう言って、麻間は笑う。……こんな時、どんな言葉をかけるべきなのだろうか。
いくら向こうから始めた話で、いくら相手が麻間だからって、ここでかける言葉を選ばないわけにはいかない。それはたぶん、先輩として、そして男として、当然のことなのだろうけれど……僕には、それができそうもない。
「……大変だったんだな」
僕はなんとか、それだけを捻り出す。慰めでも鼓舞でもない、自分でも驚くような不器用なセリフに、麻間もまた、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。
「ふふっ、なんすかそれ」
そしてまた、いつものように笑った。人を小馬鹿にしたような、心底楽しそうな笑顔に、僕は思わず視線を逸らし、右手で髪をかき上げる。拍子に、柑橘系の甘酸っぱい香りが、ほのかに鼻先をくすぐった。
「で、本題なんですけど」
ひとしきり笑い終えた麻間は、こちらを見据えて切り出す。
「私たちは今、何をしてるんですか?」
「……今更な質問だな」
「まあ、大して興味はないですし。私はただ、先輩との時間が好きだからこうしているだけなので……って、勘違いしないでくださいね。先輩といるのが好きってだけで、別に先輩が好きってわけじゃないですから」
「……勘違いっていうか、それほぼ同義だろ」
「まあまあ、それは一旦置いておいて。そんなことより先に、さっさと目的を吐いてくださいよ。そうすれば、命だけは助けてあげます」
「え、僕って今、お前に拷問されてる最中だっけ?」
「気にしないでください、渾身のボケに見せかけた照れ隠しです」
「さいですか……」
僕は諦めたように呟くと、机の脇のリュックサックからペットボトルを取り出して中のお茶を煽り、それから口を開いた。
「僕は今、とある人が戻って来るのを待っているんだ」
「とある人って、もしかして加害者のことですか? 犯人は現場に戻って来るって、よく言いますし」
「いや、違うよ。決して加害者なんかじゃない……むしろ真逆だよ」
「真逆?」
僕は「うん」と頷いて、視線を手元のペットボトルへと落とした。
聞かれなかったから言わなかったけれど、言わない理由も特にない。理由を言わない理由もないし、麻間の勘違いを正さない理由もない。……むしろ、正す理由がある。
僕にしてみれば、これはとっくに終わった事件。
言わばこれは、単なるエピローグだ。
「まず前提として、この件に悪意は絡んでいない」
「え? どういうことですか?」
「だから、この事件は虐めなんかによるものじゃないんだ。だから被害者なんていないし、それゆえに加害者も存在しない……そもそも本来、机に花瓶を置くのは、なんらかの理由で亡くなったクラスメイトを追悼する意味の行為なんだ。それがどこかのタイミングで曲解され、遠回しに悪意を伝える行動へと成り下がった」
それは、5年前のこの時期に起こった出来事なのだそうだ。
5年前のこの時期、当時の2年3組に在籍していた生徒が、虐めを原因に自殺した。
当たり前みたいに上履きは消え、教科書のページは破られ、弁当は捨てられた。
加害者の生徒たちは、邪魔になるような友人を持たない被害者を、教師に感知されない方法を用いて執拗に攻撃し続けたのだ。
この攻撃は、1年の頃から続いていたらしい。
弱音も吐かず、誰かに頼ることなく、ただひたすらに3月まで耐え抜くも、運悪く再び加害者と同じクラスになったことをきっかけに、ついに我慢の限界が訪れた。
死因は、他者に迷惑をかけないよう計画された、首吊り自殺だった。
「……ですよね、先生」
言うのと一緒に、僕は目線を右後ろの扉へと送る。するとその扉を潜り、グレーのスーツを着た細身の男性、このクラスの副担任である笹川先生が姿を見せた。
「……いやあ、そこまで知られてたとは。あまり人に話したことはなかったんだけどな」
「安心してください、先生。このことを知ってる生徒は、僕と、今知ったばかりのこいつだけなので。もちろん、これからも他言するつもりはありません」
「……そうか、ならよかった」
笹川先生は力なく笑って、教卓の向こうまで歩いて行った。『ところで、そのお前はどこでその話を聞いたんだ』、とでも訊かれるかと思ったから、何も言わないのは意外だった。僕にしてみれば、保健室の皆見先生を売らずに済むからありがたいけれど。
ちらりと隣を見ると、麻間が眉間にしわを寄せ、腕を組んで首を傾げている。相変わらず察しの悪い奴だ、と、僕は思わず音のない笑いを吐き出した。
「当時の担任だったんだよ、先生は。そして現状、校長以外で、当時を知っている唯一の教員なんだ。だから毎年、命日になると一人で、机に花瓶をお供えしてる」
「そ、そうだったんですか……⁉」
麻間は声を上げ、視線を教卓の方へと向ける。すると先生は、少し居心地が悪そうにはにかんで、自身の白髪が混ざった短髪に触れた。
「……うん。本当なら、教室の鍵をかけるときに置いて、次の日の朝に回収するつもりだったんだけど、なぜかアラームが鳴らなくって……気づいたときには騒ぎになってたから、言い出しにくくって」
ふと、先生の口元から笑みが消え、表情が硬くなる。
そして、教卓に一滴、雫が落ちた。
「来年には異動だから、これが最後だったのに……自分が情けないよ。5年前だって、俺がもっと早くに気づいてあげていれば、あんなことにはならなかったのに……あいつ、天国で恨んでるんだろうな。俺みたいな無能教師を引かされちゃって」
そんなこと——、
「……そんなことは、ないと思います」
と、先に声にしたのは、僕ではなく麻間の方だった。
麻間は、その場にゆっくりと立ち上がると、瞳を正面へ据える。
「亡くなった方の気持ちなんて、誰にも……少なくとも私には分かりません。でも、もしも私がその方で、もしも天国からこの教室を覗いているのなら、感謝こそすれ、恨むことなんてないと思います」
それは、麻間らしくない、芯のある声——意思のこめられたその声と横顔に、僕は視線を引きつけられる。
「気づいて欲しかったんだと思います。助けて欲しかったんだと思います。だけど、人は案外鈍感なんです。言わなくても分かってくれるような、そんな正義の味方みたいな存在なんて、現実にはいないんです。幻想なんです。願うだけ、無駄なんです」
だから——と、麻間は一瞬、僕の方へ視線を移して柔らかく微笑んだ。
「だから、仮に手遅れだったとしても……気づいてくれて、悲しんでくれて、こうして涙を流してくれた先生に、感謝していると思います」
麻間が言い終わるのとほとんど同時に、ふわりとカーテンが揺れた。
少し先に控えた夏の暖かさをほのかに感じさせる風が、優しく頬を撫でる。……それはまるで、空が僕らに何かを伝えようとしているみたいだった。
「帰りましょうか、先輩」
風が止むのを待ってから、麻間は自身のリュックを手に取った。
「ああ、そうだな。では先生、また来週」
「……うん、さようなら」
僕は席を立ち、麻間と同じようにリュックを背負う。そして、教室の後ろにあるロッカーの上へ置かれた花瓶と、そこに挿された1輪の白い菊を一瞥してから、麻間の後を追って扉へと向かった。
廊下に出る直前、微かな嗚咽が聞こえた気がしたけれど、僕はそれに気づかない振りをして、後ろ手に扉を閉めた。
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