上 下
2 / 2

②殺意~因縁~対決~すれ違う想いと願い~僕達は大切な花を守りながら生きていく

しおりを挟む
第9話 殺意
「いいえ。その件につきましては前回お話したとおり、お断りさせていただきます」
 杉野さんが携帯電話で話をしている。 これで三度目。電話の向こうは前支店長。つまり、奥田の父親だ。
 新たな会社を興すため、杉野さんをしつこく誘っている。でも副社長があの息子だから、どうせろくな会社ではない。
「うるせえなあ。着信拒否にするぞ」
 電源を切り、うんざりした顔。
「また例の電話ですか」
「ああ。工事現場は書類上だけで、何もしなくていいとか、すぐに取締役にしてやるとか。自分からこの会社は、まともな会社ではございませんって言ってるようなもんだ」
「でも倒産する前は、杉野さんに辛く当たっていたんでしょ。本社の人間だからって」
「そうさ。挨拶したって無視するし、書類の決済も、わざと支店ぐるみで後回ししやがって」
「そこまで嫌いなら、どうして」
「奥田さ」
「え?」
「息子の方。今度は親父を使って、俺を引っ張ってこようって魂胆だ」
「息子には甘いんですね。副社長に就任させるくらいですもんね」
「馬鹿な子ほど可愛いって言うだろう」「両方とも馬鹿だったらどうなるんでしょうね」
「その時は二人してドブにはまるだろ」
 この後も、電話がかかってきては断るの繰り返し。息子の方からも相変わらず電話やメールが頻繁に来る。出ずに無視しても昼夜問わずしつこく来る。
 断るイコール振られたってことが、親子揃って理解できないらしい。
 それってもうすでに、ドブから発信してるんじゃないかと僕は思う。


「ねえ。一緒にお買い物、ついて行ってもいいかしら」
 うだるような暑い昼下がりの、冷房のきいた社長室。次回のアフタヌーンティーの打ち合わせの後、高梨社長が聞く。
「はい。もちろんです。何を買われるんですか」
「ちょっといいシャンパンと、チーズを少し」
「おや? もしかして」
 杉野さんが、にやりと笑う。
「うっふっふ。わかる? 今夜はアタシんちで、デートなの」
 目がハートになっている。オッサンなのに、乙女の瞳。
 杉野さんはかなり前に高梨社長の「彼氏」の画像を携帯電話で見ている。でも僕は見ていない。
 どんな人なのかな。やっぱり同じタイプの人だろうか。そしたらデートじゃなくて、わあわあきゃあきゃあ、女性会みたいになっちゃいそう。

 製菓材料を山ほど買い、薄暗い屋上の駐車場へ運び、車に積んだ。
 その後、杉野さんと高梨社長は領収書を切り忘れたとのことで、一階のサービスカウンターへ行った。
 今日も炎天下かつ、強烈な蒸し暑さ。 そのせいか客も少なく、駐車している車もまばらだ。
 杉野さんの車の前で、二人の帰りを待つ。このフロアには、僕以外は誰もいない。
 今夜の夕飯、何にしよう。冷や麦と、ゴボウとニンジンの天ぷらにしようか。 そうぼんやりと考えていた時だった。 突然、視界が凄まじい閃光で真っ白になった。

 なにごとかと、光の方へ目を細め、振り向く。
 するとそこにはナンバープレートを識別できないように内側へ折り曲げた、一台の黒い改造車があった。
 しかもそれは僕をめがけて迷いもなく走ってくる。
「ひ……っ!」
 とにかく訳もわからないまま、僕は店の入り口の方へと逃げた。
 だが車は急発進と急ブレーキを繰り返し、僕を入り口から遠ざけるかのように隅へ隅へと追いつめる。
 何なんだ、こいつ! 
 完全に逃げ道を失った僕は、逆に車の横からすり抜けようと考えた。
 車には運転手の他は誰も乗っていないようだった。ならば、助手席側が好都合だ。それにここは太いコンクリートの柱が幾本も並び、車が旋回するには狭過ぎる。逃げ切れる確率は高い。
 一か八か、車に向かって走り出す。
 しかし、助手席側を走り過ぎようとした刹那、その窓から何かが、もの凄い勢いで飛んで来た。
「うわあっ!」
 それは僕の腕に命中し、鈍い痛みと痺れが全身に広がる。またその衝撃で転倒し、コンクリート柱の角へ背中を強く打った。
「うう……っ」
 腕に当たった物体が、床に落ちて弾むように転がる。
 満タンのジュースのペットボトルだ。 しかも一.五リットルサイズ。そんなものを満身の力を込めて、投げつけてきたのだ。
「……」
 背筋がぞっとして、手足が氷のように冷たくなる。
 これは無差別じゃない。絶対に殺意を持って、僕を標的にしている。
 全身は恐怖で鳥肌が立ち、心臓の鼓動はバクバクと大きく波打つ。そして立ち上がろうにも、腕と背中の激痛で動けない。
 そうしている間に車は猛スピードでバック。そして再び僕に向かって走り出した。
 違法改造かと思うくらい、異様に強い光のヘッドライト。むき出しのコンクリートの壁に反射して、薄暗い駐車場が劇場のように浮かび上がる。
 その時、初めて運転席の人間の顔が見えた。
 奥田! 
 その目は吊り上がり、前歯をむき出しにして笑っている。ぴくぴくと上下に動くほお骨は、人間のものとは思えない。 狂気がハンドルを握っているようだ。 車は目前に迫る。
 今のうちに逃げないと、確実に命はない。あの様子だと威嚇ではない。絶対に僕を殺す気だ。
 だが、体は痛みと恐怖ですくんでしまい、動けない。
 もうだめだ。死ぬかもしれない。

「杉野さんっ……!」
 親でもなく、兄弟でもなく、僕は杉野さんの名前を呼んだ。この世界で一番、大好きな人の名前を呼んだ。
 床に横たわったまま身を硬くして、愛する人の姿を胸に浮かべた。
 さよなら。大好きでした。もっと、もっと、そばにいたかった。もっと、もっと、愛したかった……!
 涙で視界が滲む。ヘッドライトの閃光が涙で拡散し、まるで星屑の中にいるようだ――

「こらあ! 何やってんだ! 止まれ、止まれえ!」
 男性の怒号と耳をつんざく警笛が、駐車場に響き渡る。
 発光誘導灯を持った警備員達が、バタバタと走ってくるのが、おぼろげに見えた。
 
 瞬く間に奥田の車は警備員達に囲まれた。
「えー、何スか?」
 奥田は、しれっとした顔で言う。
「何ですかはないでしょう! 今、人をひき殺そうとしたでしょうッ!」
「言いがかりは止して下さいよ。オレは駐車スペース、探してるだけっスよ」
「こんなに空いているのにですか」
「ホントですってば。ねえ、青山さん。でしょ?」
 別の警備員に介抱されている僕へ、ニヤニヤと笑みを浮かべながら同意を求める。
「……」
 僕は唖然として返す言葉もない。怒りを通り越して、ぞっとする。
 こいつ、普通じゃない。絶対、おかしい。周りの警備員達も、奥田の異常な言動に茫然としている。
 そもそも、なぜ奥田がここにいたのかが分らない。
 偶然か。あるいは――
「警察を呼びましたので、そのままで」
 車のナンバーをメモしていた年配の警備員が運転席に近寄り、静かな声で言った。
「警察だと?」
 奥田の眉がつり上がる。
「そうです」
「ふざけんなゴラア! 証拠あんのか!警察でもないくせに、このくそじじい、調子こいてんじゃねえよッ!」
 だが、その白髪交じりの警備員は、黙って逆上する奥田を見下ろしている。
 眉一つ、動かさない。ただ、奥田を凝視していた。
 しかも、まるで何かを思案しているかのように。
 
 遠くから、パトカーと救急車のサイレンが聞こえてくる。
「証拠出せ! 証拠ォ!」
 奥田は運転席で大声でわめき、両手でハンドルをバシバシと叩く。興奮しているせいか、目の焦点が定まっていない。
 生々しく響く二つのサイレンが、すぐ近くでピタリと止まった。
「早く証拠出せ、ゴラア! 訴えるぞ!ゴラアーッ!」
「あーもう、ゴラゴラうるさいわねえ。証拠は防犯カメラよ。ばーか」
 高梨社長だ。
「青山っ!」
 続いて、血相を変えた杉野さんが駆け寄り、人目も気にせず僕を抱きしめる。「あいたたた! 痛い。痛ーい!」
 強打した背中と腕を思い切り抱かれ、痛いのなんの。
「ああっ、すまんすまん」
 慌てて力を緩める。それから車を見上げ、運転席の男が奥田と分かると、怒気をはらんだ目で睨みつけた。
「きさま……!」
 怒りで、杉野さんの体が震えている。 いつも温かい手が、激憤して冷たくなっている。今にでも殴りかかりそうだ。 僕を抱いていなかったら、間違いなくそうしていただろう。
「だめ!」
 高梨社長の鋭い声が飛ぶ。
「杉野ちゃん、だめよ。馬鹿者の波動に乗っちゃだめよ。落ち着きなさい」
「むう……」
 その冷静な言葉に、杉野さんは必死で怒りを抑える。僕を抱く腕は激しく震えたままだ。
 ドカドカと複数の足音が聞こえる。警察と救急隊員が到着したのだ。この店のスーパーのエプロンを着けた、ネクタイ姿の男性も数人混じっていた。
 先ほどの年配の警備員が、警察と店内関係者へ状況説明を始めた。高梨社長も話に加わっている。
 一方、車の中の奥田は、先ほどまでの虚勢と悪態はどこへいったのか、今度はオロオロしている。
 僕は慎重に担架に乗せられた。杉野さんは一時も僕から目を離さない。泣きそうな顔をして、ずっと僕を見下ろしている。
「杉野ちゃんは青山くんに付き添ってあげて。だから車の鍵、ちょうだいな」
 高梨社長が来て、杉野さんの肩を軽く叩く。
「はい。すみません……後で、連絡します」
 その声は涙声だ。
「ほら、しっかりなさい。あなたがそんなで、どうするの!」
「はい……」
 僕達を乗せた救急車は、大きなサイレンと共に病院へ向った。
 車内でもその音は響き、自分が搬送されている事実を改めて実感した。
 車の天井をぼんやりと眺めながら、僕は奥田の顔を思い出す。
 あれは人の顔じゃない。地獄から来た狂喜乱舞の鬼の顔。

 
 検査のために全身のレントゲンを撮ると、幸い骨折もヒビもなかった。結果は打撲と擦り傷。僕は案外、丈夫にできているらしい。
 湿布や巨大な絆創膏を腕と背中に貼られて、ベッドに横たわる。骨に異常はないとはいえ、全身がズキズキと痛む。
 落ち着いたら帰っても大丈夫ですよと医師に言われ、しばし病人となった。
 看護師も出ていくと、杉野さんはドア代わりのカーテンを閉め、ベッドの横にある簡易椅子を引き寄せて座った。
 目が少し赤い。きっと激怒したせいだろう。
「青山……すぐに帰ろう」
「え? 今ですか。まだ体が痛いです。もうちょっと寝ていたいです」
「違う。この街から出よう。俺達のいた街に戻ろう」
「……」
「俺は、お前を全然守れない……俺は口
ばっかりで、何一つお前を守れない!」
 そう言って、ベッドに突っ伏してしまう。
「体も冷えたままだし、体重も全然増えていない。しかもこんな目に遭わせてしまった」
 肩が小刻みに震えている。
「それに奥田には、ろくでもない手下が山ほどいる。きっとその中の誰かが俺達を見かけて奥田に連絡したんだろう。そんな危険な所に、お前を住まわせたくない。帰ろう。もうたくさんだ……! こんな街」

「労災発生。工事は中断、という状況でしょうか。僕達の現場は中止じゃなくて中断。作業員の回復を待って、再開」
「青山……?」
 顔を上げ、いぶかしげに僕を見る。
「杉野さん、本社にいた時、よく工事部の後輩に言っていたでしょう。どんなこじれた現場でも必ず終わるから投げるなって。落ち着いて現状を把握しろって」「それはそうだが、今回は次元が違う」「似たようなものです。腹をくくって様子を見てみませんか」
「そんな、お前。悠長なことを」
「僕、二か所で死にかけました。本社とあの駐車場で。でも生きてます。これって、まだ頑張れる証拠でしょう」
「しかし……」
「だから、あちこち痛いですけど明後日の用意をしましょう。ビスケットの仕込みとパウンドケーキ用のドライフルーツを洋酒に浸さなくてはいけません」
「そんな体では無理だ。寝ていないとだめだ」
「いいえ。杉野さんがいるから大丈夫です。だから、手伝って下さいね」
 胸の中で、傷だらけの一輪の白詰草が現実という冷たい風に揺れている。今にも折れてしまいそうになりながら。
 僕は、この人と釣り合うようになりたい。強くならなければ、嫌われてしまうかもしれないから。
 なので、弱音は絶対に吐けないのだ。

 十九時過ぎ、僕達は病院を出た。その足でタクシーで高梨技研へと向かう。
 出発前に電話をすると、高梨社長は僕の体を気遣いながらも、待っていると言ってくれた。
「あ! そういえば今夜、高梨社長って自宅でデートだったんじゃないですか」「そうだ。そうだよな」
 二人して顔を見合わせる。
「ご馳走の準備もあるだろうに、会社で待たせるなんて、悪いことしちゃった」
「いや、お前は全然悪くない。気にするな。高梨社長も怒っていないはずだ」
 高梨社長の彼氏さん、シャンパンとチーズ、お預けさせてごめんなさい。
 僕は心の中でお詫びした。
  
 タクシーから降りると、駐車場には車が三台。高梨社長の車と、杉野さんの。 そして更にもう一台、黒塗りの高級国産車があった。
 正面玄関の鍵は開いていたが、社員は不在。もともと現場への直行直帰が多い会社なので、今日もそうなのかもしれない。
 勝手知ったるナントカで社内へ入り、社長室のドアをノックした。
 すると、速攻で中から高梨社長が飛び出して来た。
「青山くん! 体、大丈夫?」
「はい。検査したら、打撲と擦り傷でした。ご心配かけて申し訳ございませ……痛っ!」
 頭を下げた途端に背中へ激痛が走る。「いいのよ! んもう! 真面目なんだから。さあ、二人とも中に入って」
「はい。では失礼します……おや?」
 社長室には先客がいた。駐車場の車の主だろうか。
 歳は高梨社長と同じか少し上。背が高く、白髪交じり。仕立ての良い紺色のスーツに、品のある深緑色のネクタイ。
 そして、鍛え上げられた、がっちりとした体型――
 はて。どこかで見たような。杉野さんも同じことを考えているようだった。
「お体の傷は大丈夫ですか。私共がいながら、大変申し訳ございませんでした」 男性は、真摯に深々と頭を下げる。
「ですので、本日から警備員は待機室のカメラに頼るのを止め、フロア毎に立って警備をすることにしました。本当に何とお詫びしてよいか」
「じゃあ……もしかして、あの時の」
「はい」
 男性は、ゆっくりと頷く。
 あの人だ。奥田をじっと凝視していた警備員さん。
「ねえ、杉野ちゃん。アタシの携帯電話の画像、憶えてる?」
「携帯、ですか……あ!」
 少し考え、それから何かを思い出した顔をする。
「そうよ。アタシの彼氏。五十嵐警備保障株式会社、代表取締役、五十嵐高雄ちゃん!」
 なんと、この人が高梨社長のお相手とは。てっきり高梨社長と同じタイプの人かと思っていたので驚きだ。
「改めまして、五十嵐と申します」
 丁重に僕達へ名刺を渡す。
「杉野と申します。横にいるのが青山です。名刺がなくて申し訳ありません。よろしくお願い申し上げます」
 名刺のない挨拶は、これで二度目。なんとも心もとない。
「さあさ、座って。お茶を入れるわ」
「あ、あの。高梨社長、今晩ご用事があるのでは」
 杉野さんが遠慮がちに聞く。
「ご用事は、さっきからしてるわ。気にしないで。ね、高雄ちゃん?」
 五十嵐社長が照れた顔で小さく頷く。
 社長室で社長同士のデートなんて、いろんな意味で凄い。
 つまり社員達は仕事ではなく、気を利かせて帰ったと。いろんな意味で、器の大きな会社である。

「いつも現場に出ていらっしゃるんですか」
 お茶の席で、杉野さんが五十嵐社長に質問する。
「ええ。やはり現場が一番落ち着きますので。でも社員は緊張するので嫌がりますけどね」
 苦笑しながら答える。
「警備業種は店舗が主ですか。私が在職中、失礼ですが御社のお名前をお聞きしてなかったのです。工事現場の警備は、なぜか市外の会社ばかりで」
 そこで五十嵐社長と高梨社長の表情が一瞬、硬くなる。だがすぐに穏やかな顔に戻った。
「いえ。主体は工事現場です。今日は、たまたま店舗警備に欠員が出たので来てみたら、こんな事態になってしまって」 申し訳なさげに僕を見る。
「いえいえ! 普通、あんなこと起こりませんよ。それに、まともな人間じゃなかったでしょう。あの男の言葉と態度」
「そうよ。警察でガッチリ絞られればいいわ。あれなら絶対、余罪も出てくるわよ。芋づる式にね。で、おおかた、あの駐車場で奥田の手下が、青山くんが一人でいるのを見て、奥田に連絡したんでしょう。きっと前々から、見かけたら教えろって、命令してたんだとおもうわ」
 高梨社長が口をへの字にする。
「私もそう推測しています。あいつ、青山を目の敵にしていましたから」
 杉野さんも苦々しげに頷いた。

「ねえ、青山くん。アタシはこの街にいて欲しいんだけど、ケガのこともあるしもといた所に帰っちゃう?」
「いいえ。反対にもう少しここにいて、様子を見てやろうと考えてます」
「あら」
 高梨社長が、驚いた顔をする。
「青山は本社で体を壊したのと、今回の件で開き直ってしまったようなんです。本当はすぐにでも連れて帰りたいのに」 隣で杉野さんが肩をすくめる。
「なあ、青山。無理しないで帰ろう」
「いやです。さっき病室で言ったでしょう。明後日の用意をするって」
「だからって、お前」
「ちょっと待って。今回は中止にしてもいいのよ。治ってからでいいのよ。無理しないで休んでちょうだい」
「大丈夫です。やれます」
「はあ……まったく、頑固なやつで」
 しかめ面で首を横に振る。
 でも、本当は僕も心細い。人も世間も会社も、全てが怖い。
 だからこの街にいても、もといた街に帰っても、全てが敵に見えてしまう。
 それならどこにいたって同じことだ。 お菓子を作って、気を紛らわせている方がましなのだ。
 僕はテーブルの下で、杉野さんの膝にそっと冷たく震える手を置いた。
 するとしっかりと、力強く僕の手を握ってくれた。
 もしかして、全部分かっているのかもしれない。
 僕の弱さも、強がりも。 
 
 
 高梨技研を出た後、杉野さんは車で蕎麦屋に僕を連れて行った。
 体力をつけろと、僕には天ぷら蕎麦に鮭おむすびまで追加する。
 でも反対に、普段から大食いの杉野さんが、ざる蕎麦しか頼まず、箸もほとんど進まない。
 具合が悪いのですかと聞いても、大丈夫だとしか言わない。口数も極端に少ない。
 結局、半分以上手つかず。残りは僕が食べたのだった。
 
 部屋に戻った頃には、すっかり日は暮れていた。
 照明のスイッチに手を伸ばすと、杉野さんが優しく制する。
 月明かりが差し込み、二人の長い影。 杉野さんは僕を抱き上げ、ベッドに連れて行く。そして、壊れ物を扱うように丁寧に寝かせた。
 何も言わずに黙ったまま、僕の服を静かに脱がせ、パジャマを着せる。杉野さんもパジャマに着替え、僕の傍らで横になった。
 沈黙が続く。網戸越しには虫の声。  しばらくして、ゆっくりと慎重に僕をうつぶせにした。背中を優しくさすり、ただ黙って、愛情を込めて愛撫する。
 負った傷を癒すように口づけをする。 僕は、温かな優しい雨に打たれているような感覚に包まれる。気持ちが安らぎうとうとする。
 杉野さんはそれに気づいて、僕をタオルケットでくるみ、胸に抱く。
 杉野さんの心臓の鼓動を聞いているうちに、僕はゆらゆらと眠りに落ちた。

 どのくらいの間、眠っていたのか。
「……?」 
 ふと、視線を感じて目を上げる。
 杉野さんが、僕を見つめていた。瞳からは、幾筋もの涙が頬を伝っている。
 ずっと、眠る僕を見つめていたのだろうか。ずっと、涙を流していたのだろうか。
「泣かないで」
 僕は、その涙を指で拭う。その腕にはどす黒い内出血の痕と、数え切れない擦り傷がある。
 杉野さんは僕の手を掴み、その指に口づけした。
「お前をこんなに傷だらけにして……俺は、あいつを絶対に許さない……!」
 激しい怒りで震える声。
「だめです。高梨社長も言ってたでしょう。馬鹿者の波動に乗っちゃだめだと」「でも俺は、どうしても我慢できない。お前をこんなにした、あいつを」
「様子を見ましょう。それに僕は、もう少しこの街にいたい。もっとあちこち二人でドライブしたい。お菓子も思い存分作りたい。それに……」
「それに、何だ」
「もっと杉野さんのことが知りたい。僕達、やっと両思いなれたのに、すぐ離ればなれになってしまったから。二人きりでゆっくり付き合ったことがない……」「青山……」
「だからここで、この街で、杉野さんを知りたい。きっと今帰ったら、あの街の喧噪に巻き込まれて、休む間もなく仕事を探して、疲れ果ててしまう。そうしたら僕は、また壊れてしまう」
 杉野さんは黙って聞きながら、僕の額にかかった前髪を優しくかき分ける。
「僕は休みたい。一緒に、お菓子作りをして休みたい」
「……分かった。そうしよう。お前の言うとおりにしよう」
「ありがとう」
「でもな、帰りたくなったら、すぐに言うんだぞ。我慢するな」
「はい」

 二人は、一枚のタオルケットにくるまり、更にぴったりと寄り添う。
「あのね」
「ん?」
「……僕は、いくじなしかもしれない。本当は、働くのが嫌になってしまったのかもしれない」
「そんなことない。今、いろんなことが一度に起きて弱気になっているだけだ」「でも……他人も会社も、世間も、みんな恐い。僕は今、敗北者になってしまっているんです」
「違う。お前は頑張った。敗北者では決してない」
「けれど杉野さんの目には情けなく映るかもしれない……僕を嫌いになるかもしれない。弱いくせに強がりばかり言う僕に、もうすでに、うんざりしているかもしれない」
「俺はうんざりなんかしていない。そんなに自分を追いつめるな」
「でもね、僕は杉野さんが大好きです。たとえ僕のことを嫌いになっても、ひとりぼっちになっても、ずっとずっと、愛してる……」
 途中からは、涙声。自分に自信が全く持てない。体力も、能力も。この人に愛される資格があるのかも。
 つきあい始めてから、胸の底で澱のように溜まっている漠然とした不安。それらがドッと傷の痛みと一緒に溢れ出す。「ばか。嫌いになるわけないだろう」
「……」
「お前の強がりなんて、今日始まったものじゃない。ちゃんと全部分かってる」「でも」
「不安か」
「はい」
 目に涙をいっぱい浮かべ、頷く。
「青山。俺、前に言っただろ? お前の仕事は俺に迷惑をかけまくることだと。心配かけまくって、足手まといになることだと」
「けれど仮にそうだとしたら、僕は杉野さんに何を与えてあげられるのだろう。受け取るばかりで何一つ返せない、空っぽの自分は……!」
「それは違う。逆だ」
「え?」
「お前がいるだけで、俺は安らぐ。お前がいたから、俺はここまで来れたんだ」
「嘘」
「本当だ。会社にいた頃、毎晩俺を待っていてくれただろう。そして今は、昼も夜も俺に微笑みかけてくれて、毎日、美味い飯、作ってくれるだろう。ふわふわのホットケーキ、焼いてくれるだろう」「そんな簡単で小さなことでいいの?」 杉野さんが大好きだから、普通にしていることなのに。
 もっと大きな、目に見えるようなことじゃないと、だめなんじゃないか。
「それは決して、簡単で小さなことなんかじゃない。それが最大の、最高の、俺への贈り物なんだ。お前は気づいていない。お前の存在が俺の全てだ。俺の……唯一無二の宝物なんだ」
 そう言って、杉野さんは僕の頬にキスをした。
 デジタルカメラに隠していた、僕の画像。四面楚歌の中で、見つめ続けた僕の電影。そして、そんな僕を宝物だと言ってくれた人――
 僕はその胸へ、猫がじゃれるように顔をこすりつけた。
 全部、分かっていてくれていたんだ。 そう、なにもかも。
「さあ、安心して寝ろ。明日の朝飯の仕込みなんてしなくていい。朝はホットケーキを焼いてくれ。茶色い甘いやつ、たっぷりかけてくれれば、それでいい」
「はい。あの……それと」
「どうした。どこか痛いのか。湿布、貼るか。傷薬、塗るか」
「いえ。杉野さん、夕飯、全然食べてなかったから……僕、心配で」
「ああ」
「具合悪いの? 隠さないで。お願いだから」
「そうじゃない。お前のことが心配で、守ってやれなくて、自分に腹が立ったんだ。そんな時に、のほほんと飯なんて食ってられるか。だから心配するな。どこも悪くない」
「それならいいんですけど」
「さあ、おやすみ。眠るまで見ててやるから」
「はい」
 大きな翼で包み込むように抱きくるまれて、僕は愛の中で眠りにつく。
 ケガで体は痛いけど、以前からチクチクと針を刺すように感じていた心の痛みは溶けて消えた。
 愛されるために、無理矢理に何かをしなくていい。弱いところを隠さなくてもいい。真っ直ぐに、純粋に、ただ愛するだけでよかったのだ。
 毎日の暮らしの中で普通に洗濯して、掃除して、ご飯作って。ふわふわの焼きたてホットケーキに、メープルシロップをたっぷり添えて。
 素直な気持ちで、大好きって言うだけで、杉野さんは喜んでくれていたんだ。 それで、よかったんだ。


 昨日の晩は、あのまま寝てしまったから、目が覚めたのは六時前。
 日はすでに高く昇り、カーテンの隙間から、夏の強烈な日差しが入り込んでいる。
「青山……腹へった……動けん」
 なんとも現実的な朝の挨拶。けれど昨晩はほとんど食べていないようなものだからしかたがない。
 僕のためにひどく落ち込んで、食欲までなくしてしまったのだから。
「すぐにホットケーキ焼きますね。何枚食べますか」
「……でかいの四枚」
 ダイナミックな量を弱々しい声音で注文。となれば、杉野さんを早く復活させなければ。
「よっこらしょ」
 用心深く僕はベッドから起きあがる。「う、ううっ!」
 ビリビリと全身に、電気のような痺れと激痛が走る。昨日よりも痛い所が百倍増えているような。
 やはりあの時、自覚していないだけであちこちぶつけたり、派手にひねったりしたらしい。ああ。奥田め、許さんぞ! 杉野さんには怒るなって言ったけど、半殺しの目に遭わされた僕としては、正直むかっ腹が立っている。仕返しする気はないけれど、やっぱり悔しい。
 そして結局こういうのって、泣き寝入りなんだろうな。
 当日の検査や処置費、今後の通院治療費、そして日々の激痛。全部やられ損。

「お前、やっぱり無理だ! 当分の間は食事はパンとかコンビニ弁当にしよう。掃除も洗濯も俺がやる。寝てろ!」
 顔をしかめ、じわじわとしか動けない僕を見て、杉野さんが驚いて言う。
「大丈夫です。しばらくはこんな感じでしょう。それよりも朝ご飯食べたら、お菓子作り手伝って下さい。明日、昼一番の納品ですから」
「本気で作るつもりか」
「もちろん。今回、量が多いですよ。ビスケット二キロ、ケーキ三台」
「二キロ……分った。手伝う。だが絶対に無理するな」

 杉野さんの膝の上で朝食を食べた後、(傷が痛むので椅子に座っていたかったけれど、有無を言わさず乗せられた)台所はオーブンフル回転の灼熱地獄と化した。
 相変わらず冷房を入れるのは許してもらえない。けれど、それは汗だくになっている杉野さんの、精一杯の愛情表現。 そうなのだ。僕はまだ、こんなに暑いのに汗をかかない。気持ちだけが先走りして、まだ体はついて来ていないのだ。

 翌日の夕方、お菓子の運搬容器を回収するため、二人で高梨技研へ行く。
 駐車場には、見覚えのある黒い車。
「五十嵐社長が来てますよ。あの車、そうでしょう」
「ほほう。これからデートかな」
 社長室に入ると、五十嵐社長がスコーンを食べている。
 高梨社長、彼氏のために、一番いいのを取っておいたな。
 なぜならそれは、オレンジピールを入れた試作品で、三個しか焼かなかったからだ。盛りつけの際、高梨社長が一個つまみ食いして、美味しいと絶賛したスコーンなのだ。
「ごちそうになっています。とて美味しいです。こんなに繊細に作れるなんて、素晴らしいです」
 五十嵐社長が微笑む。
「今日もね、みんな大喜びだったのよ」
 高梨社長も満面の笑み。
「ありがとうございます!」
 好評と聞いて、心が浮き立つ。痛い体を押して頑張った甲斐があるというものだ。
 その上、五十嵐社長にも褒められて嬉しい。このフルーツスコーン、早速レパートリーに入れよう。
「青山くん。傷の具合どう? 今日だって無理したんじゃないの」
「正直痛いです。でも時間が治してくれるのを待つしかなくて」
 そして要らぬ心配をかけぬよう、腕の絆創膏や湿布は外から見えないように、さりげなく長袖のシャツを着て隠す。
「杉野ちゃん。しばらくは青山くんに無茶なことさせちゃだめよ。いいわね?」「もちろんです。家事とか、俺がやります」
 大真面目な顔で即答。その気持ちだけで、もう十分だ。
「うふふ……そっちの方じゃないわよ」
 意味ありげに笑う。
「は? 何でしょうか」
「夜よ。夜っ」
「……!」
 途端、僕の頬が真っ赤になる。
 杉野さん、野獣だから。
「初々しいわあ。ねえ、高雄ちゃん。いくつになってもアタシ達も、こうありたいわよね」
「……まあな」
 五十嵐社長は照れ隠しに、近くにあった砂糖蓋を閉める。
「あら、照れてるわ。この人。うふふ」
 高梨社長は指先で、五十嵐社長の背中を優しく突っついた。


第10話 因縁
「お二人の出会いについて、伺ってもよろしいですか」
 テーブルを片づけながら、杉野さんが高梨社長と五十嵐社長に聞く。
「僕も、ぜひ聞きたいです」
 男女の出会いってありきたりだけど、男男(?)というのは興味深いものがある。
 なぜなら告白するのには、かなりの覚悟が必要。下手すれば、そこに住めなくなる、あるいは退職に追い込まれるおそれもあるからだ。
「建設現場です。初対面、最悪でした」
 五十嵐社長が苦笑する。
「んまあ。ひっどーい!」
 高梨社長が冗談っぽく地団駄を踏む。「高梨が設計したビルの工事で、うちが警備を請け負ったんです。そこで通行車両と建設重機車両とのトラブルが発生しまして。で、どう見ても通行車両の方が悪い。恣意的にトラブルを起こしたとしか思えない状況だったんです」
 底意地の悪いドライバーが交通警備員に嫌がらせをするのは日常茶飯事。こういうところで本性が出てしまうのだ。
「誘導員に難癖つけて、最後には金を要求してきました。結局これが最初からの目的だったようで」
「うわ、もしやそれは」
 杉野さんが顔をしかめる。
「ええ。そういう類の人間です。で、ちょうどその時、施工状況の確認で、高梨が現場に来たんです」
「うふふ。素敵なアタシ、登場よ!」
「私達が車両入口でもめていたら、走ってやって来きまして。ヘルメットに作業服、首からネームプレートぶら下げて、何よ何よ、どうしたのよって」
「おせっかいなの。アタシ」
「私から理由を聞くと、それまでの態度が豹変して、その男にすごんだんです。警察呼ぶか、アタシの熱い抱擁か、どちらか選べって。ありえないでしょう?」「どわははは!」
 僕達は大爆笑。笑うと背中に激痛が走るが、笑わずにはいられない。
「車の男は、まるで化け物にでも会ったような顔をして、猛スピードで逃げて行きました。恐かったんでしょうね。でも私も同じです。とんでもない現場を請け負ってしまったと思いました」
「ふふん。でもこれがアタシだもの。それでいいのよ」
「でも現場に来るたびに、仕事っぷりは下手な男より上だと知りました。自分が間違っていたら立場など関係なく頭を下げて謝罪するし、うちの社員にも気配りをしてくれました」
「あら、くすぐったいわあ」
「それで、気がついたら、私の方から食事に誘っていました」
「で、今に至るのよ。初めてのデート、すっごく美味しい中華料理をご馳走してくれたの。アタシ、一生忘れないわ」
 嬉しそうに、五十嵐社長の腕に絡みつく。
「しかしまあ……その恐喝男と、あんなかたちで再会するとは」
 五十嵐社長が、苦々しげに首を横に振る。
「どういうことでしょうか」
 杉野さんが聞く。
「実は、アタシ達が出会った時の現場のクレーマー、あの奥田なのよ。やっぱりあの時、警察に連絡すればよかったわ」「なんですって」
「こんな事態に発展するのなら、そうするべきでした」
「話があまりにもでき過ぎみたいですけど、本当ですか」
「本当よ」
「相当前だよな。あれは」
「そうね。当時、学生だったんじゃないの」
「じゃあ、免許とって早速、恐喝か」
 杉野さんが唸る。
「信じられない……世間、狭過ぎでは」
 僕も驚く。
「中規模の街って、こんなものよ。いつ誰が何をやったか、誰かが見ていて憶えてる。知らぬは本人だけ。あるいは分かっているけど、開き直っているか、どっちかよ」
「勘違いしている奴だと、それが自分の勲章だとか、箔がついたと思い込んでいましてね」
「オレ、昔やんちゃだったんだ、なんて反対に自慢したりするのよ」
 親が建設会社で働いてるのに、そんなことを関連業者に平気でしてたのか。どんなふうに育ったら、そんな思考回路になるんだろう。理解に苦しむ。
「あらら。青山くん、残る決心、揺らいじゃったみたいね」
 高梨社長が、僕の困惑した顔を見て言う。
「いえ、まだそこまでは……」
 正直、微妙。弱気も、ひょろりと顔を出す。
「青山。慌てて答えを出すな。ゆっくり考えろ」
 ゆっくり? はて。あんなに僕を連れて帰りたがっていたのに。僕のわがままで嫌々この街に残っているはずなのに。
 そうか。満身創痍の状態で引っ越すのは体に障るから、心配してくれているのだ。
 よし。僕もブレずに、しっかり腹を決めよう。
「ここに残ります。またお菓子、作らせてください」
「助かるわ。でも、本当にいいの?」
「はい。世の中は、諸行無常といいますし、どうにかなるでしょう」
 昔、祖母が小さなことでクヨクヨする僕に、よく諭してくれた二つの言葉。
 諸行無常は世の常。そして、病は気から。
「若いのに、いいこと言うねえ」
 五十嵐社長が関心する。
「いえいえ。これ、祖母の受け売りなんです」
「やっぱり? いきなり年寄りくさいこと言い出すから、びっくりしたわよ」
「では、青山もそう言ってますし、二人でしばらくここに住んでみます。今度こそ、俺が守ります」
 今度こそ、に力が入る。
「そうよね。杉野ちゃんは青山くんのナイトだものね。素敵よ。頑張りなさい。応援するわ」
「全然、頼りにならないナイトですけどね」
 寂しそうに、小さく笑う。
「そんなことないです! 僕、杉野さんがいるから頑張れるんです。ほんとですよ!」
「……ありがとな」
 僕の髪を優しくなでる。
「あら~ん。ラブラブね。昔のアタシ達みたい。ね? 高雄ちゃん」
「今も大して変わらんだろ」
「うふ。嬉しいこと言ってくれるじゃない。今夜は大サービスしてあげるわね」「……明日は早朝から地方の現場だ。早く寝るぞ。寝不足はこたえるからな」
 五十嵐社長は、恥ずかしいのか、つっけんどん。
「あら、つまんない。すっかりオッサンになっちゃって。ジジイになるのも間近だわ」
「ふん。お前だって立派なオッサンだ。ここ数年で上も下も白髪が増えてるぞ」「むきーっ! 二人とも、今の聞いた?ひっどいわあ!」 
 なんとも平和な痴話喧嘩。
 僕達もいつの日か、こんな会話をするのかな。そうだといいな。

第11話 対決
 大量のバターと砂糖をボウルの中で混ぜ合わせていると、ドアの呼び出しベルが鳴る。
「あれ? 高梨社長達がベーコンとチーズ持って来るの、十一時でしたよね」
 時計はまだ十時四十分。軽食メニューが追加になり、ランチデートがてら食材を持って来ることになっているのだ。
「俺が出るよ」
 杉野さんが汗を拭き拭き、玄関へ向かう。
 今日も気温が高い。部屋の窓もドアも全開にしている。だから会話は筒抜け。
「だめです。受け取れません」
「いいえ。ほんの気持ちですから」
「お引き取り下さい」
「そんなかたいこと言わずに、ねっ?」 なにやら、押し問答。僕は台所で耳をそばだてる。
「本当に結構ですから」
「まあまあ、いいでしょ、このくらい。昔のよしみでお願いしますよ」
 誰だ。本格的に手を止めて、ボウルを抱えたまま耳をすます。
「はっきり申し上げますけど、被害にあったのは私の大切な後輩です。今も傷は癒えていません。生活にも支障をきたしています。お宅の息子さんには、本当に迷惑しています」
 客はどうやら支店長、つまり奥田の父親らしい。
「そこをなんとか。やんちゃな息子で、今回はちょっとやり過ぎたのは承知してます。でもまだ若いですし、将来のこともありますんで、だから」
「だから、なんです」
 少しずつ、杉野さんの声が苛立ちを含んでくる。
「友達同士でふざけあっただけだと、警察には、そう言ってくれませんかねえ」
 なんだと! 僕はその言葉を耳にした瞬間、目から怒りの火花が散った。
 やんちゃの一言で、人を半殺しの目にさせるのか。お前の息子は。しかも僕はあいつの友達ではない。断じてない! 
「もちろん、その分のお礼と致しましてここに二百万円ほど用意しております。それから、今年の秋に私の会社の設立が決定しましたので、杉野さんとそのご後輩を役員待遇でお迎えしますから。ね、これで一件落着って感じで行きましょうや」

 僕がブチ切れて玄関へ向かったのと、杉野さんが怒鳴ったのは、ほぼ同時だった。
「ふざけるなこの野郎! とっとと失せろ! 今後、俺達の前にウロチョロしたら警察呼ぶぞ! 帰れ、帰りやがれっ」「まあ、そんなに興奮しないで。美味しい話じゃないですか。どうせ無職なんでしょ。どっちみち金は必要でしょ?」
 イキキキと、陰湿に笑う。
「……支店長。お言葉ですが、これがふざけてつけた傷には思えませんけど」  玄関で僕は、わざと支店長と呼び、睨みつけた。
「それに、息子さんとは決して友達ではありません。轢き殺す気、満々でした。どこの世界に友達を轢き殺そうとするバカがいるんです」
「青山。部屋に戻れ」
 杉野さんが僕を制する。だが無視してその場でシャツを脱ぎ捨て、背中を向けた。
 腕と背中に大きな打撲の痕。そして、無数の擦り傷。
「毎日、何をしても激痛が伴います。これ、犯罪ですよ。日本語、理解できますよね」
 辛辣な嫌みが口から出る。
 杉野さんの前で、こんな自分を見せるのはとても嫌だ。
 でも、はっきりと言わなくてはいけない。こんな最低最悪な奴には遠慮することなど微塵も必要ないのだ。
「むう……」
 苦虫をかみつぶしたような顔。けれど僕に対しての謝罪や同情の気持ちは感じられない。その表情を見れば一目瞭然。 こんな男と職場は違えど、同じ釜の飯を食っていたのか。そう考えると、空しくなる。
「診察証明書もありますし、そろそろ僕の所にも警察から連絡が来るでしょう。その時は、この体を見せます。絶対に、やんちゃでなんか済みませんからね」
「くう……」
「お引き取り下さい。そして二度と来ないで下さい。今度来たら警察呼びます」 反論を許さない口調で僕は言い放つ。 その横で杉野さんは、物言いたげに僕をじっと見つめている。
 辛い。でも、自分の問題だから。僕のプライドの問題だから。

「きゃああっ! 何て姿なのっ」
 高梨社長の悲痛な声。後ろには、驚いた顔の五十嵐社長。
 とんでもないタイミングで来てしまったものだ。
「こんなにひどいケガだったの? なんでちゃんと教えてくれないのよ! ばかっ」
 高梨社長は涙目。心配をかけたくなくて、軽傷をよそおっていたのが裏目に出た。
「これは完全に損害賠償請求レベルじゃないか」
 五十嵐社長は奥田の父親へ厳しい視線を投げかける。
「お前達、なんでここに……!」
 奥田の父親もまた、二人の姿に激しく狼狽している。
「お久しぶりです。あなたが支店長だったその節は、大変お世話になりまして」 五十嵐社長が仏頂面で挨拶する。
「もちろん別の意味で、ですけどね」
 高梨社長が冷ややかに言葉を続ける。 僕と杉野さんは、唐突に始まった三人のやりとりに戸惑う。

「あなたのお陰で、工事現場の警備を一年間も干されましたが、今年に入ってようやく復帰できました。直接報告できて手間が省けましたよ」
 五十嵐社長の怒気が混じった低い声。
「あんたの嫌がらせを収拾させるのは、ほんっと大変だったわ」
 高梨社長も、腕を組んで睨む。
「当社の警備員が工事現場事務所のバイトの女性へ痴漢行為をしたとか、誘導が下手で通行人が転倒したとか、勤務中にガムを噛みながら携帯電話をいじっていたとか、根拠のない嘘をあちこちに触れ回って」
「は! 何の話だ。おれは知らんな」
「知らない? 自分の会社の請負工事なのに、匿名で嘘の苦情を発注元の役所に何度も入れたり、地元の情報誌にでっち上げのタレコミをしたり――どうやったら業界で干されるか知ってる人間じゃないと、ここまでやれませんよね」
 僕と杉野さんは、驚いて顔を見合わせる。
 当時、うちの会社の工事現場でトラブルが起きた話は聞いていない。もしそうであれば、支店から本社へすぐに連絡が来るはず。となれば、工事部や営業部の僕達の耳にも必ず入る。でもそんな話、聞いたことがない。
「知らんと言ってるだろう!」
 奥田の父親が、気色ばんで怒鳴る。
「信用を取り戻すのに苦労しましたよ。その間、仕事はパタリと来なくなるし」
「あんたの手下を総動員して、この人の会社、潰そうとしたのよね」
「もちろん、あなたの息子にも手伝わせたでしょう。悪い意味で有名ですよ。あちこちで」
「業界では産業廃棄物って揶揄されてるわよ。あんたのごろつきドラ息子」
「くっ……」

「その発端は、ばかばかしい理由でしたよね」
 五十嵐社長は淡々と続ける。
「あなたが、うちの女性社員に相手にされなかった腹いせ。そうでしょう?」
「……」
「あなたの専売特許ですよね。札束で頬を叩いて自分のモノにして、飽きたら捨てる。または性風俗店へ売り飛ばす――あなたのお友達のお店にね」
「この人の会社には、あんたのようなクズになびくは女性は一人もいないわよ」 高梨社長が、ぴしゃりと言う。
「あの一年間は、全社員が必死になって乗り切りました。給料が半分以下になっても、休日出勤や手当も出ない残業も、誰一人、文句を言わずに頑張ってくれました。それに……友達も支えてくれました」
 五十嵐社長がそこで高梨社長にちらりと視線を向ける。高梨社長はウインクで返す。
 それを見て僕は思った。きっと資金面でも精神面でも、影で支えたんだろうなと。高梨社長って、実は男以上に「男」かもしれない、と。
「うるさい! つまらんお涙ちょうだい話をするな、アホウ!」
 奥田の父親が目をつり上げる。
「お言葉ですが、当社が復活すると同時に、あなたの悪い噂は業界内に広まりました。その証拠に、去年から民間工事が取れなくなったでしょう」
「それは本社の営業力不足のせいだ。支店は本社の被害者だ」
「違います。支店の信用がなくなったんです。だから市内の警備会社も一斉に手を引いたんです」
 この言葉に杉野さんが納得した顔で小さく頷く。。
 以前から僕の中で引っかかっていた、社長室での会話――

「警備業種は店舗が主ですか。私が在職中、失礼ですが御社のお名前をお聞きしてなかったのです。工事現場の警備は、なぜか市外の会社ばかりで」
 そこで五十嵐社長と高梨社長の表情が一瞬、硬くなる

――が、今ここで次々と解明していく。
「ねえ、青山くん。その頃から本社の民間工事も取れなくなったでしょ?」
「はい。社内でも原因が掴めず、困ってたんです」
「支店の噂が水面下で業界内に流れたのよ」
「でも本社の営業部にはそんな情報、入って来なかったです。下請業者さんからも全然」
「それはあえて言わなかったんですよ」
 五十嵐社長が言う。
「元支店長、つまりこの人は普通じゃない。そこに勤務している息子も同様。だから下手に喋れば自分達も危険。なので黙って離れるのが一番安全。ですよね、奥田さん」
「知らんッ」
 ぷいと横を向く。
「ああ、もう。いつまでしらばっくれてんのよ。みっともない男ねえ」
 高梨社長が眉根を寄せる。
「では会社が倒産したのは、経営陣の使い込みの他に、この元支店長が……」
 杉野さんが途方に暮れた顔をする。
「そうよ。この男は本社のトップの使い込みを役職経由で知って、これ幸いと経営不振と倒産は本社のせいだと支店内で吹聴した。そして社員には杉野ちゃんを怒りの標的にするよう煽動した。自分の悪事に目が行かないようにね。さすが、無資格、無経験の中途採用にも関わらずほんの一年かそこらで支店長の座を得ただけあるわ。その口八丁手八丁のずる賢さは、称賛に値するわ」
 これで全部解せた。倒産を知った朝、同僚の佐藤が僕に言っていた「おかしな奴」とは、この男のことだったのだ。
 そして会長夫婦を筆頭とする経営陣も何年も前から会社の金を使い込み、それが底をついたところで有り金を持って夜逃げした。しかも黒塗りの高級車ごと。
 僕はそんな会社を支えようとして病気になり、こいつの息子には半殺しの目にあった。
 正直者は馬鹿を見るって、こういうことなのか。

「私の会社のことは終わった話です。しかし、青山くんに関しては、縁あって知り合った大切な友人です。このまま放っておくわけにはいきません」
 五十嵐社長が奥田の父親に言う。
「……何が言いたい」
「私が弁護士を立てて、あなたの息子に対して損害賠償請求します。覚悟して下さい」
「ちょ、ちょっと! 五十嵐社長っ」
 僕と杉野さんは仰天する。
「何だとっ!」
 奥田の父親も目をむいた。
「うふふ。そういうこと。楽しみにしててね。元、支店長さん」
 高梨社長は投げキッス。
「ええーい! くそっ。どけどけ。邪魔だ邪魔だっ」
 奥田の父親は、そそくさと荷物を抱えて、廊下を走って逃げて行く。
「ちくしょうっ。憶えてろ!」
 エレベーターの扉が閉まる寸前で大声で叫ぶ。
「ふん。負け犬の遠吠えね。全く、親子揃って安いわね。青山くん、玄関に塩まいておきなさい。ばっちいから」
「はあ」
 ここ、マンションなんで、盛り塩にしておきます。
「青山。服、着ろ」
 杉野さんは床に落ちている僕のシャツを拾い、肩に羽織らせる。
「ありがとう」
「……うん」
 でも、その表情はとても硬い。

「自分達は裁判の知識もないし、その費用を出す余裕もないのですが」
 杉野さんと僕、そして高梨社長と五十嵐社長は、リビングで先ほどの話の続きをする。
 訴訟なんて、どのくらいの費用がかかるのか想像もできない。貯金が吹っ飛んでしまうくらいなら、正直やりたくないのが本音。勝算だって分からないし、何かと時間も拘束されるだろうし。
「大丈夫よ。高雄ちゃんに全部委ねなさい」
「手続きは全てこちらでします。お金のことも心配しないで下さい」
「心配しないでって、おっしゃっても」 杉野さんが渋る。僕も同じ気持ちだ。
「絶対に勝つから! あなた達は安心してケーキを焼いていればいいのよ」
 なぜか二人とも妙に自信満々。というか、ワクワクしているように見えるのは気のせいか。
「こんなことを言ってはお二人に失礼かと存じますが、この件、どうしても個人的にやりたいんです。ですから費用は一切頂きません。諸々の打ち合わせも事務的作業もこちらで受け持ち、何一つ煩わせません。もちろん勝った際の賠償金は全額お渡しします」
 五十嵐社長が、冗談のような話を大真面目に言う。
「それはまずいですよ。ねえ、そうですよね」
 僕は困惑し、杉野さんに言う。
「青山の言うとおりです。そのお気持ちだけで充分ですから」
「いえ。どうか気になさらないで」
「しかし青山の体のことを考えると、やはり裁判は精神的な負担になりますし」
「ちゃんとその辺は考慮しますので」
「でも……!」
 感情をかなり抑えてはいるが、杉野さんは激しく苛ついている。
 やはり、さっきから変だ。断るにしても、いつもの快活で、優しい杉野さんらしくない。
「ストップ。ストップよ。杉野ちゃん」 高梨社長が間に入った。
「これはね、単なる賠償請求のための訴訟じゃないの。高雄ちゃんの、過去の因縁と今回の営業妨害の報復なのよ」
「報復?」
「そうよ。あのスーパーの客層、とても良くてね。本来なら防犯カメラだけで十分だったの。それがあのドラ息子のせいで、青山くんは大ケガをしたわ。高雄ちゃん達ね、あの後、店長と本社への謝罪で大変だったのよ」
 そうだ。事故を起こせば契約解消になりかねない。信用をなくせば、また干されてしまう。
 五十嵐社長は二度も奥田親子から、こんなひどい目に遭わされたのだ。堪忍袋の緒が切れるのは当たり前だ。平静を装っているけれど、はらわたは煮えくり返っているに違いない。
「しかし、元をただせば私の責任です。御社に責任は一つもありません」
 杉野さんは、それでも必死で食い下がる。
「いいえ。実際に警察と救急が出動しています。お客様に大ケガをさせてしまいました。委託された警備会社として許されない事態を発生させたのです」
「この業界、結果が全てよ。杉野ちゃんだって身をもって知ってるでしょう」
 高梨社長が取りなす。
「ええ……まあ……」
 真実であるだけに言い返せない。
「こちらからお願いします。訴訟をどうか私にやらせてください」
 とうとう五十嵐社長が頭を下げる。
「わあ! そんなことしないで下さい」 その姿に僕はオロオロする。
「どうかお顔を上げて下さい」
 杉野さんも慌てる。
「ほらほら。だから早くハイって言いなさい。ハイって」
 高梨社長がニコニコしながら僕達を促す。
「青山。お前はどう思ってるんだ」
「うーん。そうですね……」
 変な話だけど、ものは経験。しかもこちらが有利みたいだし。その上、資金まで援助してくれるなんて夢のような話。 正直、痛い体を引きずって、泣き寝入りするのは悔しい。今も病院に通っている。治療費も決して安くはなく、貯金を取り崩して支払っているのが実情だ。
 五十嵐社長の「干された暗黒の一年」の恨みも、この業界にいたからこそ理解している。
「杉野さんがオーケーなら、やってみたいです」
「……よし。では、お世話になります。よろしくお願いします」
 僕達は神妙に二人へ頭を下げた。
「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
 五十嵐社長は、ほっとした顔。
 リベンジ、頑張って下さい。プラス、僕の分も。
 しかし、それにしても杉野さんの表情は相変わらず硬いままだ。
 僕の意向を受け入れてはくれたけど、返事の前に、ほんの少し間が空いたのが気になる。本音はやはり、「裁判なんて面倒くさい」なのかな。

「で、あの男、アタシ達が来る前、何て言ってたの」
 高梨社長がベーコンとチーズを袋から出しながら杉野さんに聞く。
「金の入った封筒ちらつかせて、警察には友達同士でふざけあっていたと言ってくれと。そのかわり自分達が創立する会社で役員待遇で入社させてやるからと」「ふん。冗談は顔だけにしてほしいわ」「金で何でも解決できると思っているらしいな。だが今度はそうはいかんぞ」
 五十嵐社長が憮然として言う。
「青山くん達のために、ごっそりぶんどってやりましょう。ね? 高雄ちゃん」「ああ、もちろんだ。骨の髄までしぼりとってやる」
「うふふ。素敵よ。高雄ちゃん」
 なにやら背筋に薄ら寒いものが走る。 この二人、本気で怒ったら怖いかも。「あらら。長居しちゃった。ごめんね青山くん。準備、間に合うかしら」
 高梨社長が腕時計を見て眉を上げる。
「大丈夫です。反対に助けてもらって、とても感謝してます」
「うふ。いいのよ。それと、納品時間が多少押しても構わないわよ。体に絶対、負担かけちゃ駄目よ。あんなにひどいケガだとは、アタシも知らなかったし」
「ありがとうございます。できる限り、間に合うようにしますので」
 帰り際、玄関で高梨社長が杉野さんの背中をぽんぽんと軽く叩いた。杉野さんは、それに小さく頷く。
 どうしたんだろう。僕にはその理由が分からない。

第12話 すれ違う想いと願い
 二人が帰った後、再び作業に戻る。
 今は十二時過ぎ。納品は十四時。とんだ邪魔(奥田の父親)と助け船(高梨社長と五十嵐社長)で予定は大幅に遅れたが、昼食抜きで作れば何とかなりそう。
「お前が服を脱いだのには、驚いた」
 オーブンシートを天板に敷きながら、ぼそりと杉野さんが呟く。
「だって、すっごく頭に来たんです。なにが友達同士ですか。冗談じゃないですよ」
「とにかく、もうあんなことは絶対するな。今後は病院の書類だけを見せろ」
「でも、あのくらい見せないと伝わらないですよ」
「だめだ」
「別にいいじゃないですか。じゃあ、せめて腕くらいでも」
「だめだったら、だめだ」
「何で? 被害者は僕なんですよ」 
 堂々としていたって、いいと思う。やられた方がオドオドと遠慮するのは、おかしいじゃないか。
「バンバン見せて、奥田の悪事を伝えた方が裁判にも有利でしょう」
「……」
 どうして、さっきから不機嫌なんだろう。そんなに裁判が面倒なんだろうか。
「……なら、お前の好きにしたらいい」
「さっきから何を怒ってるんですか。ちゃんと言ってくれないと分かりません」「俺は怒ってなんかいない!」
 オーブンシートの箱を乱暴にテーブルの上に叩きつける。
「怒ってるじゃないですか」
「怒ってないっ!」
 そう大声で言った後、ドカドカと玄関へと向かい、ドアを思い切り強く閉めて外へ出て行ってしまった。
「ちょっと、杉野さんっ」
 一体、何が起きたのか。
 僕は山積みのサンドイッチ用食パンの前で放心状態。
 どうしてあんなに怒るのだろう。男だから、上半身裸でも問題はないはずだ。 実際、服を脱いだからこそ、五十嵐社長の援助も得られたのに。
 少しばかり、腹が立つ。同時に、とても悲しい気持ちにもなっている。原因は分からないけれど、杉野さんを怒らせたからだ。
 あんなに怒った顔は壮行会の夜以来。 あの夜と同じく、すぐにでも追いかけたい。でも納品の時間が迫っている。
 これは「お手伝い」だけど、僕にとっては大切な仕事。恋人とケンカして仕事を放り出すのは子供のすること。責任を持ってしっかりとやり遂げなくては。
 もしそれで僕達の仲が駄目になったらそれまでだ。悲しいけれど、しかたがない。そうなれば、もといた街へ一人で帰ろう。
「さあ! 気を取り直して、小麦粉の計量だ」
 今日のスコーンは高梨社長からの熱烈なリクエストで、オレンジピール入り。 雑念を払い、冷静にならなくては。生地の中に甘い物が入っているから、油断すると焦げてしまうぞ。そう強がりを言っては、心を何度も奮い立たせる。
 でも――涙が溢れて止まらない。

 スモークサーモンのサンドイッチを落ち着かせている間、ベランダに出る。
 炎天下の駐車場を見下ろすと、杉野さんの車。振り向いてテーブルに目をやると、車のキーと携帯電話。
 そして、ぺしゃんこになったオーブンシートの箱。
 この暑い中、歩いてどこへ行ってしまったのか。
 昼食をぬいているのに、全然食欲はない。頭の中では杉野さんの怒った顔が浮かんでは消える。
 激しい自己嫌悪。背中の傷が、ずきずきと痛み出す。一緒に心まで、しくしくと痛み出す。


 納品時刻までに全種類が無事に完成。 痛む体をかばいつつ車へ運び、高梨技研へ到着した。
「お菓子をお持ちしました」
「ありがとう! 無理したんじゃない?あら、杉野ちゃんは」
「その……ちょっとどこかに」
「どこか?」
「ええ。まあ」
 気まずい。この場を何とか誤魔化して
早々に退散しよう。
 僕は、わざと忙しそうに高梨社長の視線を避けてスコーンを箱から出す。
「何よ。けんかでもしたの」
 見事に一発で言い当てられた。さすがオッサン、年の功。
「えっと……まあ、それっぽいかもしれません」
 しぶしぶ高梨社長の方へ向き直る。
「昼間から痴話げんか? 元気ねえ」
「違いますっ。僕にだって分かんないんですっ」
 悶々としていたのをずっと抑えていた反動で、つい感情的になってしまう。
「あらら。低気圧ね。どうしたのか、お話なさいな」

 部屋でのやり取りを説明すると、高梨社長は吹き出した。
「笑わないで下さいよ。こっちは何が何だか、全然分らないんですから」
「ごめんごめん。あまりにも青山くんが杉野ちゃんの気持ちを分かっていないものだから、つい」
「分かっていない?」
「青山くん。盛りつけはアタシ達に任せて、今すぐ杉野ちゃんを探しに行きなさい」
「でも、むちゃくちゃ怒りまくって出て行ったんです。下手に探し出して声なんてかけたものなら、逆効果じゃないですか」 
 あの直後は、すぐにでも追いかけたかった。けれど時間が経つにつれ、不思議とそんな気持ちも小さくしぼんだ。
 これは開き直ったのか、諦めたのか。 そして今も冷静になれず、自分の本心が見極められない。
「青山くんが探しに来るの、待ちわびているわよ。絶対」
「そうでしょうか」
 疑わしい。あの様子だと、そんな風にはとても想像できない。
 叩きつけたオーブンシートの箱、ぐしゃぐしゃに潰れていたし。
「杉野ちゃんがどうして怒ったか、本当に、少しも分からないの?」
「……はい」
 恥ずかしいけれど、見当もつかない。 午前中の騒動で、逆にトントン拍子に何もかも収まったはずなのに。
 倒産理由も判明し、訴訟についても完璧だ。何が不服で、あんなにイライラしてるのか。
「知りたい? 怒って出ていった理由」「はい。お願いします。僕には……分かりません」

 高梨社長が僕をソファーへ促し、二人並んで座る。
「杉野ちゃんはね、人前で青山くんの体をさらしたくなかったの。特に今の体をね」
「どうしてでしょう。見せて減るものでもないのに」
「うふふ。まあね。でも、恋人ってね、そういうものなのよ」
「恋人……」
「自分にとって、とても大切で、しかも傷ついていたなら、なおさらよ」
 傷跡に優しく口づけをしてくれた、あの夜の記憶が胸をよぎる。
「それと……このこと、青山くんには黙っていようと思ってたんだけど……」
「なんでしょうか。教えて下さい」
「あの事件の日、青山くんが病院で処置してる間に杉野ちゃん、ここへ報告に来たの。でね、青山くんを守ってやれなかったって、声をあげて泣いたの。しかもうちの社員が全員いる前で」
「え……!」
 そういえば、病室にいた時の杉野さんの目は少し赤かった。でも奥田に対して激怒したからだと思っていた。
「大の男がね、人前で声を出して泣くなんて、めったにしないことよ」
「……信じられないです。本当なんですか」
 あの屈強な杉野さんが、人前で泣くなんて。
「本当よ。それにね、自分をものすごく責めているわ」
「なぜです? 悪いのは全部、奥田なのに」
「杉野ちゃんはね、最愛の人を自分のトラブルに巻き込ませてしまい、結果、守れなかった。加えて、訴訟するにも知識もお金もない。しかも、傷ついたその大切な体を人前にさらさせてしまったと、激しく悔やんでいるのよ」
「けれど勝手に脱いだのは僕です。訴訟の件も五十嵐社長のお陰で良い方向に」「そうね。でも、自分の力不足を見せつけられてしまったわ。しかも青山くんの目の前で。杉野ちゃんのプライド、粉々になってしまったわ」
「それはそうですけど、五十嵐社長との経験と知識の差は、杉野さんも承知の上のはずではありませんか。まだ二十代の僕達がどう逆立ちしたって追いつけないのは、当たり前のことかと」
「ええ。その事実はちゃんと理解しているわ。でも、心が納得していないの」
「心が?」
「青山くんを自分の手で守りたいっていう気持ち。愛情よ」
「……」
 だから玄関の一連の出来事から、表情が硬かったのか。
 あの時、そこまで気を回せなかった。 怒りと傷の痛みで、そんな心の余裕すらなかった。
 いや、違う。それは言い訳かもしれない。はっきりとあの人は、シグナルを発していた。軽率にも僕が見落としていただけなのだ。
 蕎麦屋では、ほとんど箸が進まなかった。ベッドの中では僕の傷を見て、涙を流していた。玄関では、出てくるなと制した。訴訟の話では、ひどく苛ついていた。そして、他人に体を見せるなと、声を荒げた。
「ああ……!」
 自分の考えの狭さと幼稚さが恥ずかしい。自分の思いやりのなさに腹が立つ。 自分の全てが情けない。
「杉野さん……っ」
 僕は目に涙を浮かべ、頭を抱えた。
「大丈夫よ。とにかく、捜しに行きなさい」
「でも、あの人は……こんな分からず屋な僕のこと、許してくれないかもしれません」
「何いってんの。自信を持ちなさい」
 落ち込む僕に、高梨社長は慈愛を込めて背中を優しくさする。
「そうだ。あともう一つ、教えて下さいませんか」
「なあに?」
「うちの玄関で杉野さんの背中を軽く叩いていたのは、それが理由なんですか」「そうよ。歳を取るとね、顔を見れば大体の心情を察することができるようになるものよ」
「何から何まで……本当にすみません」「ほらほら。だから早く行きなさい。ハッピーエンドの報告、待ってるわよ」
 
 車に戻り、エンジンを回す。
 社長室を出る時、高梨社長が、「こういう時って、思い出の場所や、幸せな記憶がある所へ自然と足が向くものよ」と教えてくれた。どうやら自分自身の経験らしい。
 では、「僕達の特別な場所」ってどこなんだろう。いざ改めて考えてみると、なかなか思い浮かばない。
「あーあ……」
 ハンドルを握りしめたまま、がっくりとうなだれる。
 杉野さんに対する僕の思いって、こんな程度なのか。
 自分の恋愛感情、かなり疑わしい。
 
 
 カーナビを頼りに慣れない街を走る。 それだけで、とても神経を使う。これでは捜すのもおぼつかない。
 あの人は、いつも助手席に僕を座らせて運転してくれていた。僕の行きたい所を最優先してドライブに連れて行ってくれた。
 暑くないか? 寒くないか? 何か飲むか? 腹減ってないか? 
 いつもそうやって、心配りをしてくれた。
 しかしそれに慣れてくると、当然のように感じてしまうようになる。口には出さないけれど、煩わしいと思う時もあった。
 今になって気づく。守ってもらうのが当たり前になり、その尊さとありがたさを忘れていたことに。
 杉野さんの大きな翼の中で、僕は傲慢に振る舞っていたのだ――
 胸が、自己嫌悪と後悔で刺すように痛む。

 二人でよく行くカフェや本屋、ホームセンターをくまなく回ったが、いなかった。
 ならば案外、すでに部屋へ帰っているのではと思い、戻ったけれど、部屋はカラ。
「……」 
 しんとした部屋の真ん中で、立ちつくす。時間だけが、刻々と過ぎて行く。
 高梨技研の社員の前で、僕を守れなかったと声を上げて泣いた杉野さん。五十嵐社長との力の差をまざまざと見せつけられて、自分を責めてしまってもいる。 その上、僕も突っ張って、散々へらず口をたたいた。その気持ちを知ろうともしないで。
 しかも、高梨社長に一から十まで教えてもらうまで気づかない、この頑固な石頭。
「ごめんなさい」
 口からぽつりと、震えた声で呟く。目からぽろりと、涙が落ちる。
 テーブルの上には、ぺしゃんこのオーブンシートの箱。それは杉野さんの心。 
 ふらふらと靴を履き、当てもなく外に出る。
 僕なりにベストを尽くして、探したつもり。でも、見つけられなかった。これが僕の限界なんだ。
 ああ、神様。どうか、杉野さんを僕に返して下さい。もう、あんな傲慢な態度は取りませんから。ちゃんと、杉野さんの心と向き合いますから――
 
 焦げ付くような、この土地特有の日差し。まぶしさに眉をしかめ、足下に視線を落とす。空き地の隅で、白詰草が暑さに負けずに咲いている。
「……!」
 その瞬間、一つの記憶が僕の心を激しく揺さぶった。
 

 初夏の風。広い空に大きな雲。
 緑豊かな遊歩道。二人で散歩。
 ひらひらと舞う、モンシロチョウ。
 
 杉野さんは白詰草を一輪手折り、僕に手渡す。
 可憐な花ですねと僕が言うと、お前みたいだよと言って、抱きしめてくれた。 そして、囁く。
「花束を抱いているみたいだ」と。

 一面に咲くたんぽぽ。白詰草の群生。 こんなに愛されて、大切にされて。
 僕は本当に、幸せ者だと思う。
 いつまでも、いつまでも、この幸せが続いて欲しい――


 僕は、はじかれたように走り出した。 傷の痛みは全身に強く広がったが、それを怖れず、走り続けた。
 あの遊歩道には、まだ白詰草は咲いているだろうか。
 杉野さんが僕に手折ってくれた、あの可憐な小さな花は、まだ咲いているだろうか。

第13話 僕達は、大切な花を守りながら生きていく 
 信号を五つ渡り、公園が見えて来た。 あまりの暑さに、額から汗が流れる。 この街に来てから、今、初めて汗をかいている。
 
 遊歩道に入り、あの場所を探す。
 一匹のモンシロチョウが、僕と併走し始めた。こっちだよと、伝えるように。 まるで、天使の道案内。
 あった。白詰草の群生だ。そしてその傍らに、誰かがうつむいて立っている。 顔は逆光で見えないけれど、僕はその人を知っている。とても、とても、良く知っている。
 壮行会の夜が、脳裏をよぎる。あの時は伝える言葉が見つからなくて、黙って胸に飛び込んだ。だから今度こそ言葉にして伝えたい。
 しかし――「ごめんなさい」「愛してる」「自分を責めないで」
 頭に浮かんだこれらの言葉は、どれも陳腐で安っぽい。杉野さんは、目前なのに。
 これではあの夜と同じじゃないか。どうして僕の恋は恋愛小説のように、小綺麗でスマートに進まないのだろう。
 じれったくて、思わず唇を噛む。

 ふと気がつけば、併走しているモンシロチョウは二匹になっていた。
 彼らは絡み合うように舞い、とても仲むつまじい。無言で、そして全身で、互いの愛情を伝え合っている。
 もしかして彼らは、僕に教えてくれているのか。「小賢しいことを抜きで、純粋に愛し合いなさい」と。
 彼らは生を受けてから天に召されるまでの時間がとても短い。
 だからこそ、ただ真っ直ぐに、ひたむきに生きるのだ。だからこそ、ただ正直に、愛し合うのだ。
 そう考えると、肩の力がするりと抜けた。
 ありがとう。僕のそばで舞う彼らに、心の中でお礼を言った。
 
 杉野さんが、気づいた。
 汗だくで息のあがった僕を見て驚き、駆け寄って来る。
「青山!」
 気が緩んだ途端、背中に激痛が走り、足がふらついた。
「危ないっ」
 たくましい腕と大きな手が、優しく僕を受け止める。
「お前、こんなに汗かいて……! ずっと走ってたのか!」
「はい……」
 肩で激しい息をして、絶え絶えに返事をする。
「ばか! ケガしてるんだぞ」
「でも……多分……ここにいると思って……」
「お前だったら、ほんとにもう……!」 そう言って、背中の傷をいたわりながら、僕を抱きかかえた。

「俺がここにいるの、どうして分かったんだ」
「高梨社長がね、こういう時は、幸せな記憶があった場所に行くものだって」
「幸せな記憶?」
「はい。だから……僕にとって一番幸せな記憶のある場所に来たんです。きっと杉野さんも同じだと信じて」
 杉野さんの胸の中で、瞳を閉じる。そうあって欲しいと、全力で祈りながら。「以前、杉野さんはここで、白詰草を手折って僕に渡してくれました。僕はその時、とても幸せだったんです」
「俺も憶えている……お前をここで抱きしめたことも」
「その時、僕に何て言ってくれたか、おぼえていますか」
「忘れるものか。花束を抱いているみたいだ、と言ったんだ」

 さらさらと風が木立を駆け抜けて、汗が心地よく引いていく。
 遙か上空では、鳶が旋回しながら鳴いている。
「ねえ、杉野さん」
「なんだ」
「この場所は、杉野さんにとって、幸せな場所でしたか」
「もちろんだ。だから、ここに来た」
「ここに僕も来ると思っていましたか」「思っていた。でも、仕事を投げないお前のことだ。納品してから来るだろうなって」
 そう言って、ふふっと笑う。
「でもね、僕はここに来るまでに、見当違いな場所をあちこち探してしまったんです。恥ずかしい話だけど、最後の最後に気づいたのが、ここだったんです」
「実は俺もさ。このクソ暑い中、はじめはウロウロしてたんだ」
「どこへ行ってたんですか」
「最初は、いつも行くカフェでアイスコーヒー飲んだ。次に本屋。それからホームセンターをぶらぶらして、やっぱりお前に謝ろうと、部屋に戻った」
「あらら」
 それって僕の捜索ルートとそっくり同じじゃないか。ということは、決して見当違いの場所をさまよっていたわけではなかったのだ。
「でも案の定、部屋は空っぽ。きっと今頃は高梨社長の所だろうなって。そしたら急に、もの凄く不安になったんだ」
「なぜですか」
「あんな状況でも、きっちりお菓子を作って納品しているお前が、俺よりもずっと大人に見えたんだ。もしかして、俺なんかもう必要ないんじゃないかって。むくれて出ていった俺が、すっごいガキみたいに思えてさ」
「そんな……」
 あの後、僕だってどんなに大変だったか。スコーンの生地に涙を落とさないようにするのが至難の業だった。
 サンドイッチの具材を味見しても、涙で塩加減が分からず、苦労したのだ。
「で、勝手に一人で落ち込んで、また外に出た。腹も減ったからコンビニでパン買って、近所の公園で食ってさ」
 そうだった。毎回恒例となっている、「全種類の大量な味見」をする前に部屋を出て行ってしまったから。
「そこで、芝生の中で咲いてる白詰草に目が行った。そしたら……」
「そしたら?」
「お前のことを思い出した。お前に、この花を手渡した日のことを」
「実は僕も、空き地の隅で、それが咲いていたのを見て思い出したんです」
「なんだ。お前もか」
「はい」
 多少の時差はあれど、僕達は笑ってしまうほど同じ。でも、そこが嬉しくてたまらない。
「そしたらな、無意識にこの遊歩道に足が向いていた。だけど同時に俺は恐ろしかった」
「どうして」
「お前がもしここに来なかったら、俺はその時、耐えられるだろうかと」
 そう言って、僕を柔らかく抱く。
「ここにお前が現れなかったら、どうしようかと。俺にとっての幸せな記憶が、お前にとってはどうでもいい記憶のひとつだったとしたら、耐えられるだろうかと」
「……僕、来ました。今ここにいます。こうやって、抱きしめてもらってます」
「そうだ。だから安心した。お前の姿を見た時、心底ほっとした」
「僕だって不安でした。いなかったらどうしようって」
 もし杉野さんがそこにいなかったら、僕は一晩中、白詰草のそばで泣いていただろう。

 近くのベンチに二人並んで座る。
 すでに陽の光は夕焼けの色に変わり始めていた。目の前に見える白詰草の群生も、ほのかに黄昏色。
「なあ、青山」
「はい」
「俺は、お前を守っているつもりでいたけれど、逆にお前に守られているような気がする。何もかも、全て」
「え……?」
「お前を支えているつもりなのに、支えられている。お前に教えているようで、教えられている。そんな気がしてならない」
「そんなことありません。僕は杉野さんに全ての面で依存しています。しかも杉野さんの優しさにあぐらをかいて、傲慢になって……」
「いや。依存しているのは俺の方だ。食事も掃除も洗濯も全部、お前におんぶにだっこ。偉そうにしているが、お前がいないと何一つ俺は成り立たない」

「杉野さん。とても大切なことを一つ忘れていませんか」
「大切なこと?」
「僕が、杉野さんのお嫁さんだってことを」
 白い羽を夕日色に染めた二匹のモンシロチョウが僕達の周りを軽やかに舞う。
「そして僕は思うんです。僕が杉野さんという花を守り、杉野さんは僕という花を守っている。つまり、互いに風や雨から守り合って生きているんじゃないかって」
「守り合う、か……」
「だから僕達、お互いが花を守る人――はなもりびと――なのではと」
「はなもりびと――」
「そう。花守人」

「杉野さん」
「ん?」
「僕は全身全霊をかけて、あなたを守ります。あなたが……大好きだからです」「青山……」
 それは、ようやく胸の奥から現れた、本当に伝えたい言葉。
 強がっていたり自分に自信がなかった時には見つからなかった、真実の言葉。 今、僕の口からやっと出たのだ。
「俺も、お前を全力で守る。俺の大切な嫁さんだもんな」
 杉野さんの唇が、静かに僕の唇と重なる。
「愛している……青山」
 ずっとかたわらで舞っていた二匹のモンシロチョウは、その様子を見届けて安心したのか、林の中へと仲良く帰っていった。
 ありがとう。おやすみなさい。

 夕焼けを見上げながら、僕達は家路を辿る。
 近くの小学校のスピーカーから、下校を促すチャイムが鳴り響いた。
 幼い頃に聴いた、あの曲。「家へ帰りましょう」という歌詞の、あのメロディー。この曲が聞こえたら家に帰る時間。 どんなに白熱した場面でも、どんなに忙しくても、さようなら、また明日。
 家へ帰り、おいしい食事を楽しみ、そして、ゆっくりと眠る。人の生活とは、こうありたい。

 部屋に戻り、それから二人揃って高梨技研へ食器の回収に行った。
 高梨社長は僕達を見ると、まるで自分のことのようにとても喜んでくれた。そして杉野さんが、「お騒がせしました」と恥ずかしそうに頭を下げると、「若いって、いいわねえ」と微笑んだ。

「夕飯、特に食べたい物、ありますか。スーパーで買い物して帰りましょう」
 帰りの道中、杉野さんに聞く。僕も昼食を抜いていたのでお腹がぺこぺこだ。 問題が解決した安堵で、ようやくお腹が空いたらしい
 今日は二人にとって、たくさんの事件があり過ぎた。でも、そのお陰で新たな絆も生まれた。大切な、真実の絆が生まれたのだ。
「俺、あれが食いたい」
「あれって?」
「ほら、お前が前に作った、ナントカフってやつ。鶏肉とか野菜がいっぱい入ったやつ」
「ああ、ポトフ!」
「そうそう。それだ」
「じゃあ、ついでにちょっと奮発してワインとパンとチーズも買いましょうか」「おう。で、次の日の朝は、それに牛乳入れたやつと、ホットケーキ」
「それって僕達の生活が激動した日の、記念すべきメニューでしたよね」
「ああ。そして……お前を連れて帰るって、決めた日のな」


 淡々と、穏やかに日々は過ぎていく。 五十嵐社長の訴訟も、着々と進んでいる。
 聞けば、奥田の余罪は芋づる式に出て来ているそうで、これに伴い、その手下も次々に捕まっているとのこと。
 そしてとどめは、薬物反応。
 確かに駐車場での奥田は異常そのものだった。しかも奥田の父親からも、その「反応」が出たそうで、会社創立どころの話ではなくなった。
 直属の上司が親子でドラッグやっていたのかよ、と杉野さんも半分笑いながらあきれている。経営陣も金持ってドロンだし、あの会社は倒産して正解だ。

「この街の夏はこれからだ。いっぱいドライブしような」
 額に汗してビスケットの型抜きをする僕に、杉野さんが言う。
「はい。それと」
「なんだ。どこか痛いのか」
「いいえ、冷房、入れて欲しいんですけど」
 杉野さんを探し回ったあの日から、僕は普通に汗をかくようになった。心療内科からの薬の種類も、かなり減ってきている。
「うーん……」
 渋い顔を僕に向ける。
「ね、少しだけ。僕も生地も、だれちゃうよ。お願い」
「じゃあ、少しの間だけ」
 杉野さんが、リモコンのスイッチを押す。エアコンの送風口から、ひんやりとした涼しい風が流れて来た。
「ああ、生き返る!」
「寒くなったらすぐ言うんだぞ。切るからな」
「はい」
「そして――すぐに温めてやるからな」 そう言って後ろから僕を抱きすくめ、耳たぶにキスをする。
 
 この先どうなるか、また、どうするかは、今は白紙の状態だ。もといた街へ帰ってもいいし、この街に残ってもいい。
 二人だから不安はない。二人だから怖くない。
 どんな職種であれ、これからは楽しく働くことを一番にする。愛し合う二人が引き裂かれて暮らしたり、病気になるまで無理をしてはいけない。
 世間や他人の意見はさておき、まずは自分達が楽しい人生を送ろう。そうして初めて、他の人にも優しく接することができると思うから。
 大好きな杉野さんとなら、どこに住んでも、そこは花畑。
 紺碧の空に入道雲。ひらひらと舞うモンシロチョウ。賑やかな虫の声。
 あちこちに点在する、白詰草とたんぽぽの群生――

 二人は、大切な花を守りながら生きていく。
「僕」という花を。
「杉野さん」という花を。
 お互いが、愛しい、大切な、花守人なのだから。

              〈完〉
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。


処理中です...