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第3話 ゲイバー・花壇

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 店の名は『花壇』と言った。ややせまい造り。ムーディーな間接照明、品のある調度品。ほどよい音量のジャズ。カラオケ機材はなく、カウンター席のほかソファー席が二セット。
 道中、男がどうして自身の名や職業を明かさず、自分のことを「ユキ」と呼んでくれと言ったのかここにきてようやく理由がわかった。また、佐野に対しても名字ではなく名前だけを聞き、それ以上の質問をしなかった訳も。なぜならこの店がゲイバーだからだ。
「面食らっただろ。でも安心してくれ。取って食ったりしないから」
 男――ユキがソファーでくつろぎながら、いたずらっぽく苦笑する。
「はあ」
 佐野は所在なさげに緊張しながら座りつつ、目を白黒させる。
「こういう店だから、みんな通称や愛称で呼び合うんだ。なので君もここでは――ケイと呼ばせてもらうよ」
「ケイ……」
 敬一だからケイか。なにやら別人になった気分。引っ込み思案な性格ゆえ、子供のころからいつも名字にさん付けで呼ばれているので照れくさい。ちなみに星崎は佐野を『オイ』と呼ぶ。嫌がらせの標的となった者はみな、名前が一時的に消滅するのだ。
「酒の前に、ひとまず食事だな」
 ユキがカウンターに立つオーナーへ、小さく会釈し合図する。
「彼になにか食事をお願いします。俺にはコーヒーを。お酒はあとで頼みます」
 オーナーが笑顔で右手を軽く上げる。了解の意味だ。
 十数分後、ローテーブルにポテトチップスとサラダが添えられたクラブサンドイッチの大皿と、湯気の立つコーヒーが二つ並ぶ。
「ようこそ『花壇』へ。今後ともどうかごひいきに。別の場所ではキャラメル・フェアリーっていうメイド喫茶をやってます。こちらもよろしくね」
 三十代前半とおぼしきオーナーが、にこやかに佐野へ名刺を渡す。
「はい。こちらこそ」
 つい仕事のくせで無意識に席を立ち、ビジネスモードで受け取ってしまう。オンとオフの切り替えが下手。だから星崎にばかにされ見下されてしまうのだ――佐野は苦々しく思いながら、もらった名刺を背広の内ポケットへ入れ、ソファーに座る。
「今の名刺の受け取り方で、ケイ君の性格と仕事ぶりが想像できるよ」
 オーナーが去ったあと、ユキが静かに言う。茶化すような口調ではない。
「だれにでも真面目で誠実に対応しているんだろうね」
「でも社内ではこの態度をばかにされて」
 特に星崎が。
「ふうん。言っちゃ悪いがその会社、先が見えたな」
「僕もそう思ってますけど転職も厳しいのでしがみつくしかなくて……では、いただきます」    
 佐野はサンドイッチに手をのばす。ユキはポテトチップスをつまむ。
「わあ、すごくおいしい……!」
 一次会で食いっぱぐれた空腹のせいではない。本当に美味い。
「だろ?」
 ユキが満足げに目を細める。
「メイド喫茶のメニューをそのまま出してるんだ。メイドさん目当ての常連客を飽きさせないよう味にも力を入れてるんだって」 
「オーナーさん、敏腕経営者ですね」
 会話が弾み、自然に続く。妙な流れでユキと知り合い、今ゲイバー。つまりユキもまわりの客もゲイである。きっとオーナーも。
 でもこの居心地のよさはなんだろう。呼吸が深くなり、心も体もやすらいでいる。奥歯を強く噛みしめながら作り笑いで鍋物のあくを取り、使用人のごとくみんなの食い散らかした皿をとりまとめては店員に渡していた一次会とは雲泥の差。
 なによりユキと話すのがとても楽しい。頼れる先輩という感じ。こんな人が上司だったらどんなにいいだろう。安心して全力で仕事に打ち込めるだろうに。でも現実は星崎だ。いじめとえこひいきが横行するブラック企業。しかも今、二次会をすっぽかしている。月曜日に星崎からクソミソにやられるだろう。資材倉庫で殴られるかもしれない。あの男はいつも服で隠れて外から見えない部分を狙って暴力をふるうから。
「どうした。急に黙り込んで」
 ユキの声でわれに返る。
「すみません。ちょっと会社のことを思い出しちゃって」
「ああ、そういえば俺のせいで二次会行かなかったもんな」
「気にしないでください。僕が行かないって決めたんですから」
 佐野のスマホが鳴る。ラインだ。
「噂をすれば影ってやつだな」
 ユキが右眉を大げさに上げる。案の定、星崎からだ。『なにやってる、早く来い』とある。どう返信すればいいのか。佐野は眉根を寄せる。
「では約束通り、俺がアリバイ工作をしてしんぜよう」
 途方に暮れる佐野にユキが言った。
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