最後に願うなら

黒田悠月

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彼女――リーネが好むのはベタでドロドロとした……そして少しばかりベッドシーンが多い大人向けの恋愛小説。

三角関係とか、掠奪とか、不倫とか。
好きな作家も何人か聞いているので、彼女が好みそうな本はすぐに店には出さずに奥に置いてある。

私は棚から紅いリボンでまとめた本の束を取り、店へと踵を返そうとして、足を止めた。
先日サミュエルへの土産に《マニマエル》のショコラを買った時に自分用にも新作のショコラクッキーを買った。それを店で休憩に少しずつ食べようと置いていたのを思いだしたのだ。

ついでにそれも出してお茶をしようと2階に上がる。
店の2階は居住スペースになっていて、小さいながらもキッチンがあり、魔法具で湯の出せるシャワールームもある。

家具は父が店主であった頃からあるものがほとんどだけれど、クロゼットの中は私の衣服が入っいる。シュトラトフ家を出たあとはここに住むつもりだから、必要最低限の荷物だけは少しずつ屋敷の自室から移動させている。
平民にドレスや宝石は必要ないから、自分の給金で買った庶民向けの服や下着、少しの小物だけ。

私はキッチンの棚からクッキーの入った小さな紙袋を取り出し、本の束とともに胸に抱いだ。
そして今度こそ踵を返そうとして、ふと思いついてクロゼットの脇にある姿見の前に立った。

屋敷にあるものより透明度が悪く微妙にくすんで像の歪む鏡には地味で垢抜けない赤茶色の髪の女が写っている。
私は鏡を覗き込みながら、片手に荷を持ち直し前髪をいじった。
私は普段、そして今も少し長めの前髪をセンターで分けて流している。その髪を軽く指でもみ崩し、眼鏡をかけた目元に落とす。

地味で垢抜けない上に目元を隠す前髪で陰気さも加わった。これならカシームも私だと気づかないどころか長く関わろうとはせずすぐに立ち去るだろう。

小さく頷いて足早に階段を降りた私は、店に入る手前で怖じ気づき、足を止めた。

店から奥に入る入口には、カーテンで仕切りをしている。そのカーテンの向こうから聞こえてきたのは二人分の話し声。

一つはリーネ。
もう一つはカシームの声だった。


その声を聞きながら、私はあぁ……と手で顔を覆いたくなった。
実際には両手で本の束とクッキーの袋を抱えているので、ムリなのだけれども。
考えてみれば前髪を崩した時のように片手に持ち変えれば良いだけの話なのだが、動揺のためかそこまで頭が回らなかった。

この時の私にできたことといえば、眉間に思い切りシワを寄せてこっそりカーテンごしに聞き耳を立てることくらい。

「――――――で」
「あら、そんなのもったいないわよ!いい?小説にはね?専門書やら歴史書にはない味わいってものがあるんだからっ」
「……から、――――でしょう?」
「ああ、あぁ多いのよねぇ。そう……人。」

はっきりと聞こえてくるのはリーネの声がほとんどで、カシームのものは途切れ途切れにしか聞こえない。
それでもわかることはある。
これまでの実績からしても、たぶん……というか間違いなく。

リーネはカシーム相手に読書を進めている。
それもカシームのような貴族の男性が普段読む類の専門書ではなく文芸――小説の類を。

リーネは悪い人ではない。
美人だしさっぱりとした話していて気持ちのいい女性だ。興奮してテンションが上がり出すと少し声が大きくなるという欠点(?)はあるけれど、育ちがいいだけにそれでも下品にはならない。
実家はコルム煙突通りにも工場を二つ持つ織物商人で、リーネ自身もオートクチュール専門の仕立て屋を貴族街のすぐ側に構えている。
腕も非常に良いため、社交シーズンの前になると予約でいっぱいになる。
貴族を相手に商売をしているだけに、マナーはバッチリだし、サバサバしているように見えて所作は綺麗だ。
働く出来る女性という感じで、本格的にこの店の店主になったあとは見本にさせていただきたいほど素敵な女性ではあるのだけれど……。

とにかく本――特に小説と呼ばれる類の書物への愛情がすごい。本好きを自認する私でも時として引くほどに。

そしてそんなリーネの悪癖が他人に読書を勧めることなのだ。
女性も男性も初対面も関係ない。
リーネが言うには「顔を見れば押せるかわかる」ということだが。

「男性ならミステリーあたりからはじめてみたらどうかしら。もし女心を学びたいと思うなら恋愛ものもおすすめだけど。とっつきやすいのはこの作者とこの作者かしらねぇ」
「…………なるほど」

声を聞いた限りではカシームもけして気を悪くしている様子はない。もとより女性に対して失礼な態度をあからさまに見せる男でも、まったく愛想がないという男でもないけれど。
ましてリーネには女性的な下心はないから、余計なのだろう。
少し意外な気がするほどにちゃんと会話が成り立っているように聞こえる。
というかこれはむしろ――。

「小説というのはこれまで読んで来なかったが、それほど勧められたのでは一度試してみるのもいいかも知れないな」

二人の位置がカウンターに近づいているらしく、カシームの声も徐々にはっきりと聞こえてくる。

――喰いついてる?

そう思うとついカシームがゆったりとくつろぎながら本を読んで時折頬を緩めたりする姿を想像してしまっていいかも、とドキドキして、キュンとしてしまう私はきっと病気だ。

カシームが好きすぎるという。

「あら、だったらここで色々教えてもらって選んでいけばいいわよ。ここの店主は私よりいろんなジャンルに詳しいし、ここはなまじな書店よりも小説の品揃えも良いから」

――え?えええっ!

ドキドキして、ぽうっとしていた私は、リーネの言葉に少し遅れてパキン、と固まった。









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