最後に願うなら

黒田悠月

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ドアが薄く開いて、最初に目に見えたのは空気の流れにそよぎ、こちら側へと靡いてきたまっすぐな長い黒髪。

キイ、と小さく蝶番を鳴らして、ドアが開かれていくのと、私が手にしていたカップをテーブルに戻すのはほぼ同じ時間の流れだった。

「おはようございます」

綺麗な所作で下げされた頭の先で艶のある黒髪の毛先が揺れる。

「おう」
「……おはようございます」

私たちが挨拶を返すと、彼女はパッと顔を上げて笑った。

花が咲くように、というのはきっとこんな笑顔を言うのだろう。
私や社交界の令嬢たちが浮かべる作った淑やかで曖昧な笑顔ではなく、屈託のない悪く言えば年端もない子供のような頬にぷっくりとしたえくぼができる笑い顔。

「はいっ!今日もよろしくお願いしますっ」

そう言ってペコリとまた頭を下げる仕草も貴族の令嬢らしからぬ。
けれど頭の動きに合わせて胸元で揺れ動く黒髪も、長い睫毛に縁取られた黒曜石を思わせる漆黒の目も。
黒に彩られた容姿はいかにもこの国の貴族らしいものだ。

私がローブの下に着ているのと同じ王宮魔法師の制服に足元には踝まで隠れるブーツ。まだ見習いでしかない彼女には正魔法師の証であるローブを纏う資格はない。
代わりに見習いが羽織るケープの裾が肩周りと腕の半ばまでを隠していた。

人好きのする笑顔に人形のような整った可愛らしい顔立ち。華奢な手首に摘んできたばかりらしい薬草の入った籠を下げて立つ彼女の見た目は《ローズガーデン》のダリアをはじめとした恋愛物語のヒロインたちを思わせる愛らしさがある。

――ヒロイン。まさしくだものね。

彼女――ニーナは私にとってヒロインそのもの。容姿も、立ち位置も、魔法師としての才能も。その過去さえも。穿った嫌な見方をするならヒロイン補正でもあるのかと思ってしまいたくなる。

あの捻くれて女性不信の気のあるカシームの心にさえも、あっという間に入り込んでしまったのだから。

ニーナがヒロインなら立ち位置的に私は悪役令嬢ということになる。
ヒロインにはけして敵わない悪役令嬢に。
レディローザでさえヒロインには敵わなかったのだ。

ならば私ごときが最初から立ち向かう気にさえなれないのもきっと無理からぬこと。

私はニーナの後ろに立つ、長身の男に視線を向けてすぐに逸らした。なんでもない顔を装いテーブルの上のティーセットを片付けるべく盆に乗せて席を立つ。

口の中で、まだすべて溶け切れていなかった砂糖が、甘くゆっくりと舌の上で溶けて少しずつ消えていった。


給仕室でカップを洗っている私の背に、明るい声が彼に話しかけているのが聞こえてくる。
それに、規則正しい足音と、静かにドアを閉める音。

「……ぁ、ほら見てくださいリジム様っ!」

泡立てた石鹸に手から滑り落ちたカップが洗い桶に浸けた皿と触れ合って硬質な音を立てる。

蛇口から水の流れ出る音。
ガシャンと窓を開いたらしい音。

「あの木!まだちゃんと消えずに残ってます!!」

はしゃいで、気分が向上しているためか、少しだけ上擦ったニーナの声。

「ね?見てください!やりましたよ、私っ!!ねねねっ!ちゃんと残ってます。ほら見てくださいっっ!!これで約束どおり基礎ばっかりから進んでもらえますよねっ?」

世の中にはこんなにも数多とりどりの音があるのに。

「ああ、確かに…………残ってはいるが」

一人の声だけがやけにはっきりと耳に残るのは、いったいどういう理屈なのだろうか。

そんなことを思うと同時に、アレはニーナの仕業だったのだなとも思い、納得する。
魔法は想像を具現化すると言っても、人によってできることには差異がある。
その人間のもともと持つ魔力の量でも違うし、使用できる魔力量でも違ってくる。
思い描く事象の鮮明度、事象に対する知識。
まあ様々あるけれど、最終的にはすべてひっくるめて才能の違いなのだと最近思うようになった。

「だが、まだ駄目だな」
「ええぇ?どうしてですか?約束と違います!」

背を向けていても、ぷく、と頬を膨らませる様が目に見えるようだ。
人によってはあざとくさえ見える仕草も、ただ可愛らしいだけなのだから、羨ましい気がしないでもない。きっと私がしても全然ちっとも可愛くないはずだから。


――さて。

と、ハンカチで手を拭きながら私は一つ、息を吐く。

そろそろ悪役令嬢の出番かと。


カツリ。

ヒールの音を高鳴らせ、引きずるほどに長い夜色のローブの裾を捌く。

息を整えて、姿勢はまっすぐに、顎を引き唇の端だけをわずかに持ち上げて笑う。

私の憧れるレディローザ直伝(?)の所作でゆっくりと振り向いた私は、

「ねぇ、何を言っているの?」

腰に片手を当てて、室内を睥睨するように眺めてから、口を開いた。

「私の聞き違いかしら?今、すごく身の程知らずなセリフを聞いた気がするんだけど」
「……ぇ?」

ぱっちりとした黒い瞳が戸惑いに揺れる。
その様子に目を細め、私はわざとらしく小首を傾げてみせた。

悪役令嬢を気取るわりに小心で、臆病者な私は、絶対に彼の顔を見たくないとカシームからは目を逸らし続ける。

愛想を尽かされるのが目的のクセに、呆れや嫌悪――あるいは失望といった眼差しを向けられるのが怖くて、目を逸らす。

「だってそうでしょう?『基礎ばっかりから先に進んでもらえますよね』って、基礎ばっかりでうんざりしているから、早くもっと違うことを教えろということでしょう?」
「そ、それは…………別にそういうわけじゃ」

カツン。

ヒールの音を立て鳴らして、肩を震わせて口籠るニーナに近づいていく。
こういう時、高く細いヒールというのは便利だ。
さほど意識するまでもなく歩を進めるたびに勝手に高い音を打ち鳴らすから。

あと、身長が高くなるのもいい。
ヒールがなければ私とニーナの身長はほとんど同じ。少しだけ私の方が高くはあるけれど、見下ろせるほどではない。

けれどヒールがあればこうして多少なりとも見下ろすことができる。
高圧的な印象を与えるにはちょうどいい。

「見習いになったばかりの新人が、ずいぶん傲慢なのね。特別扱いされて勘違いしているのかしら?期待の新人には基礎なんて必要ないと?まあ確かに才能はあるのでしょうけど?私にはあんな醜悪な代物、思いつきもしないもの」

すれ違いざま、ちらと窓の外に視線を向けて嘲笑い、ニーナの側を通り過ぎた私は、

何食わぬ顔でそのまま部屋を横切って――ドアの外へ逃亡した。




















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