最後に願うなら

黒田悠月

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愚かな選択をしたものだ。

あの時、馬鹿げた見せかけの婚約に頷かなければ、今頃になってこうも苦しまなくて済んでいたのかも知れない。

けれど私はその馬鹿な提案に頷いてしまった。

「そうね。フリだけなら、意外と悪くもないかも知れないわね?」

面白いとでも言いたげな笑みを浮かべて、私は頷いた。けれど内心では心臓がバクバクしていた。

だって私はその時にはすでにカシームに恋をしていたから。

好きな人と、たとえ偽りでも婚約できるのなら、それは幸せなことではないかと、愚かな私は思ってしまったのだ。

そんな愚かで馬鹿で非常識な茶番はどうせ長くは続くはずもない。
ほんの短い間。
ならば少しくらい幸せな夢に浸っても、きっとバチは当たるまい、と――。


「…………ちゃんと二人で話し合ってはいるのですが、もうしばらく先になりそうですわ」

動揺を落ち着かせようと長い息を吐いてから答えた私に、祖母はわざとらしく「まあ!」と声を上げた。

「何故?いったいどうしてしばらく先になるというのです」
「お祖母様。きっとリジム殿も今はお忙しいのですよ。先だっての戦の後始末で魔法師団も何かと駆り出されることが多いと聞きますし、ましてリジム殿は魔法騎士でもあるのだから、よりいっそうというものでしょう」

私が口を開くよりも先に、サミュエルがサラリと割り込んで言った。
顔を向けると、任せろと言うようにお祖母様からは見えない角度で片目を瞑ってみせる。

「それに聞いた話ではリジム殿は近く蒼の魔法騎士に就任されるとか。そうなると今の準騎士の地位から男爵位に叙爵されますから、どうせなら正式に貴族籍を戴いてから式を挙げようとお考えなのでは?きちんとミリーゼのことを考えてくださっているからこその配慮ですよ」

有り難いですね、とにこやかに告げたサミュエルに祖母は途端に「まあ!そうなのね!」と老いた顔に喜色を浮かべた。
私はその祖母の様子にホッと胸を撫でおろして、明日にでもサミュエルの好きな《マニマエル》のチョコレートを仕事帰りにでも買って来よう。と決めた。

行列に並ぶことにはなるが、そのくらいはしてあげてもいいと思った。


◇◇◇◇◇


私には毎朝行う習慣がある。

正確には毎週7日間の内の6日。
週に一度の休日、その日1日だけは街の古書店の店主になる日だから、しない。

これは私が貴族の令嬢になるための私なりの儀式だから――。


私には専属の侍女もメイドもいない。
13歳まで平民であった私は、ある程度自分のことは自分でできるし、自分でできることは自分でする方が気楽だからだ。

身の回りの手伝いが必要な時は本館から手の空いたメイドが来てくれる。ただ基本私のことは後回しにされるので、夕べのように時間に遅れて叱られるはめになることも多い。

朝は魔法師の制服か、庶民らしいラフな出で立ちであるので、大抵誰も来ない。

今朝も私は自分で髪を結い、服を着換えた。

そうして身支度を整えたら姿見の前に立って一度目を閉じて深呼吸をする。
目を開けた私の前には、魔法師団の紺色の制服の上に、夜の色のフード付きローブを羽織った肌の白い女がいた。

私はそっと腕を伸ばす。
すると鏡の中の女も、腕を伸ばした。

ぺたりと鏡に手のひらを貼り付け、鏡の中の紫色の目を覗き込む。

それから、ほんのわずかに唇の端を上げた。

『ごきげんようレディミリーゼ・シュトラトフ。さあ、顔を上げなさい。顔を上げて、背を伸ばして、まっすぐ前を向いて。そうしてなんでもない顔という顔で笑って見せなさい。さあ淑女の仮面をつけましょう』

鏡の中で、赤茶の髪に紫の目をした女がうっすらと淡く微笑む。

これは小説の中の悪役令嬢、レディローザが行っていた儀式。

《ローズガーデンの秘めやかな約束》は基本主人公――つまりダリア目線の一人称で物語が紡がれていく。
けれど第一部の最終巻である3巻の中盤、いよいよ悪役令嬢の断罪に向かうとなるその直前に、短い閑話としてローザサイドの話が差し込まれている。それまでも1巻に1、2話のペースでレディーローザの閑話は入っていたが、どれもダリアへ嫉妬心と、自分こそは婚約者となるべきもの、という自己顕示欲が前面に押し出されたものだった。

それまで私にとってレディローザはまさに悪役令嬢だった。傲慢で、高飛車で、身分を誇示し、常にダリアのような爵位の低い存在を自らより下に見て嘲笑う。そんないかにも悪役令嬢なキャラだった。

けれどその話を読んだ時にふと気づいたのだ。
《ローズガーデンの秘めやかな約束》は主人公ダリアから見た世界の物語。
読み手は当然ながら主人公の気持ちに沿って物語を読み進めているが、別の視点に立ってみればまったく違う物語になるのだと。




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