6 / 14
6
しおりを挟む
愚かな選択をしたものだ。
あの時、馬鹿げた見せかけの婚約に頷かなければ、今頃になってこうも苦しまなくて済んでいたのかも知れない。
けれど私はその馬鹿な提案に頷いてしまった。
「そうね。フリだけなら、意外と悪くもないかも知れないわね?」
面白いとでも言いたげな笑みを浮かべて、私は頷いた。けれど内心では心臓がバクバクしていた。
だって私はその時にはすでにカシームに恋をしていたから。
好きな人と、たとえ偽りでも婚約できるのなら、それは幸せなことではないかと、愚かな私は思ってしまったのだ。
そんな愚かで馬鹿で非常識な茶番はどうせ長くは続くはずもない。
ほんの短い間。
ならば少しくらい幸せな夢に浸っても、きっとバチは当たるまい、と――。
「…………ちゃんと二人で話し合ってはいるのですが、もうしばらく先になりそうですわ」
動揺を落ち着かせようと長い息を吐いてから答えた私に、祖母はわざとらしく「まあ!」と声を上げた。
「何故?いったいどうしてしばらく先になるというのです」
「お祖母様。きっとリジム殿も今はお忙しいのですよ。先だっての戦の後始末で魔法師団も何かと駆り出されることが多いと聞きますし、ましてリジム殿は魔法騎士でもあるのだから、よりいっそうというものでしょう」
私が口を開くよりも先に、サミュエルがサラリと割り込んで言った。
顔を向けると、任せろと言うようにお祖母様からは見えない角度で片目を瞑ってみせる。
「それに聞いた話ではリジム殿は近く蒼の魔法騎士に就任されるとか。そうなると今の準騎士の地位から男爵位に叙爵されますから、どうせなら正式に貴族籍を戴いてから式を挙げようとお考えなのでは?きちんとミリーゼのことを考えてくださっているからこその配慮ですよ」
有り難いですね、とにこやかに告げたサミュエルに祖母は途端に「まあ!そうなのね!」と老いた顔に喜色を浮かべた。
私はその祖母の様子にホッと胸を撫でおろして、明日にでもサミュエルの好きな《マニマエル》のチョコレートを仕事帰りにでも買って来よう。と決めた。
行列に並ぶことにはなるが、そのくらいはしてあげてもいいと思った。
◇◇◇◇◇
私には毎朝行う習慣がある。
正確には毎週7日間の内の6日。
週に一度の休日、その日1日だけは街の古書店の店主になる日だから、しない。
これは私が貴族の令嬢になるための私なりの儀式だから――。
私には専属の侍女もメイドもいない。
13歳まで平民であった私は、ある程度自分のことは自分でできるし、自分でできることは自分でする方が気楽だからだ。
身の回りの手伝いが必要な時は本館から手の空いたメイドが来てくれる。ただ基本私のことは後回しにされるので、夕べのように時間に遅れて叱られるはめになることも多い。
朝は魔法師の制服か、庶民らしいラフな出で立ちであるので、大抵誰も来ない。
今朝も私は自分で髪を結い、服を着換えた。
そうして身支度を整えたら姿見の前に立って一度目を閉じて深呼吸をする。
目を開けた私の前には、魔法師団の紺色の制服の上に、夜の色のフード付きローブを羽織った肌の白い女がいた。
私はそっと腕を伸ばす。
すると鏡の中の女も、腕を伸ばした。
ぺたりと鏡に手のひらを貼り付け、鏡の中の紫色の目を覗き込む。
それから、ほんのわずかに唇の端を上げた。
『ごきげんようレディミリーゼ・シュトラトフ。さあ、顔を上げなさい。顔を上げて、背を伸ばして、まっすぐ前を向いて。そうしてなんでもない顔という顔で笑って見せなさい。さあ淑女の仮面をつけましょう』
鏡の中で、赤茶の髪に紫の目をした女がうっすらと淡く微笑む。
これは小説の中の悪役令嬢、レディローザが行っていた儀式。
《ローズガーデンの秘めやかな約束》は基本主人公――つまりダリア目線の一人称で物語が紡がれていく。
けれど第一部の最終巻である3巻の中盤、いよいよ悪役令嬢の断罪に向かうとなるその直前に、短い閑話としてローザサイドの話が差し込まれている。それまでも1巻に1、2話のペースでレディーローザの閑話は入っていたが、どれもダリアへ嫉妬心と、自分こそは婚約者となるべきもの、という自己顕示欲が前面に押し出されたものだった。
それまで私にとってレディローザはまさに悪役令嬢だった。傲慢で、高飛車で、身分を誇示し、常にダリアのような爵位の低い存在を自らより下に見て嘲笑う。そんないかにも悪役令嬢なキャラだった。
けれどその話を読んだ時にふと気づいたのだ。
《ローズガーデンの秘めやかな約束》は主人公ダリアから見た世界の物語。
読み手は当然ながら主人公の気持ちに沿って物語を読み進めているが、別の視点に立ってみればまったく違う物語になるのだと。
あの時、馬鹿げた見せかけの婚約に頷かなければ、今頃になってこうも苦しまなくて済んでいたのかも知れない。
けれど私はその馬鹿な提案に頷いてしまった。
「そうね。フリだけなら、意外と悪くもないかも知れないわね?」
面白いとでも言いたげな笑みを浮かべて、私は頷いた。けれど内心では心臓がバクバクしていた。
だって私はその時にはすでにカシームに恋をしていたから。
好きな人と、たとえ偽りでも婚約できるのなら、それは幸せなことではないかと、愚かな私は思ってしまったのだ。
そんな愚かで馬鹿で非常識な茶番はどうせ長くは続くはずもない。
ほんの短い間。
ならば少しくらい幸せな夢に浸っても、きっとバチは当たるまい、と――。
「…………ちゃんと二人で話し合ってはいるのですが、もうしばらく先になりそうですわ」
動揺を落ち着かせようと長い息を吐いてから答えた私に、祖母はわざとらしく「まあ!」と声を上げた。
「何故?いったいどうしてしばらく先になるというのです」
「お祖母様。きっとリジム殿も今はお忙しいのですよ。先だっての戦の後始末で魔法師団も何かと駆り出されることが多いと聞きますし、ましてリジム殿は魔法騎士でもあるのだから、よりいっそうというものでしょう」
私が口を開くよりも先に、サミュエルがサラリと割り込んで言った。
顔を向けると、任せろと言うようにお祖母様からは見えない角度で片目を瞑ってみせる。
「それに聞いた話ではリジム殿は近く蒼の魔法騎士に就任されるとか。そうなると今の準騎士の地位から男爵位に叙爵されますから、どうせなら正式に貴族籍を戴いてから式を挙げようとお考えなのでは?きちんとミリーゼのことを考えてくださっているからこその配慮ですよ」
有り難いですね、とにこやかに告げたサミュエルに祖母は途端に「まあ!そうなのね!」と老いた顔に喜色を浮かべた。
私はその祖母の様子にホッと胸を撫でおろして、明日にでもサミュエルの好きな《マニマエル》のチョコレートを仕事帰りにでも買って来よう。と決めた。
行列に並ぶことにはなるが、そのくらいはしてあげてもいいと思った。
◇◇◇◇◇
私には毎朝行う習慣がある。
正確には毎週7日間の内の6日。
週に一度の休日、その日1日だけは街の古書店の店主になる日だから、しない。
これは私が貴族の令嬢になるための私なりの儀式だから――。
私には専属の侍女もメイドもいない。
13歳まで平民であった私は、ある程度自分のことは自分でできるし、自分でできることは自分でする方が気楽だからだ。
身の回りの手伝いが必要な時は本館から手の空いたメイドが来てくれる。ただ基本私のことは後回しにされるので、夕べのように時間に遅れて叱られるはめになることも多い。
朝は魔法師の制服か、庶民らしいラフな出で立ちであるので、大抵誰も来ない。
今朝も私は自分で髪を結い、服を着換えた。
そうして身支度を整えたら姿見の前に立って一度目を閉じて深呼吸をする。
目を開けた私の前には、魔法師団の紺色の制服の上に、夜の色のフード付きローブを羽織った肌の白い女がいた。
私はそっと腕を伸ばす。
すると鏡の中の女も、腕を伸ばした。
ぺたりと鏡に手のひらを貼り付け、鏡の中の紫色の目を覗き込む。
それから、ほんのわずかに唇の端を上げた。
『ごきげんようレディミリーゼ・シュトラトフ。さあ、顔を上げなさい。顔を上げて、背を伸ばして、まっすぐ前を向いて。そうしてなんでもない顔という顔で笑って見せなさい。さあ淑女の仮面をつけましょう』
鏡の中で、赤茶の髪に紫の目をした女がうっすらと淡く微笑む。
これは小説の中の悪役令嬢、レディローザが行っていた儀式。
《ローズガーデンの秘めやかな約束》は基本主人公――つまりダリア目線の一人称で物語が紡がれていく。
けれど第一部の最終巻である3巻の中盤、いよいよ悪役令嬢の断罪に向かうとなるその直前に、短い閑話としてローザサイドの話が差し込まれている。それまでも1巻に1、2話のペースでレディーローザの閑話は入っていたが、どれもダリアへ嫉妬心と、自分こそは婚約者となるべきもの、という自己顕示欲が前面に押し出されたものだった。
それまで私にとってレディローザはまさに悪役令嬢だった。傲慢で、高飛車で、身分を誇示し、常にダリアのような爵位の低い存在を自らより下に見て嘲笑う。そんないかにも悪役令嬢なキャラだった。
けれどその話を読んだ時にふと気づいたのだ。
《ローズガーデンの秘めやかな約束》は主人公ダリアから見た世界の物語。
読み手は当然ながら主人公の気持ちに沿って物語を読み進めているが、別の視点に立ってみればまったく違う物語になるのだと。
10
お気に入りに追加
1,277
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
領主の妻になりました
青波鳩子
恋愛
「私が君を愛することは無い」
司祭しかいない小さな教会で、夫になったばかりのクライブにフォスティーヌはそう告げられた。
===============================================
オルティス王の側室を母に持つ第三王子クライブと、バーネット侯爵家フォスティーヌは婚約していた。
挙式を半年後に控えたある日、王宮にて事件が勃発した。
クライブの異母兄である王太子ジェイラスが、国王陛下とクライブの実母である側室を暗殺。
新たに王の座に就いたジェイラスは、異母弟である第二王子マーヴィンを公金横領の疑いで捕縛、第三王子クライブにオールブライト辺境領を治める沙汰を下した。
マーヴィンの婚約者だったブリジットは共犯の疑いがあったが確たる証拠が見つからない。
ブリジットが王都にいてはマーヴィンの子飼いと接触、画策の恐れから、ジェイラスはクライブにオールブライト領でブリジットの隔離監視を命じる。
捜査中に大怪我を負い、生涯歩けなくなったブリジットをクライブは密かに想っていた。
長兄からの「ブリジットの隔離監視」を都合よく解釈したクライブは、オールブライト辺境伯の館のうち豪華な別邸でブリジットを囲った。
新王である長兄の命令に逆らえずフォスティーヌと結婚したクライブは、本邸にフォスティーヌを置き、自分はブリジットと別邸で暮らした。
フォスティーヌに「別邸には近づくことを許可しない」と告げて。
フォスティーヌは「お飾りの領主の妻」としてオールブライトで生きていく。
ブリジットの大きな嘘をクライブが知り、そこからクライブとフォスティーヌの関係性が変わり始める。
========================================
*荒唐無稽の世界観の中、ふんわりと書いていますのでふんわりとお読みください
*約10万字で最終話を含めて全29話です
*他のサイトでも公開します
*10月16日より、1日2話ずつ、7時と19時にアップします
*誤字、脱字、衍字、誤用、素早く脳内変換してお読みいただけるとありがたいです
義妹が大事だと優先するので私も義兄を優先する事にしました
さこの
恋愛
婚約者のラウロ様は義妹を優先する。
私との約束なんかなかったかのように…
それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。
そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね…
分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!
【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~
胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。
時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。
王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。
処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。
これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします
暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。
いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。
子を身ごもってからでは遅いのです。
あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」
伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。
女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。
妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。
だから恥じた。
「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。
本当に恥ずかしい…
私は潔く身を引くことにしますわ………」
そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。
「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。
私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。
手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。
そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」
こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。
---------------------------------------------
※架空のお話です。
※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。
※現実世界とは異なりますのでご理解ください。
骸骨と呼ばれ、生贄になった王妃のカタの付け方
ウサギテイマーTK
恋愛
骸骨娘と揶揄され、家で酷い扱いを受けていたマリーヌは、国王の正妃として嫁いだ。だが結婚後、国王に愛されることなく、ここでも幽閉に近い扱いを受ける。側妃はマリーヌの義姉で、公式行事も側妃が請け負っている。マリーヌに与えられた最後の役割は、海の神への生贄だった。
注意:地震や津波の描写があります。ご注意を。やや残酷な描写もあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる