最後に願うなら

黒田悠月

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我が家の家族構成は少し変わっている。
まず、父母という存在がいない。

私の父はこの家の次男だった。
つまり、伯爵家の次男ということになる。

爵位を継ぐのは長男だから、貴族家に生まれた次男以下は普通爵位持ちの他家に婿にいくか、領地を持たない準貴族である王宮騎士や王宮官吏を目指す。

父にはもともと子爵家の跡取り令嬢との婚約話があったらしい。
祖母が選んだ相手だった。

けれど父は平民の私の母と出会い、駆け落ち同然の状態で家を出て結婚する。
駆け落ちといっても国を出てどこか遠くに手を取り合って逃げたというほどのものではない。

シュトラトフ伯爵家は領地を代理人に任せ一年の
大半を王都の屋敷で過ごすが、父はその王都すら出ていない。

王都に居を構え、母は母の両親が経営していた経営していた食堂を手伝い、父は貿易商に雇われて通訳の仕事をしていた。しかも結婚後しばらくして生活が落ち着くと祖父と兄にはきちんと連絡もとっていたらしい。

その後、私が生まれ、父は《コルム煙突通りの古書店》を開く。

本好きの父は本を読みたいがために5カ国語もの言語を身につけていたから、寂れた古書店を経営しながら本の修繕や翻訳も行っていた。

現在私が行っている本の修繕や翻訳もその父の仕事をそのまま引き継いだもので、語学もまた父から学んだものだ。正直、古書店そのものの売上よりもずっと儲かる。

裕福というほどではないけれど、一家三人食うに困るということはない。たまには贅沢をして美味しいものを食べに行くこともある。

ありきたりで、平穏で、幸せな日常だった。

それが変わらざるを得なかったのは、私が13歳を迎えた年の暑い夏だった。

私たち家族のもとに父の兄――当時のシュトラトフ伯爵が夫人とともに馬車の事故で亡くなったと、連絡がきたのだ。


祖母と従姉弟がにこやかに、お上品に会話を交わしている。祖母と向き合う席に座る祖父は黙って紅茶を口にしながら時折二人の会話に小さく頷いている。

我が家の力関係は、祖父<祖母となっている。

当主は祖父だけれど、その祖父は婿養子でシュトラトフ家に入った人だから、祖母にはあまり頭が上がらない。
それでも何度かは私の味方になって無理も通してくれた。

魔法師の試験を受けるとなった時もそうだったし、王宮魔法師団入りするとなった時もそうだった。ニ年前――父が病で倒れた時に祖母が古書店を閉めて売りに出すと言った時も、祖父は私の味方になってくれて、祖母を宥めてくれた。
おかげで条件付きながら、私は父の残した《コルム煙突通りの古書店》の店主をしていられる。

その祖父も半年ほど前から、足を悪くして一人で歩くのが難しくなってきたのを期にますます気弱になって、口数も減り、このところは祖母の言う言葉にただ頷くばかりになっている。


私は二人の会話を聞き流しながら、給仕の淹れてくれた紅茶を口に含む。

紅茶の香りの中にほのかに林檎の匂いがした。
母が淹れてくれた紅茶にもよく林檎の匂いがしていたことを思い出す。

ポットの中に茶葉とともに乾燥させた林檎の皮を入れていたのだったか。
賑やかな話し声と、笑い声のする食事の後に、よくその紅茶と、林檎の皮の中身を使った焼き菓子が出てきたものだった。

ふと懐かしくなって口元が緩む。
そんな私の耳に、「ところで」とそれまでとはまったく声音の違う――どこか棘のある祖母の声が届いた。

「ミリーゼ。貴女、リジム様とはいったいどうなっているの?」

――――と。

「…………どう、とは?どういうことでしょうか。お祖母様」

祖母が何を言いたいのかはわかる。
わかるけれど、私はあえてわからないふりをして、紅茶のカップを皿に戻した。 

そんなつもりはなかったけれど、多少なり動揺してしまったのかも知れない。
カチャ、と陶器の触れ合う音がして、祖母の眉がひそめられる。

「結婚についてですよ。もちろん。婚約をしたはずがその後もう一年近く日取りすら決まっていない様子。いったいどうなっているのです?」
「それは……」

もとより自分たちの婚約は見せかけだけのもので、実際に結婚するつもりなどお互いに毛頭ない。
などとはたとえ事実だとしても言えるわけがない。


もとは職場――古書店ではなく本業、王宮魔法師団の上司の冗談混じりの提案だった。

いわく。

「おまえら、そんなにせっつかれてんなら、いっそ、おまえらで婚約しちまえば?したらとりあえず静かにはなるだろう?」

お互い相手がいないから早く婚約者をとせっつかれる。なら相手がいれば、少なくともそれなりに時間稼ぎはできる。別に相手ができたならその時は円満に解消すれば良い。

私は祖母が伝手を辿って持ってくる釣書に辟易していた。貴族の娘の結婚は庶民のそれとは違うと頭ではわかっていても、結局庶民感覚の抜けきれない私にはまともに話をしたことはおろか、顔を合わせたことすら記憶にない。そんな相手と婚約も結婚もしたいとも思えず、できるとも思えなかった。

カシームはカシームで、ちょうどこの頃ずいぶんと参っていた。

カシームのように身分もあって見た目もよくて、しかも将来有望となれば、花の蜜に惹きつけられる蝶のように、女性たちは次から次へと寄ってくる。中には口にするには憚られる方法で迫ってきたり、既成事実を作ろうとまでする女性も(しかも一人ではなく)いたようで……。
軽い女性不審に陥りかけていたのだ。

そのような状況で周りに婚約を結婚をと急かされても、その気になれないのは無理もない。

私たちはどちらも周りから早く婚約を結婚をと迫られ、どちらもそれから逃れたい。少なくとも今はまだ。そんな状況ではあった。

だけれど。だからといって、上司の提案は、あまりに無茶苦茶もいいところで。
何を馬鹿なと言いかけた私の手をカシームがガシりと握りしめ「――それだ!」と言い出したその時、私は正直、コイツ頭湧いてる、と思ったのだけれど。

同時に、見せかけでも、時間稼ぎのためだけの偽りの婚約でも。

カシーム・リジムという男の婚約者になれる。
その誘惑に目が眩む自分がいることも、確かに自覚していた。

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