日々の欠片

小海音かなた

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6/6『バイエルと貴女』

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 定年退職して、やることがなくなった。
 妻には「蕎麦打ちだけは絶対にするな」と言われている。後片付けするの誰だと思ってるの、と。
 確かに「今日は俺が夕食を作る!」って宣言して作って振舞って、あとは妻まかせ、ってことが何度かあった。
 最初の頃は後片付けもしてたけど、妻からのダメ出しがすごくてめげてしまった。しかし、しなきゃしないでやっぱり不満があるらしい。
 ならば料理全般もダメだということか。それとも後片付けを趣味にすればいいのか。
 とりあえずいまは近所を散歩している。趣味というわけではなく、足腰の衰えが心配だからだ。
 今日はこっちの道を通ってみようかな、と、いつもとは違う住宅街に入ってみた。
 どこからか聞こえる拙いピアノの音。誰かが練習してるんだろう。
 気になって音のするほうへ行ってみたら、一軒家の門扉に【レッスン生募集中!】というチラシが貼られていた。下部にピアノと音符の絵が描かれ、開いた窓からピアノの音が聞こえるに、ピアノ教室らしい。
 へぇ、ピアノか。昔、同じクラスのいいとこのコが習ってて、学芸会とかで披露してくれたんだよな。
 その上品な佇まいと大人顔負けの演奏に、まんまと初恋したのはいい思い出だ。それがいまの妻……ではないけど、あのコもどこかで家庭を持って、旦那の片づけにダメ出ししてるんだろうか……。
 チラシを眺めながら感傷に浸っていたら、家の中から人が出てきた。
「ご興味おありですか?」
「あっ、いやっ、そう、ですね……はい」
 ピアノじゃなくて、貴女に……。
 若かったらそう言ってナンパしてたくらいの美人だった。
「よろしければ見学、いかがですか? いまちょうど、発表会向けにレッスンをしていて……見てくださる方がいらしたほうが練習になるので」
「先生は、貴女が?」
「えぇ。生徒さんの許可も得ているので、ご遠慮なく」
 その言葉と笑顔に甘えて入室したら、演奏者は俺よりも年上のおじいさんだった。てっきり子供だとばかり思っていたが、まさか年上男性だったとは。
「お邪魔します」
「いやいや、こりゃお恥ずかしい。お耳汚しですが」
「いえ、そんなこと」
 おじさん同士で恐縮しあっていたら、美人先生がクスッと笑った。
「じゃあ手塚さん、最初から通しで弾いてみましょうか」
「はい」
「それでは……」俺に着席を促した先生が言葉を探す。
「渡瀬といいます」
「ワタセさん。こちらで私とご一緒に」
 先生の隣に座る。肩が触れそうな距離にドギマギしていたら、テヅカさんの演奏が始まった。
 音楽のことなどわからないが、いまここにいる人に聞いてもらえて嬉しい、という気持ちが伝わってくるようだった。
 演奏終了後、自然に手を叩き合わせていた。
「すごい! いままでで一番素敵でした!」
「いやはや、恐縮です」
 先生に褒められるテヅカさんは頬を赤らめている。あぁ、テヅカさんも憧れているのだな、先生に。
 部屋にピアノは一台。ということはレッスンはマンツーマン。練習中は先生を独り占めできるということだ。
 もらったパンフレットを手に帰宅し妻に相談したら、ボケ防止に良さそうだと了承してくれた。相場よりレッスン料が手頃なのも好印象だったようだ。
 かくして、週に一度のピアノ教室通いが始まった。
 憧れの先生と二人きりでピアノを奏でる時間はとても楽しく、あっという間に半年余り。徐々に上達している私の演奏に拍手を送ったのち、先生が言った。
「すみません、渡瀬さん。実はこの教室を、少しお休みさせていただくことになって」
「おや、なにかご予定ですか」
「彼の実家にご挨拶へ」
「……ご結婚、ですか」
 俺の言葉に先生がはにかんで、うなずいた。
「そりゃおめでとうございます」
 結婚後もピアノ教室はこの家で続けるらしいが……なんだこの寂しさは。俺にはもう孫もいるというのに、この歳で“失恋”を味わうだなんて。
 失恋。そうか、失恋したか、俺。
 せめてなにか、はなむけに贈れるものはないだろうかと考え、調べ、思いついた。

 教室が休みに入る直前のレッスン日、挨拶もそこそこに私は先生へひとつ提案をした。
「今日は、一曲お聴きいただきたいのですが」
「え、えぇ。ぜひ」
 戸惑う先生をいつもの席に誘導し、腕をまくる。
 弾いたのは、結婚式で定番の有名歌謡曲をピアノアレンジしたもの。ピアノアプリをダウンロードしてタブレットで練習した自信曲だ。
 たどたどしくも一曲弾き終わると、先生が拍手で称えてくれた。その目に涙が浮かんでいる。
「ご結婚、おめでとうございます」
「とても嬉しいです。ありがとうございます」
 そのはにかんだ笑顔がとても美しくて……。
 先生は誰かのものになってしまうけど、レッスン中は私だけの“先生”だから、これからも生徒でいようと誓った。
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