上 下
49 / 69

Chapter.49

しおりを挟む
「…ゆっくり話がしたいので、場所、変えませんか」
「……はい」
 鹿乃江の返答を聞いて、紫輝が上着を着て席を立つ。会計はすでに済ませているようで、キャップを被ってそのまま外へ向かった。少しためらって、数歩離れて後ろに着いていく。
「10分くらい歩くんですけど」
 と、人通りの少ない小道を紫輝が慣れた足取りで進んでいく。
「今日はお仕事でしたか」
「はい、すみません。残業になってしまって、来るのが遅くなりました」
「あら。大変な日にすみません」
「あっ、そういう意味じゃなくて」
 鹿乃江の言葉にフフッと笑って
「大丈夫です。わかってます」
 後ろを歩く鹿乃江を振り返った。
 裏路地をしばらく歩くと、急に目の前が開けた。一方通行の細い道の向かいに建っているオートロックのマンションに、紫輝が慣れた動作で入っていく。
(えっ)
 鹿乃江の動揺を余所に、紫輝は小さく後ろを確認しながら無言で進んでいく。そのまま、1階に停まっていたエレベーターへ乗り込んだ。
 開ボタンを押して鹿乃江が乗るのを待ってから、上階へ移動する。
(えっ、えっ)
 ボディバッグから鍵を取り出し、そのままとある一室のドアを開けた。
(えっ、いいの? いや、良くなかったら連れてこないよね!?)
 鹿乃江の脳内がせわしなくなっていく。
「どうぞ」
 招かれて、玄関へ入る。紫輝がドアを閉めるが、鹿乃江はそのまま立ち尽くしてしまう。
「黙って連れてきてすみません。なにもしない、とは言えないので、ここで話するんでも大丈夫です」
 紫輝の声が固くなっていく。
 紫輝の言う“話”の内容を、鹿乃江は大体察している。むしろ察しているからこそ、ここまで着いてきた。
鹿乃江だって、もう子供じゃない。
「……おじゃま、します……」
 ある意味答えのような行動を、意を決した鹿乃江がとった。靴を脱ぎ、フローリングの廊下にあがると
「防犯として、なんで」
 紫輝が前置きをして、玄関ドアをロックしてから廊下へあがる。
 家主に連れられて入ったリビングは、モノトーン調の簡素なインテリアでまとめられている。生活感はあまりない。
「昨日までツアーに出てて、なにもなくて…」
 紫輝がキャップとバッグをテーブルの脇に置いてキッチンへ移動する。冷蔵庫からペットボトルを取り出し、お茶をコップに注いでからテーブルに置いた。
 微かに水面が揺らめく。
「あっ、どうぞ」
 思い出したかのように鹿乃江にソファを勧めて、自らも座った。
「ありがとうございます」
 鹿乃江の声がかすかに震えている。紫輝から少し離れた隣に座り、バッグを足元に置いた。
 マンションの上階にある紫輝の部屋は、外の音も聞こえない。静寂の中、隣り合ってただ座っていることが不思議だった。
 緊張を紛らわせたくて、鹿乃江は自分の膝の上で指を組み握ったり放したりを繰り返す。
 呼吸音が聞こえそうなほどの沈黙を破ったのは、紫輝だった。
「……鶫野さんは大人だから」
 鹿乃江がギクリとする。
「年齢とか、オレの仕事とか、色々考えてくれてるのかなって」
 言葉を選びながら、紫輝がゆっくり続けた。
 予想とは違った話運びに、鹿乃江は内心安堵する。
「そう、ですね……」
 鹿乃江の答えに「ありがとうございます」と紫輝が柔らかく笑った。
「でも、それは鶫野さんだけが抱え込むようなことじゃなくて…その…」
 鹿乃江は紫輝の顔を見ることができず、膝の上で組んだ、微かに震える自分の手を見つめていた。
「オレも、一緒に考えて、乗り越えて行きたいというか……」
 紫輝が少し腰を浮かせて鹿乃江に近寄る。同時に身体の向きを変えた。
「オレ、一度もちゃんと伝えてないですよね」
 紫輝は言葉を切って、深呼吸をした。
「……好きです」
 伝えていなかった肝心な言葉。怖くて言えなかった自分の気持ち。
「鹿乃江さんが、好きです」
 まっすぐに鹿乃江を見つめながら紫輝が膝の上で拳を握り締め、
「オレと、お付き合いしてください」
 言って、頭を下げた。
 鹿乃江はうつむいたまま答えない。
「……ダメっすか……?」
 頭を下げたままで覗き込んだ鹿乃江の顔が、耳まで赤く染まっていることに気付く。照れたような困ったような顔が、いまにも泣き出しそうだ。
「――!」
 抱きしめたい衝動を抑えて、それでも触れずにはいられなくて、肩を持って鹿乃江の体を自分へ向けた。
 視線を合わせようとしない鹿乃江にゆっくりと顔を近付ける。拒まれないのを確認してから、右手で鹿乃江の頬に触れ、撫でながら移動させて首筋を軽くおさえた。
 間近に迫った端正な顔。
 ものすごい速さで動く心臓が、体全体を鼓動させる。
 額がくっつく。息がかかりそうで、無意識に呼吸が浅くなる。
「これで、本当に最後にするんで……嫌だったら、押しのけてください」
 紫輝が鹿乃江の右手を取ってはだけた上着の隙間から入れ、自分の左胸に当てた。
 鼓動が掌に伝わる。自分と同じように強く、速いそれに気付いて、鹿乃江は眉根を寄せた。
「…ずるい…」
 思わず漏れた声。指が紫輝の服をつかむ。
 その反応に紫輝が苦しそうに顔を歪めて、ゆっくり顔を近付けた。

 触れるだけのキス。

 離れた唇に、熱が残る。
 受け入れられたことを確認するように、二度、三度と続けて軽いキスをした。
 顔を離し、熱っぽく潤んだ瞳で見つめ合う。
 桜色に染まった鹿乃江の頬を、紫輝が愛おしそうに親指で撫でて目を細めた。
「好き、です」
 とろけそうな甘い声でささやき、鹿乃江の顔を両手で優しく包み込んで唇を重ねる。
 強く打つ鼓動が指先にまで伝わり、甘くしびれる。我慢していた欲求が弾けたように、長く、深く、強さと角度を変え、会えなかった時間を埋めるように、それはしばらく続いた。
 ……ようやく離れた唇から小さく息を吐く鹿乃江を、紫輝が抱きしめた。
「鹿乃江さん」
「……はい」
「返事、聞きたいんすけど」
 甘えるように鹿乃江の肩に顎を乗せる。鹿乃江は少し考えて
「よろしく、お願いします……」
 答えた。
「それだけっすか?」
 体を離して、鹿乃江の顔を覗き込む。ゆらゆらと揺れる瞳が、鹿乃江の言葉を待っている。
(うっ……犬……)
 口を開いて言葉を探す鹿乃江。
「私も、好き…です…よ?」
 目を細めてうんうんと頷き、あとを待つ。
「……不束者ですが…これからも、よろしくお願いします」
 小さく頭を下げた。
「こちらこそ」
 紫輝も同じように頭を下げて、照れたように二人で笑う。
 紫輝の長い指が大事そうに鹿乃江の頭を撫でる。ふと思い立ったように、紫輝が鹿乃江のコートを脱がせた。自分も同じようにしてから身体を引き寄せ、愛おしそうに抱きしめた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

長い片思い

詩織
恋愛
大好きな上司が結婚。 もう私の想いは届かない。 だから私は…

俺の妖精すぎるおっとり妻から離縁を求められ、戦場でも止まらなかった心臓が止まるかと思った。何を言われても別れたくはないんだが?

イセヤ レキ
恋愛
「離縁致しましょう」 私の幸せな世界は、妻の言い放ったたった一言で、凍りついたのを感じた──。 最愛の妻から離縁を突きつけられ、最終的に無事に回避することが出来た、英雄の独白。 全6話、完結済。 リクエストにお応えした作品です。 単体でも読めると思いますが、 ①【私の愛しい娘が、自分は悪役令嬢だと言っております。私の呪詛を恋敵に使って断罪されるらしいのですが、同じ失敗を犯すつもりはございませんよ?】 母主人公 ※ノベルアンソロジー掲載の為、アルファポリス様からは引き下げております。 ②【私は、お母様の能力を使って人の恋路を邪魔する悪役令嬢のようです。けれども断罪回避を目指すので、ヒーローに近付くつもりは微塵もございませんよ?】 娘主人公 を先にお読み頂くと世界観に理解が深まるかと思います。

王太子殿下が好きすぎてつきまとっていたら嫌われてしまったようなので、聖女もいることだし悪役令嬢の私は退散することにしました。

みゅー
恋愛
 王太子殿下が好きすぎるキャロライン。好きだけど嫌われたくはない。そんな彼女の日課は、王太子殿下を見つめること。  いつも王太子殿下の行く先々に出没して王太子殿下を見つめていたが、ついにそんな生活が終わるときが来る。  聖女が現れたのだ。そして、さらにショックなことに、自分が乙女ゲームの世界に転生していてそこで悪役令嬢だったことを思い出す。  王太子殿下に嫌われたくはないキャロラインは、王太子殿下の前から姿を消すことにした。そんなお話です。  ちょっと切ないお話です。

結婚して四年、夫は私を裏切った。

杉本凪咲
恋愛
パーティー会場を静かに去った夫。 後をつけてみると、彼は見知らぬ女性と不倫をしていた。

【完結】やさしい嘘のその先に

鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。 妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。 ※30,000字程度で完結します。 (執筆期間:2022/05/03〜05/24) ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます! ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ --------------------- ○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。  (作品シェア以外での無断転載など固くお断りします) ○雪さま (Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21 (pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274 ---------------------

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

処理中です...