上 下
48 / 69

Chapter.48

しおりを挟む

 ――しかし、その席に人はいなかった。


(……ですよね……)
 自嘲と苦笑の入り混じった顔のまま、乱れた息を整えるために大きく呼吸をする。テーブルにティーカップが置かれているが、それを紫輝が使っていたかはわからない。
(…かえろ…)
 痛みを感じ、たすき掛けにしていたバッグの肩ひもを左肩に移して持ち替え、ゆっくりときびすを返す。
 人とぶつかりそうになって「スミマセン」謝罪した声は乾燥でかすれていた。うつむいたまま横を通り抜けようとすると
「ちょちょちょ」
 腕を掴まれて反射的に顔をあげる。
 そこには、大きく目を見開いた紫輝が立っていた。
 鹿乃江も同じように目を大きくして、すぐに泣きそうな顔になる。
「ビックリした。帰っちゃうのかと思いました」紫輝が笑う。「スミマセン、ちょうど席外しちゃってて……あっ、ごめんなさい」掴んだままの手に気付き、放す。そのまま口元や額、首に手を当てて、紫輝がソワソワする。
 鹿乃江の頭の中にはたくさんの言葉が浮かんでいるのに、何故か口から出てこない。選びきれない言葉の数々がひしめき合って、出口につかえているようだ。
「とりあえず、座りましょ!」
 紫輝が鹿乃江を優しく誘導して座らせ、自分も向かいの席に座る。
「もうラストオーダー終わっちゃってて!」うんうん、と頷きながら、鹿乃江は紫輝の話を聞く。「もしかして、急いで来てくれました…?」
「……お待たせして、すみません…」
 ようやっと整ってきた息。しかし鼓動は早いままだ。
「全然! それよりお水。お水飲みましょ! 口つけてないんで」
 紫輝が目の前にあるコップを差し出す。
「ありがとうございます」
 氷が溶けてぬるくなった水が、紫輝の滞在時間の長さを教えてくれる。
 ゆっくりと水を飲む鹿乃江を、紫輝は膝に手を乗せた前のめりの姿勢でニコニコと眺めている。
(普段もかっこいい……)
 するりとそんな言葉が浮かぶ。
 紫輝に会うつもりがなかった鹿乃江は、黒のコートの中に白シャツ、ジーンズと簡素な服装。しかもノーメイクだ。きっと髪も乱れているだろう。
 今更ながら、めかしもせず会いに来たことが恥ずかしくなってきた。
「すみません…なんか…こんなカッコで……」
 髪を撫でつけ、申し訳なさげに鹿乃江が言う。
「え? いつもと違う感じで、それもカワイイですよ?」
(うぅ……)
 臆面もなくそういうことを言う紫輝に、運動後のそれとは別の理由で頬が熱くなる。
「ありがとう…ございます……」
 礼を言いながら水を飲んで様々な感情を誤魔化す。
 鹿乃江が落ち着いたのを見計らって、紫輝が口を開いた。
「ありがとうございます」
「?」
「来てくれて」
 鹿乃江はかしげた首をまっすぐに戻してから横に振って
「すみません……」謝った。
 今度は紫輝が首をかしげる。
「その…メッセのこととか…いろいろ…」
「ぜーんぜん! きっと読んでくれてるだろうなーって思ってましたし、それに」優しく微笑んでから「いま、会えてるんで」嬉しそうに言った。
 不意打ちにおなかの奥がキュンとする。
(うぅー、もうダメだぁー……)
 もう隠しきれない感情。いつかと同じことの繰り返し。そのすべてが愛しくて。いつか戻った橋を、鹿乃江はまた渡ろうとしている。
 予想以上に大きくなっていた感情が恥ずかしくてうつむいた鹿乃江に
「ご飯」
 紫輝が唐突に言う。
「食べられましたか?」
「あ…いえ…でも……」
 電車に乗る前にあった空腹感はどこかへ消えていた。
「大丈夫、みたいです」
(胸がいっぱいって、こういう状態かな……)
「前原さんは……?」
「ボクはさっき、ここで」
「良かったです」
 ただ待たせていたわけではなかったことを知って、少し安心する。
「優しいっすね」
 紫輝の言葉に鹿乃江が困ったように笑って、また首を横に振る。
「優しいのは、前原さんですよ?」
「えっ? オレ?」
「すごく、いつも、優しいです」
 今度は紫輝が照れて、少し困ったように笑った。
 なにを糸口にしようかと言葉を探る二人の間にある沈黙を消すかのように、穏やかに退店を促す音楽が流れ始める。閉店時間まであと10分ほどになっていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

長い片思い

詩織
恋愛
大好きな上司が結婚。 もう私の想いは届かない。 だから私は…

俺の妖精すぎるおっとり妻から離縁を求められ、戦場でも止まらなかった心臓が止まるかと思った。何を言われても別れたくはないんだが?

イセヤ レキ
恋愛
「離縁致しましょう」 私の幸せな世界は、妻の言い放ったたった一言で、凍りついたのを感じた──。 最愛の妻から離縁を突きつけられ、最終的に無事に回避することが出来た、英雄の独白。 全6話、完結済。 リクエストにお応えした作品です。 単体でも読めると思いますが、 ①【私の愛しい娘が、自分は悪役令嬢だと言っております。私の呪詛を恋敵に使って断罪されるらしいのですが、同じ失敗を犯すつもりはございませんよ?】 母主人公 ※ノベルアンソロジー掲載の為、アルファポリス様からは引き下げております。 ②【私は、お母様の能力を使って人の恋路を邪魔する悪役令嬢のようです。けれども断罪回避を目指すので、ヒーローに近付くつもりは微塵もございませんよ?】 娘主人公 を先にお読み頂くと世界観に理解が深まるかと思います。

王太子殿下が好きすぎてつきまとっていたら嫌われてしまったようなので、聖女もいることだし悪役令嬢の私は退散することにしました。

みゅー
恋愛
 王太子殿下が好きすぎるキャロライン。好きだけど嫌われたくはない。そんな彼女の日課は、王太子殿下を見つめること。  いつも王太子殿下の行く先々に出没して王太子殿下を見つめていたが、ついにそんな生活が終わるときが来る。  聖女が現れたのだ。そして、さらにショックなことに、自分が乙女ゲームの世界に転生していてそこで悪役令嬢だったことを思い出す。  王太子殿下に嫌われたくはないキャロラインは、王太子殿下の前から姿を消すことにした。そんなお話です。  ちょっと切ないお話です。

結婚して四年、夫は私を裏切った。

杉本凪咲
恋愛
パーティー会場を静かに去った夫。 後をつけてみると、彼は見知らぬ女性と不倫をしていた。

【完結】やさしい嘘のその先に

鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。 妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。 ※30,000字程度で完結します。 (執筆期間:2022/05/03〜05/24) ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます! ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ --------------------- ○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。  (作品シェア以外での無断転載など固くお断りします) ○雪さま (Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21 (pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274 ---------------------

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

処理中です...