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Chapter.101

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(……こぅと……――――)
 ひぃなの意識が消えそうになったその刹那――
「てめぇ手ぇ離せ!」
 部屋の奥から駆けてきた攷斗が黒岩の腕を掴んで引きはがし、力任せに玄関ドアへ叩きつけた。
 解放されたひぃなを攷斗が抱き寄せ、胸の中にいだいて身体を廊下に引き上げる。脱げたパンプスが玄関のタイルを叩き、硬い音を出した。
 居心地の良い攷斗の胸の中、安心出来る腕の力に、ひぃなは消えかけた意識と希望を取り戻し、涙ぐんだ。
「邪魔だ……」
 強かに体を打ち付けた黒岩が奥歯を噛み締めながら吐き捨てるように言う。後ろ手でドアのカギを閉め、スーツの腰ポケットから小型のスタンガンを取り出すと攷斗に向かって構えた。
 攷斗がひぃなを背中に隠して、黒岩との距離を取る。
(どこか安全な場所……!)
 部屋の間取りを脳内に展開するが、一番近い攷斗の作業部屋には廊下に面した窓がある。鉄柵で仕切られているものの、命の安全が確保出来るかといえば不安が残る。洗面所や浴室も同様、ルーフバルコニーに侵入されたら内部へ入り込まれる。リビングかひぃなの部屋が安全だが玄関からでは距離が遠く、体調が悪いであろうひぃなを庇いながら移動するのは危険だ。
 わずか数秒の間に複数の可能性を探る。
 スキをついて黒岩を物理的に倒すのが一番いいと判断した攷斗は、背中にひぃなを隠したまま黒岩の動向を窺う。
 対峙する黒岩も同じ考えなのか、一定の距離を保ちにじり寄ってくる。
「どうせお前が無理矢理時森さんを連れ込んだんだろ」
 絞り出すように言って、黒岩が攷斗を睨みつけた。その手元でスタンガンがバチバチと鳴っている。
(まだか)
 間合いを測りながら攷斗が外の音に耳を立てる。しかし、聞こえてくるのは耳障りな電流の音だけ。
「はやく時森さんを解放しろ」
 身勝手なことを言う黒岩の顔色はどす黒く、目は血走っている。
「お前じゃ駄目なんだよ棚井……」
 じゃり、と黒岩が靴のまま廊下に侵入した。
(まだか…!?)
 ジリジリと迫る黒岩から遠ざかるために後退していくが、いつまでもこうしているわけにはいかない。そう思い始めたとき、開錠の音とともに、玄関ドアが勢いよく開いた。
「遅い!」
 攷斗が言って、黒岩の腹を正面から思いきり蹴った。
 吹っ飛んだ黒岩の細長い身体を受け止めた桐谷が
「すみません!」
 ドアが開いた勢い同様に謝罪すると、黒岩の手を後ろにねじあげる。
 痛みに耐えかねて、黒岩がスタンガンを落とした。空いた手で拾おうとするが、一瞬先に桐谷が廊下へ蹴り出す。
 ドアを開けた外間がそのスタンガンを足で踏んだ。「事件のほうです」電話口に話しかけている。相手は警察のようだ。
 桐谷は黒岩を廊下へ引きずり出して、床に押し付け自由を効かなくしている。
「いま警察きます」
 電話が終わり、外間が攷斗に告げた。
「離せよ! あいつ捕まえろよ!」
「それ以上騒ぐと罪状増えますよー。いいですかー」
 外間が穏やかに笑顔で告げるが、目の奥が冷えている。
「必要なときにお声かけますので」
 それより、と攷斗の後方を見やった。
 攷斗が振り返ると、ひぃなが壁に身体をもたれさせてやっと立っていた。
 顔色が相当悪い。
「ひな」
 声をかけるが反応がない。手で外間に合図を送ると、外間はうなずいてドアを閉めた。
「ごめん、座ろう」
 攷斗が体を支えてゆっくりと座らせる。そのまま、固くこわばるひぃなの身体を抱き寄せた。
「遅れてごめん。もう大丈夫。深呼吸しよ」
 リズムを教えるように攷斗が深呼吸を始める。
 浅く、断続的だったひぃなの呼吸がそれに誘導され、通常のサイクルに戻っていく。
 攷斗は全身を包むように腕と足をひぃなの身体に巻き付け、あやすように肩を撫でたり、リズム良く叩いたりする。
「大丈夫……もう大丈夫だから……」
 その言葉はひぃなだけではなく、自分にも言い聞かせているようだ。
「……ほんとうは……」
 呼吸の速さが戻ったのを確認してから、攷斗が話し出した。
「こうなる前に、なんとかしたかったんだけど……」
 掴まれて、薄くアザになった腕を隠すように攷斗が優しくさする。
「証拠がないと逮捕できないらしくて……」
 安心させるよう声色は穏やかだが、その眉間は苦しそうにしかめられている。
「ひなに内緒で、私設のボディガードに付いてもらってたんだ」ごめん、と申し訳なさそうに攷斗がつぶやく。
 その腕の中で、ひぃなが小さく頭を振った。
 肩を撫でて、攷斗が続ける。
「そこに飾ってあるカメラね、中に機械が入ってて」
 一日毎に記録を上書きしながら、録画していたことを明かす。録音も出来るので、先ほど襲われた一部始終が記録として残された。
「さっきのが、決定的な証拠になるから」
 玄関ドアがノックされ、細く開いた。
 攷斗がひぃなを腕の中に隠して「はい」とその隙間に返事をすると、外間が空間を埋めるように身体で隠し
「失礼します。引き渡します」
 声をかけ、横に移動した。隙間から警察官の姿が見える。手錠を掛けられた黒岩は、歯を食いしばり立ち尽くしている。
「ありがとうございます、お願いします」
 警官が「落ち着いてからで構いませんので、事情聴取にご協力ください」と攷斗に声をかけた。
「はい」外間に視線を移し「仲介、お願いしてもいいですか?」
「はい。あとで連絡先お伝えします」
「うん、お願いします」
 それでは、と外間が閉めたドアの隙間から、黒岩が警察に連行される姿が見えた。
「……あいつら……覚えてるかな? 外間と桐谷。引っ越しのとき手伝いに来てくれた俺の後輩たちなんだけど」
 うん。とひぃながうなずく。
「子供の頃から格闘技やっててさ。卒業して二人で会社立ち上げて、私設SPやってんの」
 なごませるように雑談すると、再度ひぃなが小さくうなずいた。“ちゃんと聞いている”という意思表示だ。
 その律義さが愛おしくて、攷斗は微笑みひぃなを抱く腕に少し力を込めた。胸に収まっているため表情や顔色は見えないが、呼吸はだいぶ落ち着いている。冷えていた身体も、攷斗の体温が移って少し温かくなってきた。
「……怖い思いさせて、ごめん……」
 攷斗の言葉にひぃなが首を横に振る。
「…わたしが……」消え入りそうなひぃなの声。「かんちがい、させる……ようなこと、した…から……」
 絞り出すように言ったひぃなの言葉に、攷斗が苦しそうにかぶりを振る。
「ちがう。それは違うよ。ひなはなにも悪くない。ひなが謝ることなんて、なにもないよ」
 攷斗がひぃなを更に抱き寄せ、声を震わせた。
「ごめん。謝るのは、俺のほうだよ。怖い思いさせて…我慢させて、ごめん……!」
 ぼたりと大きな水滴が攷斗の腕に落ちる。四粒、五粒と、それは突然の夏の夕立のように、攷斗の腕に降り注ぐ。
 声を押し殺して泣くひぃなの頭を撫でようと上げた手の気配に、ひぃなが体をビクリと震わせ縮こまる。
 以前にもされたことのあるそれが、いつか聞いた話とリンクする。
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