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Chapter.100
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黒岩が無断欠勤するようになってから、一週間が経つ。
社内で出くわすこともなくなって張っていた気が緩んだのか、昼休みに入った途端に体調を崩した。いつもの貧血やめまいかと思って少し休んだが、回復しない。
「あとは私たちがやりますんで、早退してください。タクシー呼びますね」
紙尾が慌てて対応しようとするのをひぃなが止めた。
「いま、車乗ると、余計危ないかも……」
「じゃあ、旦那さんに……ってお仕事中ですかね…」
「そうだね……ごめん、動けるうちに帰るね……」
「駅まで送ります」
「大丈夫だよ、ありがとう」
休憩時間をつぶしてまで対応させるのは気が引ける。
「早退報告は出しておくので、お大事にどうぞ!」
気遣う紙尾たちに見送られ、通常より早い時間に帰路に就く。
攷斗に連絡しようとして、家にスマホを忘れたことに気付いた。
会社から駅までの間は人通りの多い道を選ぶ。歩くのも微妙に辛く、体調が悪いのを伝えて乗車しようかとタクシーを探しながら大通り沿いを歩くが、こんなときに限って空車に出会えない。
堀河が在社していれば頼んで送ってもらっていたが、あいにく商談で外に出てしまっていた。
仕方なく、ゆっくりと歩き、たまに周囲を確認しながら駅へ向かう。
倒れるのも怖いので、椅子に座って電車を待つ。
ホームではいつも椅子に座るか壁にもたれるかして身体を支えている。背後から襲われるのを無意識に警戒していることに、ひぃな本人は気付いていない。
まだ昼間なので乗客も少ない。無人ではない車両を選んで乗車した。30分経てば、自宅の最寄り駅に到着する。
駅を出ると小雨が降り始めていた。あいにく傘を持ち合わせていないので心持ち早足で道を歩く。とはいえ体調が回復していないので、そこまで急ぐことは出来ない。
吐く息が冷たい。ざわめく心に、無意識に呼吸が浅くなる。
自宅付近は普段からあまり人通りがない閑静な住宅街。昼間だというのに雨天のせいか人通りが全くない。だがむしろ、誰かいればすぐに察知出来る。
(だから大丈夫……大丈夫……)
紙尾から贈られた防犯ブザーを握りしめ呪文のように頭の中で繰り返しながら、家路を急ぐ。
マンションに着く頃には、降り続ける小雨のせいで全身がしっとりと濡れていた。九分袖のシャツから出る腕には鳥肌が立っている。体温調整がうまく出来ず、暑いのか寒いのかが良くわからない。
エントランスに入って管理人に挨拶をしようとするが、窓口には【外出中】のプレートが置かれていた。念のため自動ドアが閉まるまで待ってからエレベーターに乗る。途中で止まることもなく自宅のあるフロアに着く。
(あとは部屋に入るだけ……)
と、安堵のため息が口から息が漏れた。
ドアを開け、鍵を閉めてただいまと声をかける――つもりだった。
いつもなら手に触るたるドアノブの感覚が、ない。不思議に思い振り返ると、そこに、ドアの隙間から無理矢理入った人の身体。
引いていた血の気が更に引く。倒れそうなのをこらえて踏みとどまる。全身が心臓になったように脈打つ。呼吸が浅く、強くなる。
見て見ぬふりをしたいが、そうもいかない。
その姿が誰なのか、確認しようとゆっくりと目線を上げる。黒の革靴にスラックス。目に飛び込んだ見覚えのあるネクタイと、その人物の顔がリンクする。
「くろ…いわ……さん……」
あんなに気を付けていたのにどうして――考える間もなく腕を力いっぱい掴まれた。冷えたひぃなの腕とは対照的に熱いその手の感覚に身の毛がよだつ。
貧血とめまいとで、黒岩の顔が一瞬ブラックアウトした。同時に、幼い頃の記憶がフラッシュバックする。
黒いマジックで塗りつぶされたようなその顔は、幼いころ見た母のアルバムに貼られた、“父親”の写真と同じだ。
「迎えに来たよ」
地を這うようなバリトンボイスが耳に障る。
助けを呼びたくても声が出ない。
バッグに付いた防犯ブザーを鳴らそうとするが、掴まれた手が動かせない。
視線の先にそれを見つけた黒岩が、ひぃなの肩からバッグを掴み取って廊下の片隅に投げた。その手が肩を掴む。
伸びたままの爪が食い込むほどの強い力に、植え付けられた過去の記憶が呼び起こされる。
抵抗したらもっとひどい目に遭う――。
その言葉に縛られるように、ひぃなの体が動かなくなる。
「このネクタイ俺のために選んでくれたんでしょ、どうして棚井と一緒に住んでるの、俺と一緒じゃなきゃダメでしょ、一緒に逃げよう」
静かに、一気にまくしたてた黒岩が、ひぃなの身体を引き寄せようとした。
「ゃ……!」
その身体を押し返そうとするが、パンプスのヒールが軋んで足元が安定せず力が入らない。
「早く!」
先ほどよりも強い声と力が、ひぃなの全身にぶつかった。
(つれさられる――)
霞がかった脳内にそんな言葉が浮かぶ。
――やっぱりわたしは、しあわせになっちゃ、ダメなんだ――
自分が考えたのか、どこからか振ってきたのかもわからないその言葉は、ひぃなに重くのしかかる。
最後に振り絞っていた力が、自分の意志とは関係なく抜けていく。
社内で出くわすこともなくなって張っていた気が緩んだのか、昼休みに入った途端に体調を崩した。いつもの貧血やめまいかと思って少し休んだが、回復しない。
「あとは私たちがやりますんで、早退してください。タクシー呼びますね」
紙尾が慌てて対応しようとするのをひぃなが止めた。
「いま、車乗ると、余計危ないかも……」
「じゃあ、旦那さんに……ってお仕事中ですかね…」
「そうだね……ごめん、動けるうちに帰るね……」
「駅まで送ります」
「大丈夫だよ、ありがとう」
休憩時間をつぶしてまで対応させるのは気が引ける。
「早退報告は出しておくので、お大事にどうぞ!」
気遣う紙尾たちに見送られ、通常より早い時間に帰路に就く。
攷斗に連絡しようとして、家にスマホを忘れたことに気付いた。
会社から駅までの間は人通りの多い道を選ぶ。歩くのも微妙に辛く、体調が悪いのを伝えて乗車しようかとタクシーを探しながら大通り沿いを歩くが、こんなときに限って空車に出会えない。
堀河が在社していれば頼んで送ってもらっていたが、あいにく商談で外に出てしまっていた。
仕方なく、ゆっくりと歩き、たまに周囲を確認しながら駅へ向かう。
倒れるのも怖いので、椅子に座って電車を待つ。
ホームではいつも椅子に座るか壁にもたれるかして身体を支えている。背後から襲われるのを無意識に警戒していることに、ひぃな本人は気付いていない。
まだ昼間なので乗客も少ない。無人ではない車両を選んで乗車した。30分経てば、自宅の最寄り駅に到着する。
駅を出ると小雨が降り始めていた。あいにく傘を持ち合わせていないので心持ち早足で道を歩く。とはいえ体調が回復していないので、そこまで急ぐことは出来ない。
吐く息が冷たい。ざわめく心に、無意識に呼吸が浅くなる。
自宅付近は普段からあまり人通りがない閑静な住宅街。昼間だというのに雨天のせいか人通りが全くない。だがむしろ、誰かいればすぐに察知出来る。
(だから大丈夫……大丈夫……)
紙尾から贈られた防犯ブザーを握りしめ呪文のように頭の中で繰り返しながら、家路を急ぐ。
マンションに着く頃には、降り続ける小雨のせいで全身がしっとりと濡れていた。九分袖のシャツから出る腕には鳥肌が立っている。体温調整がうまく出来ず、暑いのか寒いのかが良くわからない。
エントランスに入って管理人に挨拶をしようとするが、窓口には【外出中】のプレートが置かれていた。念のため自動ドアが閉まるまで待ってからエレベーターに乗る。途中で止まることもなく自宅のあるフロアに着く。
(あとは部屋に入るだけ……)
と、安堵のため息が口から息が漏れた。
ドアを開け、鍵を閉めてただいまと声をかける――つもりだった。
いつもなら手に触るたるドアノブの感覚が、ない。不思議に思い振り返ると、そこに、ドアの隙間から無理矢理入った人の身体。
引いていた血の気が更に引く。倒れそうなのをこらえて踏みとどまる。全身が心臓になったように脈打つ。呼吸が浅く、強くなる。
見て見ぬふりをしたいが、そうもいかない。
その姿が誰なのか、確認しようとゆっくりと目線を上げる。黒の革靴にスラックス。目に飛び込んだ見覚えのあるネクタイと、その人物の顔がリンクする。
「くろ…いわ……さん……」
あんなに気を付けていたのにどうして――考える間もなく腕を力いっぱい掴まれた。冷えたひぃなの腕とは対照的に熱いその手の感覚に身の毛がよだつ。
貧血とめまいとで、黒岩の顔が一瞬ブラックアウトした。同時に、幼い頃の記憶がフラッシュバックする。
黒いマジックで塗りつぶされたようなその顔は、幼いころ見た母のアルバムに貼られた、“父親”の写真と同じだ。
「迎えに来たよ」
地を這うようなバリトンボイスが耳に障る。
助けを呼びたくても声が出ない。
バッグに付いた防犯ブザーを鳴らそうとするが、掴まれた手が動かせない。
視線の先にそれを見つけた黒岩が、ひぃなの肩からバッグを掴み取って廊下の片隅に投げた。その手が肩を掴む。
伸びたままの爪が食い込むほどの強い力に、植え付けられた過去の記憶が呼び起こされる。
抵抗したらもっとひどい目に遭う――。
その言葉に縛られるように、ひぃなの体が動かなくなる。
「このネクタイ俺のために選んでくれたんでしょ、どうして棚井と一緒に住んでるの、俺と一緒じゃなきゃダメでしょ、一緒に逃げよう」
静かに、一気にまくしたてた黒岩が、ひぃなの身体を引き寄せようとした。
「ゃ……!」
その身体を押し返そうとするが、パンプスのヒールが軋んで足元が安定せず力が入らない。
「早く!」
先ほどよりも強い声と力が、ひぃなの全身にぶつかった。
(つれさられる――)
霞がかった脳内にそんな言葉が浮かぶ。
――やっぱりわたしは、しあわせになっちゃ、ダメなんだ――
自分が考えたのか、どこからか振ってきたのかもわからないその言葉は、ひぃなに重くのしかかる。
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