48 / 136
みんな恋してる?
しおりを挟む夏の間は調練に明け暮れることになる。ラナンは久しぶりに王のそばを離れ、国境近くの草原にやって来た。
ラナンが軍務を離れてから東方元帥の管理下に置かれた騎馬隊は、選抜を繰り返して常に精鋭の兵士をそろえている。ラナンが率いていたときと顔ぶれはすっかり変わっていた。知った顔は一部の将校だけ。そのなかのひとり、リンチェが総隊長としてこの隊をまとめていた。
数カ月で、すべての兵士たちからいのちを預けてもいいと思わせるだけの信頼を獲得しなくてはならない。到着した初日から、ラナンは彼らとともに馬を走らせた。年若い兵士たちに積極的に声をかけると、はじめは畏縮していた彼らもこころを開いてゆき、数日で遠慮なくラナンと馬を競わせるようになった。
食事も兵士たちと一緒に、同じ質素なものをとる。これはゲルシクに教わった兵の心をつかむコツだ。都の美食に慣れたラナンだが、食に対してさほどこだわりがないので苦には思わなかった。
食べることが生きがいのようなケサンは辛そうだ。だが「こっそり他のものを食べればいい」と言うと、「そんなわけにはまいりません」と意地を張って、ラナンと同じものを食している。
十日から二十日に一度は羊や牛を屠り、酒を出す。兵士たちは大いにはしゃいだ。喧騒は耳を塞いでも頭に直接響くようだ。そのときも、ラナンは彼らとともに肉を食い、酒を酌み交わし、歌い、踊った。
「稀学さまも、ラナンさまがお戻りになられたことを知ったらお喜びになられますよ」
ひとさし舞ってドサリと地べたに腰をおろしたラナンの杯に酌をしながら、リンチェが叫ぶように言う。ラナンは頬がほころんだ。叫び返す。
「そろそろ先生がいらっしゃるころか」
ひとつ年上の石稀学は、ラナンの騎馬の師だった。各国を渡り歩くソグド人隊商を率いて、毎年夏に都にやってくる。騎馬隊の強化に功績のある彼はその途上でこの地に立ち寄ることを王から許されていた。ラナンがこの隊から離れてからは、一度も会っていない。彼が都にやってくる時期は、宮廷が地方に移動しているからだ。
「先生に笑われぬよう、勘を取り戻しておかねばならないな」
ラナンは天頂で光を放ち始めた月を仰ぎ見ながら大きく息を吸い込む。またひとつ、楽しみが増えた。
〈いくさバカ〉とニャムサンは揶揄するが、宮廷にいるだけでは得ることの出来なかったであろう学びと出会いの数々を与えてくれた陣営の生活が、ラナンは好きだった。
石稀学の訪問を守備兵から知らされると、早速ケサンとリンチェを連れて馬を駆り、師を出迎えた。騎馬の石稀学はラナンを見ると満面の笑みを浮かべて拱手する。ラナンも礼を返すと、石稀学と轡を並べて本陣へ向かった。
「また、ラナンどのがこの隊を率いるのですか」
「一時的に、ですが。総大将はルコンどのです」
「それは見ものですな。わたしも血が騒ぐが、この身体では足手まといになってしまう」
石稀学は笑いながらポンポンと自分の右肩を叩く。そこから伸びているはずの右腕はない。左腕だけでも、馬と武器の扱いは人並み外れて巧みだったから足手まといになるはずがない。だが、ラナンは彼が従軍を望むことを恐れた。二度も祖国に弓を引かせたくはない。
いまはソグドの姓を名乗り胡服をまとっているが、石稀学は漢人だ。
本名は呂日将。
渭水のほとり盩厔で、京師長安に向かうゲルシクとトンツェンをきりきり舞いさせた将軍だった。その翌年、僕固懐恩からの使者としてこの国にやって来た呂日将は、ルコンの依頼でラナンに唐の軽騎兵の技術を徹底的に仕込んでくれた。
僕固懐恩の援軍として十万の兵で唐を攻めたとき、タクナンと謀って唐軍に奇襲を仕掛けた呂日将は、もう少しで敵将の渾日進を討ち取ろうというところで郭子儀の援軍に不意を突かれ敗れた。渾日進に右腕を斬られ捕虜となったが、傷が癒えると解放された。本来なら極刑に処すべき罪を犯した彼がそうならざるを得なかった経緯を知った郭子儀が、密かに逃がしてくれたのだ。
彼は盩厔のいくさで行方知れず、ということになっている。
「と言っても、いまは商売が楽しくてならぬのです。頼まれても戦場に戻る気はありませんよ」
ラナンの懸念を察したのだろう。師はさばけた明るい笑顔をラナンに向けた。
それからはルコン、ゲルシク、タクナン、ツェンワとトンツェンなど、彼が商人になってからは会っていない者たちの消息を、乞われるままに語った。
「スムジェどのもいらしているのですか?」
思わぬ名が彼の口から出て、ラナンはギョッとした。
「兄は領地の管理をいたしておりますので、こちらには顔を出しておりません」
石稀学は懐かしむように目を細めた。
「お会い出来ないのは残念ですが、お元気ならよかった。ラナンどのがご立派になられて悠々自適の生活に入られた、といったところでしょうか」
彼がスムジェに好意的なことを言うとは意外だった。ふたりは会ったその場で激しく口論し、スムジェはそれ以降、石稀学がラナンを指導するようすを不機嫌な表情で遠くから眺めていた。他人に対し常に斜に構えているスムジェが、面と向かって敵意をあらわにする姿を見たのは、後にも先にもそれが唯一のことだ。
「いまさらですが、先生に初めて兄がお会いしたとき、いったいなにを争われていたのでしょう」
石稀学は一瞬キョトンとした顔をしてから、ああ、と声をあげた。
「あのときのラナンどのは、唐語をご存知なかったのでしたな」
「はい。恥ずかしながら、おふたりの会話はまったく分かりませんでした」
いまはふたりともどちらの言葉も不自由なく話せるが、当時、石稀学はまるでこの国の言葉を解さなかったし、ラナンは唐語を学んでいなかった。兄とは唐語で言い争いをしていたから、ラナンには、その内容がまったくわからなかったのだ。
「スムジェどのは唐人、それも敵として戦場で相まみえたことのあるわたしが、ラナンどのを害するために近づいたのではないか、と疑ってらしたのですよ。それでもラナンどのが日々指揮官として成長されてゆかれる姿をお喜びになって、わたしのことをお認めくださいました」
「兄がわたしの成長を喜んで?」
「ええ。ラナンどのが出世すれば甘い汁が吸えるなどと、照れ隠しのようにおっしゃっていましたが、弟御が可愛いのだと見えました。わたしには男の兄弟がおりませんから、羨ましく思ったものです」
母と同様、兄もラナンが将軍として戦場に出ることを快く思っていないように見えた。「多くの尚論を心服させるにはいくさでの功績が必要だ」とルコンが説いたとき、不快な表情を隠そうともしなかったことが思い出される。そのスムジェが、ラナンの将軍としての成長を喜んでいたというのは意外だった。
55
お気に入りに追加
1,527
あなたにおすすめの小説
【完結】気が付いたらマッチョなblゲーの主人公になっていた件
白井のわ
BL
雄っぱいが大好きな俺は、気が付いたら大好きなblゲーの主人公になっていた。
最初から好感度MAXのマッチョな攻略対象達に迫られて正直心臓がもちそうもない。
いつも俺を第一に考えてくれる幼なじみ、優しいイケオジの先生、憧れの先輩、皆とのイチャイチャハーレムエンドを目指す俺の学園生活が今始まる。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
悪役令息シャルル様はドSな家から脱出したい
椿
BL
ドSな両親から生まれ、使用人がほぼ全員ドMなせいで、本人に特殊な嗜好はないにも関わらずSの振る舞いが発作のように出てしまう(不本意)シャルル。
その悪癖を正しく自覚し、学園でも息を潜めるように過ごしていた彼だが、ひょんなことからみんなのアイドルことミシェル(ドM)に懐かれてしまい、ついつい出てしまう暴言に周囲からの勘違いは加速。婚約者である王子の二コラにも「甘えるな」と冷たく突き放され、「このままなら婚約を破棄する」と言われてしまって……。
婚約破棄は…それだけは困る!!王子との、ニコラとの結婚だけが、俺があのドSな実家から安全に抜け出すことができる唯一の希望なのに!!
婚約破棄、もとい安全な家出計画の破綻を回避するために、SとかMとかに囲まれてる悪役令息(勘違い)受けが頑張る話。
攻めズ
ノーマルなクール王子
ドMぶりっ子
ドS従者
×
Sムーブに悩むツッコミぼっち受け
作者はSMについて無知です。温かい目で見てください。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
運悪く放課後に屯してる不良たちと一緒に転移に巻き込まれた俺、到底馴染めそうにないのでソロで無双する事に決めました。~なのに何故かついて来る…
こまの ととと
BL
『申し訳ございませんが、皆様には今からこちらへと来て頂きます。強制となってしまった事、改めて非礼申し上げます』
ある日、教室中に響いた声だ。
……この言い方には語弊があった。
正確には、頭の中に響いた声だ。何故なら、耳から聞こえて来た感覚は無く、直接頭を揺らされたという感覚に襲われたからだ。
テレパシーというものが実際にあったなら、確かにこういうものなのかも知れない。
問題はいくつかあるが、最大の問題は……俺はただその教室近くの廊下を歩いていただけという事だ。
*当作品はカクヨム様でも掲載しております。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
平凡ハイスペックのマイペース少年!〜王道学園風〜
ミクリ21
BL
竜城 梓という平凡な見た目のハイスペック高校生の話です。
王道学園物が元ネタで、とにかくコメディに走る物語を心掛けています!
※作者の遊び心を詰め込んだ作品になります。
※現在連載中止中で、途中までしかないです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
嫌われ者の長男
りんか
BL
学校ではいじめられ、家でも誰からも愛してもらえない少年 岬。彼の家族は弟達だけ母親は幼い時に他界。一つずつ離れた五人の弟がいる。だけど弟達は岬には無関心で岬もそれはわかってるけど弟達の役に立つために頑張ってるそんな時とある事件が起きて.....
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
小悪魔系世界征服計画 ~ちょっと美少年に生まれただけだと思っていたら、異世界の救世主でした~
朱童章絵
BL
「僕はリスでもウサギでもないし、ましてやプリンセスなんかじゃ絶対にない!」
普通よりちょっと可愛くて、人に好かれやすいという以外、まったく普通の男子高校生・瑠佳(ルカ)には、秘密がある。小さな頃からずっと、別な世界で日々を送り、成長していく夢を見続けているのだ。
史上最強の呼び声も高い、大魔法使いである祖母・ベリンダ。
その弟子であり、物腰柔らか、ルカのトラウマを刺激しまくる、超絶美形・ユージーン。
外見も内面も、強くて男らしくて頼りになる、寡黙で優しい、薬屋の跡取り・ジェイク。
いつも笑顔で温厚だけど、ルカ以外にまったく価値を見出さない、ヤンデレ系神父・ネイト。
領主の息子なのに気さくで誠実、親友のイケメン貴公子・フィンレー。
彼らの過剰なスキンシップに狼狽えながらも、ルカは日々を楽しく過ごしていたが、ある時を境に、現実世界での急激な体力の衰えを感じ始める。夢から覚めるたびに強まる倦怠感に加えて、祖母や仲間達の言動にも不可解な点が。更には魔王の復活も重なって、瑠佳は次第に世界全体に疑問を感じるようになっていく。
やがて現実の自分の不調の原因が夢にあるのではないかと考えた瑠佳は、「夢の世界」そのものを否定するようになるが――。
無自覚小悪魔ちゃん、総受系愛され主人公による、保護者同伴RPG(?)。
(この作品は、小説家になろう、カクヨムにも掲載しています)
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる