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第31話 敵の正体
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朝はちょっとしたゴタゴタがあったが、会社でいくつかの報告を受け、対応を協議した後で、お昼に約束通り七瀬と買い物に行った。
陣のランニングウェア三着とシューズを購入したついでに、七瀬が選んだ新しいヨガマットをプレゼントしようとしたのだが、彼女は自分で支払うと言って聞かない。
「あー、だめ。このヨガマットは『俺が七瀬さんにあげたもの』という優越感に浸りたいがために買うんです。その楽しみを取り上げないでほしいな」
屁理屈を弄したら、七瀬は反応に困っていたが、実際、マーキングするような気持ちなのだ。自分のあげたものを所持していてほしい。それも、できるだけたくさん。
前の彼氏ときれいに切れているわけではないので、余計に自己主張がしたいのだ。
ヨガマットは七瀬にとって大事なものの上位に入るだろうから、余計に自分でプレゼントしたかった。
――とは、ちょっと情けなくて言えないけれど。
「でも、陣さんに負担ばかり強いてて、気が引けます」
「いや、このくらい負担でもなんでもないし。もし七瀬さんから『ヘリを一機買って』と言われたらさすがに躊躇するけど、このヨガマット、五千円でおつりが出たよ。恋人への初めてのプレゼントとしては物足りないから、クリスマスは何か奮発したいな。何が欲しい?」
そう言ったら、七瀬が余計に戸惑っていたので、もしかしたら前カレからプレゼントをもらったことがないのだろうかと、ちょっと不安になった。
まだ具体的な生活費の話はできていないし、この先、こういう場面はたびたび発生するだろう。金銭に関するすり合わせは徹底的に行うことにした。
七瀬ひとり家に招き入れたところで痛むほど寒い懐ではないのだが、あまりにも彼女が遠慮するから、生活費としていくらかは出してもらったほうがよさそうだ。結婚しているわけではないから、なおのこと。
そんな平和な火曜が過ぎ、翌、十二月二十三日水曜日。
月曜の夜に報告を受け、昨日、対応を協議したイレギュラー案件について、今日は午後から当事者のヒヤリングをすることになっている。
しかし、定時で上がってなんとしてでも七瀬のワークショップを受講したいので、揉めないようにさくさく進めなくてはならない。
今回のイレギュラー案件は、子会社の新卒社員が、先週金曜の就業中に、メンテナンス中のデータベースをクラッシュさせたというものだ。
調査を進めていく上で、会社のネットワークを私的利用した就業規則違反に始まり、不適切な行動が芋づる式に発覚したのだった。
正直、このくらいのことはどこの会社でも部署でも、多かれ少なかれやっていることだが、クラッシュさせたデータが新規事業のデータベースで、修復不可能だったり外部に漏れでもした場合、クライアントに対し多大な賠償金が発生する類のものだったため、徹底的に洗い出されることになってしまったのだ。
そして、このやらかし社員が、アストラルテックソリューションズ株式会社の大楠沙梨という女性社員である。
アストラルテックソリューションズはIT関連の会社で、帝鳳ホールディングスのグループ会社のひとつだ。
主に帝鳳の不動産部門で開発した新規物件、ショッピングモールや高級マンションなどの最新システム設計や保守を多く担っている会社である。
彼女はその日、データベースのメンテナンスを担当していたのだが、作業の傍ら、ネットで旅行を申し込んでいたというのだ。
そもそもデータベース管理用のパソコンは、外部とのアクセスを遮断するように設定してあるが、プロキシサーバーの設定を変更し、外部にアクセスできるようにしていたというから開いた口が塞がらない類の話である。
その作業をする部屋は、スマホなどのデバイスは持ち込みが禁じられている。だが、メンテナンス担当の時間に、お目当ての年末旅行の申し込みが開始されることもあり、無理やりネットにつないだ。
――人気ツアーだから、仕方なかったんです。それが彼女の言い分である。
その過程で設定変更をかけた際に、触ってはならないデータを誤って削除し、データをクラッシュさせてしまったのだ。
月曜、そのことで彼女はアストラルテックの上層部から呼び出され、半日かけてヒヤリングを受けたらしい。
十三時に、帝鳳本社の会議室にやってきたのは、アストラルテックソリューションズの水瀬社長、五百旗頭本部長とシステム管理部の大野部長、問題の新卒社員――大楠沙梨だった。
(これが、朝倉宗吾の浮気相手か……)
大楠沙梨は、いかにもデキる女風のメイクに髪型、パンツスーツも隙がない。
美人だが、気が強そうなところが今は鼻持ちならない。帝鳳本部の上層部に囲まれても、ふてくされたような表情を崩していなかった。
彼女は不満顔をしてはいたものの、月曜日に上司からこってり絞られ、こちらのヒアリングには素直に応じていた……というよりも、年かさで恰幅のいい情報セキュリティ部長のヒアリングには完全に開き直っていたが、陣がやわらかい声音と口調で問いかけたら、すんなり答えてくれた。
若い女性社員をおっさんたちで取り囲んでも、お互いに建設的ではない。下手すればパワハラセクハラ呼ばわりされる危険がある。
帝鳳の上層部には女性役員もいるが、あいにくと今回の件で担当できる人材がいなかった。女性役員をもっと増やしていかなければならない。
この中ではギリギリ若者属性に振り分けられる陣に、助けを求める気持ちもあったのだろう。
だが、沙梨が目をうるうるさせながら、陣にだけ同情を誘うような口調で話すのがちょっと気持ち悪かった。
あの目で縋られたら、味方になっちゃう男もいるのかもしれない。
そして、彼女のヒアリングの一時間後に呼ばれたのが――。
「……なんで」
グループ本部の会議室で上席に座っている陣を見て、宗吾が愕然としている姿が印象的だった。
彼は陣に向かって「おまえ」と言いかけたが、咄嗟に周囲を見回して口を噤んだ。
グループ本部の錚々たる顔ぶれの中で、いかにも上役然としている陣におまえ呼ばわりはできないだろう。
沙梨が一緒に年末旅行するという件の彼氏が、デジタルイノベーション部マネージャー、朝倉宗吾だ。
月曜日に『Vintage Voltage』で宗吾とやり合ったとき、彼が途中で電話で呼び出されたのがこの件だった。
宗吾が電話口で「五百旗頭本部長」と言っていたのが、陣の耳に残った。
アストラルテックにそんな珍しい名前の本部長がいるのを、もちろん陣は知っている。だから気になって、七瀬に彼の勤務している会社名を確かめたのだ。
その直後に拓馬から電話があって、アストラルテックで発生したイレギュラーを知ることになった。
七瀬にはこっそり「彼、会社で大ポカやらかしたみたいだよ」と耳打ちしたが、それ以上の詳細は語らなかったし、同棲のことに話題をシフトさせたので、彼女も何が起きたのか知らないでいる。
昨日の宗吾は、社としての対応方針が決まるまでの自宅待機だった。だから私服で七瀬の前に現れたのだ。
「お疲れ様です、朝倉マネージャー。帝鳳ホールディンググループ専務取締役、三門です。事情はアストラルテックの水瀬社長から共有を受けていますが、改めてお話を聞きたくお呼びしました。どうぞ、おかけください」
自己紹介すると、宗吾の表情はなんとも形容しがたいほどに歪み、その場に凍りついていた。
三門と言えば帝鳳の創業家で、子会社社員なら当然、三門会長の名も知っているはずだ。
宗吾はきっと、この場を逃れる方法をいくつも考えてきたはずだが、陣の顔を見た瞬間、すべての思惑が吹っ飛んでしまったことだろう。
決して敵に回してはならない相手を敵にしたのだから――。
陣のランニングウェア三着とシューズを購入したついでに、七瀬が選んだ新しいヨガマットをプレゼントしようとしたのだが、彼女は自分で支払うと言って聞かない。
「あー、だめ。このヨガマットは『俺が七瀬さんにあげたもの』という優越感に浸りたいがために買うんです。その楽しみを取り上げないでほしいな」
屁理屈を弄したら、七瀬は反応に困っていたが、実際、マーキングするような気持ちなのだ。自分のあげたものを所持していてほしい。それも、できるだけたくさん。
前の彼氏ときれいに切れているわけではないので、余計に自己主張がしたいのだ。
ヨガマットは七瀬にとって大事なものの上位に入るだろうから、余計に自分でプレゼントしたかった。
――とは、ちょっと情けなくて言えないけれど。
「でも、陣さんに負担ばかり強いてて、気が引けます」
「いや、このくらい負担でもなんでもないし。もし七瀬さんから『ヘリを一機買って』と言われたらさすがに躊躇するけど、このヨガマット、五千円でおつりが出たよ。恋人への初めてのプレゼントとしては物足りないから、クリスマスは何か奮発したいな。何が欲しい?」
そう言ったら、七瀬が余計に戸惑っていたので、もしかしたら前カレからプレゼントをもらったことがないのだろうかと、ちょっと不安になった。
まだ具体的な生活費の話はできていないし、この先、こういう場面はたびたび発生するだろう。金銭に関するすり合わせは徹底的に行うことにした。
七瀬ひとり家に招き入れたところで痛むほど寒い懐ではないのだが、あまりにも彼女が遠慮するから、生活費としていくらかは出してもらったほうがよさそうだ。結婚しているわけではないから、なおのこと。
そんな平和な火曜が過ぎ、翌、十二月二十三日水曜日。
月曜の夜に報告を受け、昨日、対応を協議したイレギュラー案件について、今日は午後から当事者のヒヤリングをすることになっている。
しかし、定時で上がってなんとしてでも七瀬のワークショップを受講したいので、揉めないようにさくさく進めなくてはならない。
今回のイレギュラー案件は、子会社の新卒社員が、先週金曜の就業中に、メンテナンス中のデータベースをクラッシュさせたというものだ。
調査を進めていく上で、会社のネットワークを私的利用した就業規則違反に始まり、不適切な行動が芋づる式に発覚したのだった。
正直、このくらいのことはどこの会社でも部署でも、多かれ少なかれやっていることだが、クラッシュさせたデータが新規事業のデータベースで、修復不可能だったり外部に漏れでもした場合、クライアントに対し多大な賠償金が発生する類のものだったため、徹底的に洗い出されることになってしまったのだ。
そして、このやらかし社員が、アストラルテックソリューションズ株式会社の大楠沙梨という女性社員である。
アストラルテックソリューションズはIT関連の会社で、帝鳳ホールディングスのグループ会社のひとつだ。
主に帝鳳の不動産部門で開発した新規物件、ショッピングモールや高級マンションなどの最新システム設計や保守を多く担っている会社である。
彼女はその日、データベースのメンテナンスを担当していたのだが、作業の傍ら、ネットで旅行を申し込んでいたというのだ。
そもそもデータベース管理用のパソコンは、外部とのアクセスを遮断するように設定してあるが、プロキシサーバーの設定を変更し、外部にアクセスできるようにしていたというから開いた口が塞がらない類の話である。
その作業をする部屋は、スマホなどのデバイスは持ち込みが禁じられている。だが、メンテナンス担当の時間に、お目当ての年末旅行の申し込みが開始されることもあり、無理やりネットにつないだ。
――人気ツアーだから、仕方なかったんです。それが彼女の言い分である。
その過程で設定変更をかけた際に、触ってはならないデータを誤って削除し、データをクラッシュさせてしまったのだ。
月曜、そのことで彼女はアストラルテックの上層部から呼び出され、半日かけてヒヤリングを受けたらしい。
十三時に、帝鳳本社の会議室にやってきたのは、アストラルテックソリューションズの水瀬社長、五百旗頭本部長とシステム管理部の大野部長、問題の新卒社員――大楠沙梨だった。
(これが、朝倉宗吾の浮気相手か……)
大楠沙梨は、いかにもデキる女風のメイクに髪型、パンツスーツも隙がない。
美人だが、気が強そうなところが今は鼻持ちならない。帝鳳本部の上層部に囲まれても、ふてくされたような表情を崩していなかった。
彼女は不満顔をしてはいたものの、月曜日に上司からこってり絞られ、こちらのヒアリングには素直に応じていた……というよりも、年かさで恰幅のいい情報セキュリティ部長のヒアリングには完全に開き直っていたが、陣がやわらかい声音と口調で問いかけたら、すんなり答えてくれた。
若い女性社員をおっさんたちで取り囲んでも、お互いに建設的ではない。下手すればパワハラセクハラ呼ばわりされる危険がある。
帝鳳の上層部には女性役員もいるが、あいにくと今回の件で担当できる人材がいなかった。女性役員をもっと増やしていかなければならない。
この中ではギリギリ若者属性に振り分けられる陣に、助けを求める気持ちもあったのだろう。
だが、沙梨が目をうるうるさせながら、陣にだけ同情を誘うような口調で話すのがちょっと気持ち悪かった。
あの目で縋られたら、味方になっちゃう男もいるのかもしれない。
そして、彼女のヒアリングの一時間後に呼ばれたのが――。
「……なんで」
グループ本部の会議室で上席に座っている陣を見て、宗吾が愕然としている姿が印象的だった。
彼は陣に向かって「おまえ」と言いかけたが、咄嗟に周囲を見回して口を噤んだ。
グループ本部の錚々たる顔ぶれの中で、いかにも上役然としている陣におまえ呼ばわりはできないだろう。
沙梨が一緒に年末旅行するという件の彼氏が、デジタルイノベーション部マネージャー、朝倉宗吾だ。
月曜日に『Vintage Voltage』で宗吾とやり合ったとき、彼が途中で電話で呼び出されたのがこの件だった。
宗吾が電話口で「五百旗頭本部長」と言っていたのが、陣の耳に残った。
アストラルテックにそんな珍しい名前の本部長がいるのを、もちろん陣は知っている。だから気になって、七瀬に彼の勤務している会社名を確かめたのだ。
その直後に拓馬から電話があって、アストラルテックで発生したイレギュラーを知ることになった。
七瀬にはこっそり「彼、会社で大ポカやらかしたみたいだよ」と耳打ちしたが、それ以上の詳細は語らなかったし、同棲のことに話題をシフトさせたので、彼女も何が起きたのか知らないでいる。
昨日の宗吾は、社としての対応方針が決まるまでの自宅待機だった。だから私服で七瀬の前に現れたのだ。
「お疲れ様です、朝倉マネージャー。帝鳳ホールディンググループ専務取締役、三門です。事情はアストラルテックの水瀬社長から共有を受けていますが、改めてお話を聞きたくお呼びしました。どうぞ、おかけください」
自己紹介すると、宗吾の表情はなんとも形容しがたいほどに歪み、その場に凍りついていた。
三門と言えば帝鳳の創業家で、子会社社員なら当然、三門会長の名も知っているはずだ。
宗吾はきっと、この場を逃れる方法をいくつも考えてきたはずだが、陣の顔を見た瞬間、すべての思惑が吹っ飛んでしまったことだろう。
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