そのモラハラ彼氏、いらないでしょ? ~エリート御曹司の略奪愛

朝霧なる

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第26話 今度こそ、恋人になって

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「ど、どうしたんでしょう……」

「会社で何かあったみたいですね。時間外にかけてくるくらいだから、緊急の用件なんでしょう。でも、あそこまでひどいモラハラとは思わなかった。あれじゃあ、次があっても話し合いになんかならないだろうな……」

 肩をすくめる陣に、七瀬は目を伏せながらちょっとだけ笑った。

「……さっきのが彼の本心なら、私はよほど邪魔だったんでしょうね」

「いや、売り言葉に買い言葉だと思いますよ」

 そう言って陣がなぐさめてくれるから、落胆はしたが、苦々しくてもまだ笑うことができている。

「陣さんがいてくれて、とても心強かったです」

 結局、自分では何ひとつ言えなかったけれど……。

「口出しはしない約束だったのに、ごめん。でも、あれに一人で立ち向かうのはやめてください。あんな物言いをされ続けてきたら、どんなに明るい人だって潰れますよ。七瀬さんがこれまで安定を保ってこられたのは、元々の土台の強さとヨガのおかげ、でしょうか」

「そうだといいのですけど――」

 しかし、何ひとつ結論を出すことができなかった。このままでは七瀬も宙ぶらりんのままだ。
 あの家に戻るのは、こうなってはもはや不可能としか思えないし、だからといって今すぐ陣のところに転がり込むのも違う。

「陣、終わった?」

 そのとき、ふたりの席までやってきたのは潤だった。七瀬は勢いよく立ち上がり、深々と頭を下げた。

「申し訳ありませんでした、潤さん。あの、他のお客さまにもご迷惑を……」

 七瀬はこちらを見ている客にも頭を下げるが、今の騒動を見なかったことにしてくれたらしく、それぞれの談笑に戻っていった。

「大丈夫ですよ、センセー。いざとなったら、うちの屈強なウエイターがつまみ出してたから。それにまあ、ときどきあることなので。でも、あれ彼氏? やめといたほうがいいですよ。彼女を怒鳴りつけるなんて、ろくな男じゃないから」

 怒鳴られるのは、いつも自分が悪いからだと思ってきた七瀬にとって、陣や潤の言葉はひどく身に染みる。
 彼の言葉や態度と、七瀬の学んできたヨガの考え方は整合性が取れなくて、いつも板挟みになっているような窮屈さがあったのだ。

「七瀬さん、カウンターに移動しようか。お腹空いたでしょ」

「とっておきの料理をお持ちしますよ」

 三門兄弟に促されてカウンター席に移ると、陣がメニューを目の前に置いてくれた。

「兄貴、新しいラガーを。七瀬さんは何にしますか?」

「でも、さっきのまだ飲みかけで……」

 テーブルを振り返ったら、ウエイターがさっさと下げにかかっていた。

「気分、切り替えましょう。俺のお勧めでよければ、勝手に注文しちゃいますけど」

「じゃあ、陣さんのお勧めでお願いします」

 七瀬をカウンターの壁際に座らせ、その隣に腰を下ろした陣が、「ホットバタード・ラム」とオーダーを通す。

「ホットバター?」

 カクテルとの取り合わせが想像できず、目を瞬かせた。

「バターにシュガー、シナモンやナツメグなんかのスパイスを入れたホットのダークラムカクテルですよ。あったまるし、スパイスが効いてるからリラックス効果もあります」

 ざわついている七瀬の気分をリラックスさせるためのチョイスなのだろう。彼の気遣いがうれしかった。

「陣さんもカクテルに詳しいんですね」

「兄貴がこんな仕事してるから、自然と色々覚えました。ところで七瀬さん、彼の勤めてる会社、どこですか」

「アストラルテックソリューションズです。それがどうかしましたか?」

「いや、ちょっと気になっただけ。アストラルテックか」

「ご存じですか?」

「IT関連で有名な会社ですしね。あ、電話だ。ちょっと失礼。――お疲れ様です、三門です」

 陣も電話のために席を離れてしまったが、ホットバタード・ラムが提供されると同時に戻って来た。

「すみません、仕事の電話でした」

「お忙しいのに、こんなことに付き合わせて本当にごめんなさい」

「いえ。俺が勝手に首を突っ込んだんですから。それに、仕事といってもちょっとしたイレギュラーの報告を受けただけですので」

 そういえば、陣は専務取締役という地位にいる役員側なのだ。細々した報告はたくさん入ってくるのだろう。

「とりあえず、お疲れ様です」

 陣がビールグラスを掲げたので、七瀬もグラスマグを両手に持って小さく乾杯する。
 カクテルに口をつけると、砂糖とバターのまろやかさが濃厚で、スパイスがほんのり香ってあたたかかった。

「おいし……」

 やさしい味のカクテルを飲んだ途端、ぽろっと涙がこぼれ落ちる。
 結局、話し合いも中断されてしまい、何もできなかったが、宗吾の言葉を改めて思い返し、とてつもない攻撃をされたのだと実感した。

 宗吾の口から吐き出された尖った言葉の一つ一つが、時間が経つにつれて心を深く抉り、傷つけてくる。
 どこまで本心なのかはわからない。売り言葉に買い言葉で、平気で傷つける言葉を使う人だから。
 でも、今後も彼と付き合い続けるというビジョンは、とうに消滅していた。
 今後も、宗吾の激しい言葉にさらされていったら、いくら七瀬が前向きであろうと努力しても水泡に帰すだけだし、それは七瀬の心身を削り取る自殺行為にも等しい。

 陣がいたから、宗吾はあんな言葉を吐いたのだろうか。いや、こちらが一人きりだったとしても、彼は強い言葉で七瀬を非難しただろう。
 さっきは陣が攻撃のほとんどを引き受けてくれたが、七瀬ひとりだったらすべてを自分だけで受け止めなければならなかった。

 今さら二人きりになんて、恐ろしくてなれない。
 もう、元には戻れないし戻りたくない。

 陣が黙ってハンカチを差し出してくれたので、うつむいたまま頭を下げると、それを借りてそっと目許を押さえた。
 あんまり泣いては、明日の早朝クラスに差し支える。そのくらいの冷静さが残っているのは陣のおかげだろう。

「七瀬さん。ひとまず、大まかな荷物だけ取りに戻ってはどうですか? そのままうちに来ればいいから」

「い、いえ。さすがにこれ以上ご迷惑をおかけすることはできません。しばらく、実家に戻ろうかと思って……」

 告白はされたものの、恋人と呼んでいいのかもわからない関係なのに、そこまで甘えるわけにはいかない。
 宗吾との関係は結局、不完全燃焼のまま決着がついていないのもあるし。

「ご実家は、どこ?」

昭島あきしまです」

「……って、青梅線? ここまで一時間以上はかかるでしょう! 早朝クラスもあるのに、一回や二回ならともかく、毎週のことなのに現実的ではないですよ。どうせまたこっちで家を探すなら、うちで一緒に暮らせばいいじゃないですか。同棲がいやなら、ルームシェアとでも思って」

 同棲という言葉に、頬に朱がさした。

「でも……それでは、あんまり……」

「宙ぶらりんのままなのが引っかかってるのはわかりますが、あそこまで言う男に、まだ七瀬さんが踏ん切りをつけられずにいるのは、正直なところもどかしいです。もっと俺に魅力があればなぁ……」

 ぼやく陣に、七瀬は涙も忘れて詰め寄った。

「えっ、陣さんは十分に魅力的な人ですよ! ただ、すごくお気持ちはうれしいのですが、あっちがだめならこっちに――って乗り換えようとしてるみたいで、それはどうなのだろうかと……」

 この話は先日もしたはずだが、いくら理屈を立てても、心情的な部分で割り切れていないのだ。
 すると、陣は顎に指をかけ、首を傾げる。

「乗り換えの何がダメなんですか? うまくいかなくなったから新しいものに換える。ごく自然な話です。ちなみに俺は乗り換えられないように努力するし、そもそも七瀬さんに飽きられない自信があるけど」

 体ごと七瀬に向き直って笑う陣だが、その笑みには純粋なやさしさだけでなく、ちょっと悪そうな一面が見え隠れしていた。思わず瞠目したほどだ。

「それに俺は、七瀬さんを泣かせたりしない」

 そう言って、七瀬の頬に残っていた涙の跡を、陣の指が拭った。

「言い直すよ。俺のところにおいで。俺の前ではやりたいことを我慢したり、隠したりしなくていいし、ずっと大事にするから」

 ずっとなんて言われたら、まるでプロポーズみたいではないか。

 でも、陣と個人的に言葉をかわすようになってから、彼は七瀬をずっと肯定し続けてくれて、苦しんでいるときに手を差し伸べてくれた。
 この人との穏やかな時間が毎日続けばいいと願った。
 怯えたり、機嫌や様子を窺ったりしなくても、心平らかに日々を送れるかもしれないと思ったから――。

「……私が傍にいたら、陣さんはうれしいと思ってくれますか?」

「当然。七瀬さんが傍にいてくれればうれしいから、こうして必死に口説いてる。七瀬さんにもそう思ってもらいたいし。七瀬さんが笑ってる顔を見るのが、俺は何より好きだから、それを毎日見る特権を俺にください」

 そう言って、陣が日なたみたいな笑顔をくれる。
 それを突っぱねる理由は、どこを探しても見当たらなかった。

「――私も、陣さんにずっと笑っていてほしいです。陣さんの笑顔、とても好きです」

 すると、彼は目を細め、心から嬉しそうな顔をしてくれた。

「今度こそ、恋人になってくれる?」

「はい……! こちらこそ、よろしくお願いします」

 七瀬もスツールを回転させて陣に向き直り、頭を下げる。
 恥ずかしくてうれしくて、でも照れくさくて、陣と目が合うだけでどきどきしてしまう。
 こんなむずかゆい空気、初めてかもしれない。
 だが。

「――あの、せっかくのポテトが冷めてしまうんですが、そろそろお出ししてもいいですか?」

 トリュフの香るフライドポテトを二人の間に置き、潤が真顔をしていた。
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