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第五話 手作り弁当の罠
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翌週の木曜日。
七瀬が昨晩のいつもどおり早朝から家を出たので、宗吾が目を覚ました頃には家はもぬけの殻だった。
洗濯物は干してあり、食卓の上のお皿には、七瀬の手作りおにぎりが三つ並んでラップがかけてある。
朝食はパン派の宗吾だが、付け合わせの目玉焼きやベーコンなどの作り置きは、冷めていて味気ないと苦情を言ったら、おにぎりを置いていくようになったのだ。
実家にいたときは、できたての食事が用意されていたのだが……。冷めたおにぎりを見ると、自分がおざなりにされているのを如実に感じる。
「こんなことなら、結婚後は実家に戻るのもいいかもしれないな」
宗吾の母、美也子は父の幼なじみだったそうだ。世田谷の地主のお嬢さまで、貞淑な妻として献身的に父を支える姿を子供の頃から見てきた。
威厳のある父をいつも陰で支え、自らがしゃしゃり出ることなく一歩下がったところで常に控えめ。家を守る良き妻であり、宗吾にとって良き母だ。
母の仕事を見れば、きっと七瀬も自分の行動を反省するだろう。
(一考の余地ありだな)
今の恵比寿のマンションは、宗吾が入社した当時、配属された支社が恵比寿だったために借りたものだ。
その後、青山の本社に異動したので、そのまま恵比寿に住み続けているが、実家は松濤で渋谷駅まで徒歩圏内である。
実家への里帰りを綿密にシミュレーションしながら出社した。
お昼になって同じ部署のメンバーが外に出払ったときだった。新卒の女性社員、大楠沙梨が宗吾の席までやってきた。
淡い栗色の巻き髪に、見栄えのいい目許のメイク、社会人として派手になりすぎないながらも華やかさを忘れないネイル。
目鼻立ちのはっきりした美人で、新卒組では圧倒的に目立つ存在だった。
宗吾が所属するデジタルイノベーション部で彼女の指導役となり、仕事を叩き込んだ。
とても優秀な女性で、一度伝えればほとんどを理解してくれるし、機転も利く。頭の回転が速いのだろう。
「これ、朝倉マネージャーに」
そう言って彼女が差し出してきたのは、ランチトート。
「ありがとう。助かる」
「本当にどうということはないので、気にしないでください。お弁当箱もせっかく買ったんですし。大したもの入ってなくて、ちょっと恥ずかしいですけど」
七瀬の弁当がなくなり、今は沙梨の手作り弁当を食べている。
――こうなった事の発端は先週の木曜日、あのカフェバー事件があった日の昼のこと。
その日は寝坊したとかで、七瀬がお弁当を作れなかったため、仕方なくコンビニ弁当を食べていたところ、いつも自席でお弁当を食べている沙梨が「今日は彼女さんのお弁当じゃないですか?」と尋ねてきたのだ。
「仕事で、弁当を作る余裕がなかったみたいで」
「彼女さん、朝早いんでしたよね。もしよかったら、私も毎朝作ってますから、朝倉マネージャーの分も一緒に作ってきましょうか?」
沙梨とは研修時から常に一緒にいるので、プライベートの話題もふつうに交わす仲だ。もちろん宗吾にヨガ講師をしている恋人がいて、同棲していることも知っている。
「いや、さすがにそれは――」
お弁当の提案は、立場的にも遠慮したのだ。でも、沙梨は笑顔を向けてくる。
「じゃあ、仕事だと割り切りましょうよ。毎日、お弁当を作るから、材料費だけください。それなら彼女さんも負担が減って助かるでしょう? 一食三百円でいいですよ」
「本気で……?」
「お弁当を一つ作るのも二つ作るのも、そんなに変わらないですよ! 後で、そこにある雑貨屋さんでお弁当箱を買っていきません?」
そういったやり取りがあって、退勤時に近所の雑貨店にふたりで寄り、宗吾が選んだ弁当箱を彼女に託したのである。
あのカフェバーに七瀬を呼び出したのは、その帰り道だった。
別に後ろめたかったわけではなく、七瀬を労い、今後は弁当不要であることを伝えようと思っただけなのだ。
しかし、沙梨のすらっとしたパンツスーツにフレアヒール、カシミヤのロングコートといったデキる女の通勤スタイルを見た直後に、七瀬のだぼっとしたエスクック風の服装や、大きなリュック、ヨガマットを担ぐ姿を見比べてもやもやした。
その後も、七瀬の無反省な態度にずっと憤慨していたのだが、沙梨が七瀬を気遣って提案をしてくれたこと、店を出た帰り道に沙梨から『明日のお弁当の材料』と言って、SNSに画像が送られてきたことで、沙梨の顔を立てるために溜飲を下げたのだ。
その沙梨の厚意に乗っかって、七瀬はさっそく翌朝から冷めたおにぎりだけを置いて出かけてしまった。
自分のやりたいことだけをやる七瀬の姿勢は、自分に相応しくないのではないだろうか。ふと、そんな思いが頭をよぎる。
そもそも七瀬はちゃんとした会社に勤めたこともなく、いつまで続けられるかわからない個人事業主という不安定な働き方をしている。
もしかしたら、将来的に宗吾の稼ぎを当てにしているのだろうか。
むろん、結婚したら妻を養うのは当然だと思っているが、あんなフラフラした仕事にほとんどのリソースを割き、家事をおろそかにする妻は、果たして養う価値があるのだろうか。
――そんなことを考えながら、お弁当を差し出してくれた沙梨を見た。
仕事の苦労を分かってくれる上で、こうして宗吾をフォローしてくれる彼女がひどくいじらしく、まぶしく見えた。
フロア内の休憩所に移動し、沙梨にペットボトルのドリンクをおごるとソファ席に差し向かいで座り、一緒に弁当を食べる。
その間の会話も、ずっと仕事のことだ。
宗吾の携わるプロジェクトは、親会社の大手ゼネコン、ミライリアルエステート建設の手がける不動産物件における、スマートシティプロジェクトの企画・実行だ。
もちろん、七瀬に説明したところで一ミリも理解されない。
「十三時半に出発できるように、プレゼン資料は準備しておきました。今日はミライリアルエステートの営業担当も同席するそうなので――」
食事をしながらも、午後からの仕事の確認に余念がない。
「その段取りで問題ない。さすが大楠さんはよく気が利くね。どこかの誰かと大違いだ」
思わずぼやいたら、沙梨はくすっとかわいらしく笑った。
「彼女さんもお仕事で大変なんですよ。でも、業種が違う仕事だと、生活を合わせるだけで一苦労ですね。お休みもあまりかぶらないんでしたっけ?」
「週末は、たいてい一人で置いてけぼり」
肩をすくめて苦笑したら、お弁当箱の蓋を閉めた沙理が身を乗り出してきた。
「週末も彼女さん、お仕事なんですか?」
「土日の方が生徒が多いらしいからね。日曜は休みにさせてるけど、土曜は一日いないよ」
すると、沙梨がテーブルに身を乗り出してきた。
「でしたら朝倉さん、お願いがあります! 再来週、兄の誕生日なんですが、何をあげればいいか迷ってるんです。よければ来週の土曜日、一緒に買い物に行ってくれませんか? 彼女さんがお仕事でいないのなら」
「俺と?」
「兄と朝倉さん、同い年なんです。兄も会社勤めだし、もらってうれしい物のアドバイスが欲しいです。お昼ごちそうしますから! お忙しいですか……?」
一瞬迷ったものの、どうせ七瀬は仕事で十九時くらいまで帰ってこないから、昼間はいくらでも時間がある。一人手持無沙汰で過ごすよりは有意義だろう。
「わかった、いいよ」
「ほんとですか!? やったぁ! お仕事、張り切ります!」
こうして来週末の約束を取り付け、その日は新宿のクライアントの事務所へ出かけた。
七瀬が昨晩のいつもどおり早朝から家を出たので、宗吾が目を覚ました頃には家はもぬけの殻だった。
洗濯物は干してあり、食卓の上のお皿には、七瀬の手作りおにぎりが三つ並んでラップがかけてある。
朝食はパン派の宗吾だが、付け合わせの目玉焼きやベーコンなどの作り置きは、冷めていて味気ないと苦情を言ったら、おにぎりを置いていくようになったのだ。
実家にいたときは、できたての食事が用意されていたのだが……。冷めたおにぎりを見ると、自分がおざなりにされているのを如実に感じる。
「こんなことなら、結婚後は実家に戻るのもいいかもしれないな」
宗吾の母、美也子は父の幼なじみだったそうだ。世田谷の地主のお嬢さまで、貞淑な妻として献身的に父を支える姿を子供の頃から見てきた。
威厳のある父をいつも陰で支え、自らがしゃしゃり出ることなく一歩下がったところで常に控えめ。家を守る良き妻であり、宗吾にとって良き母だ。
母の仕事を見れば、きっと七瀬も自分の行動を反省するだろう。
(一考の余地ありだな)
今の恵比寿のマンションは、宗吾が入社した当時、配属された支社が恵比寿だったために借りたものだ。
その後、青山の本社に異動したので、そのまま恵比寿に住み続けているが、実家は松濤で渋谷駅まで徒歩圏内である。
実家への里帰りを綿密にシミュレーションしながら出社した。
お昼になって同じ部署のメンバーが外に出払ったときだった。新卒の女性社員、大楠沙梨が宗吾の席までやってきた。
淡い栗色の巻き髪に、見栄えのいい目許のメイク、社会人として派手になりすぎないながらも華やかさを忘れないネイル。
目鼻立ちのはっきりした美人で、新卒組では圧倒的に目立つ存在だった。
宗吾が所属するデジタルイノベーション部で彼女の指導役となり、仕事を叩き込んだ。
とても優秀な女性で、一度伝えればほとんどを理解してくれるし、機転も利く。頭の回転が速いのだろう。
「これ、朝倉マネージャーに」
そう言って彼女が差し出してきたのは、ランチトート。
「ありがとう。助かる」
「本当にどうということはないので、気にしないでください。お弁当箱もせっかく買ったんですし。大したもの入ってなくて、ちょっと恥ずかしいですけど」
七瀬の弁当がなくなり、今は沙梨の手作り弁当を食べている。
――こうなった事の発端は先週の木曜日、あのカフェバー事件があった日の昼のこと。
その日は寝坊したとかで、七瀬がお弁当を作れなかったため、仕方なくコンビニ弁当を食べていたところ、いつも自席でお弁当を食べている沙梨が「今日は彼女さんのお弁当じゃないですか?」と尋ねてきたのだ。
「仕事で、弁当を作る余裕がなかったみたいで」
「彼女さん、朝早いんでしたよね。もしよかったら、私も毎朝作ってますから、朝倉マネージャーの分も一緒に作ってきましょうか?」
沙梨とは研修時から常に一緒にいるので、プライベートの話題もふつうに交わす仲だ。もちろん宗吾にヨガ講師をしている恋人がいて、同棲していることも知っている。
「いや、さすがにそれは――」
お弁当の提案は、立場的にも遠慮したのだ。でも、沙梨は笑顔を向けてくる。
「じゃあ、仕事だと割り切りましょうよ。毎日、お弁当を作るから、材料費だけください。それなら彼女さんも負担が減って助かるでしょう? 一食三百円でいいですよ」
「本気で……?」
「お弁当を一つ作るのも二つ作るのも、そんなに変わらないですよ! 後で、そこにある雑貨屋さんでお弁当箱を買っていきません?」
そういったやり取りがあって、退勤時に近所の雑貨店にふたりで寄り、宗吾が選んだ弁当箱を彼女に託したのである。
あのカフェバーに七瀬を呼び出したのは、その帰り道だった。
別に後ろめたかったわけではなく、七瀬を労い、今後は弁当不要であることを伝えようと思っただけなのだ。
しかし、沙梨のすらっとしたパンツスーツにフレアヒール、カシミヤのロングコートといったデキる女の通勤スタイルを見た直後に、七瀬のだぼっとしたエスクック風の服装や、大きなリュック、ヨガマットを担ぐ姿を見比べてもやもやした。
その後も、七瀬の無反省な態度にずっと憤慨していたのだが、沙梨が七瀬を気遣って提案をしてくれたこと、店を出た帰り道に沙梨から『明日のお弁当の材料』と言って、SNSに画像が送られてきたことで、沙梨の顔を立てるために溜飲を下げたのだ。
その沙梨の厚意に乗っかって、七瀬はさっそく翌朝から冷めたおにぎりだけを置いて出かけてしまった。
自分のやりたいことだけをやる七瀬の姿勢は、自分に相応しくないのではないだろうか。ふと、そんな思いが頭をよぎる。
そもそも七瀬はちゃんとした会社に勤めたこともなく、いつまで続けられるかわからない個人事業主という不安定な働き方をしている。
もしかしたら、将来的に宗吾の稼ぎを当てにしているのだろうか。
むろん、結婚したら妻を養うのは当然だと思っているが、あんなフラフラした仕事にほとんどのリソースを割き、家事をおろそかにする妻は、果たして養う価値があるのだろうか。
――そんなことを考えながら、お弁当を差し出してくれた沙梨を見た。
仕事の苦労を分かってくれる上で、こうして宗吾をフォローしてくれる彼女がひどくいじらしく、まぶしく見えた。
フロア内の休憩所に移動し、沙梨にペットボトルのドリンクをおごるとソファ席に差し向かいで座り、一緒に弁当を食べる。
その間の会話も、ずっと仕事のことだ。
宗吾の携わるプロジェクトは、親会社の大手ゼネコン、ミライリアルエステート建設の手がける不動産物件における、スマートシティプロジェクトの企画・実行だ。
もちろん、七瀬に説明したところで一ミリも理解されない。
「十三時半に出発できるように、プレゼン資料は準備しておきました。今日はミライリアルエステートの営業担当も同席するそうなので――」
食事をしながらも、午後からの仕事の確認に余念がない。
「その段取りで問題ない。さすが大楠さんはよく気が利くね。どこかの誰かと大違いだ」
思わずぼやいたら、沙梨はくすっとかわいらしく笑った。
「彼女さんもお仕事で大変なんですよ。でも、業種が違う仕事だと、生活を合わせるだけで一苦労ですね。お休みもあまりかぶらないんでしたっけ?」
「週末は、たいてい一人で置いてけぼり」
肩をすくめて苦笑したら、お弁当箱の蓋を閉めた沙理が身を乗り出してきた。
「週末も彼女さん、お仕事なんですか?」
「土日の方が生徒が多いらしいからね。日曜は休みにさせてるけど、土曜は一日いないよ」
すると、沙梨がテーブルに身を乗り出してきた。
「でしたら朝倉さん、お願いがあります! 再来週、兄の誕生日なんですが、何をあげればいいか迷ってるんです。よければ来週の土曜日、一緒に買い物に行ってくれませんか? 彼女さんがお仕事でいないのなら」
「俺と?」
「兄と朝倉さん、同い年なんです。兄も会社勤めだし、もらってうれしい物のアドバイスが欲しいです。お昼ごちそうしますから! お忙しいですか……?」
一瞬迷ったものの、どうせ七瀬は仕事で十九時くらいまで帰ってこないから、昼間はいくらでも時間がある。一人手持無沙汰で過ごすよりは有意義だろう。
「わかった、いいよ」
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