ダイヤモンド・ライト

須賀雅木

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第一章 王様と暗殺者

-8- モレンド、パイライト

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 しとしとと窓辺を濡らす雨。
 2月の半ばにしては暖かな曇り空は、やがて冷たい雨が降らせていた。
 木の葉に雨がぶつかって弾ける音、滴る水が落ちてまた飛び散る音。開け放たれた窓の枠に頬杖を突きながら、アレキサンドラはぼんやりと濡れた森を眺めていた。湿った風が緩やかに吹いている。その横顔は何処か物憂げで、跳ねた水滴で白い肌が少し濡れている。

「……あ」

 厚い雲に隠され月明かりの差し込まない暗い森に、一つの人影を視認する。途端に、重苦しかった少女の表情に光が宿る。ぶわわ、と花が咲いたように表情を綻ばせて、アレキサンドラは暖炉の前で温めていたものを手に取った。
 額に張り付く前髪から垂れる雫に表情を歪めながら、音を立てないよう窓に足を掛ける――ところで、少女が嬉しそうに駆け寄ってくるのが目に入った。フードを脱いだアルマは焦ったように目を見開きながら、湿ってその重さを増したマフラーをするりと外す。

「アルマ!」
「……アレ、キちょっと待て、今濡れてて……その、抱き締めたりは」
「はい!」
「っ、うわふ」

 ふかふか。不意に引き寄せられてしゃがみ込むと、顔に柔らかなものが押し当てられる。温かくて清潔なタオルで彼の頭を包み込むと、わしゃわしゃと少し荒っぽく水気を拭き取った。戸惑ったようにされるがままの彼は大型犬みたいで可愛くて、タオルを被せて額をくっつけた。

「ふふ、水も滴る良い男ってね」
「……」

 本当、突拍子もない。至近距離にある綺麗な顔から、照れ隠しか呆れてか、彼は都合悪そうに目を逸らした。柔らかくて温かくて、優しい匂いがする。真っ白なタオルで顔をごしごしと拭われながら、アレキサンドラの楽しそうな笑顔が視界の端に映る。
 濡れた外套を剥ぎ取られると、暖炉の前に移動したソファに押し付けられる。暖かさが肌に沁みてじんわりするのを感じていると、ごと、と重たい音がして、分厚いマグカップが差し出される。手際が良いな。

「ねえ、手袋も! 濡れてるでしょ」
「……これはいい」
「そう? あ、はいこれ! 今日はね、ホットチョコだよ。甘いの大丈夫?」
「ああ、……ありがとう」

 甘い香りのする茶色い水面にマシュマロを三つ落とす。とろりと溶けて漂う白い雲に、小さく手を合わせてマグカップに口を付けた。口から喉まで支配する優しい甘さに、思わず甘い溜息が出る。熱いくらいの温度が、雨に冷やされた身体の芯に沁みてゆくようだ。

「ね、たまにはいいでしょ? あまーいのも」
「そうだな……うん、美味しい」
「えへへ、マシュマロもう一個あげる!」

 アルマの穏やかな笑みを見て、隣に座ったアレキサンドラはにかっと白い歯を見せる。口にマシュマロを押し付けられるので、困ったように微笑みながら唇に挟んで受け取った。
ぎゅう、と心臓が痛む。いつもの罪悪感とは違った痛みを誤魔化したくて、彼は再びマグカップと向き合った。
 暖炉の前の椅子には、焦げないように気を付けてマントとマフラーが掛かっている。アレキサンドラは残ったマシュマロを頬張りった。口の中で溶ける甘さに満足げに頬を染めながら、彼の身体に凭れかかる。

「……今日はこれをやろうと思って」
「うん? 何これ」
「アレキの知らなそうなカードゲーム」

 中身の空になったマグカップをテーブルにおいて、アルマはウエストポーチから小さな小箱を取り出した。中には色とりどりのカードが詰まっている。どうやら先日の大敗北を随分根に持っているらしい。

「あ、これ知ってるよ! 子供に流行ってるやつでしょ」
「……はあ……お前、本当に何でも知ってるんだな」
「やったことないし、ルールも知らないけどね。初心者だよ!」

 彼女の嬉しそうな返答を聞くなり、動物の描かれたカードを混ぜながら、アルマは眉間に皺を寄せた。ルールの説明を眺めて、アレキサンドラはるんるんと鼻歌を歌いながら揺れる。
 彼は決して負けず嫌いというわけではない。負けっぱなしではいられないというのも一つの理由だが――彼自身、その理由はアレキサンドラを前にして言えるわけないのだが――あの日の彼女の笑顔が、あまりにも楽しそうだったから。

「はい! クマ! 水の九!」
「炎の七、女狐」
「よし! 属性、数字合わせてもボクの勝ちだね」
「……『敗北時、相手手札に次ターン倒れる呪いを付与』」
「あっ忘れてた……」

 カードについた数字が炎・水・風の三属性の相性で変化し、数字が大きければ勝ち、先に手札が無くなった方が負け、という簡単なゲーム。しかし、敗北した動物にはそれぞれ効果が発生し、勝敗は一筋縄ではいかない。戦略かつ運が左右するのである。

「うーん……えいっ、水の十! 狼!」
「風の五、ネコ魔法使い。『次ターンの数字の力関係を逆転』」
「ううーん……」

 手札の残りは、互いに二枚。残りの手札と睨めっこをしながら、アレキサンドラは首を捻った。水は炎に強く、炎は風に強く、風は水に強い……。顔を上げると、すでに戦略が決まっているのか、余裕の表情でカードを眺めている彼の顔が見えた。

「アルマってさ、綺麗な顔だよね」
「……は? 馬鹿にしてんのか」
「してないよしてないよ! だって肌も綺麗だし、睫毛も長いし、目も綺麗だもん」
「顔の綺麗な奴に顔のこと言われると腹立つ……」

 ふと、思わず口から出た言葉に、アルマは不快そうに眉間に皺を寄せて睨んできた。声色にびく、と肩を震わせて弁明すると、彼は面倒臭そうに溜息を吐く。
 普段よりワントーン低い彼の声に、少女の整った顔は不安げに少し歪む。長い睫毛が普段よりも瞬いて、薄紅の唇の間から小さく声が漏れている。真っ赤な瞳は、何度見ても深紅の宝石が煌めいているようで。そんな顔で何を言われても、皮肉にしか聞こえないのに。

「嫌だったなら謝るよ、ごめんね」
「……いや、別に……そんな、気にするな。それより、ほら早く次のターン」
「そうだった、えっと、はい!」

 ……アレキサンドラが人を傷つけるような皮肉を言うわけないのに。しょんぼりと肩を落とす彼女に、アルマは慌てて話を逸らす。……というか、本筋に戻した。
 どうしてか、彼は自分の容姿に対する評価に極端な不快感を覚えていた。自分の顔は、決して綺麗などではない。
 毎朝鏡の前に立つ度に、胸の中で燻る何かが、醜い自分をじっと見ているような気がして。
ふと、差し出したカードから視線を移して顔を上げると、彼女は驚いたような困ったような、何か言いたげな顔でアルマを見ていた。

「……なんだ」
「えっ、と……アルマ、それでいいの?」
「?」
「大きい数字の方が弱いんじゃないの?」

 もう一度、視線を落とす。夜明けの空の色をしたユニコーンが、じっとこちらを見ていた。水滴の中に刻まれている「十一」の数字、彼女の炎の「十」――彼は何が起こっているかを全て理解した。

「お……っお前……! 謀ったな!」
「ええ……」
「今の話も全部、俺の意識をゲームから逸らす為だったって訳か……」
「もう! 違うって! 本心だもん……それよりほら、カードに指示書いてあるから! ダイス振って!」

 ぶんぶんと首を振る彼女を恨めしげに睨んで、わざとらしく溜息を吐きながらダイスを手に取る。角の丸い正六面体を手の中でころころと転がして、雑にテーブルに放った。
 敗れたカードに書かれた指示は「六が出れば相手二体を道連れにする」。残りの手札は、先に出すはずだった弱い数字しか残っていない。六以外の数字が出ればその時点で敗北は確定したようなものだ。今の彼に、六分の一を信じる気力は無かった。
 賽子は転がる。六つの数字を不規則に見せながら、不安定にふらふらと転がる。動きを止めたダイスの数字が二人の瞳に映ったその瞬間、騒がしかった声が一瞬静まりかえった。

「……ろ、六……」
「……二体道連れ、……えっと」
「……っ……勝った!」

 戸惑いの静寂を破ったのは、彼の歓喜の声だった。待ち望んでいた勝利に昂った彼の声は、今までに聞いたことのないくらい感情的で、心底嬉しそうに聞こえた。
 ぐっと拳を握りしめる様子は、控えめだが喜びを抑えきれていない。彼の珍しい笑顔に暫く唖然としていたアレキサンドラだが、自分の敗北を理解するなり、悔しそうにその表情が歪む。

「勝った……! ギリギリ……」
「ぐむ……アルマ、もう一回!」
「はは、いいよ、受けて立つ」

 いつものように膨れっ面で、悔しそうに拳を突き上げる彼女に、アルマは挑発的に微笑んだ。得意げなその表情はいつもより幾分か子供っぽい。
悔しいけど、その十倍くらい楽しい。膨れていた頬をいつの間にか萎ませて、アレキサンドラの表情は少年のような笑顔に塗り替えられていた。

「そういえば、明日からちょっと遠出するんだよね」
「ほう」
「出張だよ。視察と、遠方の貴族との会談とかでね」

 ばらばらにしたカードを掻き集めながら、アレキサンドラはふと思い出したように呟いた。相槌を打つ彼を見つめながら、集めたカードをトントンと机で整える。

「だからね、アルマに会えないんだよ。えっと、四、五、六……七日後かな、次に会えるの」
「はあ」
「ね、寂しくない? 六日も会えないんだよ。アルマ」
「……いや、別に」

 指を折って数えながら、少女は侘しそうに顔を傾ける。覗き込んでくる彼女から目を逸らしながら素っ気なく答えると、しょんぼりとつまらなそうに俯いた。青年の顔が苦い表情になる。どうも上手く言えない。口籠もりながら、漸く喉から出た声は小さかった。

「別に……六日なんて、すぐ過ぎるだろ」

 絞り出した言葉はぶっきらぼうで、だけど何処か優しい音だった。カードを配る少女の頬が、ぶわ、とほんのり薄紅色に色づく。嬉しそうに表情を緩めて、いつもの眩しい笑みが花開く。

「……そうかなあ、えへ……じゃあ、今日は会えない分いっぱい遊ぶ! アルマ、次はぜーったい勝つよ!」
「ふふ、俺も負けるつもりないよ」

 アレキサンドラの笑顔に、アルマは穏やかな微笑みで返した。その晩の密会はいつもより騒がしくて、いつもより楽しかった。


♦♦♦♦

 買い物を終え、安物のコートを羽織った青年は画材屋を後にした。薄雲の隙間からは、微かに陽の光が覗いている。湿った冷たい風に、アルマは首元のマフラーに顔を埋めた。足取りは決して真っ直ぐではない。彼は無目的に街を歩いていた。

「ああ、そこのお兄さん! 今、若い人がみーんなこの香水買ってくの。お兄さんもどう? 安くしとくよ」
「……ああ、今は結構です」

 城下から少し離れた市場は、華やかな城下町とはまた違った賑わいを見せていた。声を掛けてきた屋台の店主に、歩みを緩めて小さく頭を下げると、彼はまたぼんやりと足を進める。
 やることが無かった。一人でいるのなら、尚更のこと。普段はアレキサンドラと何をしよう、などと考えていたが、その目的が無ければ何もない。空っぽの身体が、風に煽られてふらふらと彷徨っているよう。実に空虚な人間だ。

「買って~! ママぁ、買ってよお」
「ダメ。この間買ったじゃない、新しいおもちゃ」
「前のは違うの! 今はこれなの、皆これ持ってるの!」

 玩具屋の扉を半ば乱暴に開けて、母親らしき女性が少年を引き摺って通り過ぎてゆく。少年の悲鳴を微笑ましく見送る者、迷惑そうに表情を歪める者。ふと、アルマは彼の指差すショーウィンドウへ歩み寄った。

「……艦船模型か」

 両手で持てるくらいの大きさの軍艦の模型。艶やかにグレーと赤、白で塗装されたそれは、ガラス越しにも大きな存在感を放っている。
 アレキは確か、軍艦が好きだとか言ってたな。こういうの、どうなんだろうか……好きなんだろうか――と考えたところで、アルマはハッとして首を振った。
 せっかく彼女と会えない間なのだ、彼女のことを考えないでいよう。そう思っていた矢先にこれだ――まあ、元は暗殺対象だったし、考えないというのも難しい話だが。
 どうしても、何を見ても、アレキサンドラの笑顔が脳裏に浮かんでくる。胸が痛む――そしてすぐに、それが嫌悪感と罪悪感であると気付くのだ。

「……ん」

 ガラス越しの軍艦を不愉快そうに眺める彼の目に、ふとそれは映り込む。子供向けの小さな絵本だ。可愛らしい……とは言い難い、何処か不気味な絵の上に、何となく聞き覚えのある文字が刻まれている。

「『アルマースの狼』……アレキの言ってた本か」

 並んで飾られている絵本の一冊――髭を生やした男が銀色の狼と向き合っているその絵本は、アレキサンドラが大事そうに抱えていた物と同じ題名だ。尤も、彼女が持っていたものは、もっと美麗で豪華絢爛に色付けられていたが。
 アルマは、その側に置かれた値札に視線を下ろす。決して安いとは言えないが、手に入れようと思えば出来る金額である。
 彼は決して金に困っている訳ではなかった。但し、「綺麗な金」とは言い難かった。懐の中にあるのは、暗殺者が嘗て命を奪った者たちから略奪したもの。魂を集めるため、生きるために奪ったものだ。
 だからこそ、自らの罪を赦さないアルマはそれらを使う度に罪悪感に苛まれているのだが。

「……まあ、自分の名前の由来くらい、知っておいた方が良いだろ」

 苦い顔で、彼は玩具屋のドアを押し開ける。からんからん、と薄っぺらいベルの鳴る音が響いた。

 喫茶店の奥の方、いつもスケッチの為に使う人目に付きにくい席に腰を下ろして、アルマは先程購入した新聞紙を広げる。芳しい湯気の立ち昇るコーヒーに角砂糖を二つとミルクを少々投入して、血色の悪い唇にカップを寄せる。
 一面にでかでかとアレキサンドラの載った新聞紙に隠して、アレキサンドラのお気に入りの絵本のページを捲る。程よい苦みと甘さが喉を通過する。もう一口、湯気立つコーヒーカップに口を付けて、灰色の瞳は瞬きを伴って左から右へ、左から右へと動いていた。

『昔々、あるところに王様がいました』――ありふれた一文から物語は始まる。とても賢く、民から愛された王様には一人の友人がいた。それが、「アルマース」、ダイヤモンドの瞳を持つ狼。

「……ダイヤモンドの瞳……」

 アルマースは夜に訪れる。アルマースは王様に沢山の知恵を与え、王様もまた、アルマースに知らないものや見たことの無いものを見せた。狼と王様は、毎晩楽しく語り合った。それはそれは、楽しい時間だったことだろう。
だが、それを許せぬ者がいた。

「……」

 お后様は、王様が毎晩アルマースと楽しそうにしているのを快く思わなかった。美しいお后様は、自分を差し置いて王様を誑かす薄汚い獣を許せなかった。
 ある夜、お后様は兵士を呼び、王様の目の前でアルマースを撃ち殺してしまった。

「……普通、殺される狼の名前、人に付けるか……?」

 友の遺体を前に、王様は深く悲しんだ。それはそれは深く、冷たい悲しみだった。しかし、王様は立ち止まらなかった。悲しみに沈み続けることを、アルマースは望まないと思ったからだ。
 王様はお后様を許した。そして、王様は親友の死を背負って、民の前に立ち続けたのでした――

「……なるほどな」

 王様の後ろ姿が大きく描かれたページを閉じて、アルマは小さく呟いた。まだ温かいカップを持ち上げ、一口飲み下す。
 納得がいく――と言うと微妙だが……殺されてるし。まあ、アレキがこの名を付けた意味は何となく分かった。
ある日、闇夜に現れた自分は、彼女にとって「アルマース」だったのだろう。狼がどことなく自分と被って、なんだか気恥ずかしい。
ふと、窓ガラスの向こうの街並みに視線を移す。荷物を抱えた親子が、よれよれの外套を羽織った老人が、視線の先を流れてゆく。ぼんやりと眺めるガラス越しの世界はいたって平穏で、まるで自分がその一部になっているような気さえする。
 コーヒーを一口飲んで、漸く半分になったカップをテーブルに置く。何かを思いついたかのように、アルマは目を細めた。新聞紙に隠れた彼の口元は、穏やかに緩んでいた。


「……よし」

 張り詰めた空気から漸く解放され、昼間に買った新聞紙の上に画用紙を乗せて息を吐いた。バケツ代わりのコップに絵筆を付けると、凝り固まった身体をぐい、と伸ばす。
 彼は数週おきに宿を変える。長居して不審がられない為だ。今回の宿は、隣人が静かで居心地が良い……とは言え、安宿の床はギイギイと軋み、天井には蜘蛛の巣が張っているのだが。
 床に置いたランタンの灯がゆらゆらと揺れる。揺らめく橙色を映した瞳は満足げで、らしくもなく口元は緩んでいる。白地に色鉛筆と絵の具で彩られた五枚の紙を眺めていると、ふと黒い塊が視界に飛び込んできた。

「あ、こら、レンゲ! それまだ乾いてな、あー……」

 ふらりと現れた子猫は、軽やかに部屋を跳ね回り、ぴちゃりと足裏の冷たい感覚に驚いて更に暴れ回る。咄嗟に叫んだ声は、届かずに途切れて諦めの色に変わった。

「……まあ、仕方ないけど……ほら、大人しくしなさい」

 捕らえた黒猫を抱き上げ、彼はその前足に付いた黒い絵の具をタオルで拭き取ってやる。画用紙に刻まれたレンゲの可愛い刻印に、アルマは呆れたように溜息を吐いた。
 移動した先の宿にも、何故か現れるか弱そうな子猫。最近はもう、旅の同伴者とも言えるくらいだ。ようやく落ち着いた猫は、にゃあ、と彼の胡坐の間で丸くなる。
 静かな夜。アレキサンドラに会えなくなって、もう三日が経つ。まるで心の中から何かが抜け落ちたような気がして、それを埋めるために彼は只管絵を描いていた。それに、筆を握っている間は夢中で、あまり彼女のことを考えずに済むし。
 乾いた画用紙を片付けて、硬いベッドに横になる。ふと、アレキサンドラの笑顔が頭を過った。目を閉じると、瞼の裏に遠くの地で奔走する彼女の姿が映る。
 寂しい、のか? これは。その問いを反芻して自己嫌悪に陥るよりも先に、その問いの答えを思いつくよりも先に、彼は睡眠薬によって齎された微睡みに飲み込まれていった。


♦♦♦♦

 静かな夜だった。
 尿意に襲われ少年が目を覚ました時、既に時刻は丑の刻を回っていただろう。屋敷には静寂が広がり、穏やかな風に草木が擦れ合う音が心地良い。大きな欠伸を一つ。
 少年は用を足して、ぼんやりと厠から自室への廊下を歩いていた。足を踏み出すたびに、床板はギシ、と不気味な声で鳴く。それも、秋の虫たちが騒ぐ音と合わさると、何処か趣深く聞こえるものだ。
 こんなに静まり返っていると、一つ一つの音がまるで辺りに響き渡っているかのよう。少し怖くて、少し面白い。耳を澄ませば、草陰で小動物が駆ける音、蝙蝠が羽ばたく音、遠くに鳥の鳴き声まで聞き取れる。

「あっ」

 それは、静まり返っていたので、少年には辺りに響き渡っているかのように聞こえた。悲鳴のような、決して意図して出した訳ではないような、人の声。女の人の声。厠へ向かう途中には聞こえなかった筈だ。頻りに聞こえてくる。
 少年は一瞬血の気が引いたように目を見開き、肌が粟立つのを感じた。身体を強張らせ、歩みの速度を上げる。
 怖い、早く部屋に戻ってしまおう……いや、誰かに知らせた方が良いだろうか。とにかく、先に部屋に――部屋を目視できるまで戻ったところで、彼はその声が近づいていることを認めた。そして、それを誰かに伝える必要が無いことを察した。

「あっ、ああっ」

 兄の部屋にぼんやりと明かりが点いている。自室の隣だが、眠かったし背を向けていて気が付かなかった。心臓の音がする。静まり返っていたので、破裂しそうな程早く刻まれる鼓動が、辺りに響き渡っているような気がした。
 少年は息を殺して、音を立てないように足を進める。部屋に向かっていた筈の足は、自室の前で止まらなかった――否、止められなかった。いけないのだと分かっていても、引っ張られるように足は隣室へ向かってしまう。
 声はそこへ近づくに連れて明瞭になり、薄い障子越しに部屋の奥からはその息遣いすら聞こえてきた。
 いけないことだと分かっていた。心臓が変な脈を刻んでいた。障子の開いた隙間から光が漏れている。少年は四つん這いになって身を隠しながら、恐る恐る声のする部屋を覗き込んだ。

「!」

 その瞬間、少年はまるで時が止まったかのように錯覚した。余りにも、その光景が美しかったからだ。
 白くて長い指に、さらさらと河のように流れる黒髪が絡まっていた。はだけた着物の下には、傷一つ無い白肌が橙色の灯りに照らされて、眩しいくらいに輝いて見えた。乱雑に剥がされた衣は、紙の上に絵の具を散らしたかのように鮮やかだった。
 紫苑色の細やかな髪の隙間から、銀色の瞳が覗いていた。充血した目は、身体の下の柔らかそうな肢体を見つめていた。紅を引いたみたいな唐紅の唇から息が漏れていた。笑っている。
 二つの身体が揺れている。兄の愉しそうな笑い声に合わせて、女は悲鳴のような、甲高く潰れた声で泣いていた。泣きながら、楽しそうに笑っていた。
 それは余りに綺麗で、美しくて、美しくて――酷く不快な気持ちになった。そこに居るのは兄なのに、ただの獣みたいで、それでも兄は美しくて、気持ち悪くなった。
 欲望に抗えないで、只管本能に動かされているみたいで。込み上げてくる吐き気を飲み込む。自分は「ああは」なりたくない。少年はぎゅ、と寝巻の裾を握り締めた
 時、銀色の瞳がこちらを見ていた。

「っ、ぃ」

 綺麗な顔が、こちらを見ていた。美しい顔が、こちらを見ていた。気づいたんだ、僕が見てしまったこと。美しい顔は、笑ったままだった。
 身体が動かない。息が出来ない。早く戻らないと。脚を動かしている筈なのに、目の前の景色は変わらない。

「っ、……っ、……!」

 綺麗な顔が見ている、こちらを、美しい顔が、こちらを、美しい顔が見、てこち、ら、を見て綺、麗な顔がを見て、こ、ちらをこち、らを美しい綺麗な顔が見てこちらを見こちらを美しい顔がこ


♦♦♦♦


「っが……!」

 目を開けたが、息が出来なかった。重い。鼻の上を覆う生暖かいものを退けて、アルマは飛び起きた。大きく息を吸って吐いて、胸いっぱいに行き渡った空気の冷たさに、彼はここが現実であることを確認した。
 顔の上でのんびりと寝ていた犯人は、動転している彼の指をぺろぺろと舐める。漸く落ち着いた呼吸で、彼は小さな黒猫を抱きかかえた。心臓は煩いくらいに爆音でリズムを刻んでいる。

「……レンゲ、人が寝てる時に、顔に乗ったら駄目。……まあ、今回は若干助かったけど」

 子猫を胸に抱くと、アルマは溜息を吐きながら言葉も通じないだろう小動物を諫める。同意を表すようなにゃあ、の声の後、間髪入れずにレンゲは彼の頬を小さく舐める。何とも言えない顔になる。
 久しぶりに、はっきりとした夢を見た――それは嘗ての記憶だが。以前、菊之助を思い出したあの夢のように。しかし、今のは前のより鮮明で、明瞭で――

「……あれは、兄上の……」

 ――綺麗な顔が見えた。


♦♦♦♦

 古びた街並み――それは決して廃れているわけではなく、どこか懐かしさを感じさせる。
 レンガ造りの家々が立ち並ぶ通りを眺めて、アレキサンドラは少し表情を緩めた。しかし、安堵の時は一瞬だ。後ろから聞こえてくる険しい足音に表情を引き締めると、少女の姿は屈強な兵士達に隠された。

「陛下、どうぞこちらもご覧になってください」
「ありがとうございます。わあ! 繊細な色使い……細部まで作り込まれていて、まるで宝石のようですね。ほら、姉上! 見てください」
「あらあら! 素敵ねえ! この花弁の所、光に翳すと映し出される色が美しいわ」

 アネモネを象ったガラス細工を手にし、アレキサンドラは驚嘆の声を上げた。その声色は一瞬子供っぽく上擦っていたが、紡がれる言葉は落ち着いている。彼女から受け取ったナターシャもまた、うっとりとガラスの花を眺めていた。
 一通り店の中と工房を見て回って、彼女らは店を後にする。大通りの店の前には、数多の人が押し寄せていた。扉を開けた先、兵士たちが必死の形相で民衆を抑えている姿に、少女は困ったように微笑む。

「アレクセイ陛下ー! どうか我々に更なる発展を齎して……ってえ!」
「ちょっと! 陛下のお顔が見えないわ! どいて!」
「おい! これ以上陛下にお近づきになるな! このロープから身を乗り出すな!」
「み、見えねえ……うわっ、押すなよ! 危ねえじゃ……うわあああ! へ、陛下がこちらにお手を振ってくださったぞ!」

 押し寄せる人々に優しく微笑みかけ、アレキサンドラは顔の傍で手を振った。一斉に湧き上がる民に、兵士たちの表情から血の気が引き、歓声と悲鳴がアンサンブルを奏でる。
 事前に張り巡らされたロープが切れてしまいそうな程に熱狂する人々。ここは辺境の街、十数年に一度の王の来訪に、町中の人々はその御尊顔を拝みに大通りに押し掛けるのだ。

「セレス、次の予定は?」
「この先のレース編み細工の店を訪問する予定です。その後、砦跡の遺跡の訪問ですね」

 斜め後ろを歩く秘書に声を掛けながら、アレキサンドラは再び顔を傾けて民衆に笑みを投げかけた。柔らかなブロンドの髪が太陽の光に照らされ煌めき、雪のような白い肌に濃い影を落とす。
 民に自分の姿を見せつけるように歩いたり、時折人だかりに歩み寄って握手をしたり、なかなか足は先に進まない。白く輝いていた太陽が雲の後ろに隠れ、冷たい風がふわりと髪を揺らす。寒空の下、闊歩する美少年に人々は目を奪われ――

「おいビンボーニン! お前なんかが王さま見に来るんじゃねーよ!」

 喧噪の中に紛れた幼い声に、アレキサンドラは歩みを止めた。確かに彼女の耳に届いたその言葉は、押し掛ける人々のその向こうの方からだ。

「ビンボーは家で仕事してろ!」
「ひっ」
「そうだそうだ、そんなカッコで王さまの前なんか行けねーだろ!」

 兵士の間に割り込んで、アレキサンドラはロープを跨ぎ乗り越える。秘書と姉の戸惑った声を背に、民衆の間を通り抜けてゆく。
驚いていたのはセレスとナターシャだけではない。困惑する兵士、王のただならぬ雰囲気に思わず口を閉じる大衆。彼女の歩み寄った先には、二人の少年の前に蹲る痩せた少女の姿があった。

「! ……お、おうさま……」
「あれ、君……上着も羽織らないで随分と寒そうじゃないか!」
「……っ! え、と……あの……」
「そうだな……じゃあ、はいこれ。君にあげるよ」

 凍り付く二人の少年をよそに、彼女は少女の前に跪いた。少女のジャスパーグリーンの瞳を覗き込むと、アレキサンドラは徐にコートを脱ぎ始めた。
 サックスブルーの分厚いコートを差し出して、彼女は柔らかく微笑みかける。虚ろな少女の目がコートとアレキサンドラを行ったり来たりして、やがて俯いて困ったように口を開いた。

「? どうかしたかな?」
「……あっ、あの……こんな……高価そうなもの、い、いただけません……」
「ああ、良いんだよ。代わりのコート持ってるから。寒いでしょう?」
「わ……わたし……」

 差し出したコートを少女の肩に掛け、アレキサンドラはその細い手を取った。

「貧しいからって虐げられることはないんだ。だから受け取ってほしい。それに……こうやって人々が貧困で苦しまないよう、僕は国を変えるよ。どうか僕を信じて待っていてくれないかな」

 燃えるような赤い瞳は、真っ直ぐに少女を捉える。彼女が見上げた先の王様の背後で、薄雲から太陽が顔を出す。
息を呑む。柔らかな日差しを背に受けた美少年はこの世のものではないようで――そばかすの多い少女の頬がぶわ、と紅色に染まる。

「あ……あり、がとう……ございます……!」

 彼女が頭を下げた頃には、血色の悪かった顔は耳まで真っ赤になっていた。アレキサンドラは小さく笑うと、へたり込む彼女を前に立ち上がった。ばつの悪そうな顔で傍に立ち尽くしている少年たちに視線を移す。
 顔の良く似た……恐らく双子らしい彼らの表情は、自分が非難されたと感じたのか不服の色が滲んでいる。そんな彼らに良く効く秘密道具を、ポケットの中に持っている。

「……君たちもこの子も、皆同じなんだ。だから虐めないであげて、助けてあげてほしい」
「……う」
「そうだ、もしそうしてくれるなら、これをあげるよ。はい」

 不満げに口を尖らせる少年に、アレキサンドラはズボンのポケットから、掌に乗るくらいのキャンディーの缶を取り出した。軽く振ると、ガラガラと荒い音がする。
 蓋を開けて彼女が手のひらに落としたのは、宝石の形に削られた透明な二粒の飴。光に照らされると、淡い水色とピンクが見える。何気なく手に取ったそれに、少年たちは目を丸くした。

「えーっ! それ! 伝説のエターナルクリスタルじゃん! 二つも!」
「そうそう、グリュックのキャンディー缶に偶に入ってるんだったかな」
「五十缶に一缶しか入ってないのに! おれ見たことすらないや、王さますげーっ!」
「自分が嫌なことを人にしないこと、ちゃんと約束できる?」
「うん!」

 目を輝かせて声を上げる少年たちに、優しく問い掛ける。元気の良い返事ににっこりと目を細めると、アレキサンドラは彼らの手に一粒ずつそのキャンディーを乗せた。
 はしゃぐ双子の少年が、その母親だと思われる女性に慌てて引き摺っていかれる様を見ながら、彼女は手を振る二人に手を振り返す。呆然としていた民衆が、時が進み始めたように再び騒めき始める。

「……陛下、お気を付けを。民衆の中に陛下を狙う者が居ないとも限りませんから」
「次からは気を付けるよ」
「ふふ、あの女の子、今のでアレクに惚れちゃったかもしれないわよ」

 流石に露骨に「美少年」しすぎたかな。セレスの持つ黒い外套に腕を通しながら、アレキサンドラは苦笑いした。隣のナターシャは、くすくすと可愛らしい笑い声を零す。
 「陛下を狙う者」。ふと、アルマを思い出す――否、本当はずっとアルマのことを考えていた。もう三日、彼と会わない日々が続いている。
 胸の中がひんやりと冷たくて、吹き抜ける風がいつもよりずっと寒く感じる。でも、ボクは王様でいなきゃ。抱き締めてくれる彼の温もりを思い出して深く息を吸い込む。
 アルマに会えるまで、あと四日。寒くて寒くて堪らなくて、アレキサンドラは小さく身震いした。


「……つかれた……」

 部屋に戻るなり、アレキサンドラはベッドに俯せで倒れ込んだ。ふかふかのベッドは彼女の身体を押し返し、ぼふんと跳ねる。
 一日の業務を終え、伯爵らとの会談、会食、それが終わって漸く入浴。白い寝巻に身を纏った彼女の髪は、まだ乾ききっていない。

「……嘘つき、寂しいよ……アルマ」

 枕に顔を押し付けて、アレキサンドラは小さく呟く。三日間、まともに気が休まることはなかった。何処に行っでも誰かに見られていて、ずっと王様でいなくちゃいけない。当然、そんなこと頑張ったって褒めてくれる人はいない。
 王家の別邸であるこの部屋もそう。一挙手一投足をずっと誰かが見ているような気がする。だから遠方は嫌い。彼女の身体は、まるで死んだかのようにぐったりとベッドに沈み込んだ。

「……アレキ、ちょっといいかしら」

 ノック音に身体を起こす。柔らかな声色は、ナターシャのものだ。もう持ち上がらない腕を何とか持ち上げて、動きたがらない足を無理やり動かして、アレキサンドラはドアへと向かった。
 扉の向こうの姉は、緩くウェーブした美しいブロンドを束ね、薄紅色のネグリジェに身を包んでいる。疲れを隠した妹の笑顔に、ナターシャは優しく微笑みかけた。

「ちょっとチェスでもしましょう。姉妹水入らずで、ね」
「チェス? へえ! 良いですね」

 柔らかなソファに腰掛けて、姉妹はチェステーブル越しに向かい合う。カモミールのハーブティーを一口飲んで、アレキサンドラは黒のポーンを動かした。

「なんだか久し振りね、二人でこうやってゆっくりするの……アレキが即位してから、ゆっくり話をする時間もなかったものね」
「ふふ、確かに」

 白のルークが二マス進む。カモミールの落ち着く香りの中に、シナモンがアクセントのように香る。盤上を暫く眺めて考え込んだ後、彼女は黒のナイトを動かした。
 チェスは得意な方だ。嗜みとして覚えさせられたし、よく会談の場で行うから。特段好きではないが……どうせ毎回勝ってしまうので。

「……そういえば、姉上、……その、男爵の御子息とは、その後どうでしょうか……」
「……それがねえ……はあ……」

 ふと、アレキサンドラが気まずそうに切り出した言葉に、ナターシャは溜息を吐きながら頬杖をついた。悩まし気な吐息に、端麗な顔は崩れるどころかより一層耽美さが増す。
 その表情は曇ってはいたが、以前のそれとは違っていた。彼女はもう一度小さく息を吐き、桃色の唇の隙間から言葉を紡ぎ始めた。

「この間のお勉強会、また嫌味を言われたの。『所詮顔しかない』とか『君といると菓子の味が不味い』だとか……余りに態度が酷いから、男爵に謝られたわ」
「……ボク、そんな人と姉上が一緒にいるの、割と本気で止めたいのですが……」
「いえ、いいのよ。それにあの人にも理由があるみたいだから……」
「理由?」
「男爵に聞いたわ。カッツェ様のあれは、母君が男爵と自分を置いて、他の男と駆け落ちしたのが原因なんですって。それで、女性を遠ざけるらしいのよ」

 白のクイーンが動く。自分に向けられた悪意ある言葉を追想しながらの姉の表情は、存外穏やかだった。声色は、何処か「ちょっと困ってる」という響きである。
 黒のキングを左に。心配そうに、何処かその意中の相手に呆れたようなアレキサンドラに、ナターシャは苦笑を返した。ティーカップに口を付けて、一口程飲み下す。

「ああ、悪いことしか言ってないけど、カッツェ様だって良いところはあるのよ! 私の容姿のことは絶対に貶さないの、優しいでしょう?」
「や、さしいですか……?」
「私の容姿には非の打ち所がないものね。つまり、思ってもないことは言わないのよ!」

 少し考えて、白のポーンが進む。姉の無茶苦茶な理論に、アレキサンドラから戸惑ったような、呆然とした声が出る。恋は盲目とは、こういうことを指すんだなあ……。
 一方のナターシャは、きらきらした瞳で妹に同意を求める。彼女はただ、意中の相手の性格の悪さをアピールしただけである。しかし、その表情はアレキサンドラにはない、生き生きとした顔だった。

「だから、この美しさを利用する他に策はないと思うわ。その辺り、うじうじしても仕方ないしね」
「まあ……姉上が悲しまないのであれば、良いと思います」

 黒のビショップを動かす。以前はあんなに萎れていたのに。もっと酷いことを言われても、今のナターシャは凛と咲くアンスリウムだ。喜ばしい反面、少し不思議だった。

「……あの、ボクに恋は分からないですが、姉上はすごく……カッツェ殿のことが好きなのですね」

 白のキングが左後方に。他愛のない言葉だった。ナターシャは一瞬きょとんと目を見開くと、口元を緩める。
 次の手を考えていた彼女の前で、その蕾は思いもよらないくらいに鮮やかに花開いた。

「……ええ、好きよ。とても好き」

 咲き誇るベニゴアのように。白い肌にふわりと紅色が差して。長い睫毛がきらきらと揺れて。困ったように少し下げた眉と、幸せそうに細めた赤い瞳に、アレキサンドラは目を奪われた。
 「恋」だ。

「あんな感じだけど、飼い犬のトレニアに向ける視線はとっても優しくて、素敵なのよ」
「なるほど……」

 アレキサンドラは、アルマのことを思い出していた。
 ボクがアルマに抱く「好き」は何なのだろうか。アルマの言うとおり、「好意」なのか、それとも目の前の姉上のような「恋」なのか、それとも別の何かなのか。
 ボクはアルマの顔が好きだ。綺麗だし、普段はあんななのに、時折ボクを見る目が優しくなるのが嬉しいから。
 ボクはアルマの優しいところが好きだ。優しすぎるくらいに優しいアルマが好きだ。嫌がりもせずに抱き締めてくれるし。それに、いつも優しい良い匂いがする。
 でもボクは、姉上のような表情が出来るだろうか。あんな風に、人を想えるだろうか。ボクがアルマに「好き」と言う時は、どんな顔をしているだろうか。
 「好意」って言われると、当然すぎて何か違う気がする。でも、ボクの「好き」は姉上のそれと同じではない気がする。
 考えるだけで胸がきゅっとなって、嬉しくて温かくて堪らなくて、「好き」が口から出てしまうのは何なのだろうか。そもそも、「好き」はそんな軽々しく言葉にできるものなのだろうか。
 ボクはアルマのこと、本当に「好き」なんだろうか……

「えっと……」

 ぼんやりと考え込みながら盤上の駒を動かしていると、目の前の姉が戸惑った顔をしていることに気が付いた。アレキサンドラが頭上にはてなを浮かべていると、ナターシャははっとしてチェス盤に視線を落とす。
 それを追って見下ろした先の光景に、少女の表情は固まった。

「じゃあ……チェックメイト!」
「……あ、あれ?」
「……っやった! ウソでしょ? ホントに? はっ、初めてアレキにっ! 勝った……っ!」

 不意に立ち上がって両の拳を突き上げ、珍しく品の無いガッツポーズを決め込む姉の前で、アレキサンドラは動揺を隠せなかった。盤上から目が離せない。気付かぬ間に、追い込まれていたのだ。
 ナターシャは誰も見ていないのに焦ったのか、再び着席すると座ったまま戦慄いている彼女に視線を送る。その表情は勝利の喜びを隠し切れないのだろう、口元が緩んでいる。

「アレキ、何か考え事でもしてたの?」
「え、いや……」
「誰の事を考えていたのかしら」
「誰って……べ、別に大したことでは」
「あら! 『誰』を否定しないってことは、誰かのことを考えてたのね!」

 困惑しすぎて、見事に誘導尋問に引っ掛かった。きらきらと目を輝かせるナターシャの前で、アレキサンドラは苦い顔をした。姉上、結構恋愛脳なのか……。

「で、誰なの? グラナ? アレキの好きな人」
「いや、好き……とか誰とかじゃなくて……グラナでもなく……」
「観念なさいアレキ、グラナにも秘密にしておいてあげるから!」
「普通に国政の事ですよ! ……まあ、強いて言うなら国民の事です」

 妹が発した恋の香りに、ナターシャはピンク色の声で飛びついた。姉妹で恋の話なんぞしたことが無かったからだ。しかし、その頃には漸くアレキサンドラも冷静さを取り戻しており、呆れ返った表情でソファに背を預けている。
 その後も暫く、彼女は姉からの問答を上手く躱し続けた。誤魔化すのは難しいことではない、けど。
 アルマへの「好き」を否定するのは何だか心苦しかった。
 満足そうに部屋を出て行ったナターシャの背中を見送って、アレキサンドラは疲れ切った表情でハーブティーを飲み干した。
 アルマに会えるまで、あと三日。冷える身体をぎゅ、と自分で抱き締めた。

♦♦♦♦


「……できた……」

 六日目の夜。出来上がった絵本を眺めて、アルマは思わず静かに歓喜の声を漏らした。絵本と言えど、画用紙同士を糸で縫い合わせたものに、色紙の背表紙を糊付けただけの簡素なもの。カラフルに彩られた画用紙が、ページの隙間から覗いている。

「はあ……間に合ってよかった……」

 風呂上がりの髪はまだ少し濡れている。立ち上がって伸びをすると、緊張と集中の代償がどっと下りてきた。数日分の疲労感と、抗いがたい睡魔。今晩は薬も要らないな。レンゲもいないから、絵本は部屋に放っておいても大丈夫だろう。
 倒れ込むようにベッドに潜り込むと、微睡む間もなく瞼が落ちてくる。明日は、アレキに会う。短いようで長いような六日間だった。寂しいとか、寂しくなかったとか、考える前に意識は暗闇に落ちていった。


♦♦♦♦

「アルマ」

 聞き慣れた声に、目を開けた。ベッドの上だった。

「ね、アルマ、あるまぁ」

 ふと、声のする方を、自分の下を見た。その瞬間、心臓が爆発するような音を立てた。

「……は?」

 身体の下で、アレキサンドラの小さい身体がベッドに沈んでいた。
何 も妨げるものの無い、傷一つ付いていない肌は雪の様に白くて、肉が薄い所為か肋骨が浮き出ている。柔らかな脚が必死そうに自分の腰に絡みついている。
 訳が分からなかった。何か思考しようにも、思い出そうにも途端に考えるのをやめたくなる。目を見開いて狼狽えているアルマに、少女は子供の様にその両手を伸ばしてきた。

「あるま……あのね、ぎゅーって……して」

 コーラルレッドの唇の隙間から零れる甘ったるい声。耳まで赤くして、淫靡に潤んだ深紅の瞳が彼の姿を映す。訳が分からないうちに、彼女の腕が首の後ろに回った。

「すき……アルマ、好き、大好き……あ……」

 汗ばんだ身体が触れ合って、肌が吸い付く感覚。耳元で囁かれる聞き慣れた言葉が、いつもと違う意味を含んでいた。か細く漏れる声。
 これは夢だ。アレキはそんなこと言わない。アレキはそんな顔で笑わない。
 俺は、こんなことしない。

「あるま……あるまぁ……っ、あぅ……好き……すきすき……だいすき……」

 悪夢だった。夢だと分かっていても、縋ってくる彼女を拒否できない。夢だと分かっていても、耳元で何度も何度も名前を呼ばれるたびに、理性がじりじりと焼かれていく。
 理性と欲望と吐き気と眩暈がぐちゃぐちゃに混ざり合う。こんなのは違う、早く、早く覚めろ。ぐちゃぐちゃに混ざりあった中から吐き気が勝って、食道を逆流する嘔吐感に頭が真っ白になる――


♦♦♦♦

「――――っは……っ!」

 目を開けると、視界に薄汚い天井が広がっていた。
 勢いよく上半身を起こす。心臓は爆音で鼓動を刻んでいる。上手く息が吸えない。肺に酸素を入れようと大きく肩を上下させながら、アルマは小刻みに震える右手で煩い左胸を抑えた。
 気持ち悪い。息苦しさと同時に遡ってくる胃液の感覚。冬だとは思えない量の汗で身体がべたついている。手の震えが止まらない。
 その夢は余りに生々しくて、声も感覚もすべて鮮明に思い出せる。それが不快で不快で堪らない。なにが不快って――

「……なんだ、もう目覚めたのかい」
「……!?」

 脳髄を溶かすような声。暗闇の中でも取分け漆黒の黒髪が、ベッドの端で揺れる。こちらを振り返ると、恐ろしいくらいに美しい顔が微笑んでいた。

「お……お前の、仕業か……っ!」
「やだなあ、なんでも僕のせいにしないでくれるかな。今晩は邪魔が無いから、僕はたまたま君の様子を見に来たんだよ。君はすっかり寝てて魘されてるから、見守ってただけ。何に魘されてたのかも知らない」
「……っ」
「……まあ、察しは付くけどね」

 気が付けば、動悸も呼吸も吐き気も治まっていた。冷たい笑みを浮かべた悪神の視線が、薄い毛布の下、彼の下半身へと下がる。
 面白いものを見つけたかのように、悪神の口元が悪辣に歪む。瞬きの間にアルマの首元に腕を絡ませ、後ろから耳元に顔を寄せた。逃げられなかった。

「僕に押し付けようとしたみたいだけど、残念。それは君が自分で見た夢だ」
「……違……っ」
「君がそう望んでるんだ。そうでしょう? それは、君の欲望だよ」

 逃げたかった。逃げられなかった。
 自分が彼女を屈服させたいなど、我欲のままに傷付けたいなど、思っていないと思っていた。思いたかった。否定したかった。するり、と毛布の中に右手が滑り込む。

「……違う、これは……っこんなことを、俺は……!」
「我慢する必要なんて何処にあるんだい? 良いじゃないか、健全な男子である証拠でしょう?」
「……嫌だ……俺は違う、違う……」
「……君は『彼女』を組み敷いて、犯したいんだ」

 嫌だった。頭の中が、アレキサンドラでいっぱいになってしまうのが。頭では分かっているのに、身体が反抗する。
 綺麗な顔が、こちらを見ていた。

「ちが、う……っ、これは、違う……っ」
「……屈服させた愛しい『彼女』の唇に口付けて、舌を絡ませて」

 銀色の瞳が、こちらを見ていた。
 美しい顔が、こちらを見ていた。
 
「……『彼女』の小さな身体と繋がって、啼かせて」

 違う。兄上と自分は。決して同じではない。

「……欲望のままに『彼女』を抱いて、気持ちよくなって」

 俺は兄上とは違う。美しくない。醜いのだから。

「……もっともっと滅茶苦茶にして、『彼女』の身体に己を刻みつけたい」

 「ああは」なりたくなかった。欲望に抗えず、本能に動かされるままの自分なんて、只の醜い獣でしかないのだから。

「……そうやって乱れた『彼女』を、壊したいんでしょう?」

 綺麗な顔が、こちらを見ている。美しい顔が、ずっとこちらを見ている。
 銀色の瞳が自分を見ながら、「お前は醜い」とずっと笑っているのだ。

「ま、僕はその勢いで『彼女』を殺してくれたら嬉しいんだけどなあ」

 悪神が愉快そうに笑う声が、静寂の中で響き渡っているかのように聞こえた。


♦♦♦♦

 開け放たれた窓の枠に頬杖を突きながら、アレキサンドラはぼんやりと外を眺めていた。冷たい風が柔らかいブロンドを撫でて、ふわりとシャンプーのグリーンアップルが香る。
 七日目の夜。バタバタと足を揺すった。とく、とく、と胸が小さく高鳴っている。早く、早く会いたい。
 風の音が聞こえた時、闇に紛れるその姿を視認した。

「……アルマっ!」

 窓から足を下ろした彼に、アレキサンドラは勢いよく抱き付いた。ぎゅう、と強く抱き締めて、顔を胸に押しつける。ふと見上げると、アルマが困惑した様子で目を泳がせていた。

「え、あれ、嫌だった?」
「……ああいや、別に……嫌じゃない」

 戸惑ったように紅い瞳が哀しく揺れるので、はっとしたように微笑んで抱き締め返す。安心して体重を預けてくる彼女を見つめながら、彼は表情を曇らせた。
 ……アレキに抱き締められた時、酷い罪悪感と後ろめたさがあった。彼女の笑顔に昨晩の夢が重なる。自分の想像したことが重なる。「お前は醜い」という声が頭の中で響く。

「……アルマの嘘つき。寂しくて寂しくて、死にそうだったんだよ」

 頬を膨らませて、自分の胸の中から見上げて睨んでくる少女の瞳に、自分の姿が映り込む。じんわりと胸が温かくなる感覚。
 ……大丈夫。本人を前にすると、意外と邪な感情は沸いてこない。これは夢じゃない。その存在を確かめるように、彼の腕の強さがぎゅう、と強くなる。

「……そんなにか?」
「だよ! それに、あのね! 話したいこといっぱいあるんだよ! 一日目はウルイの街に行ってね、教会の礼拝に参加して……」
「分かった分かった、ゆっくり聞くから……ゆっくり話せよ。ほら、一旦離れて」
「やだ! もうちょっとぎゅーってしてよ! ふへ……」

 きらきらした笑顔で、アレキサンドラは興奮気味に話し始める。言うことを聞かない我儘な子供は、頭を撫でると気の抜けた笑い声を上げた。
 彼の腕の中で、胸に顔を押し付けて、胸いっぱいに息を吸い込む。温かくて気持ち良くて、良い香り。大きな手が頭に触れると、心臓の音が少し早くなる。伝わってくるアルマの心臓の音は自分よりもゆったりしたテンポで、重なる鼓動が心地よい。

「それでね、ずっと見られてるから、ボクは一秒たりとも気を抜けないんだ。もうほんっと疲れたあ……これだから遠方の視察嫌い……」
「はは、お疲れ様。……相変わらずアレキ、事前の勉強量が凄いな。机に積んでる本、全部今の話に出てきた街のだろ」
「えっへん! ボク頑張ったよ!」
「……ああ、いつも上から目線で申し訳ないが、偉いな」
「えへへ……ふふ……」

 ソファの隣に腰かけるアレキサンドラが、疲れ切った様子で凭れ掛かってくるので、ぽんぽんと頭を撫でる。気の抜けた声からは、ひしひしとその疲労が伝わってきた。だけど、見下ろした先の少女は頬を染めて、緩み切った表情は心底幸せそうだ。
 彼の言葉の一つ一つが、胸をどきどきさせる。穏やかな声色、優しい瞳、頭を撫でる柔らかい手つき。ふざけた態度も茶化さないで、全部包み込んでくれる。
 ああ、アルマは、「言ってほしいこと」を的確に、むしろそれ以上嬉しいことを言ってくれる、そう思ってくれるんだ。ほっぺたが熱くなる。そこが好きなんだ。

「あ、そうだ! お土産があるんだった!」

 不意に、でろでろに溶けていた彼女は勢い良く立ち上がった。元気な子犬のように走り回ると、嬉しそうに飼い主の足元に戻ってくる。ぶんぶんと激しく尻尾を振っているのが見える。

「えっとね、まずは……じゃーん! これはキャラメルのフレーバーティー! 今一杯淹れてるから待ってね。あと、これ!」
「……、これは……」
「フォフォのお店で見つけた、黒猫のペンだよ! ほらここ、猫耳が可愛いでしょ!」

 黒地に金色で猫の柄が彫られたペン。天冠には可愛らしい猫耳の装飾が施されている。手渡されたそれを手の中で何度も回して、アルマは思わず声を漏らした。

「……可愛い……」
「食べ物とか飲み物でもいいけど、何か形に残るものを渡したくて!」
「……礼を言う、ありがとう……、あ……そういえば、俺も……」

 珍しく、柔らかな笑みを浮かべる彼の瞳は、少し輝いていた。もう一度、一頻りペンを眺めた後、大切そうに布に包んでウエストポーチに入れ――ふと、そこで何か思い出したようにポーチを探り、丁寧にそれを取り出した。

「こんな良いものを貰った後で申し訳ないが……」
「――うわあ! え! 何これ! アルマが描いたの!?」
「……まあ、暇だったから」
「わああ! もしかして、これってボク? すごい! すごいすごい! 読んでいい!?」

 『アルマースの狼』と題された絵本を手に取って、アレキサンドラは甲高い声を上げた。その表紙には、可愛らしくデフォルメされたアレキサンドラの姿があった。
 彼の膝の上にどかりと座ると、彼女は本の表紙を捲る。色鮮やかで柔らかな色彩が、そこには広がっていた。

「可愛い……すごい……綺麗……あ、これはレンゲの足跡? 可愛いー!」
「ああ、急に飛び込んできて踏まれたやつ」

 思わず見惚れてしまう。見入ってしまうほどに、温かくて優しい絵。物語がキラキラ輝いているみたい。歓喜の声を漏らす少女の後ろで、アルマは照れ臭そうに口元を歪めている。
 王様・アレキサンドラの親友である、ダイヤモンドの瞳を持つ狼・アルマース。二人は毎晩、楽しく語り明かす。美しい花の花言葉のこと、食べたことのないもののこと、異国の景色のこと。
 しかし、そんな二人にやきもちを焼いた姉が二人の密会に割り込んでしまう。

「あっ、姉上だ! ……って、あれ? 話が変わってる?」
「……ああ、主人公がアレキだし、原作の結末は辛いから……少しでも幸せな展開が良いかと思って……」

 アルマースを殺そうとした姉を前に、王様アレキサンドラは弁明する。ああ、アルマース! この人こそボクが前から言っていた姉上だよ! 姉は驚き戸惑い、思わず兵士も銃を下ろしてしまう。
 誤解を解いたアルマースは、王様とその姉と三人で色々なことをした。お茶会にテーブルゲーム、見たことのない場所への旅――そうして、末永く幸せに暮らしましたとさ。

「はあ~……すごいや……えへへ、アルマ……ありがとう! 宝物にする!」
「……なら良かった」
「世界に一冊だけの、ボクだけの本! ボクだけの本だから、しっかり金庫に入れておかなきゃ!」

 ぱたん、と絵本を閉じて、アレキサンドラは目を伏せ余韻に浸った。感嘆の溜息を吐いて、満開の笑みでアルマを見つめると、穏やかに目を細めるアルマと目が合った。
 爛々とスキップしながら、三重の金庫の最深部に絵本を大切に仕舞う。嬉しそうに跳ねる彼女の背中を眺めながら、彼は微笑んでいた。
 胸の奥がほっこりする。自分の手で彼女が笑顔になった事実が「嬉しい」。アレキサンドラと出会うまではあまり抱かなかった感情が、どんどん溢れてくる。
彼は堪らなく幸せだった。ずっとその笑顔を見ていたかった。こっちを見て弾けるような笑みを浮かべて、胸に飛び込んでくる少女を抱き締める。伝わってくる体温も、グリーンアップルの香りも、小さな笑い声も――愛おしくて堪らなかった。

「あ、そう言えばね、姉上にアルマのことがバレそうになったんだよ」
「は?」
「姉上とチェスをやってる時に、アルマのことを考えてたんだ。そうしたらぼーっとしちゃって負けちゃってさあ……何考えてるのって聞かれてちょっと危なかったよ」
「気を付けてくれよ……」

 キャラメルの紅茶の甘い香りを飲み込んで、香ばしい風味を堪能する。隣でゆったりとソファに凭れるアレキサンドラは、リラックスした様子でもう一つの土産であるチョコレートを口に放り込んだ。
 相変わらず、恥ずかしげもなく何でも言葉にするんだよな。それすら微笑ましくて、口元が緩んでしまう。嬉しくて、彼女の言葉の一つ一つに耳を傾けた。

「何を考えてたのかっていうとね、姉上の恋の話を聞いたんだ。だから、ボクがアルマのことを好きなのは何なんだろうって考えてた」
「……本人を前にして、よく躊躇いもなく言えるよな……」
「えへ、だからね、ボクは姉上みたいに、アルマに『恋』してるわけじゃないんだなって」

 その言葉の瞬間だった。
 頭を殴打されたような白い衝撃の後、ふっと目の前が暗くなった。焦げるような、じわじわと侵食する痛みがあった。
 この痛みに、覚えがあった。

「アルマ?」

 本当はずっと自覚していた。認めたくなくて、ずっとその事実から逃げていた。
 それで十分だった。それ以上何も望まなかった。
 ただアレキサンドラの純粋な「好き」を享受していられたら、それで――

「……っああ、いや……何」
「? そう、だからこのアルマへの「好き」が何か、早く分かったらいいなあ」

 見上げてくる赤い瞳も、白い顔の頬がほんのりと赤いのも、はらはらと揺れるブロンドも。
 楽しそうに弾む声も、眩しい笑顔も、我儘も、子供っぽい所作も、全部全部。

「本人の前で、それ言っていいのか?」
「ふふ、だってボク、アルマの事好きだもん! それは違いないよ」

 俺はアレキのことが好きだった。ずっと前から、大好きだった。
 真っ直ぐに笑顔を向けてくれるアレキサンドラに、ずっと恋をしていた。

「ね、アルマ! もう一回ぎゅーってして!」

 この痛みに、覚えがあった。叶わない恋を、諦めるべき恋を自覚する痛みだ。

「……仕方ないな、ほら」
「ああ……やっぱりボク、アルマが好き……大好きだなあ」

 彼女の細い身体をぎゅう、と抱き締めて、アルマは優しく微笑んだ。
 この恋は、決して告げることのない恋だ。ずっと秘めていなければならない恋だ。
 焼けるような焦げるような、じわじわと侵食する痛みに、アルマはふわ、と目を閉じた。


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