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四日目

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『四日目』 
「あ、っ、ごう、くんっ」
 腹に詰め込まれた種を、押しとどめるそれを、引き抜かれる。緩んでしまったそこでは、種が流れ出るのを止められず、剛が敷いたタオルの上に、どろりと、こぼれ落ちていく。
「あのクソ野郎……こんな状態のタダヒトを見せ付けて、俺にどうしろってんだ」
「はぁ、っ、あ、み、みないで……」
「あ、ああ、わりぃ。けど、どうしようもねぇだろ。とにかく、まずは風呂場か」
 横たわるタダヒトを、敷いたタオルと一緒に軽々と持ち上げて、剛は部屋を出た。そのまま階段を下り、浴室へと急いだ。
「タダヒト、動けそうか?」
「ちょ、っと、むり……ちからが、でない」
「そ、か。じゃあしかたねぇ。俺が体を洗ってやるから」
 足や腰に、すっかり力が入らなくなってしまったタダヒトは、自力で動くことができなくなっていた。それはもちろん、先ほどまで行われていた行為のせいもあったが、精神的に、糸が切れたというのも理由であった。
 タダヒトは、剛の顔を見て、声を聞いて、すっかり安心してしまったである。
「椅子には座れそうか?」
「ん、たぶん」
「じゃあ、風呂の椅子んとこ運ぶぞ。っしょ、と」
 剛は、抱えたタダヒトをバスルームの椅子に座らせると、自分もさっさと服を脱いで、それを乱雑に投げてから、扉を閉めた。
「うあ、あ、だ、だめ、でちゃう」
 座る姿勢になったタダヒトは、自分の中に残る種が、こぼれ出るのを我慢できなかった。空気混じりの排泄音と共に、椅子に開いている穴から、それが垂れて、落ちた。
「や、やだ、ごう、くんが、いるのに」
「いい、出しちまえ、気にしねぇから」
「う、うぅぅ」
 それがある程度治まるまで、剛はタダヒトを抱き締めていた。そうして、シャワーヘッドを手に取り、ノズルを捻ると、お湯の温度を確認した後に、一度、バスルームの床をシャワーで流した。
 黄ばんだ白濁の塊が、排水溝に流れていった。
「シャワー、熱くねぇか?」
「だい、じょうぶ」
「ん、じゃあかけるぞ」
「あ! まって、ごうくん、っ」
 シャワーをかけようとする剛の手を、タダヒトは止めた。タダヒトの全身の、まずは前面から洗おうとしていた剛は自然と、タダヒトの体をその目で見るように対面していた。それを、タダヒトは止めたかったのだ。
 しかし、少しだけ遅かった。剛は、見てしまったのだ。タダヒトの、人間の中ではそこそこ立派なそれが、いきり立つ様を。
「そ、れ」
「ご、ごめん。か、らだ、が、まだ、こうふんしていて……ごう、くんに、だきしめられたら」
 言い訳がましい言葉が、口からこぼれた。タダヒトの頭の中は、羞恥と、興奮でせめぎ合っていたのだ。だから、から回る思考でどうにか彼に説明をしようと、こうなった理由をぽつぽつと話し始めてしまう。
「その、こうふんしやすくなる、くすりを、のまされてて。それでも、た、たかさまには、あまりはんのう、しなかったんだけれど。ごう、くんだと、なんでか。こうなっちゃって」
 その言葉が、言い訳が、剛にどう捉えられているのかを、タダヒトは判断できていなかった。
 昨日、彼から忠告をされたことも。この言葉が、誘い文句になってしまっていることも。
 剛の理性、そのたが、が、タダヒトが部屋に来た時点で、外れかけていたことにも、まったく気付けていなかった。
「だから、み、みないでほしい……ごう、くん?」
「た、だひと。はぁ、あ、っ、は、あぁ……」
 荒い呼吸の音が聞こえた。心配になったタダヒトは、なんとか剛を見ようと頭を上げて、彼の目を見た。
 そこには、初日にちらりと見てしまった、あのときの、獣性の煌めきが宿っていた。
「あ……」
 刹那、火照った頭が、クリアになっていく。熱にうなされながら、自分がしてしまったことを、思い出したから。剛に、彼の理性に、揺さぶりをかけてしまっていたことに、気付いてしまったから。
 なによりも、隆は、これを狙っていたのではと、気付いてしまったから。
 それでも。
 タダヒトは、それでもいいかなと、思ってしまった。
「っ」
 だから、剛が押し倒してきても、声を上げなかった。抵抗をしなかった。浴室の床はお湯で温められており、決して冷たくはなかった。
「ただひとわりぃ、おれ……もう」
 剛の顔を、見た。獣性に支配されそうになりつつも、彼の目は、とても悲しそうに潤んでいた。
 それでも、情動には逆らえなかったのだ。興奮と性欲を一点に詰め込んだそこが、開発されきったタダヒトの秘部に、押し当てられる。
 それは、押し当ててしまっただけで、なんの抵抗もなく、ずるりと中へ入ってしまった。隆のそれよりも一回り大きいそれが、開発のかいもあってか、すんなりと。
「あ、っ」
 声、というよりも、息が、体内から押し上げられるように、漏れてしまう。止めようとしても、溢れてしまう。それは、浴室の中で、粘り気のある水音、毛皮を肌にぶつけられる音とともに、反響し、部屋を満たしていった。
「あーっ、はぁー、っ、ただひと、ただひとぉ」
 剛は、ただ名前を呼んでいた。虚ろな声で、口から涎を垂らしながら、腰の動きを止めることなく、延々と、タダヒトの名前を口からこぼし続けた。
 そうしないと、本当の獣になってしまうのかもしれない。それに抗うために、剛は名前を口にしているのかもしれない。そう思うと、どこまでも自分に気を遣ってくれている彼を思うと、タダヒトは、どうしようもなく、嬉しくなってしまうのだった。
「あ、あっ、ごうく、ん、ごうくん!」
 隆に犯されていたときよりも、数段体に響く快楽、幸福感を絡めて襲い来る快感に身を投げ出しながら、タダヒトもまた、彼の名前を叫ぶように口にしていた。
 どうしようもなく嬉しくて。どうしようもなく幸せで。どうしようもなく気持ちよくて。口をから溢れてしまうその名前を、止めることができなかった。

 そのまま。
 純粋に、体力の限界であったタダヒトは、体を揺さぶられながらも、半分だけ覚醒したような意識の中、
 剛に犯されている快感と、
 剛に抱かれている幸福感と、
 剛に悲しそうな顔をさせてしまった罪悪感と、
 けれど、やっぱり体を貫く快感を貪って、
 幸せなまま、意識を手放してしまった。


 タダヒトは、目を覚ました。飛び起きれば、そこはリビングのソファだった。タダヒトは、混乱する頭を抑え、己に覚醒を促した。
「あ、っ……なんで、ここに?」
 体の節々から、少しの軋みを感じたが、動けない程ではなかった。どうやら、しっかり睡眠をとったのが良かったらしい。ゆっくりと体を動かし、時計を見やれば、時刻は午前の八時になる、といったところだ。
「確か、ゴウ君に……って、そうだ、ゴウ君!」
 がばりと、体を起こした。節々の軋みを無視して、無理矢理に体を立たせた。そうして、動こうとした刹那、視線が、ソファ横の低いテーブルの上に置かれた、紙を捉えた。
「っ、と、これは、メモ?」
 タダヒトはそれを手に取って、裏返しになっていた文字部分に、目を通した。
『手を出して、悪かった。約束を破って、悪かった。少し、冷静になりたい。だから、今日は顔を合わせたくない。飯も、いらない。俺のことを、気にしないでくれ。剛』
「ごう、君の……」
 メモの最後に、タダヒトの知らない名前が、ゴウと呼んでいた彼の本名が、書かれていた。その一文字だけで、彼が、真剣にこの手紙を書いたのだと、本当にそうして欲しくて書いたのだと、タダヒトには、伝わった。
 告げなくてもいい名前を、それでも彼は、教えてくれたのだから。
「気に、しないわけに、いかないじゃないか」
 それでも、今日はきっと、顔を合わせない方がいいのだろうと、タダヒトは自分に言い聞かせて、自制して、そうしてキッチンに、赴いた。自分がしなければならないことを、するために。
「剛、君」
 明日には、彼に会えるように、と。


 朝食の席にやってきたのは、賢だけだった。剛は、手紙に書いてあるとおりであったし、隆も、姿を現さなかった。
 必然、二人きりで朝食をとることになった。とはいえ、タダヒトの食は、まったく進まなかった。
「タダヒト君と二人きりだなんて、嬉しいです。ふふ」
「そ、そう、ですか。えっと、光栄です」
 と、口では言うものの、タダヒトは心の中で、酷く気まずいと思っていた。なにせ、昨日の朝、彼の口から発せられた過激な言葉を、忘れることができなかったから。
 しかし、目の前の賢は、初めて会ったときと同様、礼儀正しい大人の男性、といった雰囲気をまとっていた。いっそ、部屋で二人きりのときに見た表情や、昨日の朝に垣間見えた凶暴性が、幻だったのでは、とさえ思えてしまうほどであった。
「今日は、ゴウ君はどうしたのですか? あんなに、仲がよろしかったのに」
「ええ、と……いえ、なんでも、ないんです。その、彼は少し、疲れているようで」
「ふふ、隠し事はやめてくださいよ。流石に、君の表情を見ればわかりますよ? なにかあったのでしょう? 正直に、話して下さいよ」
 まるで、親切な上司が、もしくは教師や、はたまた叔父が、若い者の悩みを聞きだそうとするかのように、賢はタダヒトに真実を話すように促した。
 タダヒトはその促しを、拒否することは許されていないのだ。それがわかっていてなお、賢は、あくまで温和な雰囲気を作り出しながら、優しいふうを、装っていた。
 少なくとも、彼の豹変した態度を目にしてしまったタダヒトは、そう感じていた。
「わ、かりました」
 タダヒトは、昨日の出来事を、今日の早朝まで続いた事件を、全て包み隠さず賢へ告げた。
 隆に部屋へ呼び出され、じっくりと何時間もかけて体を弄くりまわされ、彼にすっかり犯されたことも。
 そのまま、隆の子種を腹に入れたまま栓をされて、そんなあられもない姿で、剛の部屋へ向かわせられたことも。
 剛を、不本意にも誘ってしまい、彼に彼自身の誓いを破らせてしまったことも。
 全てを、話した。
 話すしかなかった。
「なるほど! 私が寝ている間に、そんなことがあったのですね」
「はい。だからその、僕としても疲れが残っているので、ケン様にご心配をおかけしまったのかな、と」
「いえ、いえ。大丈夫ですよ。あの二人を相手にしたのですから、疲れて当然ですとも。ええ。それなのに、朝食を用意して、タダヒト君はとても、偉いです」
 タダヒトの話しを聞き終えた賢は、先ほどよりもどこか上機嫌な、それでいて饒舌に言葉を並べて、返事をした。
 傍から見れば、悩みを聞いたうえで、できるだけ相手に気遣わせることのないように明るく振る舞っている、いい大人。そんなふうに見える態度であった。
 が、しかし。タダヒトはその様子に、どこか言葉にしがたい不気味さを、覚えてしまう。覚えずには、いられなかった。
「偉いですね、偉いですね。理由はわかりませんが、こんな実験の、モルモット役をしつつも、好意的な相手を心配する素振り。ええ、とても素敵で、素晴らしくて」
 愚かですね。
「え……?」
 聞き間違いかと、思った。正確には、聞き間違いだと、思いたかった。けれども、その言葉は確かに、タダヒトに耳に届き、賢のまとう雰囲気も、少しずつ、仄暗いものへと、変わっていった。
「こんな狂った実験のために集まった人を、そこまで思うタダヒト君が、愚かだと、言ったのですよ。身の程をわきまえなさい。貴方は、私たちの奴隷、のようなものなのですから。まったく、あの虎獣人とは意気投合したくはありませんが、貴方の扱いに関しては、同意せざるをえません。なにより、あの糞餓鬼の行いには、反吐が出ますよ、本当に」
 口調は、ほとんど変わらない。声色も。それでも、言葉のテンポが段々と早くなっていき、すっかり興奮したような、話し方になっていった。そうして、言葉使いも、悪くなっていく。
 タダヒトはただ、圧倒されてしまって、体を強ばらせることしかできないでいた。
「人間、欲のまま生きているのです。ただ親切な人など、貪欲な人の餌に過ぎない。ええ、そうです。現に私は、食われてしまったのですから。これが真実。これこそが真実!」
 ついに賢は、席を立って、タダヒトに近づいてきた。それがどんなに恐ろしく感じても、タダヒトは、動けなかった。動くことを許されていないのだと、感じたから。
「でも今は! 私は! 食らう側だ! そう! 貴方になんでもできる立場だ! これがどれだけの幸福で、どれだけ価値のある体験なのかを、あの糞餓鬼は少しも理解していない! ああ、腹立たしいですね、憤りを覚えますね、善良であろうとする輩を見るのは、我慢ならないですね!」
 いったい彼は、どんな人生を送ってきたのだろう。と、タダヒトは一瞬だけ、考える。輪郭だけなぞれば善良そうに見える彼が、どうしてここまで歪んでしまったのかを、考えてしまう。
 けれど、それは今するべきことではないのだ。今は、もっと、今の彼を、目の前の賢を、注意して見ていなければならないのだ。
「貴方も、そうは思いませんか?」
 そうだ、注意していなければならないのだ。彼の、その質問に対して、タダヒトは、できる限り穏便な答えを、返さなければならないのだから。
「ぼ、僕、は……」
 けれど、すっかり圧倒され、威圧に震えてしまった頭では、なにかを返すことができなかった。震える口を開いても、ろくな言葉にはならなかった。
 そんな口を、賢の手が、覆うように塞いできた。
「ふふ、っははは。まあ、教えてあげますよ。さあ、私と部屋に行きましょうね。今日はいったい、どんな首輪をつけてあげましょうかね」
 楽しみです。そう言った賢の瞳には、凶暴な獣性の煌めきが、確かにあった。
 彼が、本能から、この行為を楽しんでいるのだと、わかってしまった。


 賢の部屋に誘われてすぐに、タダヒトの首には、赤くて立派な首輪が、はめられた。そんなものが倉庫にあったことには、もう驚かなかった。驚いている暇はなかった。
 なぜならタダヒトは、その首輪をつけられてすぐに、ベッドに放り投げられたからだ。決して優しくない力で、ともすれば怪我をするんじゃないかと思うほどの勢いで。
「サンドバッグって、あるじゃないですか。あの、殴るために用意されたもの」
「あれを殴るのは、楽しいじゃぁないですか。いえ、楽しくなかったとしても、さも当然の様に、皆、殴るでしょう?」
「それって、サンドバッグが殴られて当然のもの、だからですよね?」
「無機物か、有機物かに関わらず」
「殴っていいと、大多数が決めてしまえば、それはサンドバッグになってしまうんですよ」
 興奮を、微塵も隠そうとしない、その矢継ぎ早の言葉を、聞いている余裕はなかった。
 なぜか。
 その言葉が、彼の平手と共に、送られてきているものだからだ。
 頬を、腹を、足を、叩かれた。けれど、決して全力ではない威力で。それは、まだ賢に躊躇する心があるからなのか、それとも、弄んで楽しんでいるからなのか。彼の様子を見る限りでは、まったく想像できなかった。
「っは、はは、私も、大多数側になってみたかったんですよ」
「こんなに、こんなに気持ちの良いことだとは、少しも思っていませんでした」
「すっきりしますね」
「興奮しますね」
「虐げるというのは、支配するというのは、こんなにも心地よいのですね」
 それでも、わかることがあるとすれば、彼の行動は、狂気的である、というところだろうか。完全に、たかが外れていた。それだけはわかった。
「傷をつけることの、なんと興奮することか」
「そういえば、人間の肌は、傷がわかりやすいんでしたよね」
「叩けば、赤くなるとか」
「私の体は、赤くはなりませんでしたが」
「ぜひ、試してみたいですね」
 狂気に駆られた彼の行動を、それでも止めることはできない。仮に止める権利があったとしても、タダヒトにはきっと、止めることはできなかっただろう。
 されるがまま、服を剥がされた。無理矢理、引き裂くように。
「おっとそうか。人間は脆いんでしたね」
「じゃあ、せめて叩いても大丈夫な場所にしましょうか」
「古来から、叩くと言えば臀部ですよね」
「タダヒト君の肌は白いから、すぐに赤くなるかな」
「はは、はぁぁ、凄く、いいですね」
 彼の手が、タダヒトの尻を撫でた。
 その手が、思い切り振り下ろされて、音が鳴っても、ただ、歯を食いしばって、目を閉じて、黙って耐えた。
 タダヒトは、涙を流しながら、心を殺すことに執心することで、どうにか耐えようとした。それにすがりついて、彼が満足するのを、痛みの中で待つことしか、できなかったのだ。


 時計が、十二時を告げた。その音を聞いた賢は、あっさりとタダヒトを解放した。どうやら、どれだけ狂気に駆られても、規則にのっとる習慣は、消えないようで。
 笑顔の彼が部屋の戸を閉めて、タダヒトは廊下に、崩れ落ちた。剥がされた服は丸められ、彼の横に転がっていた。
 崩れ落ちたタダヒトの体は、至る所が赤く色づき、痛々しさをこれでもかと、露わにしていた。
「う、っうぅぅ」
 情けなく、涙を流すことしかできない自分に、タダヒトは始めて、ここに来て始めて、心が折れてしまった。その一瞬に、剛に助けを請おうとした自分にも気付いて、心底失望した。
 立ち上がれない自分を、どこまでも厭悪してしまう。
「お、っとぉ。タダヒト君、どうしたぁ?」
「っ、ひ、あ」
 そんな、どん底の只中であるタダヒトに、声をかける人物がいた。隆である。その声に、昨日されたことを否応なく思い出してしまい、情けない声をあげてしまう。
「……大丈夫かい?」
 全裸である自分に、いったいなにをするつもりなのかと、震えながらも身構えたタダヒトは、少し拍子抜けしてしまう。隆は、いつもの下品な笑みを潜め、神妙な表情でタダヒトの側に駆け寄ってきたのだ。
「ひでぇ痕だな……あの犬獣人かい? まさか獅子の兄ちゃんじゃねぇだろうし」
「え、っと」
「や、えい。なにも言わんでえぇ。とりあえずそうだなぁ……わっしの部屋にきなせぇ。立てるかい?」
「す、すみません……っ、あ、ちから、が」
「じゃあ、担がせてもらおうかねぇ。昨日、無理させちまったのもあるだろうしなぁ」
 そう、冗談めかした台詞は言えど、声色は真剣そのものであった。その雰囲気もあって、隆に担がれることを、タダヒトは恐ろしく感じなかった。
 隆に、お姫様抱っこが如く担がれ、そのまま部屋へと運ばれた。昨日、散々な姿をさらしたベッドの上に下ろされ、少しだけ羞恥を覚える。が、そんなタダヒトを置いて、隆は一度部屋を出ると、少しして腕いっぱいに色々なものを抱えて帰ってきた。
「えぇっとぉ、冷やすやつと、タオルと、包帯……はいらなかったかねぇ? すまねぇな、わっしはどうもそういう知識が浅くて。救急箱は必要だったかね? あるだけ抱えてきたのだがなぁ」
 どさどさ、ごとごとと、持ってきたものを床に広げた。それは、誰が見ても必要以上に数のあると思える治療用具であった。その様子を見て、隆が、必死で自分の身を案じてくれていることを感じたタダヒトは、少しだけ気を緩めることができた。
 おかげで、体に少しだけ力が入るようになり、ゆっくりとベッドから体を起こした。
「ええ、と。冷やすシートは、頬に貼らせていただきますね……上半身のほうは、このままでも大丈夫、と思います。あとは、その、お尻ですが……軟膏を、ぬらせてもらいますね」
「お、おお、さよか。わっしが塗ってやろぉか?」
「え、っと。お手数をかけるわけには……」
「そうかい? まあ、わっしじゃあうまくぬれないだろぉしなぁ。ほいじゃあ、使わない物を返してくるからなぁ」
 もう一度、タダヒトが選んだ物以外を両手で抱えると、ドタドタと部屋を出ていった。そんな隆を見送ると、タダヒトはそそくさと手当を始める。痛む尻に軟膏を塗り、取り急ぎ破られなかった下着を身に着けて、両頬に冷たいシートを貼り付けた。
「っ……はぁ」
 冷たさに、声が出てしまったが、段々と心地の良いくらいに感じられていき、タダヒトは安堵の溜め息を吐いた。
 処置が終了して少しすると、隆も部屋に戻ってきた。またもその手には何か荷物があった。
「飲み物、拝借してきちまったぜ。タダヒト君も、飲むかい?」
「あ、ありがとう、ございます」
 隆が持ってきたものは、小さなサイズのペットボトル飲料だった。いくつかある中から、タダヒトはリンゴジュースを取り、隆は炭酸ジュースを取った。
「っ、んっ、げはぁ……体、落ち着いたかなぁ?」
「はい、ある程度は。その、本当にありがとうございます」
「っひひ、照れるから真面目に礼なんてしねぇでくれよなぁ。っと、そうだ、昨夜はどうだったい?」
「昨夜……え、どう、だった、とは?」
 昨夜と言えばと、思い返す。目の前の虎獣人に、じっくりと、じっとりと体を開発され、あられもない姿のまま、剛のもとへと向かわせられて。
 一言で、酷いと言える所業だった。
「あぁれだけ焚き付けりゃあ、獅子の兄ちゃんとはいえ、手ぇ出してくれただろぉ? っひひ、あの兄ちゃん、変に奥手みてぇだからよぉ。わっしが率先しなきゃよぉ、タダヒト君に手ぇ出せそうになかったものなぁ」
「……ん?」
 隆の言い分は、どこまでいっても酷いと例えて相違ないものであった。あったのだが、言葉に邪悪さが、毒気が、少しもないように思えて、タダヒトは首を傾げた。
 てっきり、隆の趣味で行われた所業と思っていたのだ。
 が、彼の話し方を、そして雰囲気を鑑みるに、あれはなにかしら考えがあってやったことなのだと、彼は言っているようなのだ。
「あぁんなに、タダヒト君に惚れてるって見え見えなのによぉ、手を出す勇気がなくて可哀想だったからなぁ。わっしも年甲斐もなく、世話ぁ焼いちまったぜぇ、っげへへ」
「……え?」
「ん? なんでぇその反応は」
「あ、いえ、その、せ、世話、ですか?」
「そぉだぜぇ、タダヒト君と獅子の兄ちゃんが、上手にセックスできるようにと思ってなぁ」
 タダヒトは、絶句した。あまりにも想定外だった真実に、驚きの感情を隠すことができず、絶句している様子をむざむざと、隆に晒してしまった。
 そんな彼の様子を見て、隆もようやくなにかを感じ取ったらしい。気まずそうに笑うと、怖ず怖ずと口を開いた。
「えぇ、っとぉ。もしかしなくても、余計なお世話、だったかい?」
 そうだ、とは、流石に言葉にはできなかった。が、表情に出てしまうのまでは、抑えられそうになかった。


「いやぁな、あの獅子兄ちゃん、様子を見るにタダヒト君とヤりたくてたまらねぇって感じだったからよぉ。わっしとしては、解消してやりたかったのさぁ。こんな機会なんだから、遠慮せずに盛らにゃぁ損だぜえ、ってよ」
「でもよぉ、わっしが口を出しても逆効果だろぉ? 獅子の兄ちゃん、わっしのこと嫌いだって目ぇしてっし。だから、わっしだったらどうされればノるかを考えたわけだ」
「んでもって、わっしもタダヒト君とエッチしたかったからなぁ。んで、あぁしたわけよぉ。汚されて、熱を持て余したかわい子ちゃんがやってきたら、理性もなにもないだろぉ、げっへへ」
「生憎、わっしはこういうコミュニケーションにしか明るくないからなぁ。いいやつには手ぇ出して、誘われたらのりのり、体を良くしてやってお小遣いをもらう。ヒモとして長いこと付き合ったやつもいたなぁ。わっしの人生、セックスなしじゃあ破綻してんだわぁ」
「歳も歳だけぇ、そろそろやめ時かぁとは考えていたんだ。わっしの好みである、人間とはここ最近ご無沙汰だったしなぁ」
「が、そんなとこに渡りに船だぁ。乗るしかねぇだらぁ?」
「金も貰えるし、タダヒト君を好きに侍らせることもできる。最高じゃぁねぇか」
「んで、よ。だぁら、今日はすっきりした顔のお前さん達が見られんだろぉなって思って、昼飯もらいに行こうと思ってたんだが……これだ」
「あの犬獣人はさておきとして。もしかしてわっし、余計なお世話をしちまった……みてぇかねぇ?」
 隆が、今まで見たこともないような慌てた表情で、口早にそう言ってきたのを、タダヒトは目を丸くしながら聞いていた。
 わかったことは、隆に悪気はなかった、ということである。そして、コミュニケーションの能力が、大きく偏っていると言うことだ。
 彼には、セックスでのコミュニケーションが、世界の常であるようなのである。
 そんなことを想定できるほど、タダヒトの見識は広くなかった。だから、この話しを聞くまでは、隆のことをまるで、邪悪な快楽主義者かなにかかと、考えていたのだ。
 が。
「す、すまなかったなぁ」
 細い目をさらに細めながら、耳をぺたりと折りながら、申し訳なさを全身で表現している彼を見てしまえば、その考えはまったくの見当違いであったのだと、認めるしかなくなってしまう。
 隆は、よかれと思って、タダヒトの体を弄くり、同性でのセックスができるような体へと開発をして。そのうえで、よかれと思って、剛を煽った、らしいのだ。
 そこで、隠すことなく自身にも下心がなかったわけではないと言っている辺りが、逆に信用できる要素に感じた。自分もセックスをしたかったのだという、彼の純粋な物言いそのものが、彼の発言の真実味に、信憑性を持たせていたのだ。
「てっきり、今日は三人でセックスかなぁ、とか考えていたんだがなぁ」
 反省はしていても悪びれていない辺りが、欲に忠実な辺りが、殊更に真実味を深めているのだった。
「……はぁぁ」
 いや、わかるわけないだろう!
 とか。
 いやいや、セックスで全てを解決しようとするな!
 とかとか。
 いやいやいや、剛君は相当気に病んでしまったんですけど!
 とかとかとか。
 いやいやいやいや、おかげ様で同性同士のセックスで快楽を感じるようになってしまいましたけれど!
 とかとかとかとか。
 言いたいことが山よりも高く積もっているタダヒトではあったが、その全てを一旦押しとどめて、なんとか溜め息だけを吐く程度で済ませる。
 激昂しても、どうしようもないのは目に見えていた。
「ごほん。いえ、大丈夫です。悪気がないのなら、それで十分です」
「声に怒気を感じるなぁ」
「いえ、怒っていません」
「というか、感情的なタダヒト君を見るのは初めてだなぁ。わっしとしては、新鮮で嬉しいがぁ。っひひ」
「大変申し訳ありませんが、これでも精一杯感情を押しとどめているので」
「にしては印象変わりすぎだらぁ」
 困ったように笑う隆に対して、タダヒトはすっかり恐怖することがなくなっていた。
 というか、もう怖くもなんともなかった。
 隆という人物は、徹頭徹尾性欲でできている、ただのエロ虎おっさんなのだと認識してしまったからだ。
 しかも、気のいい方の、エロおやじだった。
 傍から見れば暴走気味だし、余計なお世話をしてくれてはいる、のだが。
「まあ、ケン様の本性を知ってしまった今、タカ様の本性については恐ろしさを感じないと言いますか」
「でも、わっしはタダヒト君になんでもできるんだぜぇ?」
「……どうせ、気持ちのいいことをしよう、とかですよね? タカ様は、それ以外のことに興味がない、ということなんですもんね?」
「ご名答のうえにご明察ぅ」
 最初に主人である、かの作家某に脅されていたから。そのうえ、自分はなにをされても抵抗できない身だから。だからこそ、この実験の参加者は全員恐ろしく感じた。
 が、蓋を開ければ、だ。好意的に接してくれる獅子獣人。快楽にしか興味のないエロ虎獣人。自分より下のものを作って自分の立場を楽しみたい狂気的な犬獣人。
 本当に危ない人物は、実のところ一人だけだったのである。
「はあぁぁ」
「溜め息ばっか吐いてちゃぁいかんぜぇ?」
「誰の、せいだと、思って、いらっしゃるんですか?」
「おお怖い怖い。まあ、少しは元気になったようで安心したぜぇ」
「そこは……タカ様には本当に感謝しています。それに、まあ、剛君とセックスできたことも、できるような体にしてくれたことも……一応」
 確かにあの時、バスルームで理性を失った剛を見て、それでもいいかと、思ったのだ。剛の、荒々しいセックスに快楽を感じることができたのも、言ってしまえば、目の前の男が体をいいようにしてくれたからである、ということも事実なのだ。
「おうよぉ。それとさぁ、様付けは、やめぇと言ったらやめてくれんのかい?」
「あ、嫌でしたか?」
「いや、なんか新手のプレイみたいで興奮しとったんやがぁ」
「……」
「流石に飽きた」
「左様で」
「ま、普通に呼び捨ててくれよ。隆、って」
「よ、びすて、ですか。まあ、その、タカ、がよければ」
「いいに決まってんじゃねぇか。やっぱセックス中は、呼び捨てにされる方が興奮するしなぁ」
「……」
 徹頭徹尾、呆れきってしまったタダヒトであった。ただまあ、おかげ様で気持ち的には楽になれたが、それでも隆のブレなさには、どうしても呆れかえってしまう。
「そうだ。昼飯はいいのかい?」
「ええっと、剛君はいらないと言っていましたし、ケン様は、どうだろう……」
「あんなやつ、ほっとけよぉ。タダヒト君甚振って楽しむとは、中々趣味のいいやつじゃぁねぇか」
「そうは、言ってもですね、タカ……」
「いや、聞きてぇのはよ。つまり、午後はフリーなんだよな、タダヒト君はよぉ?」
 確かに、その通りである。剛とは約束をしていないし、賢としては連続でタダヒトを自由にする権利を行使するのはルール違反だ。それでも、フリーでいるタダヒトを見つけたならば、どうなるかわからないが。
 なので、タダヒトとしても午後に隆と一緒に過ごすことは、実際安全策なのである。
「え、っと。タカ、は、僕になにかしたいことがあるんですか?」
「午後中ずっとまったりセックス」
「……」
「時間いっぱいねっとりセックス」
「聞くまでもなかったですね。はぁ」
「だぁいじょうぶだ。昨日みたいに、激しくはしねぇよぉ。今日は、ゆっくりタダヒト君を可愛がりてぇんだ」
「大丈夫要素が僕にはわからないんですけれど?」
「まかせろい。すぐにわからせてやらぁ」
 そういうと、隆はタダヒトをそっとベッドに押し倒した。いつもの、にやにやとした表情で。
 しかしその表情も、本人の気持ちを知ってしまったタダヒトからすれば、そんなに嫌なものには感じなかった。
「パンツだけ、脱がさせてなぁ」
「は、はい」
「なんでぇ、声が硬くなってんぞぉ?」
「ま、まだ、やっぱり、その……慣れなくて」
「愛らしいなぁ。いいぜ、すっかり全部任せてくれや」
 そういうと、隆はタダヒトを少しだけ転がし、横向きに寝かせると、パンツを脱がせた。こうやって、行動にうつされると、タダヒトはどこか緊張してしまって、さっきまでの軽口をどこかになくしてしまう。
 されるがまま、隆の行動を待っていると、後ろでなにかキャップを開ける音と、粘着質な音が聞こえてきた。
「あ、しまった。中、綺麗にしてあるか聞き忘れてたなぁ」
「大丈夫、です。ちゃんと、準備はしてある、ので」
 その準備は、今朝の段階ではまったく役に立たなかったのだが。
 さておき、今役に立とうとしているので、良かったということにしようと、タダヒトは投げやりに思った。


「た、か。ん、っぁ」
 部屋は、静かだった。静かだからこそ、漏れ出る嬌声が、思ったよりも大きな音に思えた。
 ベッドの軋む音はしない。肌をぶつける音もしない。激しい息遣いもない。
 聞こえるのは、たまに漏れるタダヒトの嬌声と、隆の囁くような声だけだった。
「おっ……わり、寝てたんらぁ」
「ね、っ、ねてた、って!」
「気持ちよくてなぁ」
「い、いみあいが、ちが、あっ」
「寝ても気持ちいい、起きても気持ちいいなんて、最高だなぁ」
 隆は、タダヒトを抱き締めながら、寝落ちしていたらしい。どおりで、先ほどから動かないはずだと、タダヒトは納得した。
 動いて欲しいのに、どこまでも自分本位で自由な人だなと、そう思った。
「ふ、あ、うご、かないでぇ」
「嘘つけぇ、動いて欲しいから起こしたんだらぁ?」
「あ、うぅ、い、いじわるっ……あっ」
「もうどれくらいたったかなぁ。外、暗くなってきちまったなぁ」
 窓の向こうは、薄暗くなっていた。元々、隆はカーテンをしていたので、外の様子はわかりにくかったのだが、それでも外が暗くなっていることぐらいはわかった。
「たか、たかぁ、もう、おわりにして、くださいよぉ」
「えぇ……どーすっかなぁ」
「もうなんじかんも、いれっぱなしじゃないですか、あ、っ」
「そぉだなぁ。タダヒト君は、その間いっぱい気持ちよくなっていたもんなぁ」
 では、外が暗くなるほどの時間を、タダヒトと隆はどうしていたかというと、なんてことはない、ベッドに横になったまま、セックスをしていたのだ。
 基本は横向きの姿勢で。たまに、姿勢を入れ替えて体を痛くしないように。抱き合う形で、隆はタダヒトの中に挿入していたのだった。
 この、何時間もの間、ずっと、である。
「たか、はぁ、いっかい、もっ、いって、ないじゃない、ですか、あっ!」
「っひひ、あまいなぁタダヒト君。セックスはよぉ、絶頂だけが気持ちいいんじゃぁねえんだぜぇ? わっしは、こうしてゆるゆると、タダヒト君の中をズブズブしているのも好きなんだわぁ」
「や、っ、ふかく、にっ……お、っぐ、や、だっ、い、いぐっ! っ! っあ!」
 基本は、緩い動きで。ストロークとさえ言えないほどの腰振りで、隆はタダヒトを犯した。けれど、まれに奥深くまで、ゆっくり、ゆっくりと沈める動きをすることがあった。
 その度に、タダヒトの体にはわけのわからない快楽が駆け巡り、体が痙攣するように震えるのであった。
 そんな絶頂を、この何時間で、いったい何度させられたのか。それを数えている余裕は、タダヒトにはなかった。
「お、っ、締まる……っくくく、タダヒト君は本当にいいセンスをしてんなぁ。今まで誰にも開発されなかったのが不思議なくらいだぜぇ」
「はっ、は、はぁ、あぁ、っ」
「ああ、愛らしいなぁ。セフレとしてじゃあなくてよぉ、甘やかしたくなっちまうなぁ」
「たかぁ……なか、に、だして、いいからぁ」
「……んな、よぉ。おねだりされちまったら」
 隆は、ゆるりと体を動かした。器用に、中に挿入されているそれを抜かないように、タダヒトをうつ伏せにして、その上に覆い被さるような体勢を取った。
 苦しくはないのだが、隆に乗られるかたちになったタダヒトは、少しだけ呻いた。
 もしくは、苦しさを感じる余裕が、ないだけなのかもしれないが。
「出さねぇわけには、いかねぇらぁ?」
 隆が、タダヒトの体に覆い被さったままで、ゆるゆると、腰を動かし始めた。その動きと連動するように体を襲う快感に耐えようと、タダヒトはベッドにシーツを強く握ろうとした。
 が、
 その手は、隆の大きな手に、押さえつけられてしまう。
「あー、すげぇ興奮すんら……タダヒト、ただひとぉ」
「っぐ、い、っ、が、はっ」
「あ、でる、もぉいっちまう、っ、お、ぐ、おぉぉぉ」
「っ、っう、あ、あー、っ!」
 そんな体勢で、タダヒトの中を奥深くまで貫いた隆の一物が、ひときわビクリと膨張すると、この何時間分の白濁を、中に注いでいった。
 それに合わせるように、視界が明滅するほどの刺激が、快感が、暴力的にタダヒトを襲った。それは、隆の射精が落ち着くまで、ねっとりと続くのだった。


「タカ! もう時間がだいぶ過ぎています! 急いでご飯を作らないとっ!」
「あー、っひひ、すまんすまん。タダヒト君が良すぎて、時間を気にする余裕がなかったんらぁ」
 二人は慌てた様子で、浴室から飛び出した。時刻は午後六時。夕飯時まではもう少しという時間であった。
 隆が絶頂を迎えた後、朦朧とするタダヒトを抱きながら、二人で浴室に行き、体を綺麗にした。交わっていた時間の割には、体が痛むことはなかった。長時間だが、ゆっくりとした行為であったのが、どうやら功を奏したようだ。
 シャワーで意識を取り戻したタダヒトは、自分でさっさと体を綺麗にして、隆と二人で浴室をあとにした……そうして、時計を見て、時間が思ったより過ぎていたことに驚き、急いでキッチンに向かったのである。
「どうしよう、とにかくなにか簡単な物を……って、あれ、この鍋は?」
「おーいタダヒト君や、テーブルにメモがあったぜぇ。なんでも、獅子の兄ちゃんが先に飯作って、食ってったらしーぞ」
「え、剛君が?」
 コンロに、調理したなにかが入っている鍋が、置いてあった。それは、テーブルに置いてあるメモを見るに、剛が自分で作った夕飯、その残りであるビーフシチューらしい。その他にも、冷蔵庫にサラダを用意しておいた、パンもご飯も準備しておいた、と書かれていた。
「あんの兄ちゃん、相当世話好きなんだな……ひひ、なんにせよ助かったなぁ」
「そう、ですね。剛君……ありがとう」
 顔を合わせられなくても、彼がタダヒトのことを少なからず思ってくれていることが、それでわかった。タダヒトはそれがただただ、嬉しかった。
「おや、お二人が一緒でしたか」
「あ、け、ケン様」
「おぉ。夕飯できてるぜぇ」
 そんなおり、賢が二階からリビングにやってきた。剛が気を回して夕飯を作っておいてくれたおかげで、彼の機嫌を損ねることを避けられた。
 あえて誰が作ったかは、言わない方が良いだろうと判断した。
「そうですか。それでは、いただきましょうかね」
「はい、ではこちらに……」
 タダヒトは、急いでコンロに火をかけると、その間に冷蔵庫のサラダを皿に盛り付けて、テーブルに並べた。そうして、パンを所望する二人のために、それも準備をしてテーブルの中央に配膳をする。
 ある程度温まったところでビーフシチューを深皿に盛ってしまえば、ものの数分で夕食の準備が完了した。
「っひひ、うまそぉなビーフシチューだ」
 かくして食卓には、三人が集まった。ビーフシチューを中心に、サラダとパンが付け合わせられた、洋食メニューを無事に並べることができた。
「そういえば、午後は彼と一緒にいたのですか?」
 いただきます、と言おうとしたところで、賢がそう聞いてきた。彼というのは、どうやら対面にいる隆のことを指しているらしい。
「え、ええ、そうです、けれど」
「じゃあ、夜はあの獅子獣人のところへ行くのですか?」
「あ……えっと、それは」
 新しく決めたルールとしては、午前、午後、夜間と分けて、それぞれ一人がタダヒトへ命令ができる、としていた。なので、賢からしてみれば、タダヒトは夜に剛のところへ行くと考えるのは自然である。
 けれど、タダヒトとしてはもちろん、剛の所へ行くつもりはなかった。なので、正直にそう答えてしまおうと、口を開こうとした。
「そうそう、タダヒト君は夜に、あの兄ちゃんと約束しているらしいぜぇ。だから、わっしは午後にじっくり楽しませてもらいやしたよ、っくく」
 のだが、それを遮って、隆がそう発言をした。驚いて隆を見やると、彼はタダヒトに一度ウインクをして、賢との会話を続け始めた。
「なるほど。それはいいですね。私も、午前中は楽しませてもらいましたよ」
「ひひ、みてぇですねぇ。タダヒト君の体、真っ赤でしたぜぇ?」
「おや、裸を見たのですか?」
「当たり前じゃぁねぇですか。セックスしたんだからよぉ」
「……ふうん」
 賢が、じとりとタダヒトを見た。その視線は、どう見ても好意的なものではなかったので、タダヒトはつい目線をそらしてしまった。
「ま、いいでしょう、わかりました。それでは、いただきます」
 彼は、どうでもよさそうに会話を断ち切ると、食事を始めた。それに合わせて、隆も、タダヒトも、いただきますと、食事を始めるのだった。


「夜、わっしの部屋に来い。いやいや、なんにもしねぇよぉ。リビングにいるの、あいつに見られたらまずいだろぉ? わっしの部屋で寝ていいからよ、片付けが終わったらこっそりこいよなぁ」
 食事を終え、賢が二階に上がったのを見送ってから、隆はそんなことをタダヒトに告げて、部屋に戻っていった。
 タダヒトの身を、案じてくれているらしい。
「はあ……驚いてばっかりだ、今日は」
 人の本性に、驚いてばかりの一日だった、と、タダヒトは今日を振り返りながら、洗い物をしていた。そのうえで、今日得た情報を、頭の中で整理していった。
 賢は、他人を見下すことに快楽を得る、らしい。それは、彼の過去に原因があるようだ、ということ。過去に、他人にだいぶ干渉をされたり、ないがしろにされたり、裏切られたり、甚振られたり……詳しくはわからないが、そんなところのなにかがあったのだろうことは、彼の言葉から想像するのが容易であった。
「過去に、今の僕と同じような立場にあったのかも、しれない」
 と、そんなことも考えたが、それでも賢に対しては、あまり同情するきになれなかった。あれだけの仕打ちを受けてなお同情ができるほど、タダヒトは聖人君子ではないのだ。
 過去にどれだけ、可哀想な目に遭っていようとも、今の彼は、紛れもなく自分を害する存在なのだ。
 警戒する以外にない。残りの日数を生き残るに、一番必要なことであった。
「まあ、警戒したとしても、もう、どうしようもなさそうだけれど」
 そうして、一度結論が出たことにより、タダヒトは次に隆のことを考え始める。
 隆は、ただ性的欲求に正直な人物であった。と、簡単にまとめてしまいたくなるが、実際はもう少し、複雑な生い立ちがあるようなのだ。それを、彼の言葉から推測するに、彼は生きるために、セックスを、性欲を使い潰してきたのだろう、と考えられた。
 けれどもそれは、賢の場合と違い、自身で決めた道だったのだろう。隆が自分で決めて、望んで進んだのだろう。そういう意味では、ただ性的欲求に正直だったのだろうと、表現して間違いではなかった。
 その部分を誤解しないで、隆という人物を真っ直ぐに見つめれば、彼が案外悪意に塗れていないことを、知ることができるのだろう。
 今日それを、タダヒトは知ることができたのだから。
「完全に予想外。人は見た目で判断してはいけないって言葉が一番しっくりくる。いや、見た目通りの人ではあるんだけれどもさ」
 自分にしたことを考えると許しきれはしないのだが、それでもこれからは、友好的に接することができそうである、と、心の中で総評をした。
 それでも、特大の余計なお世話に限っては、どうしても許せそうにはないタダヒトであった。
「悪気がないのが、一番困るんだよなぁ……はぁ」
 最後に、剛のことを思う。それだけで、胸中がざわついてしまう。
 このざわつきがなんなのか、タダヒトには予想ができていた。
 こんな状況でも、まるで善人のように接してくれた彼を、友好的に接してくれた彼を、好きになってしまったから、なのだと。
 吊り橋効果もかくや、と言った感じではある。吊り橋なんかよりも、もっと酷い状況ではあるが。
「だから、僕が負い目を感じるというのは、わかるんだけれど……」
 そこで一つだけ、疑問が生まれる。剛は確かに、タダヒトに手を出さないと約束をしていて、けれども隆の(史上最大級にはた迷惑な)計らいによりその禁を破ってしまった。それに対して、後悔するというのは、まあわかるのだ。
 けれど、だからといって強烈に後悔をすることだろうか。タダヒトはそう考える。
「別に、タカが悪いんだし。それに、僕も悪かった、かもしれないし。もっと言ってしまえば……状況は許してくれている。のに、どうして剛君は、ここまでの負い目を感じているのだろう」
 そこが、わからないのだ。誰も、剛を責めていない。状況も、それを許している。体を交えた本人すら、しかたないと言っている、のに。
「僕に惚れている、なんて言って」
 一度の過ちで、ソデにしてしまうのだろうか。そこが、タダヒトには、わからないのだった。
「はぁ……うん、おしまいっと」
 そうこう考えていると、洗い物は想像していたよりもずっと早く、終わってしまった。タダヒトは溜め息を一つおとすと、リビングの電気を切って、二階に、隆の部屋へと歩き始めた。
 風呂は、夕方のうちに入ってしまったし、隆はなにもしないと宣言していたので、準備をする必要もないと判断したタダヒトは、早々に彼の部屋へ籠もってしまおうと決めたのだった。
 どうあれ、一日が早く終わる方が、タダヒトにとっていいことであるのは、間違いのない事実であるのだから。
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