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11.この鈍感ボウヤをどうしてくれようか
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「あ、大丈夫だった?! マジでごめんね! 俺ちゃんと誤解だって謝ろうか?!」
李壱が店に戻ると先ほどまで号泣していた男――安条が心底申し訳なさそうに詫びて来るものだから李壱は呆れた様子で溜息を吐く。
「大丈夫よ。ったく、アンタがここで月一痴話喧嘩劇場を繰り広げているのを知らない人間もいるんだから、ほどほどにしなさいよね」
「ご、ごめん……。あのさ、きっとさっきの子李壱の恋人だよね? ほんと、ごめん」
謝っている当人だけではなく他の常連客達もさり気無さなんて皆無で思いっきり李壱を見ている。
だって先ほどの李壱の行動の速さと向かった方向を考えれば導き出される答えなどあまりにも簡単だからだ。
李壱はいつも穏やかでにこやかな柔らかい人当たりの良い雰囲気を持ってはいるが、基本的に他者にスキンシップを許さない。
酔っぱらいが肩を組もうとしても「はいはい邪魔よ」とつれない態度でさっと腕を外すし、しつこくしようものならあっさりと出禁を言い渡しもする。
安条が半ば恒例行事のように泣きながら抱き着いて行ってもいつもならその長い腕を駆使してあっさりとアイアンクローでお断りなのだが今日の李壱にはいつもは無い隙があったのだ。
何故か、何故か入り口ばかりチラチラ見ていて口にはしなくとも「誰か来るのか?」と鋭い奴らは思っていた。
安条も普段ならそう言った空気に敏い部類の人種だがパートナーとの痴話喧嘩と酔いのせいで勘が鈍っていて思いっきり抱き着いてはた迷惑にも泣き叫んだのだ。
その瞬間ドアが開いて、初めて見るやたら細身の若い男があからさまに驚いて即座に飛び出して行ったのだが……その後の李壱の行動は恐ろしい程素早かった。
一切の手加減や配慮などなく安条の首根っこを片手で軽々と鷲掴みして彼を迎えに来て少し離れた場所にいたパートナーの男に文字通り投げ渡し、学生時代に短距離走でもやってましたか? と言う速度で飛び出して行ったのだ。
皆が慌てて窓辺に寄った頃には既に先ほどの若い男をガッチリと捕獲してプライベート空間へと続く方向へ引き摺って行った事から見ても李壱にとって先ほどの男が特別であるのはまず間違いないだろう。
「俺……出禁になる?」
李壱からの返事を待てなかった安条が不安そうにそう言ったのを聞いて李壱はまた溜息を吐いた。
「しないわよ。……私も思いっ切り突き飛ばしちゃったけど大丈夫だった?」
「突き飛ばしたって言うより、清々しい程投げ捨ててたよな」
「こら、やめろよ! 俺はなんとも無かったから! 本当にごめん。これからは絶対に気を付ける」
無神経な感想を投げて来た別の男を安条が睨んで黙らせ再度謝罪をすると李壱はいつものように穏やかに笑った。
「じゃあお互い今後もよろしくってことでお願いね」
「うん!」
無事に話は纏まって周りもほっとしてそれぞれの定位置に無事解散! という流れになったのに、先ほど口を挟んだ男がにやにやと笑ってその場に残る。
ちなみにこの男は過去に「蟻地獄発言」をした張本人で名前は本田と言う。
「――なぁ李壱、アイツが可哀そうな『蟻』か?」
安条が去ったカウンターの傍で声を潜ませて言った本田に李壱は少しだけ目を細め、窘める様に返した。
「心外な言い方はやめて頂戴。私ね、そんな物騒な愛し方はしないのよ? 快適な環境をご用意してちゃあんと大事に大事にするんだから」
李壱の言葉を聞いて本田はとても楽しそうに笑った。
「まあ、どこまで進んだ関係かは知らねえけどあんな面して逃げていく位だから脈はあるわな。本人を見ればノンケ臭しか感じねえけどよ」
「やだわあ、他人のプライベートを詮索してくるなんて野暮ねえ。だからいつまで経っても独り者なのよ」
――ほらほら、私はオシゴトするからあっちで楽しく飲んでらっしゃい。
李壱がシッシとジェスチャーつきで追い払うと本田は「はいはい」とめんどくさそうに足を動かす。
「まあ……本人が『家』だと思えば『檻』も立派な『家』だわな」
「昔から思ってたけど、アナタって同族の匂いがしてたまにすっごく嫌だわー」
あー嫌だ嫌だ。
李壱がそう芝居っぽく言うと本田はまた笑って今度こそ去って行った。
李壱はちらりと時計を見る。
閉店まではまだ時間があるが、恭一は少しでも食事を摂ってお風呂に入っただろうか? 遠慮して部屋の隅で縮こまっていないだろうか。
――しかし、手料理と言う武器(スキル)が通じないのは痛いわねえ。
李壱は料理が得意だ。
その気になれば相手の胃袋なんて簡単に掴めると思っていたし事実としてその能力は備わっている。
しかし恭一はとっても特殊な例で「手料理NG」と言うレアな相手。
そしてその原因は――きっととても根深い。
押し掛けて来た栖原と言う男と、漏れ聞こえて来た祖父の話を脳内で組み立てる。それは詮索したいと言う意図ではなく恭一の地雷を不用意に踏まない為の脳内会議だ。
栖原は恭一の母親を『可純』と言った。
君がいくら否定しようとも『家族』であることはどうやったって変えられないんだ、とも言った。
その言葉に恭一は明らかに怒りの感情を出して、こんな言葉を返した。
戸籍でも取りに行きます? 僕の母親は『恵子』ですよ、と。
敢えて『戸籍』と言う単語を使ったあたり産みの親と育ての親が違うと取るべきか?
産みの母親が恭一を捨て、何かの意図をもって取り返そうとしていると見るべきか? 正解は分からないが祖父が恭一に向ける愛情は本物で深い物だと感じられたからそこは多分疑わなくても良さそうだとは思う。
何より恭一と言う人間を少しでも知った今だからこそ彼の根底には愛情をきちんと注がれて育てられた地盤が確かにある事は断言出来るのだ。
恭一が話してくれるならいくらでも聞く。それと同じくらいに恭一が話したくないなら何も聞かない。
もし仮に彼の身内に犯罪者がいようとも李壱は全く気にしないし、何も言いたくないなら言わなくて良い。
いつか気が向いたら話すからそれまで待てと言うなら何年でも待っても良い。
それは李壱の中で確定しているが、あの食生活だけは……出来る限り早く何とかしたい。少しだけでも、改善したい。
それほど恭一の身体は病的に細い。
店先で高熱を出して倒れた恭一を抱き上げた時の軽さと当たる骨の感触が忘れられないのだ。
先日家に泊めた時髪を乾かす為に頭を下げた恭一を背後から見て浮き出る骨の存在感に思わず恐れすら抱いた。
しかし……複雑であろう家庭環境と手料理NGはまず確実に密接な関係にあると思う。
それを考えると安易に踏み込めない。
李壱は絶対に恭一を傷付けたくないのだ。ただ、大事にして恭一が心身ともに穏やかにそして健やかに生きていくその隣に居たいだけなのだ。
そもそも手料理ってどこからが手料理?
李壱の中では炊飯器で炊いただけのご飯にふりかけをかけるのは手料理ではない。
しかしさり気無く聞き出した情報を基にすると恭一の中ではそれもあまり好まないようだったし、自炊ですら嫌だと言う発言もあった。
そうなると……調理の際に僅かでも人の手を介した工程が挟まるのが嫌なのか?
そう考えると少しだが腑に落ちる。
世の中料理が出来ない人間など腐る程いるが、そんな人間でも主食をわざわざバランス栄養食やゼリー飲料の類に定める者は少ないだろう。
しかしそうすると……どうやって恭一を太らせれば良いのだろうか?
本人が本人の美意識の元自己管理を行いあのスタイルを維持したいと願って行動しているなら李壱は口を出さないが恭一の場合は明らかに違う。
せめて今日の夕飯に冷凍食品の弁当類を選んでくれることを祈りつつ李壱は無心で作業の手を進めた。
今日の騒動に対して皆がさり気無く配慮してくれたおかげで定刻通りにクローズ出来た李壱はささっと閉店作業を手早くだが抜かりなく行い自宅スペースに戻ろうとして……おっといけない。ついいつもの癖で内階段で帰宅してしまう所だった。
鍵を預けたのは当然恭一を引き留める為の方便だったのでいずれはバレるだろうが今日くらいは外から回ろう。
……思えば誰かに迎え入れて貰うのは随分久し振りだし、リフォーム後の翡翠に住み始めてからは初めてのことだ。
そこまで考えて李壱は止まった。
珍しく最近仕事が忙しいと言っていた恭一はもしかしたら疲れ果てて眠っているかもしれない。
いや、寝ているのは全然良いのだが、眠気と懸命に戦いながら自分の帰りを健気に待っていたらどうしよう。
「やだもう、とんでもない失態だわ」
慌てて外に出て店のドアをロックする。
一度だけ……そう、一度だけインターフォンを押して恭一が出て来なかったら後で怒られるのを覚悟で内階段から戻ろう。
そう思った李壱は長い脚で階段を一段飛ばしで駆け上がった。
「……」
自宅のインターフォンを自分で押す日が来るとも思っていなかったし、何より押す前に一呼吸する必要があるなんて想定したことも無かった。
しかしいつまでもこうしていても無意味なので李壱はその長い指を伸ばす。
軽く押そうが強く押そうが室内に響く音量は一定なことなど分かり切っているのに気持ち軽く一度だけ押した。
よし、三十秒待とう。
待って開かなかったら店に戻って……なんて考えていると中から気配がした気がした。
かちゃん、と内側から音がしてドアが微かに内側から押し開かれる。
「お、お待たせしました」
――あ、絶対に寝てたわ……。
恭一を見て李壱は一瞬顔が引きつる。どうしましょう、自分自身の失態を許せない……。
しかし妙な態度を取っては先ほどのこともあって怯えさせて「じゃあ僕帰りますね」と言う流れになっても困るので敢えていつも通りを意識して行動することにした。
「遅くなってごめんね? もしかして寝てた? 申し訳ないわねえ」
「大丈夫です。ちょっとうとうとしてただけなので」
恭一はそう言ったが、明らかに顔に跡が付いている。
しかしそれを指摘するのは野暮なので李壱は「ありがとう」と言って家の中に入った。そして恭一がちゃんと自分が用意したスウェットに着替えていることにようやく気付いて思わず笑顔になる。
「ちゃんとお風呂に入ったのね! ご飯は食べた? 気に入るものがあったかしら」
「冷凍のお弁当を頂きました。ご馳走様でした」
「良いのよー、食べてくれて良かったわ」
よし。
取り敢えずカロリー摂取はしてくれたようだ。
本当はジュースを飲ませ、アイスを食べさせ、お菓子も好き放題与えたいがここで欲張っては逆効果になるだろう。
恭一の食関係の事柄は絶対に押し付けないと李壱は決めているのだ。
取り敢えず様々な選択肢を出来る限り用意して、選んでくれたら褒めるの一択で行こう。その内弁当だけだったのにデザートを上手く紛れ込ませそれを習慣にして行けたら良いなと密かに企んでいる。
今の恭一に必要なのはとにかく量だ。カロリーだ。口に入れて噛んで飲み込むという基本の動作の習慣化だ。
栄養バランスとか添加物とかそういうのはまず一旦脇に置いて、とにかく毎日最低限基礎代謝分くらいは食べて当たり前の所にまで時間を掛けて持って行きたい。本気でそう思っている。
恭一本人に自覚があるかは不明だが、先ほど自分に抱き着いて来た安条に対し彼は明らかに嫉妬していた。一瞬だけだったが表情に怒りや苛立ちの類が絶対に乗っていたのだ。
だからこそ李壱はちょっと強気になって、自分の中にある感情に全く気付いていない恭一を刺激する意味も込めて軽―いキスをした。
今までとはちょっと違うのよ! と伝える為に敢えて名前呼びを求めたし、自分もそうした。
――ほらほら! アナタ男にキスされちゃったのよ! もっと怒るとか戸惑うとかそう言うの無いの?
ちょっと位私を意識しても良いんじゃないの?!
警戒されて距離を取られるのも困るが、ここまで無かったことにされるのも……癪だ。非常に、癪である。
そしてちょっと考えた。
まさか……まさか、私の事「あの人ならキス位誰とでもしてそうだもんな~」って思って流してないわよね?!
愕然としてリビングまで戻った恭一の顔を見ると、彼は小さく欠伸をした。
それを見て「あ、これは駄目だ。早く温かいお布団に寝かしつけてあげないと」と即思考が切り替わった自分に李壱は少し驚いた。もしこれが世に言う『惚れた方の負け』状態だと言うならなかなかに辛いものだ。この歳になってそれを思い知るとは思わなかった。
「今お布団敷くわね~」
「え? 僕ソファで大丈夫ですよ」
本音でそう言っている恭一の脇を擦り抜けて李壱は恭一の為に新しく購入しておいた客用布団をクローゼットから出す。そしていつでも即使える様に準備万端にしてあるソレを自分のベッドの隣に並べたい気持ちを抑えて敢えてリビングの隅に敷いた。
「はいどうぞ。私もシャワーしてすぐに寝るから気にしないで休んでてね」
「ありがとうございます」
リビングの照明を落としてリモコンを渡すと恭一は礼を言って受け取って、何の警戒心も無い笑顔で李壱に言った。
「すっごく何もかもが快適なんですけど、将来的に民泊を始めるつもりなんですか?」
――全部、お前の為に決まってんだろうが!!
長年の使用ですっかり骨の髄まで染み込んでいた筈のオネェ言葉が一瞬で吹き飛んだが、寸での所で声に出すことはなんとか踏み止まった。
良かった、自分自身の大人としての矜持を失うことが無くて本当に良かった。
相手の都合で一方的に押し付けられる愛情が齎す負担を李壱は知っている。だから李壱が恭一にしている全ては自己満足だ。
勝手にやりたくてやっていることで、それは絶対に忘れてはならない大切なポイントだ。
ふーっと恭一に聞こえないように小さく深呼吸した後李壱は敢えて言った。頼むからちょっとくらいは意識してくれよ、という本音を軽い口調に織り交ぜて。
「ぜーんぶ可愛い恭一クン相手だからよー? 私って意外と尽くすタイプだ・か・ら♡」
自分の顎に人差し指を添えて意味深感を出しつつ言ったのに……返って来た言葉はこれだった。
「あはは! ありがとうございます、おやすみなさい」
――今に見ていろ鈍感ボウヤ。
取り敢えず今は……見逃しておいてあげるわ。
李壱が店に戻ると先ほどまで号泣していた男――安条が心底申し訳なさそうに詫びて来るものだから李壱は呆れた様子で溜息を吐く。
「大丈夫よ。ったく、アンタがここで月一痴話喧嘩劇場を繰り広げているのを知らない人間もいるんだから、ほどほどにしなさいよね」
「ご、ごめん……。あのさ、きっとさっきの子李壱の恋人だよね? ほんと、ごめん」
謝っている当人だけではなく他の常連客達もさり気無さなんて皆無で思いっきり李壱を見ている。
だって先ほどの李壱の行動の速さと向かった方向を考えれば導き出される答えなどあまりにも簡単だからだ。
李壱はいつも穏やかでにこやかな柔らかい人当たりの良い雰囲気を持ってはいるが、基本的に他者にスキンシップを許さない。
酔っぱらいが肩を組もうとしても「はいはい邪魔よ」とつれない態度でさっと腕を外すし、しつこくしようものならあっさりと出禁を言い渡しもする。
安条が半ば恒例行事のように泣きながら抱き着いて行ってもいつもならその長い腕を駆使してあっさりとアイアンクローでお断りなのだが今日の李壱にはいつもは無い隙があったのだ。
何故か、何故か入り口ばかりチラチラ見ていて口にはしなくとも「誰か来るのか?」と鋭い奴らは思っていた。
安条も普段ならそう言った空気に敏い部類の人種だがパートナーとの痴話喧嘩と酔いのせいで勘が鈍っていて思いっきり抱き着いてはた迷惑にも泣き叫んだのだ。
その瞬間ドアが開いて、初めて見るやたら細身の若い男があからさまに驚いて即座に飛び出して行ったのだが……その後の李壱の行動は恐ろしい程素早かった。
一切の手加減や配慮などなく安条の首根っこを片手で軽々と鷲掴みして彼を迎えに来て少し離れた場所にいたパートナーの男に文字通り投げ渡し、学生時代に短距離走でもやってましたか? と言う速度で飛び出して行ったのだ。
皆が慌てて窓辺に寄った頃には既に先ほどの若い男をガッチリと捕獲してプライベート空間へと続く方向へ引き摺って行った事から見ても李壱にとって先ほどの男が特別であるのはまず間違いないだろう。
「俺……出禁になる?」
李壱からの返事を待てなかった安条が不安そうにそう言ったのを聞いて李壱はまた溜息を吐いた。
「しないわよ。……私も思いっ切り突き飛ばしちゃったけど大丈夫だった?」
「突き飛ばしたって言うより、清々しい程投げ捨ててたよな」
「こら、やめろよ! 俺はなんとも無かったから! 本当にごめん。これからは絶対に気を付ける」
無神経な感想を投げて来た別の男を安条が睨んで黙らせ再度謝罪をすると李壱はいつものように穏やかに笑った。
「じゃあお互い今後もよろしくってことでお願いね」
「うん!」
無事に話は纏まって周りもほっとしてそれぞれの定位置に無事解散! という流れになったのに、先ほど口を挟んだ男がにやにやと笑ってその場に残る。
ちなみにこの男は過去に「蟻地獄発言」をした張本人で名前は本田と言う。
「――なぁ李壱、アイツが可哀そうな『蟻』か?」
安条が去ったカウンターの傍で声を潜ませて言った本田に李壱は少しだけ目を細め、窘める様に返した。
「心外な言い方はやめて頂戴。私ね、そんな物騒な愛し方はしないのよ? 快適な環境をご用意してちゃあんと大事に大事にするんだから」
李壱の言葉を聞いて本田はとても楽しそうに笑った。
「まあ、どこまで進んだ関係かは知らねえけどあんな面して逃げていく位だから脈はあるわな。本人を見ればノンケ臭しか感じねえけどよ」
「やだわあ、他人のプライベートを詮索してくるなんて野暮ねえ。だからいつまで経っても独り者なのよ」
――ほらほら、私はオシゴトするからあっちで楽しく飲んでらっしゃい。
李壱がシッシとジェスチャーつきで追い払うと本田は「はいはい」とめんどくさそうに足を動かす。
「まあ……本人が『家』だと思えば『檻』も立派な『家』だわな」
「昔から思ってたけど、アナタって同族の匂いがしてたまにすっごく嫌だわー」
あー嫌だ嫌だ。
李壱がそう芝居っぽく言うと本田はまた笑って今度こそ去って行った。
李壱はちらりと時計を見る。
閉店まではまだ時間があるが、恭一は少しでも食事を摂ってお風呂に入っただろうか? 遠慮して部屋の隅で縮こまっていないだろうか。
――しかし、手料理と言う武器(スキル)が通じないのは痛いわねえ。
李壱は料理が得意だ。
その気になれば相手の胃袋なんて簡単に掴めると思っていたし事実としてその能力は備わっている。
しかし恭一はとっても特殊な例で「手料理NG」と言うレアな相手。
そしてその原因は――きっととても根深い。
押し掛けて来た栖原と言う男と、漏れ聞こえて来た祖父の話を脳内で組み立てる。それは詮索したいと言う意図ではなく恭一の地雷を不用意に踏まない為の脳内会議だ。
栖原は恭一の母親を『可純』と言った。
君がいくら否定しようとも『家族』であることはどうやったって変えられないんだ、とも言った。
その言葉に恭一は明らかに怒りの感情を出して、こんな言葉を返した。
戸籍でも取りに行きます? 僕の母親は『恵子』ですよ、と。
敢えて『戸籍』と言う単語を使ったあたり産みの親と育ての親が違うと取るべきか?
産みの母親が恭一を捨て、何かの意図をもって取り返そうとしていると見るべきか? 正解は分からないが祖父が恭一に向ける愛情は本物で深い物だと感じられたからそこは多分疑わなくても良さそうだとは思う。
何より恭一と言う人間を少しでも知った今だからこそ彼の根底には愛情をきちんと注がれて育てられた地盤が確かにある事は断言出来るのだ。
恭一が話してくれるならいくらでも聞く。それと同じくらいに恭一が話したくないなら何も聞かない。
もし仮に彼の身内に犯罪者がいようとも李壱は全く気にしないし、何も言いたくないなら言わなくて良い。
いつか気が向いたら話すからそれまで待てと言うなら何年でも待っても良い。
それは李壱の中で確定しているが、あの食生活だけは……出来る限り早く何とかしたい。少しだけでも、改善したい。
それほど恭一の身体は病的に細い。
店先で高熱を出して倒れた恭一を抱き上げた時の軽さと当たる骨の感触が忘れられないのだ。
先日家に泊めた時髪を乾かす為に頭を下げた恭一を背後から見て浮き出る骨の存在感に思わず恐れすら抱いた。
しかし……複雑であろう家庭環境と手料理NGはまず確実に密接な関係にあると思う。
それを考えると安易に踏み込めない。
李壱は絶対に恭一を傷付けたくないのだ。ただ、大事にして恭一が心身ともに穏やかにそして健やかに生きていくその隣に居たいだけなのだ。
そもそも手料理ってどこからが手料理?
李壱の中では炊飯器で炊いただけのご飯にふりかけをかけるのは手料理ではない。
しかしさり気無く聞き出した情報を基にすると恭一の中ではそれもあまり好まないようだったし、自炊ですら嫌だと言う発言もあった。
そうなると……調理の際に僅かでも人の手を介した工程が挟まるのが嫌なのか?
そう考えると少しだが腑に落ちる。
世の中料理が出来ない人間など腐る程いるが、そんな人間でも主食をわざわざバランス栄養食やゼリー飲料の類に定める者は少ないだろう。
しかしそうすると……どうやって恭一を太らせれば良いのだろうか?
本人が本人の美意識の元自己管理を行いあのスタイルを維持したいと願って行動しているなら李壱は口を出さないが恭一の場合は明らかに違う。
せめて今日の夕飯に冷凍食品の弁当類を選んでくれることを祈りつつ李壱は無心で作業の手を進めた。
今日の騒動に対して皆がさり気無く配慮してくれたおかげで定刻通りにクローズ出来た李壱はささっと閉店作業を手早くだが抜かりなく行い自宅スペースに戻ろうとして……おっといけない。ついいつもの癖で内階段で帰宅してしまう所だった。
鍵を預けたのは当然恭一を引き留める為の方便だったのでいずれはバレるだろうが今日くらいは外から回ろう。
……思えば誰かに迎え入れて貰うのは随分久し振りだし、リフォーム後の翡翠に住み始めてからは初めてのことだ。
そこまで考えて李壱は止まった。
珍しく最近仕事が忙しいと言っていた恭一はもしかしたら疲れ果てて眠っているかもしれない。
いや、寝ているのは全然良いのだが、眠気と懸命に戦いながら自分の帰りを健気に待っていたらどうしよう。
「やだもう、とんでもない失態だわ」
慌てて外に出て店のドアをロックする。
一度だけ……そう、一度だけインターフォンを押して恭一が出て来なかったら後で怒られるのを覚悟で内階段から戻ろう。
そう思った李壱は長い脚で階段を一段飛ばしで駆け上がった。
「……」
自宅のインターフォンを自分で押す日が来るとも思っていなかったし、何より押す前に一呼吸する必要があるなんて想定したことも無かった。
しかしいつまでもこうしていても無意味なので李壱はその長い指を伸ばす。
軽く押そうが強く押そうが室内に響く音量は一定なことなど分かり切っているのに気持ち軽く一度だけ押した。
よし、三十秒待とう。
待って開かなかったら店に戻って……なんて考えていると中から気配がした気がした。
かちゃん、と内側から音がしてドアが微かに内側から押し開かれる。
「お、お待たせしました」
――あ、絶対に寝てたわ……。
恭一を見て李壱は一瞬顔が引きつる。どうしましょう、自分自身の失態を許せない……。
しかし妙な態度を取っては先ほどのこともあって怯えさせて「じゃあ僕帰りますね」と言う流れになっても困るので敢えていつも通りを意識して行動することにした。
「遅くなってごめんね? もしかして寝てた? 申し訳ないわねえ」
「大丈夫です。ちょっとうとうとしてただけなので」
恭一はそう言ったが、明らかに顔に跡が付いている。
しかしそれを指摘するのは野暮なので李壱は「ありがとう」と言って家の中に入った。そして恭一がちゃんと自分が用意したスウェットに着替えていることにようやく気付いて思わず笑顔になる。
「ちゃんとお風呂に入ったのね! ご飯は食べた? 気に入るものがあったかしら」
「冷凍のお弁当を頂きました。ご馳走様でした」
「良いのよー、食べてくれて良かったわ」
よし。
取り敢えずカロリー摂取はしてくれたようだ。
本当はジュースを飲ませ、アイスを食べさせ、お菓子も好き放題与えたいがここで欲張っては逆効果になるだろう。
恭一の食関係の事柄は絶対に押し付けないと李壱は決めているのだ。
取り敢えず様々な選択肢を出来る限り用意して、選んでくれたら褒めるの一択で行こう。その内弁当だけだったのにデザートを上手く紛れ込ませそれを習慣にして行けたら良いなと密かに企んでいる。
今の恭一に必要なのはとにかく量だ。カロリーだ。口に入れて噛んで飲み込むという基本の動作の習慣化だ。
栄養バランスとか添加物とかそういうのはまず一旦脇に置いて、とにかく毎日最低限基礎代謝分くらいは食べて当たり前の所にまで時間を掛けて持って行きたい。本気でそう思っている。
恭一本人に自覚があるかは不明だが、先ほど自分に抱き着いて来た安条に対し彼は明らかに嫉妬していた。一瞬だけだったが表情に怒りや苛立ちの類が絶対に乗っていたのだ。
だからこそ李壱はちょっと強気になって、自分の中にある感情に全く気付いていない恭一を刺激する意味も込めて軽―いキスをした。
今までとはちょっと違うのよ! と伝える為に敢えて名前呼びを求めたし、自分もそうした。
――ほらほら! アナタ男にキスされちゃったのよ! もっと怒るとか戸惑うとかそう言うの無いの?
ちょっと位私を意識しても良いんじゃないの?!
警戒されて距離を取られるのも困るが、ここまで無かったことにされるのも……癪だ。非常に、癪である。
そしてちょっと考えた。
まさか……まさか、私の事「あの人ならキス位誰とでもしてそうだもんな~」って思って流してないわよね?!
愕然としてリビングまで戻った恭一の顔を見ると、彼は小さく欠伸をした。
それを見て「あ、これは駄目だ。早く温かいお布団に寝かしつけてあげないと」と即思考が切り替わった自分に李壱は少し驚いた。もしこれが世に言う『惚れた方の負け』状態だと言うならなかなかに辛いものだ。この歳になってそれを思い知るとは思わなかった。
「今お布団敷くわね~」
「え? 僕ソファで大丈夫ですよ」
本音でそう言っている恭一の脇を擦り抜けて李壱は恭一の為に新しく購入しておいた客用布団をクローゼットから出す。そしていつでも即使える様に準備万端にしてあるソレを自分のベッドの隣に並べたい気持ちを抑えて敢えてリビングの隅に敷いた。
「はいどうぞ。私もシャワーしてすぐに寝るから気にしないで休んでてね」
「ありがとうございます」
リビングの照明を落としてリモコンを渡すと恭一は礼を言って受け取って、何の警戒心も無い笑顔で李壱に言った。
「すっごく何もかもが快適なんですけど、将来的に民泊を始めるつもりなんですか?」
――全部、お前の為に決まってんだろうが!!
長年の使用ですっかり骨の髄まで染み込んでいた筈のオネェ言葉が一瞬で吹き飛んだが、寸での所で声に出すことはなんとか踏み止まった。
良かった、自分自身の大人としての矜持を失うことが無くて本当に良かった。
相手の都合で一方的に押し付けられる愛情が齎す負担を李壱は知っている。だから李壱が恭一にしている全ては自己満足だ。
勝手にやりたくてやっていることで、それは絶対に忘れてはならない大切なポイントだ。
ふーっと恭一に聞こえないように小さく深呼吸した後李壱は敢えて言った。頼むからちょっとくらいは意識してくれよ、という本音を軽い口調に織り交ぜて。
「ぜーんぶ可愛い恭一クン相手だからよー? 私って意外と尽くすタイプだ・か・ら♡」
自分の顎に人差し指を添えて意味深感を出しつつ言ったのに……返って来た言葉はこれだった。
「あはは! ありがとうございます、おやすみなさい」
――今に見ていろ鈍感ボウヤ。
取り敢えず今は……見逃しておいてあげるわ。
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オメガバース。BL。主人公君はβ→Ω。
αに言い寄られるがβなので相手にせず、Ωの優等生に片想いをしている。それがαにバレて色々あってΩになっちゃう話です。
β(Ω)視点→α視点。アレな感じですが、ちゃんとラブラブエッチです。
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