神様は僕に笑ってくれない

一片澪

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07.思わず握り締めたのは大きな手だった

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「おはよー、本当にちゃんとこんな場所で眠れたの?」

翌朝優しい声で起こされた恭一は「はて?ここは?」と一瞬だけ混乱したがすぐに思い出した。そうか、昨日李壱の家に匿って貰ったんだ。
ソファなんかじゃ熟睡出来ないわよ! と李壱は昨夜結構粘ったが全然そんな事無かった。
嫌な夢を見て魘されることも無く熟睡出来たし、腰痛も全く無い。

「おはようございます。すごく良く眠れました……久し振りにスッキリしています」

事実なので素直にそう返すと李壱はちょっとだけ複雑そうな顔をしたが「なら良かったわ」と笑った。
顔を洗ってトイレに行ってきなさい、と促され起床。
恭一が借りたブランケットは李壱が当たり前のように片付けてくれたので礼だけ言って即動く。言われた通りのことを熟して戻って来るとキッチンにはとても良い香りが満ちていた。

――珈琲だ! 李壱の珈琲が朝から飲めるなんてすごい!

その嬉しさが顔に出ていたのか、李壱はとても優しく笑って着席を促してくれた。
テーブルの上にはコンビニのサンドイッチとおにぎりとサラダとカロ〇ーメイト。……全部恭一でも食べられる物を揃えてくれたことに胸の中がなんとも形容しがたい感情に包まれる。温かさと心苦しさの比率が難しい。

「……すみません、わざわざ買いに行ってくれたんですか? おいくらでしたか?」

申し訳なさからそう言った恭一の顔を見て、李壱は真面目な顔をして長い人差し指をピンと立てた。

「ストップよ、やり直しを要求するわ!」
「……え?」

意味が分からずきょとんとした恭一を真っすぐ見て李壱は続ける。
ちなみに寝起きの部屋着姿のままヘアバンドで前髪を上げているだけでも男前は男前である。これまたずるい。

「『ありがとう李壱、大好き! 僕嬉しい!』の方がずうっと私が嬉しいわ。朝っぱらから申し訳なさそうな顔をさせて謝罪を引き出す為にしたことじゃないんだから」
「あ……」

李壱が言いたいことは理解出来る。
でもそれが許されるのはもっと……何と言うか、愛されキャラの人だけで、恭一のような陰キャは真っ先に詫びることしか出来ない。
素直に他者からの親切をストレートに受け取って即プラスの感情を返すと言うのは思いのほか難しいことなのだ。

――でも、李壱相手ならそれが出来る気がした。
この人はきっと恭一がどれだけ言葉に詰まっても顔が引きつっても口調がぎこちなくても馬鹿にしたりはしない。

「あ……ありがとうございます。僕、ツナ好きです」

どうにか言い切った恭一の顔を見て、李壱は飛び切り嬉しそうに「良かった」と笑った。

二人揃って「頂きます」をして食事は始まった。
始まりはしたが、全てを差し置いて美味しい珈琲を飲んでうっとりしていたら李壱から「お願いだから胃に何か入れてちょうだい」と切実な表情で言われたので恭一は慌ててサンドイッチを口に入れる。

いつもパン類はモサモサしているから口に入れているのが辛くて少しだけ噛んで水分で流し込むようにして何とか胃に落とすのだが、貴重な李壱の珈琲をそんなことで浪費するつもりは無いので頑張って噛んだ。……噛んだら何故か不思議といつもより美味しいと思えた。

食事を終えて恭一はせめて食器くらいは運ばせて欲しいと手伝いを申し出た。
李壱は「そう? 助かるわ~」と言って許してくれたので、絶対に落として割らないように細心の注意を払ってたった数メートルの距離を二、三回だけ往復してすぐに終わる。洗うのは李壱がやってくれるらしいので甘えさせてもらった。

――さて、そろそろ帰らないと。
いくらなんでも甘え過ぎだな、と思った恭一が切り出すより先に李壱がソファへの着席を促してから口を開いた。

「あのオッサンね、昨日の夜私がコンビニに行く時はいたわ。でも戻って来たら消えてたの」
「あ……はい」

そんなことまで確認してくれたのか……と感動している間に話は続く。

「でも今朝また外に出たら同じ場所に戻って来てたわ。ホントに気持ち悪いわねえ、私はアナタがここにいるのは大歓迎だけどアナタにも仕事や用事があるでしょう? どうする? 本当に一回警察呼ぶ?」

あくまでも恭一の判断に委ねてくれる李壱の優しさに、恭一は考えた。
無いとは思うけれど警察を呼ぶことで李壱や李壱のお店に迷惑を掛けてしまう可能性はゼロではない。
だったら……祖父に頼むのがやはり一番良いのかも知れない。

栖原が本当にあの女の配偶者なら祖父は義理の父に当たる。恭一には甘いところのある義父だが長年経営者として家族を守り通して来た経緯を考えると、栖原にハッキリと意見を言える人間なのではと思えた。

「……祖父に、電話してみたいと思います」
「おじい様?」
「はい……多分、祖父なら……多分」

俯いて冷たくなった指先をぎゅうっと握り締める仕草を見せた恭一を李壱は静かに見遣る。
しかしやっぱり詮索の類は一切せずに簡潔に言った。

「私は外した方が良い? それとも、隣に居ても良い?」

思わず顔をはね上げて視線を合わせると同時に、恭一は即答していた。

――そこに、いて貰えませんか?

と。

大学を卒業して新しい今も住んでいる賃貸マンションを契約した後、恭一は携帯番号すら変更した。
その時に地元に関する全ての物を捨て去った為祖父の携帯番号は不明だが、かつての実家には固定電話があってその番号だけは今も暗記している。

今は三人掛けのソファに座っていて、隣には李壱が居てくれる。
たったそれだけのことに強い心強さを覚えた恭一は一度深呼吸をした後スマホを開いた。

無意識に一八四を押してから固定電話の番号を打ち込む。
たった一度きりの連絡にするつもりだから出来れば番号は知られたくないが、非通知拒否の設定にされていた時は諦めよう。
そう思って発信ボタンを押すとコール音が鳴った。
ほっとすれば良いのか、そもそも平日の今の時間帯に本当に祖父は在宅しているのかとか今更なことが頭を過る。
まあ出るのは祖母でも構わない。伝えて貰えれば良いだけだ、と思っていると――電話が繋がった。

「はい」

ああ、祖父だ。
久し振りに聞く声だが間違えようがなかった。非通知で掛けて来た相手に警戒心を抱いていることが分かる硬質な声だが、恭一には分かった。
だから空いている右手でぎゅうっと太もも辺りを握り締めて口を開く。

「――恭一です」
「っ?! ほ、本当に恭一か? 元気なのか? 今、どうしている?」

思わず耳に当てていたスマホをちょっと離してしまうほどの声量に驚くが、恭一がしたいのは世間話ではない。
だから敢えて気遣うような祖父の言葉を聞き流して用件を口にする。

「栖原と名乗る男が昨日から僕を付け回していて、今も車で近所に待機していてとても迷惑しています」
「――なんだと?」

祖父の短い言葉には明らかな怒りの色があった。
その怒りが恭一に向けられていないことは明らかだが、滅多に聞いたことの無い祖父の怒りを孕んだ声は正直怖い。
でも恭一は続けた。

「喫茶店で珈琲を飲んでいただけなのにいきなりやって来て、店内で偉そうに『家族』を語ってお店の方に摘み出されていましたよ。これ以上ストーカー行為を継続するなら僕は通報します。他人様にも迷惑を掛けて、僕の日常生活にも影響が出ていますから」

しっかり自分の太ももを握っていた筈の手が震える。
それに気付いた李壱が触れはしないが気遣わしげに傍に寄せてくれた大きな手を、恭一は無意識に握り締めた。

李壱は自分の手に縋るように重ねられた恭一の手が氷のように冷たいことに気付き、すぐに温めてやりたくなったがどう見ても恭一は李壱の手を握っている事に気付いていないので今変に動くとこの手は離れていくだろうと思い、動きを自制する。
漏れ聞こえてくる恭一の祖父の声は落ち着いてはいたが、李壱が聞いても明らかに怒っていた。多分、想像するより遥かに。

「迷惑を掛けてすまなかったな。私から連絡してすぐにその場を離れる様に命じておく」
「お願いします」
「この電話を切ったらすぐにあの男に連絡するから、その後もその場を離れないようだったら遠慮なく不審者として通報しなさい。恭一には無関係な人間だ。あの男本人にも恭一から望まれない限り絶対に接触するなと最初から言い渡してある」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」

これで終わりだ……と画面操作をする為に耳を離した時、祖父がぽつりと漏らした声が聞こえた。
恭一にも、李壱にも。

「またお前の声が聞けて良かった。――困ったことがあったらいつでも連絡して来なさい」

一瞬息を飲んだのと同時にプツ、と無機質な音を立てて通話が切れる。


その瞬間恭一の情緒が大きく乱れた。

死に際でも何でもないのに楽しかった頃の記憶が走馬灯のように脳裏を一気に駆け抜けて、言葉に出来ない感情が溢れる。溢れた感情の形は、涙だった。
恭一の両目から制御不能な量の涙がボロボロと零れ落ちたことに一番驚いたのは本人だ。

――今までずっと、どれだけしんどくても、悲しくても苦しくても絶対に出て来なかった涙が、何故だか今急に溢れて止まらない。
困惑して自らの頬を伝う涙をスマホを適当に置いた手で雑に拭った恭一を、李壱は自らも泣き出しそうな表情で見詰めて言った。

「……泣き方も分からないまま大人にならなきゃいけなかったのね、アナタ」
「す、すみません、コレなんだろう。あ、手もすみません!」

ばっと急いでいつの間にやら握っていた手を離すと、たった今離したばかりの李壱の大きな手がゆっくりと伸びて来て指先で恭一のボロボロと流れて止まらない涙を優しく拭ってくれる。
飲食店のマスターと言うと水仕事が多そうなイメージが強くて手が荒れていても不思議じゃないのに、李壱の指先は滑らかだった。


「泣きたい時は、我慢せずに全部出すの。涙も、鼻水も。遣る瀬無い感情は声にしてとにかく外に出すの。……それをしないと、心がずっとパンパンで他の感情が入るスペースがいつまで経っても出来ないのよ」


穏やかな声で諭すようにそう言われて、恭一はこくりと頷いた。
声を上げて子供のように泣いたのは、記憶にある限り初めての経験だった。

一通り泣いて、その後強烈な頭痛と倦怠感を覚えぐったりしていると李壱は小さめの保冷剤をタオルで巻いて目を冷やしてくれた。……しかし、いくら李壱より年下でも、恭一だって一応成人男性だ。
恥も外聞もなく泣き喚いたところを見せたのは流石に恥ずかしい! と密かに身悶えしていると李壱は余裕綽々と言った風に口の端をにやりと上げて悪戯っぽく笑う。

「子猫ちゃんが真っ赤なお目々の子兎ちゃんになったって大して変わりゃしないわよ。アナタ、元から可愛いんだからもっと自分に自信持ちなさい」

その言葉を聞いて……自分は何を思えば良いんだ?
少し考えたがちっとも分からないので、恭一はこれまた聞き流すことにしたのだが――李壱はその反応を見てまたしても笑っていた。

気付いた時には栖原の車は居なくなっていたけれど、恭一はなんとなくその日の夕方まで李壱の部屋に置いてもらった……と言うよりは、気付いたらあっという間に夕方になっていた。
李壱の傍は息がしやすい。
それに気付くのは、自然なことだった。
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