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04.誤解を招く表現はどうかやめて欲しい
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「これから帰るの? もう遅いから送るわ、さあ乗って」
にっこりと効果音が付きそうな位の笑顔なのに何故か言い知れない圧を感じる。
感じるが、恭一は小さく首を振った。
「いえ……僕、アイス食べてるので車汚したら悪いし、近いから大丈夫です」
「送・る・わ」
「え……いや、神室さん……何か買いに来たんじゃ――?」
意味が分からず無意味に彼の顔とコンビニの間を視線が往復する。
しかし李壱は全く引かなかった。
「気にしないで良いのよ。ほら、乗って乗って」
「いや……え」
くんっと掴まれたままの腕を引かれて少しの距離を歩き、李壱は助手席のドアを開ける。
車には興味がない恭一でも知っているエンブレム。それは確か国内最大手のメーカーが出している高級車のラインだ。ずっと外車だと思っていたから国産らしいと知った時にはちょっと驚いた記憶がある。
真夜中でも煌々と光を放つコンビニが照らし出すシートはなんだか本革っぽい。
詳しくないから断定は出来ないけれど、絶対本革だと思う。高いんだよね? 電車やバスの布系のシートと比べて何割高いかとかは知らないけれど確実に高いことは分かった。
もう子供じゃないし今は真夏でも無いから普通にアイスを食べていて零す可能性は低いとは思うけれど、こんな大事な時に限って零すって言う最悪の事態も見える恭一は足を突っ張って再度首を左右に振った。
「無理です。僕、絶対零します」
断固として拒否だ。
そう強く心に誓って言った恭一を見て李壱は口元に笑みを浮かべたまま頷く。
「じゃあいくらでも待つから気にせずこのまま食べちゃって? 食べ終わったら一緒に帰りましょ」
「……え」
やばい。なんか送ってもらうことが何故か確定路線に入ってしまった気がする。
この間もにこにこしているのに妙に強い圧が消えないことから恭一は諦めた。
――うんせめて急ごう。
ゆっくり味わいたかったダッツに心の中で別れを告げて大きく一口を頬張った恭一に李壱は「ゆっくりお食べなさいな」と言って車体に軽く寄り掛かりこちらに穏やかな笑顔を見せていた。
「お待たせしました」
「待ってないわよ? 急がせて悪かったわね」
もう一度店内に戻ってゴミを捨てて、手を念の為軽く洗って戻ると入り口で待ち構えていた李壱に促され今度こそ本革シートに座る羽目になった。
ぎゅ、と擦れるような独特の感覚を抱くのは随分久し振りだと思い記憶を浚うとそうか……祖父の車もこれだったなと思い出して慌てて記憶の外に追いやる。自分は感傷なんて必要としていない。
ちゃんと座ったのにまだドアを開けてこちらを見ている李壱が不思議で高い位置にある顔を見遣ると、視線でシートベルト着用を促された。
「……あ、はい」
かちゃっと音を立ててそれを確かに締めると「ドア閉めるわよー」と明るい声がして静かにドアが閉まる。
まさか逃亡すると思われているのか? 何か怖い事でも考えているのか? とも思ったがまさかこんな男にも女にも絶対不自由していないであろう人間がよもや自分ごときに妙なことを考えるはずがないなと恭一は思った。
少しの間の後運転席側のドアが開いて、大きな身体が滑り込んでくる。
「お家はどの辺りなのー?」
「いえ、本当に近くて……歩いて五分以内なので本気で車で送って貰わなくて大丈夫なんですけど……」
会話らしい会話すら必要とせず到着する距離なので素直にそう言っただけなのに、李壱は笑顔のまま同じ言葉を繰り返した。
何がどうしてこうなったかは知らないが、彼の中では引くと言う選択肢は今の所無いようである。
だから恭一は諦めて自分の住んでいるマンションがある方向を指さす。
すると李壱は「りょうかーい」と軽く微笑んでまたサングラスを装着した。密閉空間での沈黙が何故か怖くて恭一は疑問を声にしてみる。
「夜でもサングラスするのってお洒落だからですか?」
我ながらどうかと思う質問文になったが、李壱は気を悪くした風もなくまだパーキングに入れたままの状態で恭一の方を見てサングラスを少しだけずらした。
「私瞳の色素が薄い方だから光に弱いの。夜が更けて車の通行量が減るとハイビームのまま知らん顔のドライバーも増えるから必須なのよ」
「……あ、そうなんですね」
意図せず今までで一番近い距離で会話をする流れを自ら生み出してしまった。
しかし本人の申告通り李壱の瞳の色素は薄い。それはTHE・日本人な濃い茶色の瞳を持つ恭一には何故か神秘的ですらある。
方向はちゃんと伝えたのになんで車を直ぐに発進させないの? シートベルトはお互いつけてるのに?
そんな疑問からちょっと首を傾げた恭一の顔をじいっと見たまま李壱はいきなり核心を突いて来た。誤魔化しや嘘は無駄よ? なんて副音声が聞こえる位に真っすぐ恭一の瞳を見据えたまま。
「で、何で急に来てくれなくなったのー?」
直球過ぎて思わず恭一は息を飲む。
いや、別に約束なんてしていないし行くも行かないも恭一の自由だ。だからハッキリと「特に理由は無いです」とか「忙しかったんです」とさらっと言えばそれで済むのに、言葉が出て来なかった。
――あなたが男の人にキス? されそうになったのを見てなんかよく分からない気持ちを抱いて行きにくくなったんです。
なんてストレートに言える程恭一は素直でも駆け引きに長けた男でもない。
明らかに何を言えば良いのか分からなくなっている恭一をじっと音が出そうなほど見詰めたまま李壱が「ふぅん?」と表情を動かす。男前は、ズレたサングラスのままでも男前らしい。そんなどうでも良い考えが一瞬で吹っ飛ぶ言葉を、彼は言った。
「まさか――浮気した?」
「う、浮気ってなんですか?!」
顔だけじゃなく身体ごとこちらを見ている李壱が真顔で言った言葉に恭一は驚いて即座に返す。
浮気ってなんだ?!
本気で意味が分からず反射神経だけで返した恭一から一ミリも注意を逸らさず李壱は蠱惑的に微笑んで続ける。
「アナタの舌と喉はガッチリ掴んだつもりだったけど……嫌ねぇ何処のどいつが割り込んで来たのかしら。是非とも教えて欲しいわぁ」
「妙な表現止めてください!」
「じゃあしてないの? 浮気」
――だから、浮気ってなんなんだよ。
そう思ってもそんな強い言葉を李壱に言えない恭一を彼は見逃すつもりは無いようだ。
色素の薄い瞳は、なんだかとても圧が強い。いつも柔和に微笑んでいるから気付かなかったけど、真顔だと切れ長の瞳は迫力満点である。
これは言わないと終わらない感じだ……と言うことは理解出来た恭一は、謂れの無い『浮気』とやらは否定することを決めた。
だって他の喫茶店なんて行ってないし、なんなら珈琲自体あれからまともに飲んでいない。
李壱が丁寧に淹れてくれる一杯を知ってしまえば缶コーヒーも会社で出て来る珈琲もインスタントも全て「これ珈琲だっけ?」と思うのだから。
「……し、てません」
どもりつつも何とか言った恭一を見て李壱が微かに目元を緩める。
「浮気、してない? 私以外にその舌と喉を許してないのね?」
「その妙な表現本当にやめて貰って良いですか?」
当然の抗議はあっさりと視線だけで跳ねのけられた。
……やはり、ちゃんと言わないと駄目みたいだ。意味は分からないけれど。
「う……わき、なんて……してない、です」
「私だけ?」
他人が聞いたらまず間違いなく誤解を受ける表現だが幸か不幸かここは車と言う名の密室。
コンビニにも客はいなそうだし、周囲を歩いている人間もいない。だから恭一は「何だろうこの会話」と心で思いつつも頷きを返した。
するとようやく納得して貰えたのか李壱が姿勢を正して運転するような動作に移ったから恭一は無意識の内に小さく息を吐く。
それはこの狭い空間では当然気付かれて、李壱が堪えきれないと言った様子で吹き出した。
「ヤだ何その溜息。本当にカノジョの追及をどうにか切り抜けたカレシみたい、おもしろーい」
「神室さん、僕はそう言う冗談に慣れていないんです。こんな風にからかうのはやめてください」
滑らかに動き出した車の中で敢えて彼とは逆側の景色を見ながらどうにか返すと柔らかい声が良いタイミングで返って来る。
「からかってないわよ? 私はいつでも本気だわ。ジェラシーと心配で寝不足よ」
「心配?」
ジェラシーとやらはわざとスルーした。
それは李壱も気付いているが掘り下げて来ないことに恭一は安堵する。
「常連の皆も言ってるわよ。あの可愛い子ぱたっと来なくなったけどまさかついに倒れて長期入院?! ってちょっとした話題になったもの」
「『ついに』?」
知り合いの手前くらいの関係性ではあるが誰かが心配をしてくれたのは有難いけれどちょっと聞き捨てならない単語があった。
ついにって……なに? ちなみにもう一つの形容詞は触れたくも無いので触れない。
きちんと文章で問う前に李壱が答えをくれる。
「え? まさか自分がちょっとやばいレベルのもやしっ子の自覚無いの?」
「も、もやしっ子?!」
いや、確かに色白で細身の自覚はある。でも、それ本人に言う必要あるか?! 流石にむっとした恭一に李壱は軽い謝罪をしてから続けた。
「お家の場所ちゃんと教えてねー、通り過ぎたら強制的にお持ち帰りしまーす、ご馳走様ぁ」
「あの突き当りの五階建ての灰色のマンションです。ここで降ろして頂いても結構です、ありがとうございました」
「待って?! それもやしっ子って言ったから怒ってて冷たいの? お持ち帰りって言った私に怯えて断固拒否の構えなの? どっち? それだけ教えてくれない?」
「どっちですかね」
「あ、意外とちゃんと怒れるタイプなのね? ごめんね、ごめんって。久し振りに会えたから嬉しくなっちゃったのよ」
李壱はちょっと慌てた様子だったが恭一が言ったマンションの前で静かに車を止めてくれた。道路標識の類は綺麗さっぱり忘れてしまったけど、ここは駐停車禁止区域ではないらしい。
「ねえ、もう着いちゃったの。機嫌直して? からかってごめんなさい」
「……別に怒ってはいないですよ、それは嘘じゃないです」
大人の男性が申し訳なさそうにへにょりと困った顔をしているのを見るのはそうない。
心底申し訳なさそうな李壱を見て恭一の中から一瞬で苛立ちは消えたのでいつもの調子で返すとすぐにそれは伝わって目の前の李壱はまた笑ってくれた。
「良かった、次から気を付けるわね」
「いえ……そこまで深く受け取って貰わなくて大丈夫です」
言いながら降車する為にシートベルトを外してドアを開けると何故か李壱はエンジンを切ってハザードだけ付けた状態にする。……なぜ?
「?」を頭の上に並べながら降りると何故か李壱も車から降りた。…………だから、なぜ?
「悪いけどお家に入ってちゃんと施錠したらベランダから顔を見せてくれない?」
「……なぜ、でしょうか」
頭上の「???」が増えた恭一に李壱は真面目な顔で言い切る。
「いーい? お家に帰るまでが遠足って言うでしょ? それと同じできちんと家に無事に辿り着いたのを確認するまでが送迎よ!」
「……聞いたことないですけど」
「マイルールなの!」
きりっとした顔で言い切った李壱に恭一はなんだか毒気が抜けた。
部屋まで送ると言われないだけきっとマシだな……そう思ったので頷いて、もう一度礼を言って恭一はマンションのエントランスを潜る。
エレベーターから降りていつもの開錠→入室→施錠の動作を熟し、滅多に出ないベランダへの鍵を開けて放置したままだったサンダルを引っかけ、下を見下ろすと高そうな車にモデルのように寄り掛かる男と目が合った気がした。
――オヤスミ。
時間帯を考慮してか彼は軽く手を上げただけで帰って行った。
でも、何故かそう言われた気がして恭一は喫茶店がある方向に去って行く車をぼーっと見送る。
恭一はこう見えてかなり警戒心の強い人間だ。
友人は昔から少ないなりに居たけれど大学時代も自宅に誰かを招いたことは無いし、なんなら家の正確な場所を教えたことも無い。
だから普通ならマンションの場所を特定されることも本来の自分なら避けていた筈なのにこともあろうに部屋の番号まで教えたも同然だ。
でも、別に良いかと素直に思えた。
とても恥ずかしいことだが、行き倒れて拾って貰った時に情けない姿を見せてしまったからだろうか? それとも何とも言えない李壱独特の空気感のせいだろうか。
「…………眠いな」
ふぁと自然に出たあくびで強い眠気を自覚して歯を磨いてベッドに戻るとすんなり眠れた。
嫌な夢は、見なかった。
にっこりと効果音が付きそうな位の笑顔なのに何故か言い知れない圧を感じる。
感じるが、恭一は小さく首を振った。
「いえ……僕、アイス食べてるので車汚したら悪いし、近いから大丈夫です」
「送・る・わ」
「え……いや、神室さん……何か買いに来たんじゃ――?」
意味が分からず無意味に彼の顔とコンビニの間を視線が往復する。
しかし李壱は全く引かなかった。
「気にしないで良いのよ。ほら、乗って乗って」
「いや……え」
くんっと掴まれたままの腕を引かれて少しの距離を歩き、李壱は助手席のドアを開ける。
車には興味がない恭一でも知っているエンブレム。それは確か国内最大手のメーカーが出している高級車のラインだ。ずっと外車だと思っていたから国産らしいと知った時にはちょっと驚いた記憶がある。
真夜中でも煌々と光を放つコンビニが照らし出すシートはなんだか本革っぽい。
詳しくないから断定は出来ないけれど、絶対本革だと思う。高いんだよね? 電車やバスの布系のシートと比べて何割高いかとかは知らないけれど確実に高いことは分かった。
もう子供じゃないし今は真夏でも無いから普通にアイスを食べていて零す可能性は低いとは思うけれど、こんな大事な時に限って零すって言う最悪の事態も見える恭一は足を突っ張って再度首を左右に振った。
「無理です。僕、絶対零します」
断固として拒否だ。
そう強く心に誓って言った恭一を見て李壱は口元に笑みを浮かべたまま頷く。
「じゃあいくらでも待つから気にせずこのまま食べちゃって? 食べ終わったら一緒に帰りましょ」
「……え」
やばい。なんか送ってもらうことが何故か確定路線に入ってしまった気がする。
この間もにこにこしているのに妙に強い圧が消えないことから恭一は諦めた。
――うんせめて急ごう。
ゆっくり味わいたかったダッツに心の中で別れを告げて大きく一口を頬張った恭一に李壱は「ゆっくりお食べなさいな」と言って車体に軽く寄り掛かりこちらに穏やかな笑顔を見せていた。
「お待たせしました」
「待ってないわよ? 急がせて悪かったわね」
もう一度店内に戻ってゴミを捨てて、手を念の為軽く洗って戻ると入り口で待ち構えていた李壱に促され今度こそ本革シートに座る羽目になった。
ぎゅ、と擦れるような独特の感覚を抱くのは随分久し振りだと思い記憶を浚うとそうか……祖父の車もこれだったなと思い出して慌てて記憶の外に追いやる。自分は感傷なんて必要としていない。
ちゃんと座ったのにまだドアを開けてこちらを見ている李壱が不思議で高い位置にある顔を見遣ると、視線でシートベルト着用を促された。
「……あ、はい」
かちゃっと音を立ててそれを確かに締めると「ドア閉めるわよー」と明るい声がして静かにドアが閉まる。
まさか逃亡すると思われているのか? 何か怖い事でも考えているのか? とも思ったがまさかこんな男にも女にも絶対不自由していないであろう人間がよもや自分ごときに妙なことを考えるはずがないなと恭一は思った。
少しの間の後運転席側のドアが開いて、大きな身体が滑り込んでくる。
「お家はどの辺りなのー?」
「いえ、本当に近くて……歩いて五分以内なので本気で車で送って貰わなくて大丈夫なんですけど……」
会話らしい会話すら必要とせず到着する距離なので素直にそう言っただけなのに、李壱は笑顔のまま同じ言葉を繰り返した。
何がどうしてこうなったかは知らないが、彼の中では引くと言う選択肢は今の所無いようである。
だから恭一は諦めて自分の住んでいるマンションがある方向を指さす。
すると李壱は「りょうかーい」と軽く微笑んでまたサングラスを装着した。密閉空間での沈黙が何故か怖くて恭一は疑問を声にしてみる。
「夜でもサングラスするのってお洒落だからですか?」
我ながらどうかと思う質問文になったが、李壱は気を悪くした風もなくまだパーキングに入れたままの状態で恭一の方を見てサングラスを少しだけずらした。
「私瞳の色素が薄い方だから光に弱いの。夜が更けて車の通行量が減るとハイビームのまま知らん顔のドライバーも増えるから必須なのよ」
「……あ、そうなんですね」
意図せず今までで一番近い距離で会話をする流れを自ら生み出してしまった。
しかし本人の申告通り李壱の瞳の色素は薄い。それはTHE・日本人な濃い茶色の瞳を持つ恭一には何故か神秘的ですらある。
方向はちゃんと伝えたのになんで車を直ぐに発進させないの? シートベルトはお互いつけてるのに?
そんな疑問からちょっと首を傾げた恭一の顔をじいっと見たまま李壱はいきなり核心を突いて来た。誤魔化しや嘘は無駄よ? なんて副音声が聞こえる位に真っすぐ恭一の瞳を見据えたまま。
「で、何で急に来てくれなくなったのー?」
直球過ぎて思わず恭一は息を飲む。
いや、別に約束なんてしていないし行くも行かないも恭一の自由だ。だからハッキリと「特に理由は無いです」とか「忙しかったんです」とさらっと言えばそれで済むのに、言葉が出て来なかった。
――あなたが男の人にキス? されそうになったのを見てなんかよく分からない気持ちを抱いて行きにくくなったんです。
なんてストレートに言える程恭一は素直でも駆け引きに長けた男でもない。
明らかに何を言えば良いのか分からなくなっている恭一をじっと音が出そうなほど見詰めたまま李壱が「ふぅん?」と表情を動かす。男前は、ズレたサングラスのままでも男前らしい。そんなどうでも良い考えが一瞬で吹っ飛ぶ言葉を、彼は言った。
「まさか――浮気した?」
「う、浮気ってなんですか?!」
顔だけじゃなく身体ごとこちらを見ている李壱が真顔で言った言葉に恭一は驚いて即座に返す。
浮気ってなんだ?!
本気で意味が分からず反射神経だけで返した恭一から一ミリも注意を逸らさず李壱は蠱惑的に微笑んで続ける。
「アナタの舌と喉はガッチリ掴んだつもりだったけど……嫌ねぇ何処のどいつが割り込んで来たのかしら。是非とも教えて欲しいわぁ」
「妙な表現止めてください!」
「じゃあしてないの? 浮気」
――だから、浮気ってなんなんだよ。
そう思ってもそんな強い言葉を李壱に言えない恭一を彼は見逃すつもりは無いようだ。
色素の薄い瞳は、なんだかとても圧が強い。いつも柔和に微笑んでいるから気付かなかったけど、真顔だと切れ長の瞳は迫力満点である。
これは言わないと終わらない感じだ……と言うことは理解出来た恭一は、謂れの無い『浮気』とやらは否定することを決めた。
だって他の喫茶店なんて行ってないし、なんなら珈琲自体あれからまともに飲んでいない。
李壱が丁寧に淹れてくれる一杯を知ってしまえば缶コーヒーも会社で出て来る珈琲もインスタントも全て「これ珈琲だっけ?」と思うのだから。
「……し、てません」
どもりつつも何とか言った恭一を見て李壱が微かに目元を緩める。
「浮気、してない? 私以外にその舌と喉を許してないのね?」
「その妙な表現本当にやめて貰って良いですか?」
当然の抗議はあっさりと視線だけで跳ねのけられた。
……やはり、ちゃんと言わないと駄目みたいだ。意味は分からないけれど。
「う……わき、なんて……してない、です」
「私だけ?」
他人が聞いたらまず間違いなく誤解を受ける表現だが幸か不幸かここは車と言う名の密室。
コンビニにも客はいなそうだし、周囲を歩いている人間もいない。だから恭一は「何だろうこの会話」と心で思いつつも頷きを返した。
するとようやく納得して貰えたのか李壱が姿勢を正して運転するような動作に移ったから恭一は無意識の内に小さく息を吐く。
それはこの狭い空間では当然気付かれて、李壱が堪えきれないと言った様子で吹き出した。
「ヤだ何その溜息。本当にカノジョの追及をどうにか切り抜けたカレシみたい、おもしろーい」
「神室さん、僕はそう言う冗談に慣れていないんです。こんな風にからかうのはやめてください」
滑らかに動き出した車の中で敢えて彼とは逆側の景色を見ながらどうにか返すと柔らかい声が良いタイミングで返って来る。
「からかってないわよ? 私はいつでも本気だわ。ジェラシーと心配で寝不足よ」
「心配?」
ジェラシーとやらはわざとスルーした。
それは李壱も気付いているが掘り下げて来ないことに恭一は安堵する。
「常連の皆も言ってるわよ。あの可愛い子ぱたっと来なくなったけどまさかついに倒れて長期入院?! ってちょっとした話題になったもの」
「『ついに』?」
知り合いの手前くらいの関係性ではあるが誰かが心配をしてくれたのは有難いけれどちょっと聞き捨てならない単語があった。
ついにって……なに? ちなみにもう一つの形容詞は触れたくも無いので触れない。
きちんと文章で問う前に李壱が答えをくれる。
「え? まさか自分がちょっとやばいレベルのもやしっ子の自覚無いの?」
「も、もやしっ子?!」
いや、確かに色白で細身の自覚はある。でも、それ本人に言う必要あるか?! 流石にむっとした恭一に李壱は軽い謝罪をしてから続けた。
「お家の場所ちゃんと教えてねー、通り過ぎたら強制的にお持ち帰りしまーす、ご馳走様ぁ」
「あの突き当りの五階建ての灰色のマンションです。ここで降ろして頂いても結構です、ありがとうございました」
「待って?! それもやしっ子って言ったから怒ってて冷たいの? お持ち帰りって言った私に怯えて断固拒否の構えなの? どっち? それだけ教えてくれない?」
「どっちですかね」
「あ、意外とちゃんと怒れるタイプなのね? ごめんね、ごめんって。久し振りに会えたから嬉しくなっちゃったのよ」
李壱はちょっと慌てた様子だったが恭一が言ったマンションの前で静かに車を止めてくれた。道路標識の類は綺麗さっぱり忘れてしまったけど、ここは駐停車禁止区域ではないらしい。
「ねえ、もう着いちゃったの。機嫌直して? からかってごめんなさい」
「……別に怒ってはいないですよ、それは嘘じゃないです」
大人の男性が申し訳なさそうにへにょりと困った顔をしているのを見るのはそうない。
心底申し訳なさそうな李壱を見て恭一の中から一瞬で苛立ちは消えたのでいつもの調子で返すとすぐにそれは伝わって目の前の李壱はまた笑ってくれた。
「良かった、次から気を付けるわね」
「いえ……そこまで深く受け取って貰わなくて大丈夫です」
言いながら降車する為にシートベルトを外してドアを開けると何故か李壱はエンジンを切ってハザードだけ付けた状態にする。……なぜ?
「?」を頭の上に並べながら降りると何故か李壱も車から降りた。…………だから、なぜ?
「悪いけどお家に入ってちゃんと施錠したらベランダから顔を見せてくれない?」
「……なぜ、でしょうか」
頭上の「???」が増えた恭一に李壱は真面目な顔で言い切る。
「いーい? お家に帰るまでが遠足って言うでしょ? それと同じできちんと家に無事に辿り着いたのを確認するまでが送迎よ!」
「……聞いたことないですけど」
「マイルールなの!」
きりっとした顔で言い切った李壱に恭一はなんだか毒気が抜けた。
部屋まで送ると言われないだけきっとマシだな……そう思ったので頷いて、もう一度礼を言って恭一はマンションのエントランスを潜る。
エレベーターから降りていつもの開錠→入室→施錠の動作を熟し、滅多に出ないベランダへの鍵を開けて放置したままだったサンダルを引っかけ、下を見下ろすと高そうな車にモデルのように寄り掛かる男と目が合った気がした。
――オヤスミ。
時間帯を考慮してか彼は軽く手を上げただけで帰って行った。
でも、何故かそう言われた気がして恭一は喫茶店がある方向に去って行く車をぼーっと見送る。
恭一はこう見えてかなり警戒心の強い人間だ。
友人は昔から少ないなりに居たけれど大学時代も自宅に誰かを招いたことは無いし、なんなら家の正確な場所を教えたことも無い。
だから普通ならマンションの場所を特定されることも本来の自分なら避けていた筈なのにこともあろうに部屋の番号まで教えたも同然だ。
でも、別に良いかと素直に思えた。
とても恥ずかしいことだが、行き倒れて拾って貰った時に情けない姿を見せてしまったからだろうか? それとも何とも言えない李壱独特の空気感のせいだろうか。
「…………眠いな」
ふぁと自然に出たあくびで強い眠気を自覚して歯を磨いてベッドに戻るとすんなり眠れた。
嫌な夢は、見なかった。
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