2 / 17
01.必死で目指した世界は、腐りきっていた。
しおりを挟む
上総 基臣は幼少期とても身体の弱い子供だった。
普通のよく風邪を引いて寝込みがちとか軽めの喘息の気があるとかそんな感じではなく、病名を聞けば誰しもが「大変だったんですね……」というレベルの大病を経験して幼少期のかなりの時間を病院で過ごし成長した。
幸いにも完治してその後は特に不自由なく成長することが出来たが、子供の頃自分をあの苦しみから救ってくれたいつも笑顔の優しい先生に憧れて本気で医師を目指して猛勉強の末実際になった。
なったは良いが――医師の世界は幼い頃の基臣が憧れた世界とは全然違って、ハッキリ言うととても汚かった。
綺麗な所だってきっと世界中探せば何処かにはあるだろうが基臣が所属した世界はとにかく閉鎖的で陰湿。
表向きは笑い合っていても陰では平然と足を引っ張り合い、嘆かわしいことに患者なんて二の次で如何に力を持つ人間に気に入られるかを考えて行動している人間ばかりだった。
――それでも自分は誠実に頑張ろう。早く腕を磨いて、いつかは『先生』のような医師になろう。
最初はそう本気で思っていた。
世間の高給取りというイメージを遥かに裏切るレベルの低賃金の研修医時代は病院に住んでいるレベルの時間仕事を熟し、理不尽な扱いにもただひたすら耐えた。しかし貰える給料は大学生のバイト代と大差なし。
だが誰しもが通る道だと数少ない仲間だった同期同士で励まし合い年齢を重ねても経済的な面以外の状況は大して変わらなかった。
そんなある日、基臣の世界は悪い方向に一変した。
長い付き合いのある今までも関わりの多かった直属の上司である医師のミスを押し付けられたのだ。
入院患者の一人が突然急変し、状況把握もままならないまま応援として呼ばれて駆け込んだ病室で担当医でありそれまでその患者の全てを診ていた上司が基臣の肩を叩いてこう言った。
――君は今まで一体何をしていたんだい? この方は『君の患者さん』だろう。全く……後は責任を持って頼むよ。
突然のことに返事も出来ず思わず一瞬立ち尽くした基臣の肩を二度叩いて上司は出て行った。
それからはとにかく必死に目の前の患者の命を繋ぐために処置を行いとにかく命を繋ぐことが出来た為幸いと言って良いのかは不明だがそれ以上の大事にはならなかった。しかし基臣の医局での立場は最悪になった。
騒動の原因は上司が投与を指示した薬がそもそも間違っていたこと。
患者の持病関係だけではなく普段服用している薬そのものと併用禁忌であることは医大生でも知っていて当然のレベルと断言出来るほどの初歩的かつ致命的なミスだった。
傍についていた看護師の責任も当然浮かぶ問題ではあるが、責めるのは酷だと基臣はわざと考えないようにした。
医局以外にも噂は広がっているから本当は大勢の人間が真相を知っている。
しかし皆自分の立場の方が大切だから何も言わないし、同期とも視線すら合わない。そして基臣から声を掛けることも無かった。この世界は、こんなモノなのだ。
今日もにこにこと一見人当たりの良い笑顔を浮かべる上司に個室に呼ばれた基臣は、常に笑っていない瞳で他人を値踏みすることが身に沁みついたような上司からこんなことを言われた。
「〇〇市の××診療所がね、若くて優秀な君の力を必要としているんだよ。是非にとの直々のお誘いなんだ。前向きに検討して明日にでも返事をくれると助かるよ」
――こんな腐った世界しか無いのなら、死んだ方がいっそ楽なのかもしれないな。
声に出さなかった自分自身を基臣は心の中でそっと褒める。
これはもう事実上の決定事項だ。
――逆らうなら辞表を持って来い。
まあ、辞表を持って来た所で近隣の病院でお前を雇う所なんて無いだろうけどな。
上司の心の中の言葉を要約するならこんなところだろう。
基臣はなんだか突然今までの全てが。本当に何もかもが馬鹿らしくなった。
「医師」という肩書があればまあ、食うに困ることはないだろう。
最近では常勤での煩わしさを嫌ってバイトとして敢えて時給で気楽に生きている医師も多いと聞く。
「ゆっくり考えてね」という上司の無言の圧力が周囲にも働いたせいで珍しく早い時間帯に家に帰れた基臣は自宅マンションのポストに一通の封書が届いていたのに気付いた。
ぱっと見からダイレクトメールには見えないその封筒の差出人を見ると基臣が医者を志すきっかけになってその後も年賀状だけだがずっと付き合いのあった『先生』の奥さんからだった。
何故か急に胸騒ぎがして家の中に駆け込み、急いで開封する。
ハサミを一応使ったが手付きが焦りから乱雑になったせいで便せんの端を少し切ってしまった。しかし内容の確認には問題無いだろうと綺麗な和紙の便せんを開いて……絶句した。
――『先生』が。
基臣が唯一心の底から尊敬して憧れた『先生』が。
長時間労働から来る心労と過労から――自ら命を絶ってしまった、とそこに書かれていたのだ。
その他には葬儀は本人の意志により密葬で既に執り行われ、遺骨も本人の希望により散骨した事。
奥さんもこの国に居るのが辛過ぎて娘夫婦が暮らすカナダに永住前提で移り住むことを決め出国日にこの手紙をポストに投函する、とも記されていた。
そうして続く手紙は基臣にこの件を知らせるか本気で迷ったが長年義理堅く年賀状を欠かさなかった感謝を込めて略式ではあるが知らせることにしたことと、何より基臣の心身の健康を強く心配する言葉で結ばれていた。
「クソだな」
――こんなクソみたいな世界ならいっそ本当に死んだ方がマシだ。
本気でそう思いソファから動けずぼんやりと見上げた天井が滲む。まだ自分にも感情由来の涙を流すという機能は残っていたのか、と基臣は思った。
悲しいのか、悔しいのか遣る瀬無いのか分からない。
もしかしたら今まで押し殺して来た全てが急に溢れ出て来たのかもしれないな、とどこか他人事のように考えて滲んだままの天井を見ていたのが『日本』での最後の記憶だ。
普通のよく風邪を引いて寝込みがちとか軽めの喘息の気があるとかそんな感じではなく、病名を聞けば誰しもが「大変だったんですね……」というレベルの大病を経験して幼少期のかなりの時間を病院で過ごし成長した。
幸いにも完治してその後は特に不自由なく成長することが出来たが、子供の頃自分をあの苦しみから救ってくれたいつも笑顔の優しい先生に憧れて本気で医師を目指して猛勉強の末実際になった。
なったは良いが――医師の世界は幼い頃の基臣が憧れた世界とは全然違って、ハッキリ言うととても汚かった。
綺麗な所だってきっと世界中探せば何処かにはあるだろうが基臣が所属した世界はとにかく閉鎖的で陰湿。
表向きは笑い合っていても陰では平然と足を引っ張り合い、嘆かわしいことに患者なんて二の次で如何に力を持つ人間に気に入られるかを考えて行動している人間ばかりだった。
――それでも自分は誠実に頑張ろう。早く腕を磨いて、いつかは『先生』のような医師になろう。
最初はそう本気で思っていた。
世間の高給取りというイメージを遥かに裏切るレベルの低賃金の研修医時代は病院に住んでいるレベルの時間仕事を熟し、理不尽な扱いにもただひたすら耐えた。しかし貰える給料は大学生のバイト代と大差なし。
だが誰しもが通る道だと数少ない仲間だった同期同士で励まし合い年齢を重ねても経済的な面以外の状況は大して変わらなかった。
そんなある日、基臣の世界は悪い方向に一変した。
長い付き合いのある今までも関わりの多かった直属の上司である医師のミスを押し付けられたのだ。
入院患者の一人が突然急変し、状況把握もままならないまま応援として呼ばれて駆け込んだ病室で担当医でありそれまでその患者の全てを診ていた上司が基臣の肩を叩いてこう言った。
――君は今まで一体何をしていたんだい? この方は『君の患者さん』だろう。全く……後は責任を持って頼むよ。
突然のことに返事も出来ず思わず一瞬立ち尽くした基臣の肩を二度叩いて上司は出て行った。
それからはとにかく必死に目の前の患者の命を繋ぐために処置を行いとにかく命を繋ぐことが出来た為幸いと言って良いのかは不明だがそれ以上の大事にはならなかった。しかし基臣の医局での立場は最悪になった。
騒動の原因は上司が投与を指示した薬がそもそも間違っていたこと。
患者の持病関係だけではなく普段服用している薬そのものと併用禁忌であることは医大生でも知っていて当然のレベルと断言出来るほどの初歩的かつ致命的なミスだった。
傍についていた看護師の責任も当然浮かぶ問題ではあるが、責めるのは酷だと基臣はわざと考えないようにした。
医局以外にも噂は広がっているから本当は大勢の人間が真相を知っている。
しかし皆自分の立場の方が大切だから何も言わないし、同期とも視線すら合わない。そして基臣から声を掛けることも無かった。この世界は、こんなモノなのだ。
今日もにこにこと一見人当たりの良い笑顔を浮かべる上司に個室に呼ばれた基臣は、常に笑っていない瞳で他人を値踏みすることが身に沁みついたような上司からこんなことを言われた。
「〇〇市の××診療所がね、若くて優秀な君の力を必要としているんだよ。是非にとの直々のお誘いなんだ。前向きに検討して明日にでも返事をくれると助かるよ」
――こんな腐った世界しか無いのなら、死んだ方がいっそ楽なのかもしれないな。
声に出さなかった自分自身を基臣は心の中でそっと褒める。
これはもう事実上の決定事項だ。
――逆らうなら辞表を持って来い。
まあ、辞表を持って来た所で近隣の病院でお前を雇う所なんて無いだろうけどな。
上司の心の中の言葉を要約するならこんなところだろう。
基臣はなんだか突然今までの全てが。本当に何もかもが馬鹿らしくなった。
「医師」という肩書があればまあ、食うに困ることはないだろう。
最近では常勤での煩わしさを嫌ってバイトとして敢えて時給で気楽に生きている医師も多いと聞く。
「ゆっくり考えてね」という上司の無言の圧力が周囲にも働いたせいで珍しく早い時間帯に家に帰れた基臣は自宅マンションのポストに一通の封書が届いていたのに気付いた。
ぱっと見からダイレクトメールには見えないその封筒の差出人を見ると基臣が医者を志すきっかけになってその後も年賀状だけだがずっと付き合いのあった『先生』の奥さんからだった。
何故か急に胸騒ぎがして家の中に駆け込み、急いで開封する。
ハサミを一応使ったが手付きが焦りから乱雑になったせいで便せんの端を少し切ってしまった。しかし内容の確認には問題無いだろうと綺麗な和紙の便せんを開いて……絶句した。
――『先生』が。
基臣が唯一心の底から尊敬して憧れた『先生』が。
長時間労働から来る心労と過労から――自ら命を絶ってしまった、とそこに書かれていたのだ。
その他には葬儀は本人の意志により密葬で既に執り行われ、遺骨も本人の希望により散骨した事。
奥さんもこの国に居るのが辛過ぎて娘夫婦が暮らすカナダに永住前提で移り住むことを決め出国日にこの手紙をポストに投函する、とも記されていた。
そうして続く手紙は基臣にこの件を知らせるか本気で迷ったが長年義理堅く年賀状を欠かさなかった感謝を込めて略式ではあるが知らせることにしたことと、何より基臣の心身の健康を強く心配する言葉で結ばれていた。
「クソだな」
――こんなクソみたいな世界ならいっそ本当に死んだ方がマシだ。
本気でそう思いソファから動けずぼんやりと見上げた天井が滲む。まだ自分にも感情由来の涙を流すという機能は残っていたのか、と基臣は思った。
悲しいのか、悔しいのか遣る瀬無いのか分からない。
もしかしたら今まで押し殺して来た全てが急に溢れ出て来たのかもしれないな、とどこか他人事のように考えて滲んだままの天井を見ていたのが『日本』での最後の記憶だ。
53
お気に入りに追加
91
あなたにおすすめの小説
気付いたら囲われていたという話
空兎
BL
文武両道、才色兼備な俺の兄は意地悪だ。小さい頃から色んな物を取られたし最近だと好きな女の子まで取られるようになった。おかげで俺はぼっちですよ、ちくしょう。だけども俺は諦めないからな!俺のこと好きになってくれる可愛い女の子見つけて絶対に幸せになってやる!
※無自覚囲い込み系兄×恋に恋する弟の話です。
奴の執着から逃れられない件について
B介
BL
幼稚園から中学まで、ずっと同じクラスだった幼馴染。
しかし、全く仲良くなかったし、あまり話したこともない。
なのに、高校まで一緒!?まあ、今回はクラスが違うから、内心ホッとしていたら、放課後まさかの呼び出され...,
途中からTLになるので、どちらに設定にしようか迷いました。
転移したらなぜかコワモテ騎士団長に俺だけ子供扱いされてる
塩チーズ
BL
平々凡々が似合うちょっと中性的で童顔なだけの成人男性。転移して拾ってもらった家の息子がコワモテ騎士団長だった!
特に何も無く平凡な日常を過ごすが、騎士団長の妙な噂を耳にしてある悩みが出来てしまう。
悪役なので大人しく断罪を受け入れたら何故か主人公に公開プロポーズされた。
柴傘
BL
侯爵令息であるシエル・クリステアは第二王子の婚約者。然し彼は、前世の記憶を持つ転生者だった。
シエルは王立学園の卒業パーティーで自身が断罪される事を知っていた。今生きるこの世界は、前世でプレイしていたBLゲームの世界と瓜二つだったから。
幼い頃からシナリオに足掻き続けていたものの、大した成果は得られない。
然しある日、婚約者である第二王子が主人公へ告白している現場を見てしまった。
その日からシナリオに背く事をやめ、屋敷へと引き篭もる。もうどうにでもなれ、やり投げになりながら。
「シエル・クリステア、貴様との婚約を破棄する!」
そう高らかに告げた第二王子に、シエルは恭しく礼をして婚約破棄を受け入れた。
「じゃあ、俺がシエル様を貰ってもいいですよね」
そう言いだしたのは、この物語の主人公であるノヴァ・サスティア侯爵令息で…。
主人公×悪役令息、腹黒溺愛攻め×無気力不憫受け。
誰でも妊娠できる世界。頭よわよわハピエン。
魔王討伐後に勇者の子を身篭ったので、逃げたけど結局勇者に捕まった。
柴傘
BL
勇者パーティーに属していた魔術師が勇者との子を身篭ったので逃走を図り失敗に終わるお話。
頭よわよわハッピーエンド、執着溺愛勇者×気弱臆病魔術師。
誰もが妊娠できる世界、勇者パーティーは皆仲良し。
さくっと読める短編です。
僕はただの平民なのに、やたら敵視されています
カシナシ
BL
僕はド田舎出身の定食屋の息子。貴族の学園に特待生枠で通っている。ちょっと光属性の魔法が使えるだけの平凡で善良な平民だ。
平民の肩身は狭いけれど、だんだん周りにも馴染んできた所。
真面目に勉強をしているだけなのに、何故か公爵令嬢に目をつけられてしまったようでーー?
溺愛お義兄様を卒業しようと思ったら、、、
ShoTaro
BL
僕・テオドールは、6歳の時にロックス公爵家に引き取られた。
そこから始まった兄・レオナルドの溺愛。
元々貴族ではなく、ただの庶子であるテオドールは、15歳となり、成人まで残すところ一年。独り立ちする計画を立てていた。
兄からの卒業。
レオナルドはそんなことを許すはずもなく、、
全4話で1日1話更新します。
R-18も多少入りますが、最後の1話のみです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる