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17.――『今』が明確なデッドライン。

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「は「お前今何処にいるっ?!」」

透麻は灯莉が私用の携帯で初めて掛けた電話にも流石の神速応答をみせたが、それどころではない灯莉は今までで一番感情的な声で詰める。
その迫力に一瞬だけ透麻側が驚いたように間が空いたがわずか数秒後には実に穏やかないつも通りの声で返して来た。

「今は移動の車内です。何かありましたか? 灯莉さんから電話貰えて嬉しいです」

灯莉を落ち着かせる為の意味もあって、本当にいつも通りの透麻のテンションだが珍しく興奮している灯莉はそれに気付けない。

「ニュースで見たぞ?! 咬傷事故ってどうなってんだよ!」
「ああ、もう入ったんですか? 今丁度その件で病院から出た所なんですよ」

病院、と言う単語で灯莉はまた自分の頭に血が上るのが分かった。
念の為言っておくが灯莉は普段こんなに直情的な人間ではない。どちらかと言うと一歩引いて生きている冷静で落ち着いた争いを好まないタイプで自分が一時我慢して場が上手く回るならまあ良いかと心の底から思えるタイプである。
でも今はいつも通りのそれが出来なかった。

――お前、噛んだのか? 涼しい面して、噛みやがったのか?!

興奮が視野を狭め、詳しい事なんてまだ何も聞いていないのに感情的に言葉を発しそうになった灯莉を透麻の穏やかな低い声が絶妙なタイミングで優しく制する。

「噛まれちゃいました。ちょっとですけどね」

……。
…………?

「噛まれた?」

静かな口調と想像していたのと真逆の言葉に灯莉の勢いが一瞬で削がれる。

――「噛まれた」? どういう事だ?

はて? と一息吐くことは出来たがまだまだ頭は混乱している。しかしそれでも灯莉はようやく透麻本人に確認してみようと思えたのでそれを実行する。

「お前が――噛まれたのか?」
「はい。女性Ωの人は元々岡本君のストーカー的なファンで、彼を狙って自爆フェロモンアタックを起こしたんですよ」
「岡本君って……誰だ?」

聞いたことの無い名前だったので素直に問うと、透麻は低い声でくすくす笑って「今出ているドラマの主演です」と教えてくれた。

「ああ、橋口か」
「――ドラマ、観てくれたんですか?」

役者の名前ではなく役の名前で憶えていた灯莉の言葉で透麻はすぐに灯莉がドラマを観ていたことを察して嬉しそうに尋ねて来たが、灯莉が今したい話はそれじゃないので悪いが思いっ切り流させてもらう。

「お前を噛んだのは橋口なのか?」
「ふふ、あくまで役名で行くんですね。そうですよ、橋口君が強制的にラットに入らされそうだったので私と佐枝さんで必死に止めたんです」

灯莉の中で橋口は曖昧だが先日透麻と一緒にオフショットに映っていた佐枝さんなら分かる。
確か佐枝さんは番が居ると言っていたのでΩのフェロモンの影響を受けなかったのだろう。ふむふむと少しずつ冷静さを取り戻している灯莉が一人で頷いていると、透麻は嬉しさと複雑さを織り交ぜたような口調で言った。

「私も灯莉さんと言う私の中ではれっきとした最愛の『番』が居ますから、他のΩのフェロモンなんて一切感じないんですよ」
「……あ」
「思い出してくれました?」

そこまで聞いて灯莉は急にかーっと耳まで真っ赤になるくらい恥ずかしくなった。

――俺、ついさっきまで何してた?!
ニュースを見て物に当たって相手の都合も考えずいきなり電話を掛けた挙句強い口調で詰め寄って……いい年こいた大人が何してるんだ?!

それに気付くともう、全てが居た堪れない。
本音を言うとこのまま適当に切り上げて逃げ出してしまいたいが、流石にそれは人として駄目だろうと思ったのでぐっと奥歯を一度強く噛んでから灯莉は素直に認めた。

「――ごめん、それをすっかり忘れてた」

透麻はなんて言うだろう。呆れられるかもしれないな。
そう灯莉は思ったのに透麻の反応は違った。

「気にしないでください。『番』である事はまだ灯莉さんには正式に認めて貰っていないので仕方が無いと思います。それよりも怒って電話をすぐに掛けてくれたことの方がずっと嬉しいので何も気にしなくて良いですよ」
「……怒って……」
「? 違いますか? 俺が事件を起こしたΩを噛んだと思って怒ってくれたんじゃないんですか?」

ごくごく自然な口調で確認されると反応に困る。

――いや、そうだけど……。あの、そうなんだけどそうじゃないと言うか、そうじゃないと言いたいと言うか……。あの、えーっと。

何かを言いたいのだが自分の感情が自分でもまだ正確にわかっていないので何の言葉も出て来ない。
そのせいで沈黙する灯莉の気持ちを読んだのか、透麻は自然に話題を変えた。

「私の着ていたコートどうでした? 灯莉さん好みのグレー系にしたんですけど、似合ってました?」
「え? ああ、確かに似合ってたけどお前は顔もスタイルも良いんだからなんだって似合うだろ」
「……」

まだまだ動揺が抜けきらない灯莉は透麻の言葉にさらっと返したのだが、今度は何故か透麻が思いっ切り照れてしまう。

「何だお前、まさか照れているのか?」
「そりゃあ……照れるでしょう」

あれだけはっきりと活舌よくセリフを言えるαがもごもごと言うものだから灯莉は先ほどまでの自分の失態を少しだけ忘れて「可愛いところもあるな」と心の中で思った。
そして今までの社会人生活で培ったスキルを駆使してしれーっと話題を戻しにかかる。

「橋口に噛まれた怪我はどうなんだ?」
「ああ、コートの上から腕を噛まれただけなので少し痣が残っただけで傷には至っていませんよ」
「……そうか」

――良かった。
素直にそう思ったので伝えると透麻からも穏やかな礼の言葉が来る。そして灯莉はΩとして最悪の禁じ手を使った卑怯な人間のことを思い出した。

「犯人ってどうなったんだ?」
「――即取り押さえられて現行犯逮捕ですよ。あれだけ目撃者がいれば言い逃れも誤魔化しも不可能ですし、本人の言動から長年彼を困らせていたストーカー本人であることも割れてましたから」
「……そうか」

第二性に関する罪は基本的に重い。
αがΩを虐げることが重罪であるように、Ωがその特性を悪用してαを陥れようとすることもまた重罪なのだ。
それを思うと人目につく仕事を選ぶα自身も相応のリスクを背負っていることが分かった。

いつも高い所でふんぞり返っている上流階級というイメージがどうしても強いが、彼らもまた時に己の意志を奪われ人生を勝手に他者に捻じ曲げられてしまう危険性と常に隣り合っているとも言えるのだ。

「大丈夫ですよ。こう言った事件はこの業界では昔からたまに起きていますから各自で自衛しています。それに現場にもα用の注射型の即効性の高い抑制剤も必ず用意されている上にβの警備員やスタッフも必ずある程度いますから、実際に『番う』ケースにまで至った例はここ二十年以上一度もありません」

涼しい声で灯莉が言葉にしきれなかった不安を透麻は一つずつ潰していく。
ようやく冷静さを取り戻せた灯莉は、聞かない方が良いかも知れないと思いつつも自分の中に浮かんだ質問をどうしても飲み込めずに言葉にした。

「お前も……狙われたこと、あったか?」

どの立場で聞いているのか灯莉本人にもよく分からなかったが、聞かずにはいられなかった。
透麻はそう言った部分には敢えて気付かないふりをして静かに疑問にだけ答えてくれる。

「そうですね。一般人にも同業者にもそれなりにはありますよ」
「……それなり」

それなり、が指す具体的な回数は分からない。
でも透麻がこんな風に言うのだから一般人の感覚で言うと相当多いのではないかと言うことは分かった。

「でも私のことはずっと灯莉さんが守ってくれましたから。灯莉さんを探すと宣言する以前から業界内では私が絶対に引っ掛からないことから『番持ち』だと言うことは有名でした。だから同業者からの露骨な物は最近では殆どないですよ」
「……」

殆どない、と言うことは別に完全に無くなったわけでも無いということの裏返しでもある。
チリチリとまた首の真後ろがむず痒いような気がして灯莉は無意識に服の上から強めに爪を立てて乱暴に掻いた。

――正直好みのΩとか居なかったのか?

普通に透麻を弟のような目で見ていると断言出来るなら簡単に話題の一つとして出せるのに、灯莉はそれが言えなかった。
言えなかったことと、胸の中が色々な感情でごちゃ混ぜになり今現在とても忙しいという現実がどうしたって自分の中で透麻に対する感情が少しずつ育っていることをまざまざと突き付けて来る。

「灯莉さん?」

返答がないことを不思議に思った透麻からの優しい呼び掛けに灯莉はなんと返せば良いのかさっぱり分からなくなって声が出せない。

でもこれだけはハッキリと分かる。
今までは心の中で受け止めたつもりでも何処かでは微かに否定していたかった『Ω』の部分が、どう足掻いても誤魔化しようの無い位強く大きく叫んでいる。



――今が明確なデッドライン、これ以上の現状維持は不可能だ。
灯莉オマエの中でのこの男の存在はもう、そこまで来ている。
決めろ、一刻も早く。――『進む』か『切り捨てる』か、を。





首の真後ろがまたチリチリと、でも先ほどよりもずっと強く熱を持って疼いた。
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