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09.ちょっと最近人生が難し過ぎてしんどい。

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父が用意してくれたスマホをぼんやりと眺める時間が増えている自覚が灯莉にはある。

基本的に自宅に置きっぱなしにしている為スマホの定位置はリビングのガラステーブルの上だ。
大丈夫だと思っていても念の為オフラインにしており、電池が切れそうになったら充電器に繋ぐという動作だけを繰り返して二週間程度が早くも経過している。

今まで生きて来て培って来た知識を元に言うと、いくら同意が無かろうとΩは番ってしまうと相手のαを求める本能から逃れられなくなる場合が圧倒的に多い。
その本能を受け入れられるか受け入れられないかで最初のルートが別れるのだが、『α』と『Ω』の関係は仮説を立て始めればきりがないのである程度条件を絞って考えてみよう、と灯莉は脳内だけで思考する。

今回はパターンの条件を二つに絞って、限定的に考えよう。
・先に挙げた通り合意の無い性行為をスタートとして既に番っている。
・α側は自分が噛んだΩを求めている。
灯莉自身の特殊体質は取り敢えず寄せておいて上記の二点を基準に考えはじめ、順当に考えていくとルートは次のように分岐していく。

一、 Ωが自分の中のΩの本能を受け入れて尚且つαのことを受け入れる。
これが言わば最善ルートではあるが『番った経緯』によってはどう頑張ってもここに立てない組み合わせも多い。
二、 Ωが自分の中のΩの本能を受け入れはするが相手のαをどうしても許せない。
こうなると「ヒート」の時限定でドライな肉体関係を持つことで落ち着くことが多い。その関係がいつまで継続するかはαとΩそれぞれの性格に大きく影響される。
三、 Ωが自分の中のΩの本能を拒絶し、αのことも拒絶する。
こうなるとΩの心身に降り掛かるストレスは甚大だ。
身体を壊すのが先か心が壊れるのが先かという悲しいデスゲームの入り口である。αに身体を明け渡してしまえば良いと自分でも理解しつつどうしても出来ないという性格のΩが陥りやすい状況だ。

今まで書籍やSNS、インターネット掲載記事などを基に灯莉個人が行った情報収集の結果『二>三>一』が体感的に多いように思う。
勿論とてもデリケートな問題だから大っぴらにアンケートなんて誰にも出来ないし、強引に番にされたΩが元気よくまともなメンタルで回答する図もあまりイメージ出来ないのであくまでも体感的だとしか言えない。

それを思うと今の自分はなんだろう、と灯莉はぼんやりと考える。
このスマホを届けに来てくれたあの日、別れ際に母は少し迷ってからこう言った。

――『番のα』を求めずにはいられなくなる本能を、過剰なまでに拒絶しないという視点をどうか捨てないで。

と。
これは同じΩである母が言ってくれたから受け取ることが出来た言葉だと灯莉は本気で思う。
番った経緯が何であれ、噛まれてしまったならもうΩ側はある意味で人生を決められてしまったのは確実なのだ。

そしてΩにも色々な人がいて「徹底的にαを拒んで自滅的な道を歩く人」もいれば真逆に「徹底的にαから搾り取って、良い財布を見付けたぜ! と自由な道を歩く人」も少ないながらいる。
どちらが良くてどちらが悪いとかはきっと無いのだろうが、それはどちらも灯莉がぼんやりと心の中で抱いていた「幸せ」の形からは少し逸れていることだけは明らかだ。

「私とパパはお見合いだったけれど……最初から上手く行っていた訳では無いから」
「……」

それまでの流れなら父は「言わなくて良い」と言うはずなのに言わなかった。
それを不思議に思った灯莉が視線を母から父に戻すと、父は相変わらずの真顔で全く別のことを言ったのだ。

「一般的にαは『番ったΩ』を気持ち次第で『簡単に』捨てられると言われているだろう?」
「有名な話だね」

玄関で靴を履きながらする話ではなさそうだが親子だから許されるのだろう。
誰も異を唱えることなく話は続く。

「――それは嘘では無いが、本当でも無い」
「どういう事?」

意味が分からず素直に質問すると父は母をとても愛しそうに見てから簡単な問題の答えを言う様にアッサリと言い切った。

「最初から『捨てる』前提で噛んだα以外のαが番ったΩを切り捨てることは――まず不可能だ。とてもじゃないが精神がもたない」
「は?!」

思いもよらない言葉に灯莉の口から強めの言葉が出る。
だって灯莉は今までの人生で第二性関連の本は専門的な物も大衆向けの物もかなり読んだ。
ネットでも当事者たちの……いや、Ω側の情報に偏っていたのは認めるがそんなΩにとって都合が良い情報なんて全然なかった。だからそこを強く主張すると父はまた何てことない風に言う。

「当然だろう。αという生き物は無駄にプライドが高いから痩せ我慢するんだ。それはΩに対して強がりたいと言うよりは自分と同じαに対して弱みを見せたくないという意味合いの方が遥かに強い」
「……」
「本来本気で欲しいと思ったΩを見付けたαは何でもする。恥も外聞も捨てて、自分で出来ることならそれこそなんでも、な。――少なくとも私はそうした」

呆気に取られて反応出来ない灯莉を両親はじっと見ているのだが、その視線の意味が分からない灯莉はまた素直に質問した。

「二人は――俺をあのαと番わせたいの?」

正確には中途半端でも既に番関係にはなっているが、一緒に今後の人生を歩んで行く的な意味で言ったことは伝わったのだろう。
いつも口数の多い母じゃなく、父が同じ表情とテンションで返して来る。

「私達はお前を喪うという『最悪の結果』を回避した上でお前が決めたことなら正直どちらでも良い。だからその為に必要な判断材料と手段を適宜提供しているに過ぎない」
「その通りよ。灯莉の気持ちが一番なの」
「……」

適切な言葉を探せない灯莉の前で両親は交互にぽんぽんと言葉を重ねていく。本当に、何てことないように自然な調子で。

「お前達の組み合わせの場合、決定権はお前が持っていることは確定している。幸い相手は何かと目に付く仕事をしているようだからな、ネットを駆使して過去の素行を調べるのも良いだろう」
「そうよ。直接会わなければヒートを考慮しなくて良いって言う夢みたいな条件まであるんだから気が向けば試しに連絡を取ってみて性格や考え方とかを知って『ナシ』だと思えば『サヨウナラ』で良いじゃない」
「その通りだ」
「そんな軽いノリで……」

流石にそれは相手もいることだし失礼ではないか? と極めて常識的なことを灯莉が呟くと母は満面の笑みを浮かべ「良い子に育ってくれて嬉しいわ」と別の意味で喜び出して、父もまた満足そうに小さく微笑んでから言い切った。

「番ったΩを平然と捨てて自分の人生を歩いて行くαが居るのなら、番ったαに見切りを付けて自分の人生を生きるΩがいたって良いじゃないか。――しかもお前達の場合は相手の明らかな『過失』から始まった関係だ。数段上から見下ろして気紛れに思う存分振り回したって余裕で釣りが来る」
「そうよ。だってあの子のせいで灯莉は『他のα』を受け入れることは一生出来なくなっちゃったんだもの」

――何? その斬新な視点。

そうして灯莉が呆気に取られてやっぱりまともな言葉を出せない内に二人は「ディナーの予約があるから」と仲良く帰って行った。
父さん、これからディナーの予約があるって分かっててマフィンあれだけ食べたのか……。そんなどうでも良いことを考えつつ灯莉はリビングに戻り、スマホと最初の睨めっこをした。


そして、その睨めっこは早いもので二週間ほど続いているのである。
もう何度目になるかも分からない両親との会話の脳内再生と睨めっこを今日も行った灯莉は、一つ溜息を吐いて自分の中に確かにある否定しきれない感情を認めることにした。

「……やっぱりなんだか『連絡しなくちゃいけない』っていう気持ちが消えない」

それは多分三日位前から始まり、日に日に強くなっている。
理由は灯莉にも当然不明だ。でも灯莉自身の精神が不安などで乱れているという訳ではなく、ただ本当に何故か知らないけれど『連絡をしなくちゃいけない』と強く、本当に強く思うのだ。

「かといってメッセージを打つって言っても、出だしも分からないし」

今度は別のことで悩み始めた灯莉は、散々唸ってから開き直ってズルい手法に出ることにした。
その名も『ワン切り、姑息に折り返しを待って会話の出だしや内容は相手に全て押し付けてしまおう』大作戦である。我ながら姑息だとは思う。一応年上の男として情けなく思う部分もある。

だが、相手はいくら年下でもあのルックスと職業のαなのだ。
きっと華々しい恋愛経験とコミュニケーションスキルを誇り灯莉との会話で必要な話題なんて呼吸よりも自然にマーライオンの如く垂れ流してくれるに違いない。
え? モテ過ぎるが故に受け身が染みついてて何もしないかもって? その時は「間違えましたすみません!」で逃げるだけだ。

「……ふー……」

灯莉は自分以外誰もいない自宅リビングのガラステーブルの上に置いたスマホの父作の通話機能まで備わっている不思議アプリを起動し、勇気を出して一件しか入っていないアドレス帳を表示させる。

――なんでスマホをテーブルに置いたままかって? そんなの、即切るからに決まっているじゃないか。
そのまま自然と「あ、ちゃんと話すのはじめてだね~、元気だったー? 俺のシャツちゃんと捨ててくれたー?」とか言える性格だったなら多分全てにおいて今この状況にはなっていないのである。

「よし、行くぞ!」

気合を入れて勇気を出して『通話』を押すと、父の優しさか『本当に?』という確認画面が出て来て灯莉の身体から一瞬力がガクッと抜けた。
同時にふと母の「とーっても頑張っていた」という言葉が脳裏をよぎって少しだけ気持ちが楽になる。

――考えてみれば相手は人気俳優だ。
絶対に忙しいに決まっているし、スマホを常に見ているようなイメージも無いから大丈夫だ。
気楽に着信履歴を残して、折り返しが来なきゃそれで良いじゃないか! そうだよ、自分は何故相手がめっちゃこちらのことを待っている前提で考えていたんだろう。恥ずかしいな。

灯莉は自意識過剰気味の自分のそれまでの考えを一人で笑い飛ばして仕切り直す。

「よし、今度こそ」

父の愛の確認メッセージを押して、呼び出し音に切り替わった瞬間切れば良いんだよ。
たったそれだけの簡単なお仕事なんだよ。

そう、思っていたのに――。




「はいっ!!!!!」




早押しクイズの達人ならぬ超人のような速度で応答されたら――自分はどうしたら良いんだろう。ちょっと最近、人生が難し過ぎてしんどい。
灯莉は通話状態になっているスマホを見詰めながらそう強く思った。
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