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07.十五年前の俺は取り返しのつかない過ちを犯した。

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十五年前のあの日、俺はまだ小学生だった。
幾つか習っている内の習い事の一つを終えて送迎の車を待っていた時、とても綺麗な横顔を持つ人が足早に視界の端をすり抜けたのを鮮明に覚えている。

――追い掛けなきゃ。あの綺麗な人は『自分の物』だ!

心の中で何かがそう大きな声で叫んだ。
繁華街と呼べるほどの場所では無かったが人出はそれなりにある駅の人通りの少ない方に綺麗な人が歩いて行く。まだ小学生だった自分の足ではすぐに見失ってしまいそうでとても焦った記憶は今も鮮やかだ。

危ないから約束の場所から絶対に離れてはいけないと親から言われ、今までそれを一度たりとも破ったことは無かったのにその時の自分に止まるという選択肢は無かった。

「――な、何っ?!」

不思議と途切れた人波に紛れるように俺は必死に追い掛けて、どうにか追い付いて抱き着いた相手はよく見ると学生服を着ていた。
まだ小学生だった自分では制服だけで相手の学校を判断することは出来なかった。相手が中学生なのか、高校生なのかも正直分からなかった。

そこからの記憶は飛び飛びのくせに、一部分だけがやたらと強く脳裏にこびり付いている。

止めろ。
嫌だ。
触るな。
痛い。
放せ。

綺麗な人が繰り返したのはそんな言葉ばかりだった。
自分でも自分が何をしているのか、何をしたいのかよく分かっていなかったけれど目の前の綺麗な人を自分だけの物にする為に必要な事だけは――何故か本能が理解していた。


「痛い!!!」


綺麗な人が今までで一番大きな声で叫んで、口の中に血の味が広がった。
今までも歯が抜けた時やうっかりして口の中を齧った時に少しだけ感じたことはあった血の味だけど……その綺麗な人の首筋から流れた血は自分の物とは全然違った。

とても、甘くて美味しかったのだ。
うっとりするほど美味しくて、俺は多分笑っていたと思う。
ガクガクと震え何かを言っている綺麗な人を気遣うなんて発想すら持ち合わせていなかった俺は、ただただ満足して彼の首筋をぺろぺろと舐めていた。
ただ、目の前の人を『自分の物』に出来たという強い確信とそれを成し遂げた達成感だけを感じて満足げに笑うとんでもないクズだったのだ。


「――透麻、あなた何をしているのッ?!」


母の強い言葉が聞こえたけれど、あの時の俺にとって母は『敵』だった。
だって俺は自分の物にした綺麗な人とまだ話もしていないのに、母は俺と彼を明らかに引き離そうとして来る。

習い事を終えた小学生の息子を迎えに行っても指定の場所におらず念の為持たせておいたGPSの位置を確認し、路地裏でその反応を見付け慌てて『助け』に向かったら息子の方が加害者になっていた時の母の気持ちを思うと申し訳なさしかないのだが、その時の俺は自分から自分の『物』を奪おうとする母に牙を剥いて反抗したのだと思う。
――そして、当然の様に幼い自分より遥かに格上のαである母にいとも簡単に制圧されて自分が傷付けた彼と二人揃って病院に運ばれたのだ。

目を覚ました時には個室の病室で、今思えば当然のことながら俺は拘束されていた。
母と、多分呼び出され慌てて駆け付けてくれた父に向かってクソガキだった俺は大きな声で叫んだ。

「ねえ、僕の『物』を何処にやったの?!」
「透麻の物じゃないわ!!!」

叫んだ母の目には何故か涙が浮かんでいたが、その時の俺にはどうでも良かった。
ただ、あの自分だけの物にした綺麗な彼が何故今傍に居ないか。その一点だけが気に食わなかったのだ。

父は感情を押し殺した声で俺に『第二性』のことをどの程度理解しているのかを確認して来た。
丁度その頃学校で第二性それぞれの特徴を学び「お友達が『α』でも『β』でも『Ω』でもそれまでと変わらずに仲良くしましょう」と言う話を聞いたことを興奮が抜けきらない頭で思い出す。
それに加えてその授業の後でませた同級生が話していた内容も脳裏に鮮明に浮かんでいた。

「お前は恐らく私達と同じ『α』だ。――そして、今回お前が傷付けた相手は『Ω』で間違いないだろう」

すごく苦しそうな顔をして父が言った言葉に、愚かな俺は喜んだ。
拘束されていなければ両手を叩いて飛び上がってはしゃぎまわっていたと断言出来る。

「やった! じゃあ良いじゃない! 『Ω』だもん、『αボク』の物で合ってるじゃない! やった、早く連れて来てよ! 僕の物なんだから、僕が好きにして良いじゃない!」

そう言った瞬間、生まれて初めて殴られた。――母に顔を拳で殴られたのだ。
父はそれを止めなかったが周りに控えていた医療関係者たちが母を抑えようと必死に言葉を掛ける。

「……なんで?! なんで叩くの?!」

じんじんと痛む頬を押さえたくても拘束されていて叶わない。
痛みと驚きと理解が及ばない状況で思わず目に涙を溜めて母に強く叫ぶと、母は俺よりもずっと泣いていた。

「なんて情けない! 今の透麻が持っている自分本位な『α』の思考が今まで一体どれだけの悲劇を生んで来たと思っているの?! まだ幼いとは言え、そんな自分の事しか考えられない子供に育てた自分が恥ずかしい!――アナタを殺して私も死ぬわ! そうじゃないと、他に相手の方に詫びる方法が無いもの!!!」
「な、なんでそんなことを言うの?! 僕が僕の『物』を見付けたのに、なんで喜んでくれないの?! Ωはαの『』なんでしょ?!」

泣きながら言う母の言葉が本気で理解出来ずそう叫ぶと、ずっと静かだった父が母の肩を押さえ後ろに下がらせた。
上位α同士の夫婦が本気で力を振るったらβの看護師が何人居ても押さえ込むことは不可能な為必死に落ち着くように呼び掛ける側と応援を呼ぶ側で病室は慌ただしいが、その時の俺はさっぱり気付いていなかった。


「――凛華、この子は私が責任を持って連れて逝く。先方への賠償と後のことは頼んだよ」
「分かったわ」


父が俺の首にその大きな手を掛けて、静かに低い声で言った。

「直ぐに父さんも逝くから一緒に相手の方にあの世で詫びよう。――お前がしでかしたこととその罪への認識の甘さは、例え二人で一緒に死んでも償いきれないくらい最低の行為だ。人間として恥ずべき畜生以下の絶対に許されない所業だ」
「と、父さん?!」

ぐっと俺の首に掛かる手に力が込められた。
あれは確実に脅しや怖がらせて学ばせる類の物では無く、本気でどうしようもない俺を産み出した責任を取ろうとしてくれたのだと思う。

結局応援がギリギリ間に合って止められたが、その時の両親の絶望に塗れた悲壮な表情を見て馬鹿なガキである俺は自分が何か大きな間違いを犯したのではないか? とようやく思い至った。

俺は本当に――今も思い出す度に筆舌に尽くしがたい羞恥に塗れ床の上をのた打ち回りたく成る程に恥ずかしい、どうしようもない位腐った自分本位の考えしか出来ない正真正銘のクズガキだったのだ。

その後両親の居ない場で医師からDVDを見せられた。
映像は二部構成で、一つ目は『Ω』がただ『Ω』に生まれたというだけで過去の歴史の中でどれだけ酷い扱いを受けたのかを克明に伝えるもの。

そして二つ目は自分と同じαに力ずくで番にされ深く苦しみ、精神を病んで自傷行為を止められなくなりその結果自ら命を絶ったΩ達の本物の嘆きの記録だった。
今までの長い年月の中で人々の認識を変えようと努力した人たちの功績の結果法律が生まれ『α』から『Ω』への暴力が明白な『重犯罪』であるという認識が世に浸透しても、事件自体は絶対に無くならないという辛い現実を一切の誤魔化しなく伝える映像だった。


「……」


その映像を見て、俺はようやく自分がしでかしたことがどれほどの罪だったのかを知った。
百パーセントは理解出来ていなかったと思うが、それでもとんでもない……取り返しのつかない罪を犯したのだとようやく知ったのだ。

そしてその次に襲ってきたのは形容しがたいほどの『恐怖』と『後悔』だった。
名前すら教えて貰えない自分が傷付けてしまった大切な『彼』の心を壊してしまったのかもしれない。
一生会えないどころか、自分のせいで彼が何処か遠くに逝ってしまうのかもしれない。

何故あんなことをしてしまったのだろう。
そして、何故あんなことをして呑気に喜んでいられたのだろう。自分のことをあれだけ殺したい程恥ずかしいと思ったことは無かった。

幼い心は現実を受け止め切れなくなり、意味の分からない言葉を叫んで泣きながら謝罪を繰り返し暴れ回る俺を抱き締めてくれたのは、いつの間にか部屋に入って来ていた母だった。
本当にどうしようもない時、俺の『大切な人』は一枚の手紙をくれた。――それが俺のその後の人生の命綱になった。

俺の後悔と贖罪の人生はそこから始まったのだ。
そしてあの時の医師の静かな声は今でも鮮明に思い出せる。



「――恐らく君は、これから『番』と再会するまでこの過去の海外の例のαのように『三か月に一度、一週間程度続く』体調不良にずっと悩まされることになるでしょう」



症状は「不眠」・「拒食」・「希死念慮」・「倦怠感」・「幻覚」・「幻聴」などがメインでどの症状がその時強く出るかは分からないそうだ。
俺が悪いことをしたのだから、俺が苦しいのは当然だ。寧ろ苦しい方が逆に精神的に楽にさえなれる時すらあった。

「十五年、十五年――」

本物の貴重な一枚を駄目にしてしまうのが怖くて似たような材質のメモ帳を探してもらって何十枚もコピーを作った。オリジナルは金庫の一番上の段に大人になった今でも大事にしまってある。
ずーっと握り締めて過ごすから何枚あっても足りなくてラミネート加工をして予備を数十枚単位で作った。

「十五年、十五年」

苦しい期間は自室でいつもそれだけを呟いてひたすら耐えた。
『Ω』はすごい。『Ω』は、強い。尊敬するべき程に強い。この情緒不安定さに性衝動が加わるなんて考えただけで俺は気が狂いそうだった。

でも、医師がくれた言葉が俺を支えてくれた。


「過去の例に則ると、不思議と――相手のΩの方は『ヒート』から解放されているようです」


それを聞いた時、とても嬉しかった。
もしかしたら神様が悪いことをした自分への償いの手段として、大切な人の苦しみを俺に振り分けてくれたのかもしれない。そう思うとどれだけ苦しくても頑張れた。


――十五年経ったら、会いたいと言っても良いですか。
あなたが望んでくれるなら俺は何でもします。
そして許してくれなくても、会ってくれなくてもあなたの為に出来ることは一生なんだってします。
傷付けたことへの謝罪と、もし許されるなら伝えたい言葉があるんです。
いつかそれを伝えられる立場を頂く為に俺は何をすれば良いでしょうか。




「どうか――『考えて』頂けないでしょうか」




十五年経った俺は、やっとカメラの前でだけど……頭を下げることが出来た。





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