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01.『三十歳』を待ち侘びるのには理由がある。

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伊岡 灯莉イオカ アカリは今二十九歳――間もなく控えた誕生日で三十歳を迎える男性Ωだ。

灯莉は自宅マンションのリビングでノートパソコンを見ながらなんとなく表示されたカレンダーを見て昔のことを思い出した。この時期はどうしても、思い出すことが多い。

灯莉は今から約十五年前のある夜、予備校の帰りに道を歩いていた所物陰に連れ込まれ訳も分からず意識を失い気付いた時には病院のベッドの上だったという過去がある。

その時はよく事態が飲み込めなかったがそれが却って冷静さを保たせてくれて、駆け付けてくれていた両親と医師から取り敢えず説明を受けた。内容はこうだった。
なんでも灯莉は年々数を減らしている貴重な「Ω」で偶然「運命」の「α」と出会った事でファーストショックと呼ばれる強烈な発情を起こし強姦された挙句噛まれたらしい。

「――え?」

強姦? いや、一応男だけれど。
第二性のことは学校でも必須項目として習ってはいたが総数で表すとαが二十パーセント、βが七十パーセントそしてΩが残り十パーセントとあっては当事者意識を持って授業を受けている人間の方が少なかった。
でも「噛まれた」Ωがどうなるかは……なんとなくだけど頭に残っている。

よく分からないまま自分の事を見詰める両親と医師の視線を思い切り浴びつつ灯莉はやっと自分の状態に目を向けることが出来た。

首の後ろが、すごく痛い。
病衣から覗く手と手首には包帯が巻かれていたけれど、恐ろしい力で掴まれたことがありありと分かる鈍い痛みが体中の至る所にある。αと言うのは恐ろしい生き物なんだな……これだけの力を持っているのか。
そして何より――今まで生きて来てトイレで排泄する時にしか意識したことの無い場所も、痛い。

強姦? 脳が心を守る為に何かを遮断していたのかも知れないが灯莉は両親と医師が逆に心配になる程冷静だった。
そしてふって湧いた疑問をそのまま声にした。

「相手は?」

灯莉の声に医師は両親を一度見たが、灯莉が同じ問いを繰り返し「自分には知る権利があるはずだ」と言うと一つ頷いて説明を続けてくれた。

「――相手はまだ小学生の少年です」
「え?!」

信じられない言葉に灯莉は物凄く衝撃を受けた。
確かにαは成長が早く力も強いとは聞いていたけれど、もうすぐ十五歳になる自分がそんな子供相手に好き勝手されたのかと思うと非常に複雑な気持ちだ。そんな灯莉の表情を注意深く見ながら医師は続けようとした。

しかし必死で優しい表現を探している気配を察して「出来るだけハッキリと教えてください」と言うと医師はもう一度両親と視線を交わし合ってから口を開く。

「相手は幸いなことにまだ正式な『精通』を迎えておりませんでした。ですから灯莉くんと相手との『番契約』は本当の意味では成立してはいません」
「――そうなんですか」

しかし医師は灯莉に「良かった」と思う暇は与えてくれなかった。

「正式な診断を下す為には灯莉くんの『Ω』としての成長を待つ必要もあるので時間が掛かります。――しかし、過去海外であった極めて類似する例を参考にすると……」

そこまで言って一度言葉を止めた医師をしっかりと見据えて灯莉は視線だけで続きを促す。そしてそれに気付いた医師は一つ頷いて説明を再開してくれた。

「灯莉くんが『Ω』としての人生を望むのであれば相手は今回の少年だけになるでしょう。しかし『一般的なβの男性』としての人生を望むのであれば――まだ断言は出来ませんがある種の希望があるかもしれない」
「『ある種の希望』?」

良く分からずオウム返しをした灯莉に医師は続ける。

「あくまで過去の海外の例を基に説明すると噛まれた『Ωの男性』は相手の『α』に事故後最初に物理的に接近するまで『βの男性』と同じ生活を送れた、と残っています」
「え?! そんなことが出来るんですか?」

信じられず灯莉も両親も同じ疑問の声を上げると医師は力強く頷き、言葉を重ねる。
そして医師は持って来ていたタブレットを開いて論文だろう物を表示させたけど当時の灯莉には一切読めなかった。

「彼らは双方未成年だったこともあり親同士で契約書を交わすことで刑事事件にはなりませんでした。その代わり被害者側が求めたのは『遠方への引っ越し費用の負担』と『決して自分達を探さないこと』だったんです。ああ、勿論かなりの額の慰謝料のやり取りもありました」
「……当然ですよね」

それまで黙っていた母親が聞いたことも無いほど冷たい声を出して灯莉は驚いたが、やっと見た母の目には涙が浮かんでいてとても申し訳なくなる。
父が母の肩を抱いたタイミングで医師の説明は続いた。

「その後噛まれたショックから立ち直ったΩの男性はヒートを起こすことも、それに伴う健康や精神面での不調もありませんでした。……しかし数年後遠い異国の地で再会し結局番ったそうです」

医師の言葉を聞いて今度口を開いたのは普段寡黙な父の方だった。

「――またαの男性が力に物を言わせたと?」
「いいえ。『間違いなく合意だった』とΩの男性が強く主張したと記録にはあります」
「そうですか……」

そこまで話を聞いて灯莉は思った。
授業は上の空であったことは認めるが、それでも「Ωは大変だな」と感じたことは覚えている。

約三ケ月ごとに訪れるヒート、それに伴う心身の不調と行動の制限。抑制剤の副作用と経済的負担。そして現実的に将来目指せる職業の選択肢が狭まるというどうしようもない事実。
強姦された瞬間を覚えていない今の時点からすると、相手のαの少年と二度と会いさえしなければ自分の人生的には良いのかもしれない。

そう思ったので素直にそれを口にすると医師と両親はとても複雑そうな反応だった。
今後事件の時のことを突然思い出して苦しむ可能性もありますから、暫くは入院を勧めますと言う医師の言葉に両親の方が先に頷いて医師は退室して行った。

「――ごめんね」

結局泣いている母と、同じように目を潤ませている父にそう言うと叱られた。
灯莉は相手の少年のことが少しだけ気になったがとても両親には切り出せずその日は何か薬を飲んで眠った。
多分安定剤と睡眠導入剤的なものだったんだろう。


そこから二日くらい後だろうか? いつもの時間に両親揃ってお見舞いに来てくれたのは良いが母親の顔がとんでもなく険しいことに灯莉は驚いた。
多分必死に何かを隠そうとしてくれてはいるんだろうけれど……隠しきれていないのだ。

「母さん、どうしたの?」

悩んでいても答えなんて分からないので質問すると母ではなく何故か父が重い口を開く。
いつもは圧倒的に母の方が口数が多いのになんだろうと思い知らず知らずのうちに身構えると、父は複雑そうに顔を歪ませて低い声で言った。

「――加害者の少年がお前を求めて半狂乱になっているらしい」
「え?!」
「低年齢過ぎるせいで使用出来る精神安定剤や鎮静剤がほぼ無いこともあって本人の気力頼みらしいが――あれでは」

不自然に途切れた言葉で二人が加害者の少年の様子を見て来たことが推察出来た。
同じような年齢の子供を持つ親として許せない部分と哀れだと思う感情が鬩ぎあって二人とも苦しんでいることが分かった灯莉は、軽い気持ちでテーブルの上にあったメモ帳を一枚剥ぎ取る。

灯莉は入院中の暇な時間を使って真面目に第二性について勉強した。
本も読んだし、ネットでも当事者たちの体験談などを一日中読み漁って過ごした。だから入院初日よりは『α』と『Ω』について知識を得ていたのだ。

その上で理解したこと。
それは『α』は自分の遺伝子を残しやすいΩを本能的に強く求めるが、例え正式に番っていても心変わりして別のΩを番にすることが出来ると言うことだ。

しかし『Ω』は一度番にされてしまうと二度と別のαの番にはなれない。
三か月おきに来るヒートのたびに自分を捨てたαを求めずにはいられず衰弱して若くして命を落としてしまう者も多いらしい。
普通なら多大なるショックを受ける所だが、翻訳サイトを駆使して医師が見ていた論文も時間をかけて読破した灯莉の心は軽かった。

――だって自分は『Ω』としての人生なんて元々いらないのだ。
ちょっと噛まれて痛い思いをして両親に心配をかけたことは許しがたいけれど、相手と二度と会いさえしなければ今まで通り普通の『βの男性』として生きて行くことが出来る。

相手のまだ若い小学生の子だって今は自分を求めていても成長すればすぐに恋人が出来てさくっと番って幸せになるはずだ。
αがモテモテなのはとっても有名なのだから、自分の事なんて気にしなくて良い。
お互い事故だと割り切ってさっさと忘れてそれぞれの人生を生きた方がずっと良いに決まっている。だから、取り敢えずその子は今だけを乗り切ってくれれば大丈夫だろう。

「じゃあこれ渡してあげてよ」
「灯莉……」

さらさらっと。
本当に走り書き程度に書いたメモを渡すと両親は驚いた顔をしたけれど受け取ってくれた。
どうやら少年はそれで落ち着いたらしかった。

それからさらに数日後双方の両親同士でそれぞれ弁護士を入れて正式な話し合いの場が持たれた。
詳しい内容は教えて貰えなかったけれど相手の方から
・慰謝料一億円。
・偶発的でも会ってしまうことを防ぐ為自分達がこの国から出て行く。
・未成年の内は本人がどれだけ帰国を望んでもパスポートを取り上げて絶対に許さない。
と言う申し出があったそうだ。

慰謝料については流石に高額過ぎるとこちらから減額を申し出たが相手の方が折れなかったらしい。一家揃ってすぐに海外移住を決定できるくらいなのだからきっと相当裕福なのだろう。
その上で「ひと一人の人生を根底から変えてしまったことに対する賠償金にしては安過ぎるくらいだ」と言われたがうちの両親も粘り最終的には半額で話がついた。

なおこのお金は灯莉名義の口座に振り込まれ、来るかも分からない税務調査に備え通帳は弁護士が作成した示談書と医師の診断書と常に三点セットで今も保管されている。

あれから念の為我が家も一家揃って引っ越して、なんの問題も無く今まで生きて来られた。
行きたい大学に行って、なりたかった職にも就いた。我ながら穏やかでとても恵まれた人生だと思っている。

まごう事なきΩなのにヒートを一度も経験せず抑制剤も一度も飲んだことの無い一応番(仮未満)を持つ二十九歳のΩ、なんて聞くとその道の研究者は解剖したくなるんじゃないか? と思うくらいのレアさだが誰も灯莉を見てΩだなんて思わない。

Ωは一般的に小柄で童顔、庇護欲をそそる愛らしい顔立ちの者が圧倒的に多いのだが灯莉はそれに該当していないからだ。
確かに細身ではあるが身長は百七十八センチと人よりは高めだし、顔立ちだって童顔とは程遠い自分で鏡を見ても冷たそうだと感じさせるパーツの配置をしている。

――そして、何よりもうすぐ念願の『三十歳』を迎えられるのだ。

女性Ωの場合は全く話は違うが、男性Ωにとっての三十歳には強い意味がある。
それは三十歳を境に『妊娠率』が急激に落ちるのだ。激減と言うか、致命的と言っても良いレベルで落ちると言っても良い。

それはとても有名な話で子供を望む男Ωは三十歳までに必ず産んでおけ! と言うのが常識になっている。
これをαやβが言うと性差別だと大問題になるが自らが男性Ωであることを公表している当事者たちが誰よりも声高に叫んでいるのだから周りは文句なんて勿論言えない。――灯莉はこの時をずっと待っていた。

αは自分自身の優秀な遺伝子を残したいと言う強い本能を持っていることは学術的にも証明されている。
そんなαにとって子供を産む確率が致命的に低い三十歳を超えた男Ωなどハッキリ言って何の価値も無くなる。


だから『あの時』あんな言葉を書けたのだ。
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