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前編:久しぶりの恋だと思ったのに。
しおりを挟む――少し想像してみて欲しい。
あなたは二、三年前から時折自分が勤務する会社に訪れる他社の営業職の男性を目の保養としていた。
彼は背がとても高くて……でも最近流行りの細マッチョではなく高校大学とインターハイで優勝争いを繰り広げられる位の実用的な筋肉を身に纏った柔道経験者で当然段持ち。
幼い頃から体育会系の世界で揉まれて来たであろうその人はとても礼儀正しく、社会人になってからもさっぱりとした短髪をキープして、常に背筋を伸ばし胸を張ってきびきびと歩いている。
精悍で男性的な凛々しい顔立ちは現代日本では好みが別れるかも知れないけれどあなたにとってはとても好ましかったし、それなりに大きな会社の優秀な営業マンとして出入りする彼を狙う子猫の皮を被った種々様々な肉食獣達の毒牙をちょっと困った顔はしつつもしっかりかつ時にはハッキリと躱す様な誠実さと堅実さを併せ持つところも更に高ポイントではなかろうか。そうだよね? ね?
そんなある日あなたは少しの残業を熟し、明日からの休みに思いをはせて最寄りの駅へ徒歩で向かう。
すると、改札近くの柱の前にいつも遠くから眺めているだけ、寧ろ見られただけでラッキー! レベルの彼が柱に寄りかかる事も無く立っていて……社内では特に会話した覚えも無いたまたますれ違う時に挨拶をする程度の認知度の筈のあなたを見付けた彼は嬉しそうに、でも顔をきりっと引き締めて歩み寄って来るのだ!
「お疲れ様です。きちんと面と向かってご挨拶させて頂くのは初めてですね。私、株式会社蓮沼の春日居 直と申します。よろしくお願い致します」
「頂戴いたします。私神田商事の桐ケ谷 梓沙と申します。こちらこそよろしくお願い致します。」
実直の『直』と書いて『スナオ』と読む。――素敵な名前だ。
実際裏表なんて無さそうな彼の顔を見てあなたの脳裏にそんな考えが浮かぶ。でも、何故こんな所で突然? と思わずにはいられなかったが染み付いた社会人の習性で名刺交換を交わした。
軽く困惑を継続しつつも取引先の社員でもある彼に失礼な態度は取れないのでちょっと戸惑っていると彼は真面目かつとても緊張した顔をしてあなたを軽い食事に誘ったのだ。
男性に二人きりで食事に誘われるなんて数年ぶりだろう……あなたは元々好意を持っていた彼からの誘いに応じた。
彼が案内してくれたのはとても雰囲気の良い半個室の居酒屋で少し照れた様に「とっておきのお店です」なんて言われてしまえば多少舞い上がってしまうのは仕方が無いと……思う。うん。
一緒に軽いお酒と美味しい料理を味わいながら交わす会話は流石営業職、と言った所か。武骨な見た目からは想像できないほど楽しくて、お世辞じゃ無く気が合うのが分かった。
これで「誰かを紹介してください」とかだったら流石に傷付くかも……なんて思いつつ過ごすも一向にそんな様子は無く初めての食事は進み、彼は時計を確認した後本当に惜しむような表情をしながらあまり遅くならない時間帯での解散を提案して来た。――紳士的で素敵、と心の中の加点が止まらない。
「ご自宅までとは言いませんが、せめて最寄り駅くらいまでは送らせてください」
しっかりと個人用の連絡先を交換してから店を出る際には会計は当然の様に済んでいたし、恐縮してしまうあなたに対し話題を逸らす様に好きな食べ物の系統を質問してそれにあなたが素直に答えると「いい店知っています」と嬉しそうに微笑まれちゃったりもした。
そして最寄り駅を聞かれ答えると偶然同じ駅。終電の心配をする必要はまだ無い時間なので駅までの道もゆっくりと並んで歩き、電車に乗った後も全く途切れない会話はお互いが周囲の迷惑にならないよう口を手で思わず覆う仕草が何度か出る位盛り上がった。……でも残念だけど目的の駅に到着。
挨拶をしていざ今日は本当の解散……という段になってあなたを呼び止めた彼は辺りに人がいない事を確認して男らしく真っすぐに、ハッキリと告白をしたのだ!
その時の彼はビシッと立った姿勢からがばっと頭を下げて、でも右手だけをこちらに差し出した正しく「よろしくお願いします!!!!」ポーズ。
返事?そんなの、勿論……――
『ノー』に決まってんだろうが、馬鹿野郎!!!!!!!!!!
***
「ごめんなさい、無理です」
一切の迷いなくバッサリと即座に言い切った私を春日居さんは驚愕の瞳で見詰めた。
え? 何この男まさか『あんな告白』をしておいて断られる事を想定していなかったとでも言うのか?
「――え?」
事態を飲み込めない、と言ったように目を瞬かせる目の前の大男。ついさっき! 本当についさっきまですっごく素敵だったのに今では無駄にデカくて邪魔くさい唯の木偶の坊にしか見えないのだから女心と言うものは恐ろしい物である。
「これ、今日の食事代お返しします。ご馳走になる理由がありませんので」
「待、待、待って下さい! な、なんでですか?! ついさっきまであんなにッ!!!」
鞄を漁り財布を取り出してお金を忌々し気に抜いた私に対しその太く逞しい両腕を自身の背中に回す事で「そのお金は受け取れません!」を伝えて来る男……ああ、もう熊でいいわ。熊。以後コイツは私の中で熊!!!
本当は舌打ちしたい位だったが腐ってもこの熊は仕事関係者。
ふーっと気持ちを落ち着かせる為に一度深呼吸して「なんで?」を子供の様に繰り返す熊に向かって自分の中にある「なんで?」を投げ返す。
「なんで? って、寧ろ何故『あんな告白』で受け入れられると思ったんですか?」
「え? だ、駄目ですか? やり直しですか? あ、俺……馬鹿だから気に入りませんでしたか?」
言い回しの問題じゃねえんだわ、と思わず汚い言葉が出たのに目の前の熊は嬉しそうに目を輝かせた。
だから私はしょうがなくこの熊に先ほど自分がした告白は人間を対象にしたものでは無いと教える事にする。
「もう一度同じセリフが言 え ま す か ?」
敢えて語尾を強く何度も区切って嫌な女感を出したのに、熊は何故か嬉しそうにもう一度背筋を伸ばし……彼なりに何か変えようと思ったのか今度は目を真っすぐ合わせたまま直立不動で何の迷いも無く言った。言ったんだよ、何の躊躇いも無くな。
「桐ケ谷さん、ずっと好きでした。 俺の事を、これからずっと隣で踏みつけて下さい!!!」
――はい馬鹿。
コイツは本物の馬鹿。そして、こんな馬鹿熊を数年間目の保養にしていた私は……その何倍も馬鹿である。泣きたい。一人でひっそりとお酒でも飲みながら泣きたい。
「いつまで後をつけて来るつもりですか? いい加減警察呼びますよ」
コツコツと夜道にヒールの音を響かせながら足早に歩きつつ自分の後ろをついて来る男に振り返る事無く言っても返事が無い。何だ? と様子を確認する為に振り向いて……とてつもなく後悔した。
なんといい年をこいた……そう。まごう事無き私と同学年、熊(雄、成獣)御年二十九歳はなんと! 直立不動のまま鼻水を垂らして泣いていたのである。
「ちょ?! え? な、なんで泣いて?!」
「だっで、だっで――!!!!!」
ぐすぐすとしながら潜めた声で俯いた熊。やめろ、全然可愛くない。
今まで誰一人として幸運な事にすれ違わなかったのに急に出て来た謎の高齢男性が「姉ちゃん、旦那泣かすなよ」なんて余計なお世話の言葉を言って足を止めぬまま通り過ぎて行く。
それに対してこの馬鹿熊は「旦那?」なんて鼻水垂らしたままちょっと嬉しそうにするから普通に物凄く腹が立った。黙れ熊、人間と熊は結婚なんてそもそも出来ないんだよ。
「だから! なんで泣いてるんですか?」
「ずっと好きだったのに! あなたを一目見た時俺にはあなたしかいないって分かったのに! あなたに会いたいから営業先に通ってたのに!」
「いや、普通に気持ち悪い」
冷たくドン引きして言い放った私を見て、熊は嬉しそうに鼻水を垂らしたまま続ける。
どうでも良いから鼻水を拭け。汚いし見苦しい。
「ほら! あなたは絶対に『こっち側』なんです! お願いします、一度で良いので試させてください!」
「はァ?! まさかこの流れでワンナイトに持ち込もうって言うの?! ふざけんな馬鹿熊! 人が仕事関係者だと思ってれば図に乗って!!!」
「ワンナイトなんてとんでもないです! 俺は、俺はッ! とにかく、一度試させて貰えるまで俺はここから動きません!!!!」
そう無駄に男らしく言い切った熊が何したと思う? 土下座だ。ジャパニーズ土下座。路上で! 何処にいても目立つサイズ感の男が!! 路上で土下座だよ? これはどう言う事かな。
唖然としていると先ほど通り過ぎた男性高齢者が何故か戻って来て「姉ちゃん、何があったか知らねえが大の男がここまでしてるんだ。もう許してやれよ」と言って先程とは逆の方向に歩いて行った。——いや、だからアンタはこの時間帯に何故歩き回っている? 徘徊なら他所でやってくれ。
そんな事を思っていると巡回中のパトカーが少し先の交差点を曲がり、こちらに接近してくるのが見えたものだから流石に焦った。取引先の男性社員に自宅周辺の路上で土下座をさせている所を職質されたなんて会社にバレたらとんでもないことになる。
ねえ警察、どうせ来るならもうちょっと早く来て欲しかったよ!
「分かった! 分かったから立って!!!」
「お、お家に連れて行ってくれますか?!」
この期に及んでとんでもない事を言う馬鹿熊だったがとにかくこの熊を二足歩行させる事だけを考えて居た私はうっかり了承してしまった。
そして言質を取られたが最後……すっかり嬉しそうな表情になった熊はすっくと立ちあがりまるで人間の様な軽快な足取りで本当に私のマンションまで着いて来たのである。
「先に言っておくけれど私片付けられない女だから部屋超汚いからね」
「はいっ!」
嬉しそうに返事をする熊に何度目かも分からないほどげんなりした。げんなりし過ぎてもう正直クタクタだ。
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