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後編
しおりを挟む住谷 香苗(二十八歳)は自他共に認めるとんでもなく影の薄い女である。
一度友人に誘われて行った予約最低半年待ちのよく当たると評判の占い師に
「最高の適職は『隠密』か『スパイ』。アンタ生まれる国と時代を間違えたね」
と言われた事もあるし、友達と待ち合わせをしていても自分が相手を探して声を掛けないと相手は香苗を中々見付けられないのだ。
香苗の事を探してきょろきょろとする友人は確かにこちらを見ているのに、それでも気付けない事が多い。
友人達の総意はこうだ。
—香苗は完全に背景に同化している。風景に溶け込んでいる。
—開かれた場所では特にその傾向は顕著で香苗いるかなー?程度ではまず見付けられない。
—個室内などの閉ざされた空間では『この中に香苗が絶対いるはずだ!』とかなり強く意識する事でようやく正常に認識できる。
と。最初は冗談だと思っていたがそれは事実だと香苗は歳を追うごとに痛感した。痛感したし影の薄さが悪化している自覚もある。
今の会社に入ってからもそうだ。
自由参加の勉強会にだってちゃんと参加したのに! それなのに後から同僚に「これ勉強会の資料! ついでに貰っておいたから良かったら」と純度100%の温かい優しさを渡される事も日常茶飯事である。(因みに入退室時のICチップによる記録で勉強会への参加は公式な記録としては認められている。)
でもある日香苗は気付いた。
——そんなに影が薄いなら、私……あの最高に忙しそうな『彼』をコッソリサポート出来るのでは?!と!!!!!
彼と言うのは城崎 大和さんだ。
彼はとっても優秀で関西の支店から名指しで本社にやって来た程仕事が出来る男である。
よく営業事務の女性達と楽しそうに話していたのを見て「出来る男と言うのはあれだけの仕事を熟しながら女性の心すらもこうも簡単に掴むのか……」と生粋の喪女兼かなり発酵した腐女子(目指せ立派な貴腐人!)である香苗を慄かせたりもした。
でもなんだかちょっと前に色々変わって結構長くいたはずの派遣の大川さん、吉田さん、南さんが契約満了とかで職場を去ってしまったし、社員で香苗と同じ営業事務をしていた久石さんと北川さんは珍しい時期だけど異動してしまったのだ。
それが香苗はちょっと寂しかった。
だって皆とってもいい人だったし、影が薄い香苗にもたまに気付いてくれたときは笑顔で挨拶をしてくれる親切な人達だったのだ。……皆、元気かな…と香苗はぼんやりと思うが手元は一切止まらない。
そう。香苗は影こそ物凄く薄いものの仕事に関しては天下一品の超絶できる女なのだ。
その縁の下の力持ちぶりに対する管理職と古参の方々の評価は文句のつけようの無いAAAランクで、彼女を取り合って営業一課と二課の課長が本気で争った結果部長が間に入り折衷案として数年おきに香苗を交互に異動させると言う事でなんとか話は纏まったのだが香苗はそれを知らない。
『住谷 香苗は左手一本で営業の縁の下全てを軽々支え、その上右手で別の仕事をする。』——彼女をきちんと『見て』いる人間はその超人的な働きぶりをそう評価した。
だがそんな世間の評価など知らない香苗は「ボーナス今年もすごいなあ、良い会社に入れて本当に良かった。ありがたやありがたや」と明細を前に手を合わせたりしているのである。
——さてさて話を戻そう。
香苗は最初城崎を見た時本当に驚いた。
だって彼は香苗をめくるめくBがLしてMがLしてLOVEがFOREVERする甘くも罪深い底なし沼の新境地に出会わせてくれた不朽の名作『不確かな僕には愛なんて囁けない』のハイスペックα様、瀬川 湊にそっくりなのだ! 外見が! 永遠の推し、瀬川君が大人になったら絶―ッ対こうなる! と断言できる位の完全一致なのだ。
呆気に取られ悲鳴を上げなかった自分を褒め称えていると彼が挨拶する為に口を開く。
それでまた香苗は驚いた。いや、寧ろここまで揃うと怖かった。
——こッ、こッ、ココッ、声が! 声が!大人気BLマンガ『夢色ダーリン真白ちゃん』の予約限定特装版でのみ手に入るドラマCDで攻め様役を演じた香苗が一番大好きな声優、髪枕 新之伸さんではないかぁぁぁぁぁぁ!!!!!
大事な事なので言っておくと香苗はナマモノには一切興味がない。
そして作品の世界観に没入する事で楽しむタイプの人間なので『中の人』の事は意識して敢えて余計な知識を入れない様にしているタイプのオタクなのだ。
だって、そうしないとその『中の人』だってただの人間だから過ちを犯しスキャンダルとして世間を騒がせる時が来るかも知れないじゃない? そうなるとさ、それ以降大好きな作品を見ていても「あー、この人こんなに誠実かつ一途な〇〇くんを演じてるくせに実生活じゃさー…」とか邪念が頭を過って楽しめなくなってしまう。
作品を楽しむ上で余計な先入観は可能な限り全て排除したい……それが香苗と言う女だった。
どうやら声優さんは大人向け作品と通常作品で名義を変える人が多いらしいのだが香苗は死んでも検索しないと誓っている。
とにかく! 本当なら中の人の名前すら知らなくても良いと思っている香苗すら魅了してしまったのが声優、髪枕 新之伸様なのだ!!!
そんな推しの声にそっくりな声の男性が今、実に落ち着いた礼儀正しい挨拶をしているではないか。
香苗は混乱した。
——見た目が『推し』で、声も……『推し』?
と言う事は『推し』×『推し』……いや、ただ掛けるなんてそんなの推しに失礼だ。
そうだな、二乗しよう。うん、それがマナーだ。失礼したな。
脳内で計算して、早苗は震えた。——単位が! 単位が足りないのだ! 推しと推しを二乗した時……この世でその尊さを表せる単位が無いのだ。
困った! これは、間違えようの無い敗北だ。 人類が積み上げた数学と言う、算術と言う尊い学問ですら推しを語るには足りないのだ!!!
その頃にはもう彼の挨拶は終わっており皆普通に業務を開始していて、本当なら立ち尽くしていた香苗は妙な注目を浴びる筈だったが持ち前の影の薄さが功を奏し誰にも気づかれなかった。
ああ、影が薄くて本当に良かったぁ! と胸を撫でおろし香苗はその日の仕事を始めたのである。
「……はい。………そうですね、そちらは――」
隣の席で髪枕様がお電話をなさっている……いや、混同するな! ここは職場で彼は瀬川君だ! 違う、城崎さんだ!!!
営業事務がごそっと居なくなった後行われた席替えで実は香苗は城崎の隣に移動していた。
だから断片的に聞こえて来る単語を拾えばフォローをしようと思えばとても簡単な場所にいるのである。
ふむふむ。
きっとこの流れだとアレと、アレ……念の為あの資料も添えて置けば大丈夫かな。
自分の業務を熟しながらささっとデータベースにアクセスしてぴぴっと引っ張ってクラウド上で城崎が使用している共有フォルダに入れておく。
入れた情報は当然コピーなので要らなかったらお手数ですがゴミ箱ポイでお願いしますね、と心の中で呟いて。
他部署との連絡にも何かと使われる便利な共有フォルダはセキュリティが掛かっていて本人以外からは基本的に空にしか見えない。
例えばAさんの共有フォルダに『犬・猿・雉』の三フォルダが入っていてその上でBさんがAさんのフォルダに『きびだんご』と言うファイルを入れたとしよう。
するとAさんのパソコンからは『犬・猿・雉・きびだんご』が見えるがBさんのパソコンからは自分が入れた『きびだんご』しか見えない。上手く伝えられたかは分からないけれどまあそんな感じだ。
だがこの機能ちょっとだけ不親切で『共有フォルダに何か入ったよ!』と言うお知らせはポップアップで出るのに何故か『誰から来た』は出ないのだ。
だから急ぎの時は内線、そうでも無い時はメールで「送っときましたぜ!」の連絡が必要なのである。
でもメールに直接添付するよりまとめて一気に放り込める手軽さと安全性なども考慮されて社内ではかなり広く普及している。
突然自分の共有ファイルに物が投げ入れられたから驚いたのだろうか? 城崎は驚いて周囲を見回した。
香苗も一応彼の方を向いたのだが、そこは残念。城崎の視線は見事香苗を通り抜けてもう一つ隣の席の人を見ていた……のだが全く問題無い。
理由は簡単、香苗の中に芽生えているのは『使命感』だからだ。
そう、香苗は真面目な顔して人の三倍働きつつも脳内で楽しく毎日を過ごす為のちょっとした妄想を欠かさない。
今の香苗はゲームの中で言う『モブ:サポートキャラ』役になった自分で楽しんで居るのだ。
——無事栄転を果たした城崎(主人公)。
彼は慣れない環境で奮闘しながらも真面目に仕事を熟しレベルを上げて、出世を目指す!!! 管理職に、俺は――なる!!! まさにそんな感じ。
そして自分(香苗)はそんな彼をコッソリ助けるモブ。——いいぞ、これはかなり滾る!!!
困惑しつつも真面目に仕事に戻った彼を課長がすぐに呼んだ。
彼の反応からして資料のセレクトは問題無かっただろうと踏んだ香苗は同じ資料を基にさらに自分でAパターンとBパターン二種類の資料をさくさく作りちゃちゃっと印刷。
付箋にさらさらと用件だけ書いてクリアファイルに挟んだ後隣の机に普通に置いた。
戻って来た城崎はまたとても驚いた顔をして辺りを見たが香苗には当然気付かず「……ありがとう、助かる」と独り言を呟いて資料を眺めBパターンを採用してくれたようだった。
……推しから、推しから感謝を頂いてしまった。
遥か彼方で燦然と輝く希望の星、その星である推しから……いくら独り言とは言えお礼の言葉を賜ってしまった。
これは危険である。
推しは星。言うなれば『シリウス』だ。ギリシャ語で「焼き焦がすもの」が語源である事はとても有名だがその通りだ。危険だ。
太陽を肉眼で見れば危ないのと同じ様に、明るすぎる星=推しもまた、危険なのである。気を付けよう。
その自戒を胸に香苗は己で意識して影の薄さを強めそれからもコッソリと城崎を支え続けたのだが……ある日ひょんな事がきっかけで彼に自分の存在を認知されてしまったのだ。
全く以て、失態であった。
***
「住谷さん、ちょっと時間貰える? 良かったら、軽く一緒に飯でもどうかな」
「すみません、私急いで帰宅せねばなりませんので」
にっこりと、でも妙に圧のある笑顔で言われて香苗は真面目な顔のまま即断った。
急いで帰宅しなければならないのは嘘では無い。
だって『夢色ダーリン真白ちゃん』の新刊がポストインされている筈なのだ。いつもは本屋さんで買うけれど今回大手ネット通販サイト限定版のグッズがどうしても欲しくてそちらを選んだのだが、それが間違いなく届いている筈! だから香苗は本当に忙しいのだ。
しかし城崎は香苗の返答を笑顔で流して「和食と洋食と中華ならどれが好きですか?」と聞いて来た。
——あれ?今までどれだけ影が薄くても声を出せば大丈夫だったのに、ついに私は声まで失った? なんて一瞬不安になったがそうではなかった。
単純に目の前の城崎がスルーしていただけなのだ。
それが理解出来たのは城崎がもう一度ちゃんと香苗に視線を合わせて聞いて来たからだった。
「韓国でもインドでもトルコとか、とにかくなんでもいい店は知っていますよ」
「……いや、そうではなくてですね。私、早く帰らないと……」
「何方かと待ち合わせですか? じゃあ待ち合わせ場所まで送るので話しましょうよ」
「待ち合わせでは……無いのですが」
私は推し『を』推したいのであって、推し『から』何かをして欲しい訳では断じてないのだ。
だが推しの押しは強い。推しだけに。
……なんだそれ、と自分自身でツッコんで香苗は考えた。
どうしてこうなった? と。でも原因は考えるまでもなく明らかだった。
香苗はかなり頑張ってモブサポートに徹していたのに、今日想定していなかったイレギュラーが起きた。
城崎が転勤した先輩から引き継いだその取引先はハッキリ言うと面倒くさいので有名なのだが、彼はそんな取引先も決して軽んじず誠実に向き合っていた。
だが今日相手方が何故か興奮し五~十年前に交わした契約書と違う! 詐欺だ! とかいきなりブチ切れ電話を掛けて来たのだ。
その契約書の内容をこちらでも確認するから契約を結んだ日付と該当の部分などを教えて欲しいといってもただギャーギャークレーマーの様に騒ぐだけ。
その漏れ聞こえる怒声の凄さから本来離れた席にいる課長すら様子を伺いに傍に来る位だった。
まともにこちらに話をさせない相手の言葉を拾いつつ香苗は考えて居たのだが、そんな香苗に課長が呟く。
「住谷君、どれの事か分かるかね?」
「恐らく……コレの事かと」
二つの契約書を並べてウィンドウ上に表示し画面上で推測される個所を課長に告げると課長は「ああ。流石だね」と納得した様に頷き、横に居た城崎の肩を叩いて香苗の画面を見せた。
城崎は出来る男なので隣の席の画面を指示されるまま見て、彼女がそれぞれ該当と思われる個所を指し示すと直ぐに内容を理解して相手方に穏やかな声で説明する。
なんてことない、あちらの勝手な勘違い。それだけの事だった。
な・の・に。
電話を終え自分に礼を言う城崎を労い、課長は余計な一言を言った。
「いや、コレは住谷君のフォローだよ。感謝すると良い」
「え?」
余計な事言うな、と止めるより先に城崎がこちらを見てしまう。
ああヤバい、存在を認知されてしまったぞ。でもまあ大丈夫だろう、多分。そう考えて居る間に課長は去って、城崎と香苗だけが当然残った。
「え、ええと……え、っと? す、住谷……さん? ありがとうございました」
「いいえ、お気になさらず」
愛想笑いで会話を即終わらせに掛かったのだが、そうはいかなかった。
「助かりました。この資料俺の共有フォルダに投げて頂けますか?」
「畏まりました」
頼まれた事をするフリで顔と身体を自然とパソコンに向け、これにて無事ドロン完了でござる~なんて思っていたのが悪かった。
「すみません、これの………え?」
「なんですか?」
他に必要な物もあるなら言っておくれ、と軽い顔で城崎の方を見ると彼の視線は香苗のモニターを見て固まっている。なに?………ゲッ。クソ、裏目に出た!!!!
今後何かあった時に再度サポートしやすい様に香苗は彼に投げた資料を削除せず自分側に残していた。
それを見られてしまったのだ。
簡単に言うと今までずっと尻尾を掴ませず彼をサポートし続けたのは香苗本人だ、と城崎にバレたのだ。
「……ずっと俺の事サポートしてくれてたのって……住谷さんなんですか?」
「まあ、営業のサポートは営業事務の通常業務ですので」
それから城崎は言葉を続けようとしたがクレーム対応のせいで外回りへの出発予定時刻を過ぎていると同行者から告げられ慌てた様に「後で時間ください」と言って出て行った。
だから香苗は定時調度で退勤して自分の存在をいつも通り霞ませながら帰宅しようとしたのに……捕まってしまったのだ。
そして先ほどの食事の誘いに戻る。
家に帰るにも店に行くにも取り敢えず駅には向かうので彼の話になんとなく相槌を打ちながら香苗は取り敢えず人混みを探した。
人混みだ! 人混みにさえ入れば香苗の必殺技を使えて、それを使えさえすればこの人を完全に撒く事が出来る。
幸い退勤ラッシュとまではいかないがそれなりに人がいるので香苗は今だ! と意を決し「お疲れさまでした」と言って必殺技の『景色と同化』を発動しすすす……と城崎から離れた。離れた、筈だった。
しかし当の城崎本人は余裕で香苗の手首を捕まえたのだ。
これに一番驚いたのは香苗本人だった。
だって! だってコレさえ使えば言っちゃなんだけれど実の親でも撒く事が出来たのだ!
大人になってからは試していないけれど香苗は一度好奇心から遊園地でコレを試した結果親と離れてしまいこっぴどく叱られた経験すらあったのに!!
驚き目を見開く香苗を真っすぐに見詰めて、城崎は静かに言った。
「どうして逃げるの、住谷さん?」
これは影の薄い隠れハイスペックアラサーオタク喪女(存在感自体も隠れ気味)が、推しに押されて、その内合意の上で押し倒される関係に至るまでの長い道のりの序章である。(続きません。)
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