28 / 35
本編
28 手が届きそうな気がした
しおりを挟む今朝は、一樹が煙草を吸っていなかった。
目覚めたのは九時半過ぎ。眠い目を擦りながらベランダを覗き込んだら、珍しく一樹の姿がなかったのだ。
絶対ここにいると思ったのに。首を傾げていると、「どうしたの?」と後ろから声がした。振り向くと、風呂上がりの格好をした一樹が立っていた。
「いや、一樹がどこにいんのかと思って。朝シャン?」
「うん。寝汗かいてたからさっぱりしようと思って。千冬くんも朝シャンする?」
「んー、じゃあそうしよっかな」
「分かった。タオルはいつものところにあるから適当に使って」
おー、と気の抜けた返事をしつつ風呂場に向かいかけたが、俺はふと立ち止まって問いかけた。
「そういやさ」
「うん?」
「今日、煙草吸わないんだな」
一樹は、たった今気が付いた、という顔で口元を押さえた。そしてしばらく視線を彷徨わせてから、「……確かに?」と呟く。
「え、無意識? じゃあ逆にさ、いつもは何で朝に煙草吸ってんの?」
俺以上にびっくりした様子の一樹に尋ねると、一樹は首を捻って考えた後、ぽつりと呟く。
「……いつも朝早く目覚めちゃうから、暇つぶしかな。後は、うーん、ストレス解消?」
「ストレス解消? 朝から?」
「まあ、大体いつも悪い夢見るし。あと昔の夢とか。……どっちも悪夢か」
目を伏せて、口元だけでぎこちなく笑う一樹。俺はたまらなくなって、何か言おうと口を開いた。が、俺が何か言うよりも先に、一樹は「でも」と顔を上げた。
「そういえば、今日は悪夢見なかったんだよ」
俺はほっとして肩の力を抜いた。一樹の表情は柔らかく緩んだものだったから。
「じゃあさ、何か別の夢は見た?」
「見たよ。えーと……よく覚えてないけど、電車乗ってた気がする。そこそこ空いてる電車で、隣に君が座ってて……どこ向かってたのかはさっぱり思い出せないけど」
「何だろなその夢」
「分かんないけど、俺にとってはいい夢だったよ。隣に君がいたから」
「そっか。ならよかった」
昨日のことを思い出して俺は笑った。昨日は、直川さんがきっかけで生じたすれ違いを解消した日だった。
夢の中の俺たちがどこへ向かっていたのかは分からない。でも、一樹がいい夢だったと言うなら、きっと楽しい行き先だったんだろうな。
じゃあ俺風呂行くから、と言ったら、一樹はベッドに腰かけてうんと頷いた。幸せが滲んだ笑顔をしていた。
風呂から上がったら、一樹はベッドの上でスマホを眺めながら、何だかにやにやしていた。
「何見てんの?」と声をかけつつ覗き込もうとすると、一樹は勢いよく顔を上げてスマホの電源を消した。好奇心がむくむくと湧いてくる。
「えなに、俺に見せられないようなもん見てたの?」
「別に、そういう訳じゃないけど……」
「じゃあ何見てたか教えてくれたっていいじゃん」
じりじりと一樹に迫りながら言う。一樹は口ごもっていたが、しばらくしてやや上目遣いで尋ねてきた。
「……引かない?」
「引かない引かない。で?」
「えっと……」
観念したように一樹が差し出してきたスマホには、普通の写真フォルダが表示されていた。ちょっとだけ落胆しつつ「エロ画像とかじゃなかった」と呟くと、一樹は「そっ、そんなの今見ないよ!」と両手を振って否定した。
「てかこれ何の写真? 何が写って――あ、俺?」
顔を見上げると、一樹は恥ずかしそうに頷いた。そして、言い訳するように「……君と出かけた時に撮った写真を見てたんだ」と呟く。
「何で?」
「その、君とこれからも一緒にいられるんだなって改めて思ったら、嬉しくて……」
「ふーん?」
一樹のこういうところが好きだなあ、と思う。好きだし、可愛い。にやけていたら、一樹は居心地が悪そうにスマホをしまった。
「そ、そんなことより、千冬くん髪は乾かさないの?」
「え? あー……自然乾燥ですぐ乾くんじゃね?」
適当にタオルで拭いただけの髪を触っていると、一樹は「でもさ」と眉尻を下げて言う。
「エアコン付けてるから、濡れたまんまじゃ冷えちゃうよ」
「えー……でもなあ」
「面倒くさいなら俺が代わりに乾かそっか?」
「マジで?」
という訳で、俺は床に座って、背後の一樹に頭を預けていた。一樹は俺の髪を丁寧に乾かしていく。
「別に適当でいいよ」
「楽しいからやだ」
「楽しいんだ……」
よくよく聞いてみたら、一樹は微かに鼻歌を歌っていた。たかが他人の髪を乾かすだけなのに。
一樹の乾かし方は、俺自身がやるよりもずっと優しい。心地良くて身体ごと預けてみたら、一樹は俺の顔を上から覗き込んで、んふふって感じで少し笑った。
「一樹」
「なに?」
「さっき俺の写真見てたけどさ」
「うん」
「これからも一緒にいっぱい写真撮ろうな。見返しきれないくらい」
「……うん」
一樹の声がちょっとだけ震えていたのには気付かないふりをした。
乾かし終わった後、一樹は俺のことを抱きしめた。そして、「……ずっと、一緒にいたいなあ」と痛切な声色で呟く。俺は一樹の腕をそっと握って「俺も」と笑った。
「……俺ら、五年後とか十年後とか、何やってるかな」
「分かんないよね。何の仕事してるかも分かんないし、どこで生活してるのかも分かんない」
「だよな。でも、一樹はバンド続けてんじゃね?」
「続けられるなら、続けたいけど……、どうだろうなぁ……」
「続けてほしいなあ。俺は……何やってんだろう。やりたい仕事って別にないな」
「まあ、君ならどんな仕事でも楽しくやってそうな気はするけど」
「だといいな」
今は空想に近い未来予想図だけど、いつかそれが現実になった頃にも、二人で笑い合えていたらいいのに。
ずっと一緒に、なんて、本当はすごく難しいってことくらい分かっている。俺たちはもう、そんな未来を盲信できるような子供じゃない。けれど、だからって今その未来を諦めたくはない。
俺はそんなことをしみじみと考えた。一樹も同じようなことを考えてたらいいな。
そう思いながら黙っていたが、ふとあることを思い出して「そういえばさ」と呼びかけた。
「なに?」
「最近セックスしてないから今日しよ」
一樹はしばらく黙り込んだ後「……なんて?」と聞いてきたから、聞こえなかったのかと思い復唱しようとしたら止められた。
「ちが、聞こえてた、けど、あの」
「めちゃくちゃ狼狽えててウケる」
「いや、だって、もうちょっとこう……」
「まあ、一樹が雰囲気とか大事にしてるのは分かるんだけど。俺、常々思ってたんだよね、やろうぜから始まるセックスがあってもよくね? って」
俺は振り向いて、まだあわあわしている一樹の唇を塞いだ後、「ていうかさ」と囁いた。
「俺、一樹に抱かれるつもりで身体洗ってきたんだけど」
一樹は「わ……」とか何とか呟いた後、じわじわと顔を赤くした。その様子は小動物然としていて、愛おしさが妙に込み上げてくる。
俺は一樹をベッドへと押し倒して、Tシャツとズボンを脱ぎ捨ててから、一樹にまたがった。一樹は俺の下で、赤い顔のまま口元を覆っている。
「これはこれでアリ、って思ってんだろ。今そんな顔してる」
「うん……こういう千冬くんもエロくて大好き。はー……ほんとに千冬くん好き……」
「あはは! じゃあ、今日は俺が主導権握っちゃおうかな」
それもいいなあ、なんて満更でもなさそうに一樹が呟くから、俺は覆い被さるようにして口づけを落とした。
◆
強く揺さぶられて目が覚めた。しばらく唸った後にのろのろ目を開けると、眩しい光が視界を埋め尽くした後、一樹の顔が見えた。やけに焦った顔をしている。
「んん……一樹おはよ……」
「おはよ――って言ってる場合じゃなくて、千冬くん、もう十時過ぎてる!」
「んー……? 十時ってなんかやばい時間だったっけ……」
寝ぼけた頭でぼんやり考えていると、一樹は「落ち着いて聞いてね」と前置きしてから言った。
「俺もついさっき思い出して血の気が引いたんだけど、今日ね、秋学期の授業開始日」
「……ん?」
「で、俺たち、二限に必修あるじゃん」
「……え待って、まさか、二限始まるまで時間ない?」
一樹は神妙な顔で頷く。俺は一瞬遅れて、勢いよく飛び起きた。
「やばいやばいこれ間に合う!? 嘘だろ、え、俺とりあえず顔洗ってくる!」
「ごめん、俺がもうちょっと早く気付いて起こしてれば……!」
俺は慌てて顔を洗ってタオルで拭いて、それから鏡に目を向けて、思わず固まってしまった。
ぼさぼさ頭の俺の身体は、濃い情事の色を残していた。昨日は下着のみ身につけた状態で眠ってしまったから、局部以外は全て鏡の前にさらけ出されている。
首筋と腰の辺り、それから内腿に小さく鬱血痕が残っていて、首元や肩の辺りには噛み跡がうっすら付いていた。
キスマークと噛み跡だらけの身体は、朝の明るい光の下で見ると、何割か増しでいやらしく思えた。
俺は情事の跡に触れながら、生唾を飲み込んだ。
昨日は結局、俺が主導権を握るなんて言った癖にあっさり主導権を奪われた。だけど、最初から責められるんじゃなくて途中で逆転されるのも、それはそれでよかった。なんていうか、屈服させられる感が強くて性癖に刺さる。
そういえば昨日は、ヤるか食事するかの二択だったような気がする。これ以上は無理だってくらい行為に耽った。思い返せば随分と堕落した過ごし方だったが、たまには悪くない。
「千冬くーん、準備どのくらいで終わりそ――」
不意に後ろから覗き込んできた一樹は、俺の身体を――正確に言うと俺の身体中に残っているキスマークと噛み跡を見て、固まった。表情がどんどん申し訳なさそうなものへと変わっていく。
「俺、昨日そんなにキスマつけたり噛んだりしたっけ……ごめん本当に、隠れるかなそれ」
「あー……そういえば俺、着てきたの襟ぐりの広いTシャツだったわ。どうしよっかな……」
「お、俺、何かいい感じの服ないか探してくるから待ってて!」と一樹がクローゼットへとダッシュしていったから、俺はその間に手早く寝癖を直した。
やがて一樹が持ってきたのは、大きめのポロシャツだった。紺色の生地に白色と芥子色のボーダーが入っている。触ってみたら、新品の服とは違う手触りがした。古着かな。
ボタン上まで閉めたら大丈夫だと思う、と一樹が言う通りに閉めてみたら、首筋の一箇所以外は全て隠れた。唯一隠れなかった場所にはとりあえず絆創膏を貼り付けておく。
このポロシャツは俺が普段着ない系統だから、何となく落ち着かない。こういうのはインした方がそれっぽくなるだろうか。俺はとりあえずジーンズを履いて、裾をその中に入れ込んだ。
「何とかなってよかった……。ごめんね本当、考えなしにつけちゃって」
「まあ、俺もノリノリだったし同罪だろ」
申し訳なさそうに縮こまる一樹は、何の特徴もない白Tシャツと黒パンツを着ている。ゲームの初期アバターのような服装だ。相変わらず、大学へ行く時の格好はとことん地味だな。
別に人の服装に口を出すつもりはなかったのだが、「一樹もポロシャツ着たら俺とお揃いだよな」と何気なく呟いてみたら、一樹が無言でクローゼットへと向かったから笑ってしまった。
戻ってきた一樹が着ていたのは、同じようなポロシャツだった。深緑色に白と黄色の二色ボーダーが入っている。本当に似たようなデザインだ。ついでに下もジーンズに変わっている。
「お揃いにしちゃった、えへ」
はにかんで控えめに笑う一樹。それがどうしようもなく可愛くてキスをしたくなったが、時間がないから諦めた。
俺はキャンバス生地のトートバッグに荷物を放り込んで肩に引っ提げ、白地のスニーカーを履いて、慌ただしく一樹の家を出た。少し遅れて一樹が出てきて、さっさと鍵を閉める。
「二限間に合うかな」
「走れば余裕だと思う」
「じゃあ走るか。一樹、どっちが早く着くか競争しようぜ! よーいどん!」
「えちょっと俺絶対負けるじゃん! 待ってよ千冬くーん!」
不意打ちでスタートを切って駆け出したら、後ろから慌てた様子の一樹が追いかけてくる。身体の内側から弾むような楽しさがふつふつと湧いてきて、俺は無性に大笑いしたくなった。
「やだ! 待たなーい!」
「えっ待っ……早……!」
「あっははははは!」
笑いながら俺は走った。もう見慣れた景色たちが、いつもより速いスピードで過ぎ去っていく。俺はスニーカーとアスファルトで軽快なリズムを奏でながら、ふっと空を見上げた。
空は澄んだ秋晴れで、気が遠くなりそうなくらいに高くて青い。小さな飛行機が頭上を飛んでいて、飛行機雲がまっすぐ細い線を描いていた。太陽の白い光が目に痛い。
今なら何だか、深い青空の底にも、白く伸びる飛行機雲にも、手が届きそうな気がした。
1
お気に入りに追加
127
あなたにおすすめの小説
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
ヤンデレだらけの短編集
八
BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。
全8話。1日1話更新(20時)。
□ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡
□ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生
□アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫
□ラベンダー:希死念慮不良とおバカ
□デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち
ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。
かなり昔に書いたもので、最近の作品と書き方やテーマが違うと思いますが、楽しんでいただければ嬉しいです。
有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺
高菜あやめ
BL
【マイペース美形社長秘書×平凡新人営業マン】会社の方針で社員全員リモートワークを義務付けられたが、中途入社二年目の営業・野宮は困っていた。なぜならアパートのインターネットは遅すぎて仕事にならないから。なんとか出社を許可して欲しいと上司に直談判したら、社長の呼び出しをくらってしまい、なりゆきで社長秘書・入江のマンションに居候することに。少し冷たそうでマイペースな入江と、ちょっとビビりな野宮はうまく同居できるだろうか? のんびりほのぼのテレワークしてるリーマンのラブコメディです
陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
お客様と商品
あかまロケ
BL
馬鹿で、不細工で、性格最悪…なオレが、衣食住提供と引き換えに体を売る相手は高校時代一度も面識の無かったエリートモテモテイケメン御曹司で。オレは商品で、相手はお客様。そう思って毎日せっせとお客様に尽くす涙ぐましい努力のオレの物語。(*ムーンライトノベルズ・pixivにも投稿してます。)
幸せの温度
本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。
まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。
俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。
陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。
俺にあんまり触らないで。
俺の気持ちに気付かないで。
……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。
俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。
家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。
そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる