猫をかぶるにも程がある

如月自由

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本編

28 手が届きそうな気がした

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 今朝は、一樹が煙草を吸っていなかった。

 目覚めたのは九時半過ぎ。眠い目を擦りながらベランダを覗き込んだら、珍しく一樹の姿がなかったのだ。
 絶対ここにいると思ったのに。首を傾げていると、「どうしたの?」と後ろから声がした。振り向くと、風呂上がりの格好をした一樹が立っていた。

「いや、一樹がどこにいんのかと思って。朝シャン?」
「うん。寝汗かいてたからさっぱりしようと思って。千冬くんも朝シャンする?」
「んー、じゃあそうしよっかな」
「分かった。タオルはいつものところにあるから適当に使って」

 おー、と気の抜けた返事をしつつ風呂場に向かいかけたが、俺はふと立ち止まって問いかけた。

「そういやさ」
「うん?」
「今日、煙草吸わないんだな」

 一樹は、たった今気が付いた、という顔で口元を押さえた。そしてしばらく視線を彷徨わせてから、「……確かに?」と呟く。

「え、無意識? じゃあ逆にさ、いつもは何で朝に煙草吸ってんの?」

 俺以上にびっくりした様子の一樹に尋ねると、一樹は首を捻って考えた後、ぽつりと呟く。

「……いつも朝早く目覚めちゃうから、暇つぶしかな。後は、うーん、ストレス解消?」
「ストレス解消? 朝から?」
「まあ、大体いつも悪い夢見るし。あと昔の夢とか。……どっちも悪夢か」

 目を伏せて、口元だけでぎこちなく笑う一樹。俺はたまらなくなって、何か言おうと口を開いた。が、俺が何か言うよりも先に、一樹は「でも」と顔を上げた。

「そういえば、今日は悪夢見なかったんだよ」

 俺はほっとして肩の力を抜いた。一樹の表情は柔らかく緩んだものだったから。

「じゃあさ、何か別の夢は見た?」
「見たよ。えーと……よく覚えてないけど、電車乗ってた気がする。そこそこ空いてる電車で、隣に君が座ってて……どこ向かってたのかはさっぱり思い出せないけど」
「何だろなその夢」
「分かんないけど、俺にとってはいい夢だったよ。隣に君がいたから」
「そっか。ならよかった」

 昨日のことを思い出して俺は笑った。昨日は、直川さんがきっかけで生じたすれ違いを解消した日だった。
 夢の中の俺たちがどこへ向かっていたのかは分からない。でも、一樹がいい夢だったと言うなら、きっと楽しい行き先だったんだろうな。
 じゃあ俺風呂行くから、と言ったら、一樹はベッドに腰かけてうんと頷いた。幸せが滲んだ笑顔をしていた。



 風呂から上がったら、一樹はベッドの上でスマホを眺めながら、何だかにやにやしていた。
「何見てんの?」と声をかけつつ覗き込もうとすると、一樹は勢いよく顔を上げてスマホの電源を消した。好奇心がむくむくと湧いてくる。

「えなに、俺に見せられないようなもん見てたの?」
「別に、そういう訳じゃないけど……」
「じゃあ何見てたか教えてくれたっていいじゃん」

 じりじりと一樹に迫りながら言う。一樹は口ごもっていたが、しばらくしてやや上目遣いで尋ねてきた。

「……引かない?」
「引かない引かない。で?」
「えっと……」

 観念したように一樹が差し出してきたスマホには、普通の写真フォルダが表示されていた。ちょっとだけ落胆しつつ「エロ画像とかじゃなかった」と呟くと、一樹は「そっ、そんなの今見ないよ!」と両手を振って否定した。

「てかこれ何の写真? 何が写って――あ、俺?」

 顔を見上げると、一樹は恥ずかしそうに頷いた。そして、言い訳するように「……君と出かけた時に撮った写真を見てたんだ」と呟く。

「何で?」
「その、君とこれからも一緒にいられるんだなって改めて思ったら、嬉しくて……」
「ふーん?」

 一樹のこういうところが好きだなあ、と思う。好きだし、可愛い。にやけていたら、一樹は居心地が悪そうにスマホをしまった。

「そ、そんなことより、千冬くん髪は乾かさないの?」
「え? あー……自然乾燥ですぐ乾くんじゃね?」

 適当にタオルで拭いただけの髪を触っていると、一樹は「でもさ」と眉尻を下げて言う。

「エアコン付けてるから、濡れたまんまじゃ冷えちゃうよ」
「えー……でもなあ」
「面倒くさいなら俺が代わりに乾かそっか?」
「マジで?」

 という訳で、俺は床に座って、背後の一樹に頭を預けていた。一樹は俺の髪を丁寧に乾かしていく。

「別に適当でいいよ」
「楽しいからやだ」
「楽しいんだ……」

 よくよく聞いてみたら、一樹は微かに鼻歌を歌っていた。たかが他人の髪を乾かすだけなのに。
 一樹の乾かし方は、俺自身がやるよりもずっと優しい。心地良くて身体ごと預けてみたら、一樹は俺の顔を上から覗き込んで、んふふって感じで少し笑った。

「一樹」
「なに?」
「さっき俺の写真見てたけどさ」
「うん」
「これからも一緒にいっぱい写真撮ろうな。見返しきれないくらい」
「……うん」

 一樹の声がちょっとだけ震えていたのには気付かないふりをした。
 乾かし終わった後、一樹は俺のことを抱きしめた。そして、「……ずっと、一緒にいたいなあ」と痛切な声色で呟く。俺は一樹の腕をそっと握って「俺も」と笑った。

「……俺ら、五年後とか十年後とか、何やってるかな」
「分かんないよね。何の仕事してるかも分かんないし、どこで生活してるのかも分かんない」
「だよな。でも、一樹はバンド続けてんじゃね?」
「続けられるなら、続けたいけど……、どうだろうなぁ……」
「続けてほしいなあ。俺は……何やってんだろう。やりたい仕事って別にないな」
「まあ、君ならどんな仕事でも楽しくやってそうな気はするけど」
「だといいな」

 今は空想に近い未来予想図だけど、いつかそれが現実になった頃にも、二人で笑い合えていたらいいのに。
 ずっと一緒に、なんて、本当はすごく難しいってことくらい分かっている。俺たちはもう、そんな未来を盲信できるような子供じゃない。けれど、だからって今その未来を諦めたくはない。
 俺はそんなことをしみじみと考えた。一樹も同じようなことを考えてたらいいな。

 そう思いながら黙っていたが、ふとあることを思い出して「そういえばさ」と呼びかけた。

「なに?」
「最近セックスしてないから今日しよ」

 一樹はしばらく黙り込んだ後「……なんて?」と聞いてきたから、聞こえなかったのかと思い復唱しようとしたら止められた。

「ちが、聞こえてた、けど、あの」
「めちゃくちゃ狼狽えててウケる」
「いや、だって、もうちょっとこう……」
「まあ、一樹が雰囲気とか大事にしてるのは分かるんだけど。俺、常々思ってたんだよね、やろうぜから始まるセックスがあってもよくね? って」

 俺は振り向いて、まだあわあわしている一樹の唇を塞いだ後、「ていうかさ」と囁いた。

「俺、一樹に抱かれるつもりで身体洗ってきたんだけど」

 一樹は「わ……」とか何とか呟いた後、じわじわと顔を赤くした。その様子は小動物然としていて、愛おしさが妙に込み上げてくる。
 俺は一樹をベッドへと押し倒して、Tシャツとズボンを脱ぎ捨ててから、一樹にまたがった。一樹は俺の下で、赤い顔のまま口元を覆っている。

「これはこれでアリ、って思ってんだろ。今そんな顔してる」
「うん……こういう千冬くんもエロくて大好き。はー……ほんとに千冬くん好き……」
「あはは! じゃあ、今日は俺が主導権握っちゃおうかな」

 それもいいなあ、なんて満更でもなさそうに一樹が呟くから、俺は覆い被さるようにして口づけを落とした。







 強く揺さぶられて目が覚めた。しばらく唸った後にのろのろ目を開けると、眩しい光が視界を埋め尽くした後、一樹の顔が見えた。やけに焦った顔をしている。

「んん……一樹おはよ……」
「おはよ――って言ってる場合じゃなくて、千冬くん、もう十時過ぎてる!」
「んー……? 十時ってなんかやばい時間だったっけ……」

 寝ぼけた頭でぼんやり考えていると、一樹は「落ち着いて聞いてね」と前置きしてから言った。

「俺もついさっき思い出して血の気が引いたんだけど、今日ね、秋学期の授業開始日」
「……ん?」
「で、俺たち、二限に必修あるじゃん」
「……え待って、まさか、二限始まるまで時間ない?」

 一樹は神妙な顔で頷く。俺は一瞬遅れて、勢いよく飛び起きた。

「やばいやばいこれ間に合う!? 嘘だろ、え、俺とりあえず顔洗ってくる!」
「ごめん、俺がもうちょっと早く気付いて起こしてれば……!」

 俺は慌てて顔を洗ってタオルで拭いて、それから鏡に目を向けて、思わず固まってしまった。
 ぼさぼさ頭の俺の身体は、濃い情事の色を残していた。昨日は下着のみ身につけた状態で眠ってしまったから、局部以外は全て鏡の前にさらけ出されている。
 首筋と腰の辺り、それから内腿に小さく鬱血痕が残っていて、首元や肩の辺りには噛み跡がうっすら付いていた。
 キスマークと噛み跡だらけの身体は、朝の明るい光の下で見ると、何割か増しでいやらしく思えた。

 俺は情事の跡に触れながら、生唾を飲み込んだ。
 昨日は結局、俺が主導権を握るなんて言った癖にあっさり主導権を奪われた。だけど、最初から責められるんじゃなくて途中で逆転されるのも、それはそれでよかった。なんていうか、屈服させられる感が強くて性癖に刺さる。
 そういえば昨日は、ヤるか食事するかの二択だったような気がする。これ以上は無理だってくらい行為に耽った。思い返せば随分と堕落した過ごし方だったが、たまには悪くない。

「千冬くーん、準備どのくらいで終わりそ――」

 不意に後ろから覗き込んできた一樹は、俺の身体を――正確に言うと俺の身体中に残っているキスマークと噛み跡を見て、固まった。表情がどんどん申し訳なさそうなものへと変わっていく。

「俺、昨日そんなにキスマつけたり噛んだりしたっけ……ごめん本当に、隠れるかなそれ」
「あー……そういえば俺、着てきたの襟ぐりの広いTシャツだったわ。どうしよっかな……」

「お、俺、何かいい感じの服ないか探してくるから待ってて!」と一樹がクローゼットへとダッシュしていったから、俺はその間に手早く寝癖を直した。
 やがて一樹が持ってきたのは、大きめのポロシャツだった。紺色の生地に白色と芥子色のボーダーが入っている。触ってみたら、新品の服とは違う手触りがした。古着かな。

 ボタン上まで閉めたら大丈夫だと思う、と一樹が言う通りに閉めてみたら、首筋の一箇所以外は全て隠れた。唯一隠れなかった場所にはとりあえず絆創膏を貼り付けておく。
 このポロシャツは俺が普段着ない系統だから、何となく落ち着かない。こういうのはインした方がそれっぽくなるだろうか。俺はとりあえずジーンズを履いて、裾をその中に入れ込んだ。

「何とかなってよかった……。ごめんね本当、考えなしにつけちゃって」
「まあ、俺もノリノリだったし同罪だろ」

 申し訳なさそうに縮こまる一樹は、何の特徴もない白Tシャツと黒パンツを着ている。ゲームの初期アバターのような服装だ。相変わらず、大学へ行く時の格好はとことん地味だな。
 別に人の服装に口を出すつもりはなかったのだが、「一樹もポロシャツ着たら俺とお揃いだよな」と何気なく呟いてみたら、一樹が無言でクローゼットへと向かったから笑ってしまった。
 戻ってきた一樹が着ていたのは、同じようなポロシャツだった。深緑色に白と黄色の二色ボーダーが入っている。本当に似たようなデザインだ。ついでに下もジーンズに変わっている。

「お揃いにしちゃった、えへ」

 はにかんで控えめに笑う一樹。それがどうしようもなく可愛くてキスをしたくなったが、時間がないから諦めた。
 俺はキャンバス生地のトートバッグに荷物を放り込んで肩に引っ提げ、白地のスニーカーを履いて、慌ただしく一樹の家を出た。少し遅れて一樹が出てきて、さっさと鍵を閉める。

「二限間に合うかな」
「走れば余裕だと思う」
「じゃあ走るか。一樹、どっちが早く着くか競争しようぜ! よーいどん!」
「えちょっと俺絶対負けるじゃん! 待ってよ千冬くーん!」

 不意打ちでスタートを切って駆け出したら、後ろから慌てた様子の一樹が追いかけてくる。身体の内側から弾むような楽しさがふつふつと湧いてきて、俺は無性に大笑いしたくなった。

「やだ! 待たなーい!」
「えっ待っ……早……!」
「あっははははは!」

 笑いながら俺は走った。もう見慣れた景色たちが、いつもより速いスピードで過ぎ去っていく。俺はスニーカーとアスファルトで軽快なリズムを奏でながら、ふっと空を見上げた。
 空は澄んだ秋晴れで、気が遠くなりそうなくらいに高くて青い。小さな飛行機が頭上を飛んでいて、飛行機雲がまっすぐ細い線を描いていた。太陽の白い光が目に痛い。

 今なら何だか、深い青空の底にも、白く伸びる飛行機雲にも、手が届きそうな気がした。
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