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本編
24 ……本当に?
しおりを挟む「直川さん、今日はありがとうございます! 誘ってくれてめっちゃ嬉しいっす!」
俺の目の前で、モデルのようなイケメンが爽やかに笑っている。素のままで清涼飲料水のCMに出られそうなくらいに爽やかだ。生まれてこの方、彼のような人種とは縁がない。自分から誘っておいて何だがちょっと居心地が悪い。
彼、橘千冬くんは人懐っこくて気さくな子だ。バイト先のお客さんである俺が「今度一緒にご飯でも行かない?」と誘ったところ、即座に了承してくれたくらい。そして誘った当日、彼がバイトを上がった後にそのまま来たのがこの中華料理店だ。
「あはは……ごめんね、いきなり誘っちゃって。ええと……何飲む?」
「んー、じゃあハイボールで! 直川さんは何にします?」
「あ、じゃあ俺もそれで」
「はーい。料理は何頼みます? 特になかったら、俺これが食べたいっす」
彼が指差したメニューは、でかでかと「当店一番人気!」と書かれているシンプルな餃子だった。特にこだわりはないので「あ、ならそれにしようか」と頷く。
「やった! すいませーん!」と彼は手を挙げて、やってきた店員にテキパキと注文を済ませた。そんな些細な所作からも、店員に声をかけるのが苦手な俺とは違う人種だ、ってことがよく分かる。
「あの、誘った俺が言うのもあれなんだけどさ、よく速攻で了承してくれたね? 普通バイト先の客から突然ご飯に誘われたら、変に身構えない?」
俺だったら絶対に行かない。曖昧な笑顔で断って終わりだ。だから、断られること前提で誘ってみたのに。
しかし問いを投げかけられた彼は「んー?」と不思議そうに首を捻っている。
「そういうことは時々あるし、別に気にしてないっすね。それに俺、誘われたら極力断らないようにしてるんすよ。何か新しい出会いとか発見があるかもしれないんで!」
「はー……」なんて間の抜けた感嘆しか出てこない。やっぱり住む世界が違う。それと「そういうことは時々ある」って言葉に驚きだ。彼ほどのきらきらしいイケメンともなれば、ナンパや逆ナンパは日常茶飯事なんだろうな。
「そういえば、直川さんって仕事は何してるんすか? 大体決まった時間に店来てくれるなあって思ってたんすけど」
「あー、まあ、あんまり残業ないからね。区役所で働いてるんだ」
「へー、公務員! 堅実で素敵な仕事っすね」
彼は朗らかに言いながら、店員からジョッキを二つ受け取った。軽く店員に頭を下げた後、一つを俺に渡して、ジョッキを持ち上げる。
「じゃあかんぱーい!」
彼の掲げる薄黄色のジョッキに、やや慌てて自分のものも重ねた。彼は勢いよくハイボールを流し込んでいる。気持ちいい飲みっぷりだ。
その後、俺はコミュ強の恐ろしさを身をもって思い知らされた。朗らかに褒め、絶妙な相槌を打ち、聞かれたくないことはするりと避け、聞いてほしいことはさりげなく聞いてくる彼。
気付いたらコミュ障の俺が、気持ちよく喋っていた。しかも彼を誘った本題をすっかり忘れて。
聞き上手で、明るく朗らかで、気遣いができて、恐らく裏表がなくて、笑顔がよく似合う爽やかイケメン。うんざりするくらいにいい子だ。
俺は三杯目のジョッキを傾け、彼のことをじっと見つめた。酔いが回っているのか、頭がふわふわしている。
本当に整っている顔だ。まるで作り物みたいに。ぱっちりとした綺麗な目に思わず見惚れてしまう。そのうえ表情豊かだから、ずっと見ていても飽きない。
どうして、こんな子がアレと付き合っているんだか。心底疑問に思う。引く手数多だろうに。
彼みたいないい子が何も知らずあのクズと付き合っているのは、ちょっとかわいそうだろう。つまり俺は、彼が心配だった。
「俺、橘くんに謝らなきゃいけないことがあるんだ」
そう切り出すと、彼は不思議そうな顔をしていた。唐揚げを箸でつまんで口の中に放り込み、咀嚼して飲み込んだ後に「何すか?」と問いかけてくる。
「本当は、あの店に行くよりも前から君のことを知ってたんだ」
「知ってた? え、どっかで俺ら会ってました?」
「いや、俺が一方的に」
「マジで? 何でっすか?」
俺はジョッキを傾けて、口の中を潤した。
「俺ねえ、失恋したんだよ。二、三ヶ月くらい前に」
「? えっとそれは、ご愁傷様です……?」
突然飛んだ話に困惑しつつも相槌を打つ彼。「いきなり何の話だ」と聞かない辺りからも、彼の優しさがよく分かる。
「一年以上も付き合ってたんだけどね。たぶん付き合ってると思ってたのは俺だけかな。予定は全部合わせて、すごく尽くして、何度浮気されても許して、ていうか目の前で浮気されても許したし、雑に扱われても一緒にいたのに、電話一本で「もう会いに来るな」って振られて終わり」
「うわ、そいつめちゃくちゃ最低っすね。別れて正解っすよ。そんなクズよりもっといい人いますって!」
「橘くんはそういう人ってどう思う? 嫌い?」
「嫌いっすね。俺、浮気するようなやつすげえ嫌いなんすよ」
彼はあっけらかんと言う。俺はその返答を聞いて「そっか」と頷いた。彼ならそう答える気がしていた。
「それ、誰だと思う?」
「え? 俺の知ってる人っすか? あ、もしかして、その元恋人経由で俺を知ったってこと?」
「うん」
「うっわそうなんすね。誰だろ、俺の知り合いにそんなクズいたかな……。いやマジで分かんないっす。誰?」
「君の彼氏」
彼は目を見開いた。明るく感情豊かだったのが嘘のように、その表情は固まっている。
「君がカズ――一樹とどういう経緯で知り合って付き合い始めたのかは知らない。それから、俺があれこれ言うのは違うよなってちゃんと分かってる。もう未練はないしね。だけど、正直俺、君のことが心配なんだよ」
ああ、たぶん、俺はどうしようもなく陰湿だ。自分でも自分の性格の悪さは自覚している。
未練がないなんて嘘だ。心配なんて欺瞞だ。本当に未練がないなら一樹のネトストはとっくにやめているはずだし、本当に彼を案じるならわざわざこんな話はしない。
心配だなんだと善人の皮を被って、その実彼を傷つける言葉ばかり吐いている。ショックを受けている彼に罪悪感を覚えると同時に、暗い喜びに胸がすく。
彼はいい子だ。それは疑いようもない。そのうえ朗らかで気が利く。どこからどう見ても善人でしかない。
だからこそ、消化しきれない暗い思いが腹の底に溜まってしまう。彼の善性が強ければ強いほど、俺の劣等感も強くなる。
彼は太陽のような人だ。だけど太陽は、その強すぎる光と熱ゆえに必ず何かを傷つける。それも無意識で。
「あいつは、あいつだけはやめておいた方がいいよ。君の前では本性出してないのかもしれないけど、平気で浮気するし、約束は守らないし、都合が悪くなれば逆ギレするし、そのうえ悪びれもしないクズだから」
彼はお通夜みたいに黙り込んでいる。
そうだ。別れてしまえばいい。彼にカズはふさわしくない。もっと明るくて性格のいい相手が間違いなくいるはず。あんなどうしょうもないやつじゃなくて。
そしてカズが地獄に落ちてしまえばいい。今まで遊びまくっていたことを死ぬほど後悔しろ。
そうなったら、
「あいつとは別れた方がいいと思うよ。君のために言うけど」
――地獄の底へと、俺が迎えに行ってやるから。
◆
その後どう帰ってきたかは、正直よく覚えていない。
俺はベッドの上に倒れ込むようにうつぶせで寝っ転がった。頭の中で直川さんの言葉がぐるぐる回っている。
――君の前では本性出してないのかもしれないけど、平気で浮気するし、約束は守らないし、都合が悪くなれば逆ギレするし、そのうえ悪びれもしないクズだから――
「何だよ、それ……」
違う。一樹はそんなやつじゃない。そう思いたいのに、今まで感じていた些細な違和感が、綺麗に伏線回収されていく。
今までちゃんと付き合った相手は俺だけなのに、妙にセックスが上手くて手馴れていること。
俺に告白してきた朝、「俺は何番目でもいい」「浮気も許すし束縛もしない」「予定も見た目も全部俺の好みに寄せる」「いくらでも都合のいい男になる」なんて言っていたこと。
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――それが、本当は全部偽りだった?
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……俺は今まで、一樹の何を見てきたんだ?
「――っうわ!?」
不意にポケットの中が振動し始めて驚いた。慌ててポケットを探ると、突っ込んだままのスマホが着信を告げている。表示名は「千夏」。妹だ。
妹は時々、何の前触れもなく電話をかけてくる。こういう時は大抵、何か相談したいことや愚痴、惚気がある時だ。
通話ボタンを押して耳に当てると、「もしもし! お兄、今暇?」と元気のいい声が聞こえた。
「暇。で? 今日は何?」
「そうそう聞いてよ。茉里がね、今日めーっちゃ可愛くて!」
今日は愚痴ではなく惚気の日だったらしい。茉里というのは妹の彼女だ。何度か会ったことがあるが、小動物を連想させる可愛らしい子だった。
「あーうんうんよかったな」
「真面目に聞いてよ。でね、今日の放課後に文化祭準備があったんだけどさ」
「文化祭かぁ懐かしいな。何月にあるんだっけ?」
「十月。もう一ヶ月切っちゃったから大急ぎで準備してるんだ」
「へー。千夏のクラスは何やんの?」
「執事喫茶だよ」
「ん?」
「だから、執事喫茶やるの」
「……千夏の学校、女子高じゃなかったっけ?」
「女子高だからこそだよー。それでね」
千夏は惚気をつらつらと語る。いつもだったら、妹の惚気を聞くのは好きだ。微笑ましい気持ちになる。
だけど今日の俺は一樹のことが喉元に引っかかっていて、千夏の惚気があまり頭に入らなかった。
千夏は途中まで威勢よく話していたが、不意に言葉を止めた。何かと思って「どうした?」と聞くと、千夏は遠慮がちにこう聞いてくる。
「……お兄、もしかして今、元気ない?」
「あー……まあ」
「えっごめん、そんな時に電話しちゃって。切った方がいい?」
「いやいいよ。千夏の声聞いてると元気出てくるし」
「本当? ……私でよければ、何でも話聞くけど」
「んーいや、大したことじゃないんだけどさ」
俺は一瞬言い淀んだ後、こう続けた。
「同じ学科のやつと付き合ってるって話はしただろ」
「バンドやってる人だよね。一樹さんだっけ。それが?」
「……今日さ、一樹の元彼と飯行ってきたんだよ」
「え、なになに、何で? どういう状況?」
「何か、バイト先で仲良くなったお客さんが実は元彼でさ――」
手短に直川さんについて話すと、千夏は電話の向こうで沈黙した。「千夏?」と名前を呼ぶと、彼女は苦々しい声色で言った。
「そのナオカワサンて人、ガチきしょいんだけど」
「えっ? 何で?」
予想外の言葉が返ってきて驚くと、「逆に何で?」と苦笑混じりに千夏は言う。
「えだって、お兄のこと特定してわざわざバイト先まで会いにきたってことでしょ? しかもそれ隠してご飯誘った後、彼氏の悪口吹き込んできたってさ、絶対別れさせようとしてるじゃん」
「え、そうなの?」
「はぁー……。お兄さ、そうやって人を信用しすぎるの、ほんとよくないと思うよ。知らないうちに騙されてそうで超不安なんだけど。大丈夫? 変な壺とか買わされてない?」
「そこまで言う……?」
言いたくもなるでしょ、とため息混じりに言う千夏。そこから、大体さぁ、と俺の過去話が始まった。「お兄は一個前の元カノの浮気に一切気付かなかったくらい鈍感だし」とか、「高校の時の元カノは明らかに地雷だったのに何で分かんなかったかなぁ」とか。
俺はしばらく肩身の狭い気持ちで聞いていたが、話が俺の中学時代に差し掛かった辺りで慌てて止めた。
「も、もういいだろ。分かったから。俺が悪かった。だからその話は――」
「え? その話って、お兄が中二の時、近所のお姉さんに初体験奪われた話?」
「うッ……」
「結局お兄はしばらく遊ばれた後ポイで、お姉さん別の人と結婚したんだよねー。上の息子さん、もう幼稚園生なんだって」
「や、やめろよぉ……」
俺は頭を抱えてしまった。思春期男子の純情を弄んだお姉さんのことは、もう思い出したくない。できれば一生。
俺が嫌なことを思い出してしまって唸っていると「私はさ」と神妙な様子で千夏は呟いた。
「お兄のことがすっごく心配なの。お兄はすーぐ他人のこと信用しちゃって、それでよく痛い目見るでしょ。特に恋愛関係では」
「そんなことは……ない、こともない、かも」
「ね? だから私は正直、一樹さんのこともあんま信用してないかな。なんたってお兄の選んだ人だもん」
「ひどい言い方だな。一樹はそんなやつじゃないって」
「……そうだといいけどね。今までのお兄を見てると安心はできないなー。案外ナオカワサンの言ってたこと、全部本当だったりして」
千夏はぽつりと呟いた後、ハッとしたように「ごめん、確証もないのに不安煽るようなこと言っちゃって」と謝ってきた。
結局、千夏に話を聞いてもらったところで何も解決はしない。そりゃそうだ。こうやって悩んでいたって本当かどうか知る術はないんだから。
……ずっと、悩んでいた。一樹に直川さんのことを尋ねるかどうか。だけど、このままじゃ何も解決しないのなら、
「……聞いてみるしかないかな」
「一樹さんに? ……うん、そうかも。じゃないともやもやしたままで気持ち悪いと思うよ」
「だよな。うん……そうだよな。やっぱ直接会って聞いてみる。千夏ありがとな、話聞いてくれて。じゃあ俺、ちょっと会いに行ってくるよ」
「うん……ん? 今から?」
「おー。またな、千夏!」
「ちょっと待っ――」
千夏が何か言いかけていたような気がするが、電話を切ってしまった後に気付いても仕方ない。俺は気持ちを切り替えて、今度は一樹に電話をかけた。
しばらくコール音が鳴った後、「……もしもし?」と一樹の声が聞こえた。やや間伸びした声だ。
「一樹、今って暇? どこにいる?」
「え? うん、暇だよ。家にいる」
「明日の朝って用事ある?」
「明日の朝? は、何もないよ。バイトも夜からだし」
「じゃあ今から会いに行っていい?」
「今から?」
「うん」
そう言ってからはたと気付いたが、もうかなり夜が遅い。時計を見上げると、既に十一時を過ぎている。電話をする前に気付けばよかった。
「あ、いや、ごめん。今からは無理だよな。じゃあ――」
「うっ、ううん、全然無理じゃない! ちょっと今部屋散らかってるからどうしようかなって考えてただけで、君が来る前にすぐ片付けちゃうから大丈夫!」
「本当? 俺、すげえ迷惑じゃない?」
「そんなことないよ! 君ならいつでも大歓迎だから」
「……そう? ごめん、ありがと。じゃあ今からそっち向かうから」
「分かった、待ってる!」
俺は電話を切ってから、顔を押さえてため息を吐いた。
どうしても、浮気しても悪びれないようなクズには思えない。一樹は浮気をしないどころか、目移りひとつだってしないやつだ。
そういう一途なやつだと、思っていた。今でもそうとしか思えない。一樹は俺のことが大好きなはず。
……本当に?
「あー、やめだやめ! 本人に聞かなきゃ分かんねーって!」
疑念を振り切るように大声を出した。悩むのは後だ。一樹に全部聞いてから判断しなければ。
俺は簡単に身支度を整え直して、財布とスマホだけ持って家を飛び出した。
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