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本編
22 線香花火が好きって笑う君が好きだよ
しおりを挟むライブハウス、というものに俺は行ったことがない。音楽を聴かない訳じゃないけど大体はサブスクで聴くくらいだし、ライブハウスでライブをやるようなアーティストには縁がない。
だからかなり不安だった。ライブハウスのルールとか仕組みとか、そういったものを何一つ知らないから。
そのため、ライブ当日は戦々恐々としながら向かったのだが――結論から言えば全然大丈夫だった。
「んでね、Re:incarnationの一番のおすすめはレイラ。たぶん今日のライブでもやるんじゃないかな」
「なるほど……メモしたんで、家帰ったらMV見てみます!」
「ぜひぜひ! いやぁしかし、今回が初ライブハウスか。いいねえ、おじさん懐かしくなっちゃうなぁ」
「お兄さんはライブハウス行き始めてから長いんすか?」
「まあ、ぼちぼちかな」
「その言い方はだいぶ通ってそうっすね! なんか、話聞いてたらライブハウス通うのって楽しそうでいいっすよね」
「そう?」
「はい! 何かこう、まだ売れてないけど何かきっかけがあったら一気に跳ねそうなバンド見つけたら、めちゃくちゃテンション上がりそう」
「それがまさにいいんだよなぁ!」
俺はライブハウスの中で、和気藹々とスーツ姿のお兄さんと談笑していた。ちなみに彼とは二十分ほど前に出会ったばかりだ。
ライブハウスに一人で向かって(本当は涼と美帆と一緒に行くはずだったが、遅れるかもと連絡が来たため仕方なく一人で)、ちょっと早めに着いたはいいがどこから入ればいいのかすら分からず、俺はかなり不安になりながら辺りをきょろきょろしていた。
そしたら、後ろからスーツ姿のお兄さんが声をかけてきたのだ。「もしかして、ライブハウス行こうとしてます?」と。
そうなんですよと俺が答えると、よっぽど俺は不安そうな顔をしていたのか、スーツの彼は笑いながらライブハウスへの入り方を教えてくれた。俺は、件のライブハウスが地下の階段を降りた先にあることすら知らなかった。
それで、ついでとばかりにスーツの彼はライブについて色々と教えてくれた。どうやら彼はインディーズバンドのライブに通うことが生き甲斐らしい。
で、俺と彼は謎に意気投合して、ライブハウス内でずっと楽しく会話をしていた。
「しかし結構人増えてきたっすね」
「まあ、そろそろ開演時間だからねぇ。そういえば、君の友達はまだ来ないみたいだね」
「そうっすね。そろそろ来ないと始まる――あ、ちょうど来ました」
「え、どれ? もしかしてあの青髪カップル?」
「それっす。おーい、涼、美帆!」
手を振ると、青髪カップル――もとい、涼と美帆は、ほっとした様子でこちらに駆け寄ってきた。
それにしても、青髪カップルとは言い得て妙だ。青髪といっても、アニメキャラのような青ではなく、二人ともかなり暗めの青色ではあるが。ブルーブラックってやつだ。
「千冬ごめんね、遅くなっちゃって」
「私がのんびり準備してたら、乗るはずだった電車一本逃しちゃったんだよね。何とか間に合った?」
「ギリね」
「よかった」
二人は安心したように笑った。その後、涼が「……ところで、隣の人は? 千冬の知り合い?」と尋ねてくる。
「いや、ついさっき初めて会った人。名前も知らな――あっ、そういえば名前知らないっすね。俺、橘千冬です。お兄さんは?」
「俺? 佐々木航大。えーっと、橘くんだっけ」
「そうっす。せっかくなんで連絡先交換しません?」
「いいよ」
お兄さん――もとい佐々木さんと手早く連絡先を交換した後「ご飯とか誘ってくださいねー、俺いつでも暇なんで」「橘くんってお酒飲める?」「好きっす!」「じゃあ今度飲み行こっか。確か来週空いてたはず、後で確認するね」「やったー! 行きましょ!」なんて会話をしている俺を見て、美帆は苦笑していた。
「……何?」
「やー、相変わらず千冬のコミュ力えぐいなって」
「そう?」
「少なくとも私はついさっき知り合った人とそこまで意気投合できないわ」
そんな会話をしていると、やがてライブの開演時間になった。
俺たちは会場のやや後方で、バンドの入りを待っていた。というのも、佐々木さんに「初心者が前方に行くのはやめておいた方がいい」と言われたからだ。
今回のライブは、ファストラバーズを含む三バンドでの対バン形式で行われる。
さっき佐々木さんと話していた「Re:incarnation」というバンドがその一つだ。男女五人の、クールなサウンドと哲学的な歌詞が売りだそう。もう一つは「たいむぼむ」という三ピースのガールズバンドだ。このバンドは佐々木さん曰く「最近注目のバンドではあるんだけど、俺まだよく知らないんだよね」らしい。
で、この二つのバンドはどちらもインディーズバンド界隈では有名らしい。特に佐々木さんが推していた「Re:incarnation」の方が。だからこのバンドがトリで、二番目が「たいむぼむ」というガールズバンドで、トップバッターがファストラバーズだ。恐らく、ファストラバーズが一番知名度の低いバンドだから最初なんだろう。
ややあって、ファストラバーズの四人が袖から入ってくる。全員黒の柄シャツに黒のパンツという、オールブラックの服装をしていた。「スタイリッシュ路線のバンドなのかな」と佐々木さんが囁く。
ステージ中央に立った一樹は、アンニュイな雰囲気を醸し出していた。別に憂鬱な訳ではないだろうが、舞台上でそういった雰囲気が出せるのは魅力の一つなのかな、と思う。場にいるだけで空気を変えられる。
一樹はアンニュイな雰囲気を崩さないまま、やや気怠げな声で話し出した。
「皆さん初めまして。ファストラバーズです。僕たちは軽音サークルで知り合って組んだ、現役大学生のバンドです。えー、僕たちは活動し始めて一年ちょっとになりますが、オリジナル曲でライブをやるのは今回が初です。なので、Re:incarnationさんやたいむぼむさんに比べたら、僕たちファストラバーズは初心者バンドと言っても差し支えないかもしれません」
そこまで言った後、一樹は薄っすらと頬を吊り上げた。そして、淡々とした言葉を続ける。
「ですが、Re:incarnationさんのファンもたいむぼむさんのファンも皆、このライブ後には僕たちも推しているはずです。それくらいの演奏をするつもりなので、一時も目を離さないでください」
うわお、と佐々木さんが感心半分、驚き半分の声で呟く。俺も同じような気持ちだ。
前にライブの動画を見せてもらったときにも思ったが、一樹はステージに立つとキャラが変わる気がする。もちろんただのパフォーマンスかもしれないが。
それでは聞いてください、と一樹が言い、ドラムのカウントの後、一樹が鋭く息を吸った。
尖ったサウンドがかき鳴らされる中、一樹はライブハウスの中を切り裂くように歌う。鋭く圧のある歌声だ。それでいて息を呑むほどの色気は健在している。
薄暗いライブハウスの中で赤い照明を浴びて攻撃的に歌う一樹。その声が俺の鼓膜を犯して、俺の心を強引に奪う。俺は見ていて呼吸を忘れそうになった。
結局、曲が終わるまでひと時たりとも心が休まらなかった。曲が終わって、一樹が「ありがとうございます」と再び口を開いて、ようやく肩の力が抜けた。
一樹はマイクに向かって淡々と曲紹介と自己紹介を話している。何ていうか、こういう時に全然愛想が良くない辺り、一樹って感じがする。無愛想だが、バンドの世界観を壊さないから逆にアリだと思う。
続いて彼らは二曲目、三曲目、四曲目、と続けて演奏をした。この三曲はどれも何となく似ていて、エロとエモとクールを混ぜて尖った個性で濾(こ)したような曲調だった。
どれを聞いても、今日が初ライブのバンドがする演奏じゃない。既に自分たちの色が確立されている。佐々木さんが若干引いたように「……このバンド、本当に今日が初ライブなの?」と曲間で聞いてきたくらいにはすごい。
やがて音が切れ、床に置いてあるペットボトルを開け中身を一気飲みした一樹は、相変わらず淡々とした口調で話し出した。
「ありがとうございます。えー、次が最後の曲になります」
ええーっ、と前の方にいるノリの良さそうなお客さん何人かが声を上げる。あの人たちは、ライブが始まる前に「Re:incarnationを推してる」などと話していたはずだ。本当にファストラバーズのファンに引き込んでいて、ちょっと笑える。
「次やる曲は今までとは毛色が違っていて、結構真っ当な恋愛ソングです。っていうのも、この曲だけ歌詞の書き方が違うんです。今までの曲は全てベースの蓮が書いてるんですけど、この曲は僕が書いて、それを蓮に手直ししてもらいました。
今までの曲を聞いてもらったら分かる通り、蓮ってすごく言葉の使い方が上手いんですよ。バンドやってるだけじゃなくて、小説もずっと書いてるので。この前、純文学の新人賞取ったんだっけ?」
「残念ながら最終選考落ち。でも担当編集にはついてもらってるし、次こそは受賞したいです」
「だそうです。すごいね。……僕には、蓮みたいなワードセンスはもちろんありません。だけど、どうしても歌にしたい気持ちがあって、こういう形で曲を作りました。この曲を聞いて、何かを感じ取ってくれると嬉しいです」
一樹の目が泳ぐ。やがて俺と目が合うと、安堵したように少しだけ表情を緩めた、気がする。
「それでは最後の曲、聞いてください。――『線香花火』」
ステージの照明が全て消える。そして一樹だけがスポットライトで照らし出される中、一樹はゆっくり深く息を吸った。
どこか泣きそうな声で囁くように歌う一樹。片想いの歌だった。歌声は痛切で、俺はあまりの表現力に鳥肌が立った。
一樹が歌詞を書いた曲をずっと楽しみにしていたが、そうか、こんな片思いの曲で来るなんてちょっと予想外だったな。
今までの曲とは違って、優しいギターとベースの音が響いてそっとドラムが刻まれていく。一樹はその繊細な音たちに、苦しくなるほどに切なくて甘い歌声を乗せる。
心なしか、一樹と目が合っている気がする。切なげに、愛しげに目を細めながら恋を歌う一樹に、歌だと分かっているのに胸が痛くなった。
一樹は何を思って切なげに歌っているんだろう。もしも誰かを思って歌っているんだとしたら、その誰かはどれほど幸せだろう。そう思っていたから、
――サビに入って「線香花火が好きって笑う君が好きだよ」と、「この恋だけは線香花火にならないで」と、真っ直ぐに俺を見つめて歌う一樹に、息を呑んだ。
線香花火が好きって、俺は何度も一樹にそう言った。線香花火だけを集めて一緒にやったことだってある。
だから――自惚れじゃなきゃ、これは俺のことを歌っているんだろう。わざわざタイトルを「線香花火」にして、サビにも線香花火が好きって笑う君が好きだよ、なんてフレーズを入れたのは、そういうことなのかな。そう気付いたらたまらなくなった。
一樹は切なげに思いの丈を歌い続ける。「いつかの終わりに怯えて」とか「片道の思いは重いな」なんて。俺は何だか泣きそうになった。
そっか。俺が一樹のことをちゃんと好きだってこと、一樹には全然伝わってなかったんだ。
考えてみれば俺たちが付き合ったのは単なる成り行きで、付き合い始めた時に俺は「今のところは一樹に恋愛感情ないし、男をちゃんと好きになれるかも正直分かんない」なんてことを言ったんだっけ。
そこから何となく惰性で付き合い続けて、俺はいつからか一樹に惹かれていって、気付いたらもう好きになっていた。けれど、気付いた後に関係を仕切り直したり改めて思いを伝えたりはしていなかった、ような気がする。
何となく俺の気持ちは伝わっているものだと思っていたし、一樹がここまで気にしているとは思わなかった。こんなに切ない恋の歌を書いてしまうほどに。
俺を見つめて歌う一樹が格好良く見えて仕方がないとか、一樹の甘く切ない歌声が身体に染み渡るようですごく心地よくて好きだとか、歌を通して知る一樹の思いは聞いているだけで苦しくなるとか、そんな色々な思いが渾然一体になって俺の身体を突き上げた。
早く、好きって伝えなくちゃ。俺は一樹のことがちゃんと好きだよって、そんな風に思い悩まなくて大丈夫だよって。
◆
「良かったね、ライブ。僕はこういうところに来たの初めてだったけど、すごく楽しかった」
「ね。後の二バンドも格好良かったけど、私やっぱり、ファストラバーズ推せるなって思った。絶対有名になるでしょこのバンド。今から推してたら古参って自慢できるかな」
「間違いなく自慢できるんじゃない? 古参マウント取ってこ」
ライブ後、涼と美帆は楽しげにそんな会話をしていた。ライブハウスのホール内からはぱらぱらと人がはけていく。俺たちもその流れに乗っかってホールの外へと出た。
Re:incarnationってバンドとたいむぼむってバンドはどちらもホール外で物販をしていた。でもファストラバーズのメンバーは見当たらない。
どこにいるんだろう、と涼と美帆の会話をそっちのけできょろきょろしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「お疲れ、陽キャくん。今日のライブ来てくれてありがとね」
振り向くと、金髪マッシュの彼がひらひらと手を振って立っていた。
「おお、祐介。こっちこそありがと。超格好良かったし楽しかったから次のライブもまた行くわ」「マジ? ありがとーう超嬉しい!」なんて会話をしていたら、気を使ったのか涼と美帆が「じゃあ、僕たちは先に帰るから」「千冬お疲れー」と去っていった。
「ところでさ、他のファストラバーズのメンバーってどこいんの?」
やがて会話に一区切りがついた後、俺はそう尋ねた。祐介は、それはねえ、とたいむぼむの物販の方を指差した。
「まず正太郎はあそこでなぜか物販やってる。たいむぼむの」
「ええ……」
見ると、確かに茶髪のウルフカットの彼はそこにいた。たいむぼむっていうガールズバンドの真ん中で、にこにこ人懐っこそうに笑いながら商品を手渡しては、お客さんやたいむぼむのメンバーたちと楽しそうにお喋りしている。
なぜか意味が分からないくらい馴染んでいた。サブカル女子たちの真ん中にいても何も違和感がない。
「意味分かんないでしょ」と言う祐介に、思わず深く頷いた。
「正太郎っていつもそうなんだよね。すぐ知らない人と仲良くなってヘラヘラ笑ってる」
「へー、すげーな」
「それで終われば、ね。あいつ、ただ仲良くなるだけじゃなくて、どっからか面倒くさいやつ引っかけては無意識で沼らせてるから、ほんと厄介。意識的に沼らせてる蓮よりタチ悪りーの。そんで最悪の状況になってもマジどうしよーってヘラヘラ笑ってるし。いつか女に刺されるんじゃね?」
「へ、へー……」
何ていうか、本当に恋愛関係がだらしないな、このバンド。俺はちょっとだけ引いた。
「で、今日出演バンドで打ち上げやるんだけど、蓮と一樹はそれまで煙草吸ってるって言ってたから……たぶん喫煙所にいるはず」
「喫煙所……って、どこにあったっけ」
「えっと、入り口近く。俺も一緒に行こうか?」
「マジ? 助かるわ」
ちょっと待ってて、と言うと祐介は小走りでたいむぼむの物販の方へ向かい、ウルフカットの彼、正太郎に何事かを言った後、お待たせと俺の方へ戻ってきた。
祐介と軽い世間話をしながら向かった先の喫煙所には、確かに二人の姿があった。二人は俺たちに気付かないのか、こちらを一瞥もしない。黒髪ロン毛の彼、蓮が「てかさぁ」と笑い混じりに言う。
「『線香花火』の入りの歌詞、あれマジで何?」
「何って?」
「あの曲、君の結婚式には呼ばないでね~から始まるでしょ。面白いからあの歌詞はあのまま残したけどさ、あんなこと本当に思ってるの?」
「……思ってるよ」
一樹が物憂げに煙を吐く。後ろにいる俺たちには気付かずに。
俺は祐介と顔を見合わせた。これ、俺が聞いていていいんだろうか。祐介は肩をすくめて、そっと口元に人差し指を当てる。俺は黙って頷いた。正直、一樹の本音は聞きたい。
ふと、蓮とも目が合った。彼が心なしかニヤっと笑った気がする。
「普通さ、付き合って一、二ヶ月ってタイミングで、君の結婚式には呼ばないでね、なんて歌詞書かないと思うんだけど。振られたんならまだ分かるけど」
「……いつ振られてもおかしくないと思ってるから」
蓮は「ふーん」と煙草の灰を落としながら相槌を打って、「いつ振られてもおかしくない、って?」と半ば俺に聞かせるように尋ねた。一樹は俺たちに気付かず、下に視線を落として答える。
「……千冬くんって、本当に素敵な人でさ。信じらんねえぐらいイケメンだし、めちゃくちゃ性格良くて優しいし、明るいし。ちょっと天然で、時々突拍子もないこと言い出すところも可愛くてすげー好き。もう全部好き」
「出たよ惚気。お前ほんと隙あらば惚気るじゃん」
「そんぐらい好きなんだよ」
にやけてしまっているのが自分でも分かる。好きな人がここまで惚気ているのを聞いて、嬉しくならない方がおかしい。
一樹はちょっとだけ笑って、その後すぐに暗い声で続ける。
「……でも、こんなに好きなの俺だけだろうし、そもそも、何で千冬くんみたいな人が俺なんかと付き合ってくれてんのか、マジで分かんねえし」
「それは俺も思う」
「だろ? だからまあ、俺はそのうち振られるだろうし、そしたら千冬くんは誰か別の人――アイドルとか女優みたいに可愛くて性格も良い、千冬くんとちゃんと釣り合う人と付き合って、俺のことなんて忘れて、そのうち結婚して幸せな家庭を築いていくんだろうなって思うとさ……せめて、結婚式には呼ばないでくれって思うんだよ。せめて俺の知らないところで幸せになってくれって」
「ネガティブ過ぎて草」
ゆっくり煙草を吸った後、ふうっ、と長く煙を吐いた一樹は、あの歌声と同じくらい切ない声で囁いた。
「千冬くんはどうしたら、俺のこと好きになってくれるんだろうなぁ……一生無理かな、俺なんかじゃ」
蓮は「うーん」と言いながら煙草の吸い殻を潰して、俺の方を見た。
「実際のところどうなの? 陽キャくん」
「は?」
一樹は慌てた様子で辺りを見回して、後ろを振り返って、俺と目が合うと固まった。
「え……なん……」
「ごめん、聞いてた」
「……どこから?」
「何か、『線香花火』の歌詞の話し始めた辺りから」
一樹は口をぱくぱくとさせ始めた。そして俺が近付くと、彼はなぜか俺と目を合わせないまま、俺を制すように手のひらを向けた。
「ご、ごめん、俺重いし気持ち悪いよね。あんな曲書いちゃったし。でも、嫌いに……なったとしても、まだ振らないでくれるとありがたいっていうか……まだ俺、心の準備全くできてないから、」
「何でそんな話になってんの?」
「え?」
周りにはどうせ、俺と一樹と、ファストラバーズのメンバーしかいない。お客さんはもう帰っちゃったし、ライブハウスのスタッフは忙しいんだろうし、他バンドの人は物販の方にいるからだろう。
だから俺は、俺を制すように向けられている手をやんわりと下げさせて、一樹の顎を少し持ち上げた。そして顔を傾けて、軽く唇を重ねる。
煙草の苦いにおいがする。もうすっかり嗅ぎ慣れた、一樹のにおいだ。俺は煙草があんまり好きじゃなかったのに、このにおいは悪くないなって思う。
「――好きだよ、一樹。俺も好き」
一樹は目を見開いて固まった。呼吸すら止めているような気がする。俺はちょっとだけ笑って続けた。
「今日、打ち上げやるんだろ? 何時ごろに終わりそ?」
一樹は何も答えない。ただただ目を見開いて固まるばかり。「一樹?」と聞いても身じろぎ一つしない。
困って祐介を見ると、彼は苦笑しながら「日付変わる前には終わりたいなーって感じかな」と答えた。
「そっか。じゃあ終わった後会える?」
一樹はやっぱり何も答えない。「おーい一樹」とつついて、彼はようやく息を吹き返した。
「あ……うん、会える……」
「ん、よかった。じゃあ終わったら連絡してよ」
心ここに在らず、といった様子で頷く一樹。大丈夫かな、ちゃんと聞いてんのかな。そう一抹の不安を抱きつつも、俺は一樹から離れて手を振った。
「じゃあまた! ライブすげー良かったよ、打ち上げ楽しんで!」
相変わらず一樹は固まったままだったから、ちょっとおかしくて笑えた。
一樹に対する気持ちも、ライブのことも、話したいことはたくさんある。だから、二人きりになったらいっぱい話そう。今までちゃんと伝えていなかったことも、全部。
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