猫をかぶるにも程がある

如月自由

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本編

21 お前誰だよ

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「あ、ども。ナオさんっすか?」

 彼の第一声はそれだった。彼は待ち合わせ場所に指定した新宿の駅前で、ダークグリーンのパーカーに手を突っ込んで、だるそうに立っていたのを覚えている。
 俺が声をかけると、彼は俺をちらりと見て、ちょっと驚いたような顔をした後へらりと笑ってそう言った。

 あ、ものすごく好み。俺は直感的にそう思った。
 俺はずっと、どこか影があるというか、アンニュイな雰囲気の男が好きだった。好きな髪型は重めの黒髪マッシュで、好きな服装の系統は古着系だ。それで、年上よりは年下派。
 だから、彼に会った瞬間「こんなに俺のタイプど真ん中の男がこの世に存在したのか」と思った。それくらい好みだった。
 元々彼の顔や服装は写真で知っていたけれど、実際会ってみると予想以上だった。

 ゲイが恋人を探す方法は、ノンケのそれと比べて割と限られていて、職場もしくは学校での自然な出会い方から交際に至るのは難しい。好きになった人がゲイもしくはバイで、なおかつ自分を好きになってくれる確率は相当低いだろう。
 だから俺は、アプリかバーを利用して恋人を探すことが多い。彼ともアプリを通じて知り合った。

「そうです。カズくんで合ってるよね?」
「です。にしても、ナオさんイケメンっすね。思ってたよりもずっと格好良かったからびっくりした」
「え、そう?」
「はい。うれしーなぁ、こんな格好良い人が俺と会ってくれるなんて」

 彼、カズは嬉しそうに言うと、「行きましょ」と少し先を歩き始めた。
 思えば、この時にはもう既に、彼のことを好きになりかけていた気がする。



 カズとの交際はおおむね順調だった。……最初だけ。

 初顔合わせの日、四つ下で当時大学一年生になりたてだったカズは、当時新卒一年目だった俺からすれば初々しい話を聞かせてくれた。喫茶店でアイスカフェオレを飲みながら。可愛らしいと思った。
 かと思ったら、カズはさらりと俺のことを口説いてきた。「格好良い」とか「ナオさんみたいな素敵な人に恋人がいないとか信じられない」とか。
 それがまた自然で、何気ない感じでじっと俺の目を見つめて言うものだから、俺はすぐその気になった。

 帰り際、ほとんど人のいない夜道を歩いている時、カズは不意にくるりと俺の方を振り返ってこう言った。「ねえ、俺、ナオさんの恋人に立候補してもいい?」と。
 驚いて俺が目を瞬かせていたら、カズは俺をくいっと路地裏に引き込んで、軽く触れるようなキスをしてきた。そして悪戯っぽく笑った後、カズはすぐ何事もなかったかのように表通りに戻って歩き始めた。
 俺はもうこの頃には、カズのことを完全に好きになっていた。

 この時、カズが妙に手慣れていることに気付いていれば、どうしようもなく沼にハマることはなかったのかもしれない。
 今思うと、初回に下心をほとんど見せなかったのは彼の策略の一つだったんだろうな。別に真剣だった訳ではなくて。
 だけどすっかりカズのことを信用してしまった俺は、カズに二回目のデートで「ナオさんのおすすめのお酒とか飲み方とか教えてよ」なんて言われて、夜に待ち合わせてアルコールを入れて、流れでホテルへと行ってしまった。

 それから、カズの本性が少しずつ見え隠れし始めるようになった。

 初回に「恋人に立候補していい?」なんてことを言ってキスをして、次会った時にたくさん「好きだよ」って言いながら抱かれたから、もうこれは付き合っているのだと思っていた。
 が、今思えば「付き合って」の一言もなかったし、カズは俺以外にも相手がいたし、付き合っていると思っていたのは俺だけだったのかもしれない。
 だけど、一緒にいる時は「俺とカズは付き合っている」「俺はカズの一番だ」と信じ切っていた。何度別の相手の影がチラついても、雑に扱われていると感じても。

 カズは、それはそれはクズな男だった。間違いなく歴代一だ。だけど、歴代一魅力的な男でもあった。

「カズ。俺のこと好き?」

 事後にそんなことを聞くと、カズは決まって気怠そうに煙草を一服した後、こう言っていた。

「当たり前じゃん。お前が一番だよ」

 そして俺に軽く口付けて、また煙草を吸っていた。俺はベッドに腰掛けるカズの後ろ姿を見ながら、彼の吸うアメスピの匂いを嗅ぐのが好きだった。
 声も顔も仕草も、何もかもが好きだった。世の中に男はたくさんいるが、カズ以上に好みど真ん中の男にはもう二度と出会えないと思った。
 だから、カズが何度浮気をしても、何度喧嘩をしても、結局最後は俺が折れてしまっていた。じゃないと、カズがどこか遠くへふらりと行ってしまう気がして。

「だからさ、悪かったって言ってんじゃん、俺。謝ってんだろちゃんと。あとどうすりゃいい訳?」

 俺が浮気を問い詰めたり、ドタキャンしたことを責めたり、約束事を忘れたことを責めたりすると、カズは大体「あーうん、悪かったよ」とか「はいはい、ごめんな」なんて口先だけで謝っていた。で、そのことを責めると、カズはこうやって開き直っていた。
 そういう態度を取られるとますますイラつくから、俺がヒートアップしてさらに責めると、カズは舌打ちしたり、ため息を吐いたりした後、面倒くさそうにこう言っていた。

「分かったよ、俺が全部悪かった。んで許してくれねーなら、もう一緒にいるの無理だよな。もう会うのやめよ、俺ら」

 その時のカズの言葉は、単に気を惹くための言葉じゃなく、大抵本気で言っているのだ。
 一度、売り言葉に買い言葉で「あーいいよ、お前みたいなクズ野郎こっちから願い下げだ!」なんて俺が言ったら、カズは本当に俺の前から姿を消して、そのあと数日以上、全く連絡を寄越さなかった。
 そのことに戦慄した俺が恐る恐るカズに連絡をすると、「え、俺らもう会わないんじゃなかったっけ?」なんて返信が来たから、俺はなおのこと怖くなった。カズが本気でそう言っているだろうことは、嫌でも分かったから。

 俺はどうしてもカズを手放したくなかった。だから「ごめん、やっぱり俺、カズがいないとダメみたい」「俺のこと一番にしてくれて、俺の知らないところでやってくれるなら、他の男と会っててもいいからさ」「俺とまた会ってくれない?」なんてかなり下手に出た返信をした。
 そこまで言ってカズはようやく復縁してくれたから、俺たちの関係は全然対等じゃないんだな、と俺はその時初めて気が付いた。

 そのあとから俺は、もっとカズに尽くすようになった。一度別れかけたせいで、なおのこと捨てられるのが怖くなったからだ。
 家の合鍵を渡して、夕食は大体カズの分も余分に作って、カズがうちに来たらそれを食べさせてあげて、カズが来なかったら翌日に回したり弁当にしたりした。
 休日の予定は全部カズに合わせて、カズが好きだと言っていた髪型や服装に変えて、お願いされたことはどんなことも、エロいお願いであっても全部聞いた。
 そこまで尽くしていて、当然辛くなったことは何度もある。だけど俺はチョロいから、世界で一番好みの顔をした男が「ありがと。ナオ大好き」なんて嬉しそうに目を細めるのを見ると、それだけで満足してしまうのだ。

 どんなに他の男の影が見えても、一番は絶対に俺なんだと思っていた。
 だからは、あまりにも衝撃的だった。



 カズから突然来た「本命と付き合い始めたからもう会えないし会いに来ないで」というメッセージ。それに驚愕して電話をかけて問い詰めると、カズは相変わらず気怠そうな声で適当に応対していた。
 だけど、電話越しに聞こえたその声の持ち主に対しての態度はまるで違った。

「あ、一樹いつきここいたんだ。おはよー」

 え、「いつき」って誰のことだよ。まず思ったのはそれだった。
 カズがリアルでも使っているトークアプリの表示名は「一樹」で、カズからこの名前は「かずき」と読むんだと聞いていた。だから俺は、本名であのアプリやってたんだな、なんて思いながら表示名を「かず」に固定した後、そのことをすっかり忘れていた。

「おはよう。今起きたの?」

 聞こえた声に応対するカズは、別人かと思うくらいに優しくて愛想が良い声色だった。
 もし俺が「おはよう」なんて言っても、カズはきっと「……おはよ」なんて気怠そうに返すだけだろうに。俺はカズのその対応が、普通だと思っていたのに。

「一樹って煙草吸うんだ」
「うん。あっ、千冬くんは煙草の臭い好きじゃない? 嫌なら禁煙するよ」
「いや別に、好きなだけ吸ってくれていいよ。ただ意外だなと思って。何吸ってんの?」

 そんな会話が聞こえてきたものだから、俺はさらに驚愕した。
「煙草吸うんだ」? 「意外だなと思って」? 一体誰の話をしているのか。
 しかもカズは、「嫌なら禁煙するよ」とまで言っている。前に俺が禁煙したらと提案しても、「は? 何で?」とか「別に吸ってても良くね?」とか不機嫌そうに答えていたのに。
 何で、という言葉が頭の中をひたすらぐるぐると回る。吐きそうだった。

「あれっ。もしかして一樹、今電話してた? ごめん、全然気付かなかった」
「ん? あー……いいよ全然、もう切るとこだったし。煙草もあと少しで吸い終わるから、もうちょっと待っててね。今朝ご飯作るから」
「いやいいよ、今日は俺が――」
「ううん、俺に作らせて? 君が美味しいって俺の料理食べてくれる姿見たいんだ。駄目?」
「まあ、うん、そこまで言うなら。……何か俺、この調子で甘やかされたら駄目人間になりそうだな……」

 考えるよりも先に涙が出てきた。
 いいよ全然、もう切るとこだったし、の言い方はかなり投げやりで、俺との電話はその程度の価値しかないんだな、と分かった。俺との電話、というか、俺との関係そのものが、か。
 カズは今まで、俺に朝ご飯を作ってくれたことなんか一度もない。俺がせっせと作ってしまうせいもあるだろうが、カズは俺の家で目覚めると、大体ベランダでぼうっと煙草を吸っていて、俺が「朝ご飯できたよ」と呼びに行くまでそこから動くことはなかったのに。

 お前誰だよ。何でそんなに愛想良く喋ってるんだよ。何で軽々しく「禁煙するよ」なんて言うんだよ。何で相手を適当に扱うんじゃなく、優しく甘やかしたりなんかするんだよ。
 ……だったら、お前にとっての俺は何だったんだよ。

「じゃ、そういう訳だから。もう連絡して来んなよ」
「待ってよカズ! やだ! 俺何でもするから! その本命の子より――」
「え、つか、今の会話聞いてたら普通察するよな? それともはっきり言わなきゃ分かんねーの?」

「じゃあな。今までまあまあ楽しかったよ」

 カズの最後の言葉はそれだった。俺が縋ってもカズはすげなくあしらい、冷淡な声色で無理やり話を締め括って電話を切った。
 その後はいくら電話をかけても繋がらず、ついにはメッセージに既読すらつかなくなった。それでカズとの関係は終わった。

 一年以上も一緒にいたのに、こんなに呆気なく関係が終わってしまうだなんて、一生知りたくなかった。








「え、例の本命くん、特定できたの?」
「うん。割と楽勝だったよ。普通にカズのフォロー欄にいたしね」
「あれ、あんたって元彼のSNSフォローしてたんだっけ」
「してないよ? でも前から特定してネトストしてたし」
「こっわ……」

 昔からの付き合いである女友達は、そう呟いて露骨に顔を引き攣らせた。

 カズのSNSは鍵垢じゃなかったから、俺はその日のうちに彼のフォロー欄を漁った。
 そしたら、あの日電話越しに声を聞いた本命らしき相手のアカウントが、割とあっさり見つかった。ちふゆ、という名前の響きだけを何とか覚えていたのが幸いした。
 彼の名前は「橘千冬」。

 俺は、彼の上げている投稿を見て死にたくなった。投稿の一つ一つがあんまりにもキラキラしていたから。楽しそうな旅行の写真やサークルの写真、夢の国で撮った写真など、全力で青春しているんだろうな、と一目で分かるようなものばかりだった。
 それと、彼の見た目が本当に格好良かった。爽やかな正統派イケメンで、モデルやアイドルをやっていても頷けるというか、むしろどちらもやっていない完全な一般人であることに驚くくらいだ。
 これは叶わないな、と素直に思った。

「で、その本命くんの顔見せてよ」
「えっと、これ」
「どれどれ……うっわめちゃくちゃイケメン――ん?」

 スマホを彼女に渡すと、彼女は何かを言いかけて途中で言葉を切った。じっとスマホを見つめる彼女に「何?」と聞くと、彼女はものすごく言いづらそうに続ける。

「……何かさ、この本命くん、あんたと顔似てない?」
「え?」
「ほら、目元の辺りとか特に似てるでしょ。この写真とか見てよ」
「あー……」
「……あんたさ、元彼が好きって言ってた髪型とか服装とかに変えたって言ってたじゃん。それもさ……この本命くんと似てない?」
「……」

 まさか、これ以上打ちのめされるだなんて思いもしなかった。
 確かに、似ている。どう見ても俺の上位互換ではあるけど。
 カズは俺の顔が好きだって言っていた。それって、この本命の彼と似ていたからなのか? 俺と今まで一緒にいたのは、本命の彼と顔が似ていたから?

「……せない」
「ん?」
「許せないこんなの! はあ!? 俺はただの本命の代わりだったって訳!? 一年以上も付き合ってたのに! 本っ――当に最低だなあいつ!」
「ちょ、ちょっと、一旦落ち着いて……」
「落ち着いてられる訳なくない!? なに? 本命に似てるからとりあえずキープして、本命と付き合えたらもう必要ないから即座にポイ? 何それ? あいつ何様? 人の気持ちを何だと思ってんの!?」
「うん、気持ちは分かるよ。あんたの元彼は本当にクズだと思う。あたしずっと別れろって言ってたし。でも、とりあえず落ち着いて。ね?」

 彼女に必死に宥められ、俺はどうしようもないイライラを飲み下すように机の上にあるジョッキを呷った。
 それでもどうにも黒い感情は収まらない。俺ばっかりが傷ついて引きずって、件のカズは全部綺麗さっぱり忘れて幸せになるなんて、そんなの絶対に許せない。

「こうなったら……」
「こうなったら?」
「本命くんに近付いてある程度親しくなった後、あいつのクズっぷりを全部暴露してやる……。それで関係破綻させてやるんだ……」

 彼女はぱちぱちと数回瞬きをした後、訝しげに眉をひそめた。

「何? その顔。いくら反対されたって俺はやるよ。だってありえないでしょ、全部忘れて澄ました顔で幸せになろうとするなんて」
「いや、まあ……でもさ、あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて」
「じゃあ何?」
「……何の面識もない本命くんと近付いて仲良くなるなんて、できるの? コミュ障のあんたに?」
「うっ」
「まずそこが無理じゃない? ていうか、そもそもどこでどうやって知り合うつもりなの?」
「いや……本命くんのバイト先の喫茶店は特定してあるから……」
「きっも……あんたのそういうところ、本当にどうかと思う」

 彼女は飲食店に出たゴキブリを見るような目で俺を見た。そして、グラスを傾けた後に「でもさ」と呆れ顔で言った。

「あんたどうせコミュ障だし、結局遠くからちらちら顔見て終わる気がするわ」

 何も言い返せなかった。正直俺もそう思う。でも、だからってこのまま大人しく泣き寝入りするのはやっぱり納得がいかない。
 俺が「で、でも……」とか何とかもごもご言っていると、彼女はため息を吐いて、こう言った。

「……まあ、いいんじゃない? とりあえず本命くんに会ってみるだけ会ってみたら? 

 彼女のこの投げやりな後押しがあって、俺は彼と――本当にあのクズと付き合っているとは思えないほどにいい子な彼と、知り合うことになるのだった。
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