猫をかぶるにも程がある

如月自由

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本編

8 別に天然でもシスコンでもないけどさ

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 しっかり自己を主張している下半身を見下ろして、俺は軽く絶望した。
 いや、確かにエロいとは思った。めちゃくちゃエロい歌声だなーと何度も思った。でも、それに身体が馬鹿正直に反応するとは思わなかった。
 性癖の拗らせ具合がとんでもない。どうしろって言うんだよこんなの。

 俺は悩んだ。抜いちゃ駄目な理由はどこにもないが、これで抜いたら人として大事なものを一つ失う気がする。人の歌で抜くって普通に気持ち悪いよな?
 ……でもムラムラしてるし、勃っちゃったもんは仕方ないし、てか付き合ってんだし別にオカズにしてもよくね?
 俺は性欲で馬鹿になった頭でそう考え、下半身に手を伸ばした。

「……ん……ふっ……」

 歌を思い出しながら無心で扱く。すごく気持ち良い。心なしかシチュエーションボイスでするよりイイ。
 背徳感が段違いだからだろうか。背徳感で興奮するとか完全にヤバいやつだな俺。

 俺は右手で扱きながら左手でスマホを操作し、動画を再生した。再び一樹の声が流れてくる。
 スマホをベッドに置いた後、俺は左手で乳首を押し潰した。「うっ……」と声が漏れる。一樹が俺を抱く時にしょっちゅうここを弄るから、いつの間にか感度が上がってしまったのだ。
 乳首を捏ねたり摘んだりしながら、ひたすら扱いた。我慢汁が出てきて、くちゅくちゅと水音が鳴る。

「あー……きもちいー……」

 俺、人が必死に演奏してる動画でバキバキに勃起させて扱いちゃってる。人として駄目だなこれ。そう思うほどに興奮する。
 一樹に弄られたことを思い出して乳首を摘み、一樹に触られたことを思い出して扱いた。
 相変わらず上手い演奏がスマホから流れている。一樹のエロい歌声は、ベッドの上での一樹を思い出させてくる。
 あー、なんか今、すごい一樹に抱かれてー。

 しばらくそのまま扱いて、二曲目の二番サビの終わりに差し掛かった頃、イキそうな感覚が湧き上がってきた。
 俺は慌てて片手でティッシュを取りながらラストスパートをかける。

「っ、ふ、イク、イク――っ」

 射精の快感が身体を貫く。ティッシュの中に吐精して、俺は荒い息を吐いた。動画はいつの間にか終わっていた。
 俺は目元を腕で覆って、深いため息を吐いた。
 俺、本当に一樹たちの演奏で抜いちゃったな。この後どんな顔して「演奏良かったよ!」って言えばいいんだよ、これ。

「あああああ……」

 抜いたらすっきりして、どんどん後悔が押し寄せてくる。俺はベッドの上で悶絶した。
 最悪だな俺。一樹たちがたくさん練習して作り上げてきただろう演奏を、単なるオカズとして消費しちゃって。
 ちょっと死にたくなった。

 そうやってしばらく後悔していたら、不意に電話がかかってきた。見ると一樹からだった。

「……もしもし?」
「もしもし千冬くん? 今って暇?」

 ものすごく気まずい思いをしながら通話ボタンを押すと、一樹が神妙な声で尋ねてきた。「暇だけど、どうした?」と聞き返すと、一樹はしばし躊躇った後、おずおずと言った。

「その……俺たちの演奏って、聴いてくれた? どうだった?」
「あー、ええっと……」

 今最も答えづらい話題を振られて口ごもると、一樹は申し訳なさそうに言った。

「あ、ご、ごめん。こんなことわざわざ聞いて。ただその、既読ついてしばらく経っても返信ないから、ちょっと不安で。……ごめん、何か、俺すごい重いね。やだよねこんなの。じゃあ、またかけ直すね。……かけ直してもいい? いや、かけ直さない方がいいか。そうだよね。えっと、じゃあ――」

 一樹の声が何だか弱っているように聞こえて、俺は慌てて「待てよ一樹!」と引き留めた。

「聴いた、聴いたんだけど、えっと、その」
「……下手くそだった、かな」
「あああいや! 上手かったよ! めちゃくちゃ格好良かった!」
「っ……そ、っか、うん、ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」

 そう言う一樹の声は、全然嬉しそうじゃない。感情を押し殺したような声だ。
 絶対これ、勘違いされてるな。感想が出てこないほど下手くそだった訳じゃないのに、こんな勘違いされたくないのに。本当にめちゃくちゃ上手くて格好良かったんだから。
 俺はあーとかうーとか呻いた後、やけくそになって叫んだ。

「ごめん、一樹! 俺、お前たちの演奏で抜いちゃった!」
「…………は?」

 呆気に取られた一樹の声が聞こえる。俺は何て言えば一樹の誤解が解けるのか分からなくて、結局全て馬鹿みたいに話した。

「えっと、俺、声フェチっていうか良い声にすごい興奮するみたいなんだけど」
「ああ、うん。だろうね。君のオカズあれだもんね」
「それで俺、一樹の声が前からめちゃくちゃ好きで、名前知らない頃からこの人良い声してんなーって思ってたくらい好きなんだけど」
「そういえば、俺のことそんな覚え方してくれてたね」
「そう。で、一樹の歌聴いてたらさ、めちゃくちゃエロいなって思って、勃っちゃったから抜いちゃった。だから何か、気まずくて感想言えなくてさ……」
「…………んん?」

 一樹は電話の向こうでしばらく沈黙した。そりゃ引くよな。何で俺、馬鹿正直に言っちゃってるんだろう。

「ええっと……何? つまり、千冬くんが俺の歌で抜いたってこと?」
「そう。本当ごめん……最低だよな、俺……。一樹たちが頑張って作り上げただろう演奏をオカズとして消費しちゃって……」
「えっと、え? 全然まだ理解できてないんだけど……あの、俺は気にしないよ?」
「……ほんと?」
「うん。むしろ割と嬉しいけど、っていうか、そんなこと正直に話さなくていいのに……」

 一樹は困惑したような声で呟いた後、ややあってぽつりと言った。

「……千冬くんってさ、ちょっと天然入ってるよね。言われない?」
「仲良いやつには大体言われる。違うと思うんだけど」
「いや、天然だと思うよ……」

 どこかげっそりとして呟く一樹。
 今一樹に言った通り、俺はある程度親しくなった人には大抵「天然?」とか「ちょっとズレてるね」と言われる。
 しかも三つ離れた妹には、一人暮らしをすると決めた際「お兄って天然だよね。それでちゃんと一人暮らしできる? 変な失敗したり、変な人に騙されたりしそうで心配だよ……」と不安げに言われるほどだ。
 そんなに俺は変か? 全く自覚がないんだが。

「でも何か、そういうところも好きだなぁ……」

 一樹が笑うように囁いた。その言い方はあまりに愛おしげで、聞いているこっちが何だか気恥ずかしくなった。

「で、実際俺たちの演奏はどうだった?」
「すっごい良かった。もちろん一樹の声以外も。めちゃくちゃ格好良いな、ファストラバーズ。俺、邦ロックとかあんまり聞いてこなかったから詳しい感想は言えないんだけど、とにかくすごい好きだなって思った。ていうか一樹、めちゃくちゃ歌上手いな」

 俺の感想は語彙力ゼロだったが、一樹はすごく嬉しそうな声で「ほんと?」と聞き返してきた。

「本当本当。プロ目指せるんじゃね? オリジナル曲も楽しみ。ライブ、九月の初めだっけ? 俺も見に行かせてよ」
「見に来て、くれるの?」
「もちろん! チケットとか必要? 買うから後で詳しく教えて」
「えっ、いいよいいよお金なんて! 千冬くんに時間と労力を使わせるばかりかお金まで使わせるなんて、そんな――」
「払わせてくれよ。一樹たちの演奏、お金払わなきゃもったいないぐらい上手いんだからさ」

 一樹は少しの間黙った。そして、しみじみと呟く。

「……俺、幸せすぎて近いうちにバチが当たるんじゃないかな。それも特大の」
「ははは、何それ」
「いや本当に。あー……千冬くん、こんな俺と付き合ってくれて本当にありがとう。今が人生で一番幸せ」
「それは言い過ぎだろ」
「言い過ぎじゃないんだよそれが。好きな人と付き合えたの、千冬くんが初めてだから」
「そうなん?」

 うん、と相槌を打った後、一樹は小さく呟いた。

「……俺、男なのに男しか好きになれないから、想い伝えてもキモがられたりおかしいって言われたりしてさ。まあ仕方ないんだけど」

 一樹の声は自虐的な響きをしていた。今までに聞いたことがないほど暗い声をしている。俺は慌てて「そんなことねーよ!」と声を張り上げた。

「キモくないしおかしくもないだろ。ただ人を好きになっただけじゃん」
「……それは君が、ちゃんと女を好きになれる人だから言えるんだよ」
「ちゃんとって何? 別に恋愛に『ちゃんと』とか『正しい』とかなくね? え、だって確かさ、そういう人って割といるんだろ? 何パーか忘れたけど。左利きの人と同じくらいだっけ?」

 一樹はただ黙っている。電話だから顔が見えなくて、黙られるとちょっと困るな。一樹は今、どんな顔をしてるんだろう。

「てかさ、そんなことで他人にあれこれ言うやつの方がキモいしおかしいだろ。俺そんなこと言ったことねーよ。だって俺の妹、女子校に通ってて女の子と付き合ってるし」
「……妹、いるんだ」
「いるよ。三つ下で今高校二年生。すげー美人で面倒見のいい自慢の妹だよ。俺、妹が女の子を好きだからって、キモいとかおかしいとか思ったことないんだけど。だからさ、同性が好きなんて別に普通じゃね?」

 一樹は震える息を吐いた。ややあって、消え入りそうな声で囁く。

「……俺、千冬くんみたいなお兄さんが欲しかったな」
「そう? でも別に俺、全然いいお兄さんじゃないよ? 妹にあれこれ注意されたり面倒見られたりしてばっかだし。妹が世話焼きすぎるだけかもしんないけど。いやきっとそうだな」
「でも、いいお兄さんだよ、本当に」
「そうかな。そうだといいな。一樹は兄弟いんの?」

 一樹は一瞬言葉に詰まった後、「いるよ」と小さく答えた。

「へー。上? 下? あと何人?」
「三つ上。上に兄さんが一人だけ」
「お、年の差うちと一緒じゃん。三つ上ってことは……二十三? じゃあ今社会人?」
「ううん、医大生」
「えっ医大生なの? ヤバ、頭良いんだ」
「っ……うん、頭良いよ。東大の医学部だし」
「うっわ、めちゃくちゃ頭良いな」

 うちの大学も割と高い偏差値と知名度はあると思う。人によって頭良い大学だって言ったり、いや別に普通だろって言ったりする、何とも言えないラインの大学ではあるけど。学歴フィルターってやつにギリかからないくらいの大学だ。
 だから、言うまでもなく東大医学部には勝てない。そんなの頭が良すぎてもはや別の人種だ。どれだけ勉強したら東大医学部に行けるんだろう。

「自慢のお兄さんだな、そんなん」

 純粋な尊敬の念を込めて俺はそう言った。が、一樹は再び黙った。物音ひとつ聞こえない。
 俺は困り果てて「……一樹?」と名前を呼んだ。そしたら一樹はしばらくして言った。

「……あ、うん。自慢の、兄さん……だと、思う。兄さんはすごく頭良いし、見た目も良いし、リーダーシップもあって、コミュ力も抜群でさ。ほんと、皆から好かれるすごい人なんだ」

 内容とは裏腹に、一樹の口調は重かった。そして一樹は掠れた声で「……俺なんかとは全然違ってさ」と呟く。

「……あの、一樹――」
「――ごめん、気遣わせちゃったね。忘れて。それよりさ、千冬くんの妹ってどんな人なの? 詳しく聞かせてよ」

 一樹の声色は明るかった。その明るさは嘘かもしれないけど。

 そういえば、一樹から家族の話を全く聞いたことがなかった。あんまり気にしてなかったけど。
 俺が今まで妹の話をしなかったのは、ただ単に話題を振られなかったからだ。聞かれたら全然話そうと思っていた。自慢の妹だし。
 一樹も同じだと思っていたけど、一樹には何か話したくない理由があって、自分が聞かれたくないから家族の話は振らなかったってことかな。

 俺はなんて言うか少し悩んだが、本人が話したがらない家族のことを無理やり聞くのも悪い。ここは一樹の話題転換に乗るべきだろう。
 ……いつか、話そうかなって思った時に聞かせてくれるといいな。
 俺は同じように明るい声で「もちろん」と答えた。

「俺の妹は千夏ちなつっていうんだけど、本当に自慢の妹でさ。妹自慢してもいい?」
「ふふ、いいよ。いっぱい聞かせて」
「俺の妹の千夏はさ、すげー美人だし性格も良いんだよ。明るくってハキハキしてて、面倒見が良くて、優しくて。ただの身内の贔屓目じゃないと思うんだよね。あと妹はバスケじゃなくて陸上やってて、運動神経も良いし。で、ショートカットで身長高くてすらっとしてて、性格がちょっとサバサバしてるというか男勝りなところあるから、女子校の王子様になってるらしくてさ」
「何か、君の妹って感じするよ。女子校の王子様ってどういうこと?」
「あのな、まず千夏は――」

 それから俺はしばらくの間、意気揚々と妹自慢を話した。気付いた時にはだいぶ時間が経っていた。
「……ごめん、妹の話ばっかりして」と謝ったら、一樹は「いいよ、全然。一回妹さんに会ってみたいな」と楽しそうにくすくす笑っていた。でも、その後一樹が言った「千冬くんってシスコン?」っていう言葉は納得がいかない。
 別にシスコンではない。人よりちょっと妹が大切なだけだ。……たぶん。
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