【R18】黒髪メガネのサラリーマンに監禁された話。

37話

排水溝に吸い込まれていく水をただ見つめながら、カナタは今、うつむいてシャワーを浴びている。心の中がからっぽだった。ここ最近ずっと自分の中にあった生きている実感や幸せ、希望のような嘘くさいきらきらしたものが、綺麗さっぱりどこかに消えてしまった。


ふいにシャワーを止めて、鏡のそばに立ててある剃刀を手にとる。ふだん眉毛を整えるときに使うI字剃刀だ。透明のふたを取り、ためらいもなく、刃を左腕の内側にすっと滑らせた。


こんなものはリストカットとも呼べないだろう。皮膚の表面1mmをやさしく撫でただけの、もはや切り傷ですらないような代物。
しかし、決して悲観して自殺を図ろうとしたわけではないから、これでいいのだ。死ぬときは、わざわざ手首を切るような失敗の多い方法を選んだりしない。


ではなぜ今こんなことをしたのか。
簡単だ。自分が生きているかどうかを確かめたい気持ちになったから。
あまりにからっぽすぎるから、気がついていないだけで自分はもうすでに死んでいて、身体の中には血なんて巡っていないのではないだろうかと、そんな奇妙な想像に囚われてしまったせいだ。


当然そんなわけはなく、傷口にはすぐに赤い血が滲む。出血自体は少ないのに、肌が濡れているせいでそれは大袈裟な赤い滴となって床に滴り落ち、そのまま渦を巻いて排水溝に流れていった。


……あぁ、生きているのか。


落胆のような、安堵のような、矛盾した複雑な気持ちを抱えて再び蛇口を捻る。シャワーを浴びながら、想起する。



◆



思うに子供の頃、自分は、もう何も失いたくないと強く願っていた。再び何かを失うことに怯えていた。そして本当に大切なものを手にしたら、その存在をあらゆるものから守り、死ぬまでずっと愛したいと考えていた。


施設で読んだ絵本に出てきた、おとぎ話の中の囚われた姫。みんなはストーリーが怖いと言って敬遠していたが、カナタはその姫の姿を想像するといつもぞくぞくした。小学五年生になってはじめて、ひとりであの行為をしたときも、カナタは塔の上に幽閉された少女のことを思って興奮したのだった。



これこそが愛だ。そう強く思った。
幸せは、その部屋のみで完結すると思った。
閉じ込められた少女が自由を願うだなんて、考えてもみないことだった。


自分は一体どこで間違ってしまったんだろう。美琴が逃げ出したいと考えていることなんて、わかっているようで、その実ちっともわかってはいなかったのだ。


心臓の底のほうが、急速に冷えていくのを感じる。精一杯、彼女には歩み寄ったつもりだった。でもうまくいかなかった。


だったら、出会った頃の関係に戻るまでのことだ。出ていこうとする彼女の心も、命も、すべてはまだこの手の中にある。