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31話

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「たすけてください!」


大声、とまではいかなかったが、静かな昼間のことだ。玄関にいる人間に聞こえるくらいの声は充分出せた。


30秒ほど、時が止まったように無音の時間が続いた。第二声を上げるべきか決めかねて、足音の主の出方を伺うように、美琴はじっと耳を澄ませる。


やがて、鍵穴に鍵が突っ込まれるガチャガチャという音がした。途端に、心臓が止まったような気がした。




……ああ、なんてことだ。




思った時にはもう遅かった。
乱暴に鍵が開けられ、靴を脱ぐ音がして、足音が近づいてくる。











「……カナタ?!」


ガチャガチャと鍵を差し込む音がした時から、もうわかっていた。この家の鍵を持っている人間はひとりしかいないのだから。美琴が頼りにしていた靴音の主はカナタだったということだ。


私のSOSは彼に聞こえてしまっただろうか。


この期に及んで保身的なことばかり考えていた美琴だが、廊下から部屋に入ってきたカナタの顔を見たら、逃げようとしていたことや、それがバレてしまったかもしれないことなど、瞬時にどうでも良くなった。



「ねえちょっと、大丈夫?! 熱があるんじゃない?」



ふらふらと現れたカナタは、力なくベッドにもたれて座り、乱暴にネクタイを外した。心配で、鎖に繋がれている手を精一杯伸ばすものの、振り払われた。
その様子は熱に浮かされているだけにも、信じていた女性に裏切られて自暴自棄になっているようにも、見える。その両方なのかもしれない。



「体調が悪くて、会社を早退してきたの?」
「ああ」


唸るようなその返事を聞いて、気がついた。今朝カナタはうなだれて、元気がないように見えた。あれはまさに、具合が悪かったせいだったのではないか。


「ねえ、心配だよ。熱が高そう。ちゃんと測って」


カナタは美琴のことを一瞥すると、観念したようにベッドサイドの小物入れから体温計を取り出し、脇に挟んだ。
なかなか鳴らない電子音をもどかしく思いながら、肩で息をする彼の姿を見つめる。


「……38.7」
「待って、酷い熱だよ。着替えて、すぐに横になって休まないと」
「わかってる」
「ねえお願い、今だけこの鎖を外してくれない?」


看病をしたい一心で口にした言葉だったが、その瞬間のカナタの顔を見て、美琴は悟った。怒ったような、泣き出しそうな、絶望した表情を浮かべている。彼はあの、たすけてくださいという美琴の言葉を聞いてしまったのだ。


ついに明確に、彼を傷つけてしまった。


「……外すよ」


沈黙の後に、カナタが言った。その言葉にどんな意味が込められているのか美琴には分からない。


スーツのポケットをまさぐり、鍵を取り出す。そしてままならない手つきで拘束を外してくれた。外すときに偶然触れた指先まで熱を帯びていた。



……これでいつでも逃げられるんだ。



その思いは一瞬だけ頭に浮かび、すぐに消えた。今はカナタの看病をするのが先だ。ただの風邪かもっと悪いウイルスか、どちらにせよ一人ぼっちでこの高熱では心細いだろう。


着替えを手渡すと、カナタはのろのろとスーツを脱ぎ始める。いつもは何事もてきぱきとこなすのに、相当具合が悪そうだ。


「体調、どんな感じ?」
「ぼーっとして、頭が痛い……」
「寒気は?」
「少しだけぞくぞくする」
「熱、まだ上がるかもね。大丈夫だよ、私がいるから」


カナタは曖昧な顔で頷いた。それはそうだ。ついさっき逃げようとした女がなにを言ったところで説得力なんかあるはずがなかった。


「ほら、横になって。今、冷蔵庫から飲み物持ってきてあげる。眠れそうならすぐに眠っていいからね」
「……美琴」


キッチンに向かおうとする美琴の背後から、カナタの弱々しい声が追いかけてきた。


「……そばにいてくれ」


続けられた言葉は、かすれていても美琴の耳に届いた。自分のせいなのに、どうしようもなく泣きたくなる。カナタの消え入るような切ない声。


”今日だけでいいから。”

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